| 引き裂かれた村 〜日米戦の舞台・フィリピン〜 |
| アジア進出の足がかりとしてフィリピンを植民地化していたアメリカと、南方の資源を確保するための重要な拠点と考えていた日本が、太平洋戦争で激しく衝突した。日本は現地でマカピリと呼ばれるフィリピン人部隊を組織、アメリカも抗日ゲリラとしてフィリピン人を組織する。双方の対立は、同じ村人どおしが互いに殺し合うまでに激化する。 今も癒えることのない傷が残る、フィリピン民衆の悲劇。その独立への道筋を見つめる。 |
アメリカは、地主などの有力者と協力してフィリピン統治を進めた。まず、土地の所有権を役所に登録するよう義務付ける。しかし、法律は民衆には十分周知されず、アメリカ人と結託した地主が、農民の土地を勝手に登録するケースが後を立たなかった。土地を奪われた農民たちは、収穫の半分にものぼる高額の小作料を地主に払わざるを得なくなった。生活の糧を失う人も出てきた。こうして貧しい農民たちは、アメリカへの不満を募らせていく。 ついに貧困層を中心に編成された「サクダル党」が、アメリカ支配に対して立ち上がる。1935年5月2日、サクダル党を中心とした5000人以上の群集が、フィリピン各地で役場や警察を襲った。そのもっとも激しい戦いの場になったのが、「カブヤオ村」だった。 カブヤオ村は、マニラの南40キロ、ラグナ湖のほとりに位置し、米作りやラグナ湖で取れる魚などで生計を立てる貧しい村である。サクダル党の人々は、村の中心にある教会に立てこもる。カブヤオ村に住むラビ−ニャさん達兄弟も、当時サクダル党のメンバーだった父親と共に行動に参加した。 ラビーニャさん(82歳): 「独立を実現しようとして立ち上がったのです。もっとも手にしていたのは鉈や竹槍だけでした。兵隊たちは銃を構えて狙って撃ってきました。兄は教会の前で撃ち殺されてしまいました」。 サクダル党の行動は、わずか2日で鎮圧される。カブヤオの教会では、ラビーニャさんの兄弟や親戚など56人が犠牲となった。 |
1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃。この同じ日、もう一つ仕掛けたのがフィリピンのアメリカ軍基地だった。大軍を投入した日本軍はアメリカ軍を撃破、フィリピンを占領するに至る。 ラビーニャさん: 「初めて日本人を見たとき、白人と違って自分たちと同じ肌色をしていたので親しみを抱きました。日本に勝たせようと心に決めたのです。」 N教授: 「アメリカ植民地時代のフィリピンは、極端な格差社会だったと思う。地主や知識人は、アメリカと結びつくことで利益を得ていた。一方ラビーニャさんなど貧しい小作農民などは、日本の戦争によるアジア開放という主張を、素直に受け入れる要素が彼らの日常の暮らしの中にあったと考えられる。」 |
アメリカの影響を払拭しようとした日本、その試みは成果を上げ始めたかに見えた。ところが、日本軍がフィリピンに60万人もの大兵団を投入したことが、やがて思わぬ結果を招く。日本軍の食料は現地で調達せよと命じられたのである。このためフィリピン社会は、深刻な食糧難に陥った。こうしてカブヤオでは、日本軍に対して強い反感を抱く人達が生まれていく。 地主に育ったルシオさん(85歳): 「食べるものがなかったので、私たちは犬の肉を食べるしかなかったのです。日本兵に呼び止められたら、気をつけをして挨拶しないと、ビンタされました。」 反日感情が高まると共に、各地でフィリピン人による「抗日ゲリラ」が次々と組織されていく。その攻撃の矛先は、日本軍の軍事施設のみならず、日本人が経営する鉱山や日本に協力している人にまで向けられた。 悪化する一方のフィリピンの治安状況に、日本は懐柔策に踏み切った。1943年10月4日、日本を後ろ盾として、「フィリピン共和国独立」が宣言される。 しかし抗日ゲリラの活動は激しさを増すばかりだった。そこで日本は、フィリピン人の抗日ゲリラに対し、同じフィリピン人部隊・「愛国同志会」、通称「マカピリ」を対抗させたのである。マカピリに参加したのはアメリカ植民地時代に貧困に苦しんでいた人々で、4000人〜5000人に上ったと言われている。 ラビーニャさん: 「私達は、父親と共に誇りを持って、マカピリに参加しました。そして誠実に日本兵に尽くしました。それが、自分達の将来のためにいいことだと考えたからです。」 |
当時の日本兵の回想録によれば「食料調達に行った部隊10人が、ゲリラによって殲滅された。我々は米軍との戦闘以前に、ゲリラにやられてしまうかもしれない。」住民にまぎれて日本軍へ攻撃を繰り返すゲリラと一般人を見分けるために、日本軍はマカピリ兵士を用いる。 ラビーニャさん: 「私達は、ゲリラの見張りをする役目に着きました。ゲリラを見つけては、日本軍に報告しました。そうすると日本兵は喜んでくれました。」 日米戦が激化する中で、フィリピンの人々は互いに憎しみを募らせ、引き裂かれていったのである。 1945年2月、首都マニラに立てこもる日本軍に対し、アメリカ軍は激しい攻撃を開始する。マニラ市内の75%が破壊され、日本の敗色が濃厚になった。日本兵達は極限状態に追いつめられていった。戦争の裁判資料によれば、1945年2月、カブヤオの隣町カランバで抗日ゲリラへの恐怖感から、日本軍による住民への無差別虐殺事件が起こった。乳飲み子から80代の年寄りまで多数の犠牲者が出たと記録されている。 この事件に深くかかわっていたのが、日本軍に協力していたマカピリ兵士達だった。アラビドさん(71歳)は、「私の家族を次々と銃剣で突き刺されました。母親も指されたんです。」 こうしてマカピリは、村人達の憎しみの対象になっていった。 |
父親と共にマカピリとして日本に協力してきたラビーニャさんは、「ゲリラ達に連れて行かれました。父は銃で殴られ顔をぐちゃぐちゃにつぶされました。ゲリラ達はその遺体を湖に放り込みました。私は後ろ手に縛られていたのですが、思い切って湖に跳びこんだら、紐が解けて水にもぐることができました。ゲリラは船から銃を撃ってきましたが、水草の中に隠れることができ、助かりました。」 その後ラビーニャさんは村には戻れず、飢えに耐えながら山の中に潜む毎日が続いた。 1946年7月4日、フィリピンは「アメリカの植民地支配を脱し独立」する。ここにフィリピンは、400年にわたる植民地支配に終止符が打たれたのである。しかしその後も、フィリピンにはアメリカ軍基地がおかれ続けた。その規模は極東最大となる。軍事のみならず経済的にもアメリカに依存した関係が、戦後のフィリピンに続いた。 カブヤオ村は再び平穏を取り戻した。しかし戦争で引き裂かれた人々の心の溝は、埋まることはなかった。山中に身を隠してから4ヵ月後、ラビーニャさんは村に帰る。しかし抗日ゲリラによって家畜も家財も奪われてしまっていた。 ラビーニャさん: 「何を言われても、気にしないようにしました。村人たちに口答えすれば、どんな目に遭うかわかりません。だから黙って暮らすしかなかったのです。」 N教授: 「フィリピンは400年間、スペイン、アメリカ、日本が奪い合った土地だった。フィリピン独立の7月4日は、アメリカの独立記念日。この記念日に独立を与えられたことが象徴するように、独立したフィリピンもアメリカに依存した国づくりを進めざるを得なかった。極東で最大の米軍基地が残ったし、アメリカ人やアメリカ企業にフィリピン人と同じ待遇を与える内国民条項が、1970年代まで続いたのです。 1946年7月4日というのは、フィリピン人みんなが、あらためて本当の独立とは何なのか、ほんとに自立した国とは何なのかを模索する起点になったと思います。」 |
その反米反独裁のパワーは、マルコス独裁政権を倒すに至った。1991年9月16日、フィリピン議会でアメリカ軍基地の撤去が決まる。フィリピンの人々はそれまでのアメリカ依存から脱却し、自らの道を歩く選択をしたのである。 このとき、ある議員が行った演説: 「わが国土は外国に入れ替わり立ち代り支配されてきた。今こそ我々は自立すべき時に来ているのだ。」 戦後のラビーニャさんは10人の子供に恵まれ、今では43人の孫の成長を楽しみに暮らしている。 ラビーニャさん: 「大切なことは、フィリピンにとって何がいいことなのかを、自分自身で見極めることだと思う。祖国フィリピンと自分たちの行き先をしっかり見据えることこそが大切なんだと、孫たちに何時も言い聞かせています。」 |
| 所感: スペイン、アメリカ、日本によって、400年にわたり植民地化されてきたフィリピン。その間、地主など裕福な人々と、小作人など貧しい暮らしをしてきた人々との、言わば格差社会だった。 カブヤオ村の貧しい家に育ったラビーニャさんは、日本が占領中、親米の抗日ゲリラに対抗する親日のマカピリ兵士になったために、同じ小さな村の人々は、抗日ゲリラと親日マカピリの二つに引き裂かれ憎しみ合った。日本のために尽くしたラビーニャさんは、日本敗戦後家族は殺され、村には居れず山中に人目を避けて生きのびた。現在は43人の孫たちの成長を楽しみに、平穏に暮らしていると聞いてほっとする。今後の安穏な一生を祈りたい。 歴史は繰り返すというが、発展途上国、特にイラクなどでまたアメリカが絡んで、今も似たような同民族の殺し合いが続いているのは、9.11事件が絡むとはいえ、何とも悲しいことである。 |
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