沖縄返還と密約
  〜アメリカの対日外交戦略〜

 1972年、沖縄が日本に返還された直後にアメリカ政府がまとめた報告書、沖縄返還ケーススタディ。国家機密文書をもとに返還交渉の過程を検証したものだ。これまで謎につつまれていたその内容とは?
  交渉においてアメリカは、核兵器を含む軍事行動を自由に行える権利を得るべきであり、またアジアの防衛や財政負担について日本の積極的関与を引き出したいとした。日米安全保障条約の要であるアメリカ軍基地を、返還後如何に維持するのか、そして返還の対価を日本にどう背負わせるのか。
 したたかなアメリカの交渉戦略を前に、日本政府はいくつもの密約を結ぶことになる。数々の密約を生んだ沖縄返還とは何だったのか。アメリカの極秘文書と関係者の証言から、その舞台裏を解き明かす。

ページ
カウンタ
since 10.07.27
image counter
since 10.07.27
dream counter

■アメリカが沖縄返還を視野に入れた背景
ライシャワー駐日大使
中国の共産党勝利
那覇市の8万人の集会
 アメリカのワシントン、沖縄返還はこの地で決定づけられた。すべては国務長官あてに送られた一通の文書をきっかけに始まった。送り手はエドウイン・ライシャワー。当時の駐日大使である。日本の事情に精通していたライシャワーは、この頃強い危機感を抱いていた。

 「日本における過激なベトナム反戦運動や反米感情は、アメリカとの関係に危機を引き起こしかねない」。大荒れの国会の中、強行採決によって改定された安保条約。ライシャワーが気をもんでいた沖縄の動向。「沖縄の問題は日米関係のすべてに影響を与える最重要課題である。このままでは1970年の日米安保条約の延長に向けて、両国が友好的な関係を保っていけるとはとても考えられない」と。

 日本で唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄。アメリカ軍は鉄の暴風と呼ばれる激しい攻撃を行い沖縄を占領。戦後は沖縄の司法、立法、行政という施政権を手に入れた。そして沖縄の島の中に次々と基地を建設。ここではアメリカ軍の都合がすべてにおいて優先された。世界で東西の冷戦が激しさを増す中、アメリカは沖縄を太平洋の要石(かなめいし)キーストーンと呼ぶようになる。

 中国では共産党が勝利、ついに朝鮮戦争が勃発。アメリカは沖縄が戦略的に重要な位置にあることに気づき始めた。しかしアメリカ軍の圧政は、住民の不満を高めていった。基地を拡張するための土地の強制収用、たび重なるアメリカ軍の犯罪。沖縄の人々は祖国日本への思いを募らせた。

 1965年4月、那覇市で開かれた祖国復帰を目指す集会には8万人が集結した。ライシャワーは沖縄の怒りを納め日米安保を延長するためには、日本への返還を視野に入れる必要があると考えたのだ。1966年6月、ライシャワーの指摘を深刻に受け止めた国務省が動き始める。

■琉球作業グループの発足と軍の反発
リチャード・スナイダー
ダニエル・スナイダー
ベトナム戦争
モートン・ハルペリン
 沖縄返還の可能性を検討する琉球作業グループが発足する。国務省、国防総省、そして軍の作戦行動を決定する統合参謀本部の幹部らが参加、省庁の壁を越えた沖縄返還の検討が始まった。作業グループの中心は国務省きっての日本通として知られる外交官リチャード・スナイダー。後に沖縄返還をめぐる数々の密約にかかわることとなった。

 スタンフォード大学で外交政策を教える息子のダニエル・スナイダーは、沖縄返還の検討を進めていた父がたびたび口にした言葉を、今でも覚えている。
「問題はどうやって日米安保を維持するかだ。沖縄を返還するしかない」 と。

 琉球作業グループの発足から半年、22ページに及ぶ報告書が提出された。
”Our Ryukyu's Bases”われわれの琉球の基地。スナイダーら作業グループは、沖縄の状況はもはや危機的であると指摘。それは1970年に迫った安保条約の延長に、大きな影響を与えると警鐘を鳴らしている。

 その上で施政権は、アメリカ軍の基地の機能を維持するために必ずしも必要ではないと分析。最終的に琉球作業グループは、沖縄の返還は可能と結論を下した。しかしそれは、軍幹部が全く予想しないものだった。たちまち激しい反対の声が上がった。

 ダニエルは、これまで軍の関係者からも聞き取りを行っていた。そこには琉球作業グループへの強い反発の声が綴られていた。「国務省は何時も軍に横槍を入れて邪魔をする。国務省はビザの発刊と外交関係だけを気にしていれば良いのだ」と。当時アメリカ軍は、ブルースカイと呼ばれる方針を打ち出していた。東西冷戦下の緊張が解けて青空の見えるようになるまで、沖縄の返還などありえないというものだった。

 アメリカはすでに北爆を開始、ベトナム戦争への本格的介入を始めていた。戦場に兵士を送る最前線の基地となった沖縄の重要性は、一層高まっていた。軍を統轄する統合参謀本部の報告書には、沖縄への執着が綴られている。「アジアの状況が安定するまで、沖縄の基地は不可欠である」と。

 琉球作業グループには、もう一人重要人物がいた。モートン・ハルペリンである。ハーバード大学の教授から、わずか29歳で国防次官補代理に就任したエリート官僚である。ハルペリンもまた、安保の維持には沖縄の返還が必要だと考えていた。「軍は沖縄の島そのものが軍事基地だというのです。そこには100万人もの日本人が住んでいるのではないかというと、だから面倒なんだ」と。

核抜き本土並みの返還の可能性
佐藤栄作総理大臣
アルバート・セリグマン
原子力潜水艦からミサイル発射
佐藤とジョンソン会談
 この頃日本では、総理大臣の佐藤栄作が、沖縄返還を政治目標に掲げ動き始めていた。佐藤が目指したのは、沖縄から核兵器を撤去して日本に返す、いわゆる核抜き本土並みの返還である。その背景には、唯一の被爆国である日本独自の政策があった。核兵器を持たず作らず持ち込ませず、いわゆる非核三原則である。当時、核兵器の搭載が疑われる空母や原子力潜水艦などが日本に入港しており、沖縄のアメリカ軍基地には、核兵器が貯蔵されていると考えられていた。それが、後にアメリカとの密約を結ぶ一因となっている。

 1967年琉球作業グループは、沖縄の返還を進めるために軍の関係者の理解を得る必要に迫られていた。この年の11月の佐藤訪米を前にして、スナイダーが国防総省に送り込んだ人物がいる。アルバート・セリグマン。彼は軍人とともに基地の機能を分析し、返還の障害となるものを徹底的に洗い出した。その結果、問題は一つに絞られた。
「あの当時最大の焦点は、核兵器をどうするかということでした。もし沖縄から核兵器を抜いたらどうなるのか。本土並みにするために何らかの調整はできるのか。私たちは議論を重ねたのです」

 実はこの頃核兵器をめぐる世界の情勢は、大きく変わろうとしていた。アメリカ軍は、すでに原子力潜水艦ポラリスに核兵器を搭載していた。そのため国防総省の一部には、沖縄に常に核兵器を配備する必要はないという見方が広まっていた。最終的に国防長官のマクナマラもその考えに同意して「沖縄からすべての核兵器を撤去することは、アメリカの軍事機能の低下を意味することにはならないであろう。核兵器を太平洋の他の場所におけば、有事の際には十分対応可能である」と。

 必要なとき核兵器を持ち込むことに日本政府が合意すれば、アメリカの戦略に支障はない。こうしてアメリカは、沖縄を返還するという方針を固めた。問題は核抜きの際の条件だった。しかし、この年の11月、佐藤とジョンソン大統領との会談では、返還の条件について話し合われることはなかった。日米は、両3年以内に沖縄返還を決定するという合意に留まった。返還に向けたアメリカの思惑を図りかねた佐藤。ハルペリンは「日本は核抜き変換を求め、断られることを恐れていた。ですから、アメリカが合意するという感触を得るまでは言い出せなかったのです」と。

■沖縄の人々の怒りの行動とアメリカの動き
新大統領に就任したニクソン
沖縄県民総決起大会
来日したハルペリン
 大統領選挙のため、沖縄返還に向けた話し合いが休止状態になっていた1968年。新しく大統領に就任したニクソンは、すぐ沖縄返還問題に直面する。この年の11月、沖縄で現在の知事にあたる行政主席を選ぶ選挙が行われた。日米安保を批判し、基地の即時撤去を訴える革新系の屋良朝苗(やらちょうびょう)が当選したのである。

 その9日後、アメリカに再び衝撃が走った。戦略爆撃機B52が墜落。核兵器を搭載しているといわれたB52は、嘉手納基地から北爆を繰り返していた。沖縄の人々の怒りは一気に頂点へと上り詰める。嘉手納基地に隣接する小学校のグランドに、3万人が集結して即時撤退を訴えた。また那覇市の与儀公園では、当時沖縄の祖国復帰協議の大会が頻繁に開かれていた。

 リチャード・スナイダーは、急きょ沖縄を視察、ワシントンに不穏な空気を伝えた。「沖縄問題で、日米関係に暗雲が立ち込めている」と。ハルペリンは、核抜き本土並みの実現に向けて動き始めていた。沖縄の不満を解消し、安保破棄の動きを封じ込めるためだ。 この頃外務省は、アメリカに核抜き本土並みの用意があることをまだつかめず、返還交渉に及び腰だった。

 12月、ハルペリンが来日、日本の学者や官僚たちの意見交換会に出席した。会場の静岡県下田市に向かう列車の中で、ハルペリンは同席した外務省北米課の千葉課長に耳打ちした。「日本から強く要求すれば、核抜きの沖縄返還は可能だ。君もわかっているだろうが、今ここで沖縄返還に取り組まなければ、日米同盟の危機なんです。政府にはっきり伝えてくれ」と。千葉は外務省に戻るとすぐに上司に報告。外務省は、漸く本格的に交渉のテーブルに着くことになったのである。 

■沖縄返還の合意と密約
国家安全保障メモランダム13号
国務省日本部長リチャード・フィン
外務省条約局栗山課長
佐藤の密使若泉とキッシンジャー
佐藤首相とニクソン大統領
 日米安保の延長を翌年に控えた1969年11月には、沖縄返還交渉を決定づける、佐藤とニクソンの会談が予定されていた。5月大統領は、国の最高意思決定機関である国家安全保障会議が作成した覚書を承認した。国家安全保障メモランダム第13号。琉球作業グループ発足から3年、わずか2ページの文書がアメリカ政府の対日政策と沖縄返還の方針を決定づけた。

 返還交渉の主な柱は二つ。沖縄の基地の自由な使用を最大限求める。大統領は交渉の最終段階で核兵器の撤去を検討するが、その際、緊急時の核兵器の貯蔵と通過の権利を得るという条件をつける。最期まで核兵器の撤去は明言せず、日本を追い詰める

 その実行に向け極秘の戦略文書を練り上げたのが、国務省の日本部長リチャード・フィン。かっては日本国憲法の草案作成にも携わった人物だ。「日本には、核兵器に敏感な世論がある。われわれは核兵器の撤去と引き換えに、基地の自由な使用について最大限の譲歩を引き出すべきである」。さらにフィンは佐藤政権の思惑を見抜いていた。「日本政府は、アメリカとの関係を悪化させるような返還には消極的である。日本国民が望んでいる沖縄返還の実現は、佐藤政権に政治的成果をもたらす」と。

 当時外務省の条約局課長だった栗山尚一。首脳会談を前に首脳声明の文案作成に苦心した一人だ。当時アメリカが核抜き返還について、考えを明かさないことにいらだっていた。「共同声明の案を出してもね、アメリカは、大統領の専権事項だといって最期までOKをくれなかったんだ」と

 1969年11月21日、日米両政府は沖縄の日本への返還に合意した。それは核抜き本土並みをうたっていた。アメリカは一方で、安保条約の事前協議のあり方について大きな譲歩を引き出していた。共同声明には”アメリカ政府の立場を害することなく”との文言が盛り込まれていた。この表現は、在日アメリカ軍の基地の使用をめぐって、事前に協議するという取り決めを骨抜きにした。さらに、この時ニクソンは、佐藤から秘密裏に了解を取り付けていた。有事の際アメリカは、沖縄に核兵器の持ち込み、通過、貯蔵ができるというものだった。

 この密約文書は、大統領補佐官のキッシンジャーと佐藤の密使で国際政治学者若泉敬との間で準備された。そして11月19日に、両首脳の名前で署名されている。この密約文書がどう使われたかを物語る極秘メモを入手した。キッシンジャーは、核兵器の再持込の確約を求める統合参謀本部に対して、佐藤との間で十二分に配慮したとする文書を送っていたのだ。

 日本と沖縄で高まっていた感情は、返還によって鎮静化。安保破棄を求める世論は収束していった。翌年の1970年、アメリカは日米安保条約を自動的に延長することができた。

■返還に伴う財政交渉密約の内容と背景
財政交渉を担ったシュミッツ
基地以外の整備資産
ラジオ短波局VOA
リチャード・スナイダー
 沖縄の返還を楯に、アメリカはもう一つの重要な要求を日本に迫っていた。返還に伴う財政交渉、即ち日本に負担させるお金の問題だ。リチャード・フィンは、財政交渉にも冷徹な戦略を立てていた。「原則は、返還によって日本には1ドルたりとも渡さないことだ」と。背景には、当時のアメリカ政府の厳しい財政事情があった。ベトナム戦争への巨額な出費が負担となっていた。アメリカ議会では、返還に伴う財政負担は、日本が支払うべきだという声が大勢を占めていた。ケーススタディによると、その目標額は6億5000万ドル。議会はこの金額を承認した。

 1971年、沖縄返還協定の調印式。署名する愛知喜一外務大臣を後で見守るアメリカ政府関係者がいた。チャールズ・シュミッツ。財政交渉を担った人物で、国務省の法務官を務めていた。スナイダーに請われて1970年来日、財政交渉のすべてにかかわった。しかし交渉は初めから壁にぶつかった。日本政府は、アメリカが沖縄に投入したすべての資金を負担することに、難色を示したのだ。
「日本政府は、軍施設の買い取りは政治問題になりかねない。返還後沖縄に譲渡する施設なら、買い取ることができると説明しました。われわれは、最終的にその主張を受け入れました」と。

 基地以外の資産の価値を、如何に高く見積もるのか。シュミッツたちは知恵を絞った。終戦後、アメリカが整備した道路や電気、水道など、返還後に沖縄の人達に渡される資産の価値を、すべて割り出した。一方日本政府は、沖縄返還協定で支払ったとされる額は3億2000万ドル。内訳は、アメリカから移管される資産の買取りに1億7500万ドル、基地従業員の退職金の補填に7500万ドル、核兵器の撤去に7000万ドル。これは実態とは大きく食い違っているが、アメリカ議会の承認した金額とは、大きくかけ離れたものだった。

 さらに、日本国民には知らされない巨額のお金が、支払わされていた。その一つはアメリカのラジオ短波局ボイス・オブ・アメリカVOAの移転費用だ。VOAはベトナム戦争中、アジア向けのプロパガンダ放送を行っていた。移転先での新たな施設の建設や維持費など、その費用は1600万ドルあまりにのぼった。
 また、アメリカが沖縄の人達に返す土地の原状回復補償費400万ドルも、日本が肩代わりする密約が交わされていた。スナイダーは返還協定の調印が迫っていることを持ち出して日本側を説得、日本はアメリカの要求を呑むことになった。

  

■米経済摩擦と日本の思いやり予算
外務省吉野アメリカ局長
柏木とジューリック覚書
沖縄のアメリカ通過ドル
沖縄アメリカ軍基地
 当時日本は、高度経済成長に突入。1968年には、GNP国民総生産がアメリカに次ぐ第2位に躍進した。対米輸出も急増し、深刻な貿易摩擦が生じていた。アメリカでは、日本の繊維製品の輸入制限も検討されていた。対米貿易摩擦を解決することが、日本にとって緊急の課題ともなっていたのだ。
 吉野:「日本の対米輸出が難しくなっており、それを防ぐためには、アメリカに相当の金を出してもやむを得ないのではないかという構えになっていた」と。

 実はこういう数々の日本の負担の背景には、アメリカ議会の承認した目標額を達成するため、日本と結んだ大掛かりな密約があった。
沖縄返還合意の翌月、1969年12月2日付けの覚書。大蔵省の柏木と財務長官特別補佐官アンソニー・ジューリックとの間で交わされたものだ。その中には、沖縄で流通していたアメリカ通貨、ドルのの処理をめぐる取り決めがあった。アメリカは、このお金をニューヨーク連邦銀行に、25年間無利子で預けるよう日本に求めた。国際収支の悪化を防ぐためだ。

 返還後に出されたアメリカの報告書によれば、実際に交換された金額は1億1200万ドル。その金額は今年3月、日本の財務省によって確認された。さらに、返還後のアメリカ軍基地のあり方を決定づける、重要な密約も交わされていた。アメリカの求めに応じ、基地の移転と施設改善の名目で、2億ドルを日本が負担するというものだ。
 「返還後日本政府の施設となる沖縄の基地は、防衛施設庁が管理することになります。アメリカ軍が使いやすいように、施設を良い状態で何時までも維持改善してもらうよう望んだのです」と。

 この2億ドルの支払が、在日アメリカ軍基地の維持管理費を日本が負担する始まりとなった。そしてこの負担は、沖縄返還の6年後1978年度から始まるいわゆる思いやり予算の原型となった。アメリカは、最終的に6億8500万ドルもの財政的な利益を得る目標を達成された。佐藤政権は沖縄を金で買ったという印象を国民に与えたくなかった。それが、協定上の金額と実際アメリカに支払った金額が違うという背景だった。

 1972年5月15日、27年のアメリカ統治に終止符が打たれ、沖縄は日本に復帰したのである。 

■成功したアメリカの対日外交戦略
返還を実現した佐藤総理
県民総決起集会
モートン・ハルペリン
  「沖縄は、本日祖国に復帰いたしました。万歳、万歳……」。政治生命をかけて沖縄返還を実現した佐藤。しかし国民に説明するには、あまりに重い数々の密約を残した。そして基地の島の現実も、大きくは変わらなかった。

 沖縄で復帰式典が行われたこの日、会場の横では大雨の中、沖縄祖国復帰協議会が抗議集会を行っていた。県民の一人は、
「暖かい日本国平和憲法の下に復帰したかった。形として、日本国民になれることは嬉しいこと。ただ、実態が県民の要求するものとは遥かに違う。歓び半分、悲しみ半分というか複雑な気持ちでしたよ」と。

 沖縄返還を通して、様々な果実を得ようと対日交渉を繰り広げたアメリカ。そして、その戦略に翻弄された日本。日米の返還交渉は、沖縄の基地の固定化につながる抜き差しならない問題を残した。

 モートン・ハルペリンは「私は沖縄返還から10年や20年も経てば、日米両政府が基地の縮小や移転を検討したり、今後のあり方を協議するものと思っていました。沖縄返還から40年が経ち、あらためて思い知らされるのは、アメリカ軍は今も沖縄を軍事基地としか見ていないという事です」と。

 数々の密約を生み出した沖縄返還交渉。それは日本がアメリカの軍事戦略を支持し一体化していく道を決定づけた。ケーススタディは、この沖縄返還交渉を、アメリカの外交史上まれに見る成功例と位置づけている。



所感:
 
1972年の沖縄返還直後に、アメリカ政府がまとめた報告書「沖縄返還ケーススタディ」。実に詳細な交渉過程の記録に感心する。また今回この密約関連文書を、よく公開したものである。

 アメリカは沖縄を占領後、行政、司法、立法を意のままにしたが、中国の共産党勝利、朝鮮戦争などで一層沖縄の戦略的重要性を認識し始めたという。しかし、駐留アメリカ人の犯罪に加え戦略爆撃機B52の墜落事件が発端となって、沖縄の人々の怒りが爆発したのは成り行きといえる。当時の駐日大使のライシャワーが、日米関係に強い危機感を感じたのは当然の流れであろう。

 結局日本政府は、返還に伴う密約として、基地の自由な使用と緊急時の核の貯蔵、通過の要求を呑まされた。その上、施設の買取、核兵器の撤去などの費用として、膨大な財政支出の密約も課せられた。この頃、対米貿易摩擦の対応が課題だったとはいえ、あまりにもアメリカの言いなりには驚くばかり。何としても沖縄返還を勝ち取りたかった佐藤総理の胸の内を読まれたのか。

 琉球作業グループのハルペリン氏によると「沖縄は、いずれ基地の縮小や移転について検討されるものと思っていたが、40年たった今もアメリカは、沖縄を軍事基地と見ている」と。 ケーススタディは、沖縄返還交渉を、アメリカの外交史上稀に見る成功例と得意げである。


戦争計
カウンタ