果てしなき消耗戦
    
証言記録 レイテ決戦

 フィリピン中央部にあるレイテ島。今から64年前、緑豊かな熱帯の島が血なまぐさい戦場と化した。
 レイテ島の戦いは、敗北を重ねていた日本軍が、物量に勝るアメリカ軍に挑んだ決戦だった。補給が途絶え食料も弾丸も尽きた日本軍、飢えや病によって命を落とす者も後を絶たなかった。それでも兵士たちには、戦いを続けることが命じられた。
 太平洋戦争の大きな転換点となったレイテ島の戦い。派遣された日本軍将兵の97%およそ8万人が命を落とした。
 日本、アメリカ、フィリピン3カ国の元兵士や住民たちが語る「戦場の現実」である。

◆アメリカ艦船による艦砲射撃と上陸作戦
アメリカのレイテ島上陸作戦
一斉に艦砲射撃
米軍大型戦車が上陸
 太平洋戦争終盤の1944年10月20日、フィリピンのレイテ島。およそ700隻のアメリカ軍艦船が、レイテ島の東海岸に向けて一斉に艦砲射撃を行った。4時間に及ぶ攻撃で、海岸線の地形は大きく変貌する。 この時レイテ島を守備していたのは、陸軍第16師団16、000の将兵だった。多くの兵士たちにとって、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を受けたのは、初めての体験だった。

元歩兵:
「もう手も足も出ない。艦砲射撃が始まったら壕から一歩も出られない。壕の中にいても、砲弾が真上ではじけて上にも下にも跳ぶ。砲弾の破片を受けた兵を起こしたら、死んでいたよ。」

1941年太平洋戦争の開戦とともに、アジア、太平洋を勢力化に置いた日本軍。しかし攻勢に転じたアメリカ軍によって、占領していた島々を失っていく。劣勢に追い込まれた日本軍にとって、フィリピンは日本本土防衛のため死守すべき拠点だった。
 艦砲射撃が終わると、アメリカ軍は一斉に上陸を開始。その数はレイテ島の日本軍のおよそ3倍、6万人にのぼった。兵士に続いて、大型戦車や野戦砲が次々と上陸されていく。

米軍兵士:
「大型ブルドーザーが、発砲を続ける塹壕を埋めました。日本兵たちは全員生き埋めにされたのです。彼らは降り注ぐ土砂の下で、息絶えるまで軍歌を歌い続けていました。」

 レイテを守備していた第16師団は、アメリカ軍の上陸から10日間で、兵力の8割を失って壊滅状態となった。しかしその惨状は通信手段が破壊されたため、東京の大本営には伝えられなかった。

◆台湾沖航空戦大勝利の誤報を信じ、レイテ島に増援部隊を派遣
日本軍の拠点オルモック
米軍の野戦砲
米軍火炎放射器の炎
手足のない日本兵
 アメリカ軍のレイテ島上陸と同じ10月20日、東京の日比谷公園には喚起に沸く群衆が殺到していた。
台湾沖の航空戦の大本営発表:「我が方の治めたる戦果、航空母艦11隻、戦艦2隻」。大本営は、台湾沖航空戦でアメリカ空母の大半を撃沈、大きな戦果を挙げたと発表した。 大本営はレイテを襲ったアメリカ軍は、台湾沖で敗れた敗残兵に過ぎないと見ていたのである。そのため、これをたたけば一挙に劣勢を挽回できると判断する。

 レイテ島西岸にあった日本軍の拠点、オルモック。アメリカ軍上陸から10日間あまり経った11月1日、大規模な増強部隊が送り込まれる。陸軍第1師団の将兵である。 第1師団は上陸すると直ちに進軍を開始、その直後意外な光景を目にする。優勢だと考えていた16師団の兵士たちが、撤退してきたのである。

 敵は敗残部隊であるという根拠となった台湾沖の大勝利、それは全くの誤りだった。台湾沖の大戦果は未熟な搭乗員の誤った報告が、一人歩きしたものだった。海軍はその誤りに気づくが、大本営陸軍部はこれを鵜呑みにし、敵撃滅の可能性ありと判断、レイテ島で決戦を挑んだのだ。

 レイテに上陸した第1師団が向かったのは、リモン峠である。リモン峠はレイテ島を中央に走る山脈にあり、当時東西の平野をつなぐ唯一の場所だった。第1師団はアメリカ軍とこの峠で激突し、アメリカ軍の強大な力を、初めて目の当たりにした。敵が敗残部隊でないことは、もはや明らかだった。何万発もの砲弾が降り注ぐ。塹壕に潜む日本兵たちを、火炎放射器が襲った。

元日本兵:
「大きい負傷をして、泣きながら歩いている兵隊もいたし、火炎放射器であおられた兵隊などは体中が火ぶくれで、裸で泣きながら歩いている。惨めでしたね。」
元米兵:
「我々は24時間絶え間なく攻撃を続けました。焼野原に行ってみると、息のある日本兵には足や腕がなく、目の玉が顔から飛びだして垂れ下がっていました。」

 第14方面軍参謀長の回想録には、「物資を送る一隻の船を準備することなく、兵士だけを送り込めば事足りると考える大本営に対し、現場の参謀たちが怒り、呆然とした」と書かれている。しかし大本営は現場の声に耳を貸そうとはしなかった。補給を絶たれたレイテ島は孤立、兵士たちは食料を求め、密林をさ迷い歩いた。
元日本兵:
「生きているものは何でも食べた。夜に、ヤドカリや蛙、イモリも食べた。食べない兵士は死んだ。」

◆現地住民の犠牲と、米援助によるゲリラ部隊の結成
米軍兵士
米軍がゲリラ部隊に銃を渡す
苦しむ地元住民
 補給のないまま戦いが続けられる中で、日本軍はレイテの人々に大きな犠牲を強いていく。不足する食料は、現地の村から調達するよう命じられていた。
元当番兵:
「現地物資の収集はよくやった。人の逃げた村に入って、とうもろこしなど、みんな盗って偉い人の食料にした。」
現地住民:
「日本兵がいきなりやってきて家を兵舎代わりにしたり、私たちの育てた芋や野菜を、根こそぎ持っていきました。ほんとに怖かったです。」

 もともと現地の人々には、日本軍に対する強い反発があった。戦争遂行のため食料や物資を強制的に買い占めるため、人々を深刻な米不足やインフレが襲っていた。この住民の日本軍への感情を利用したのが、アメリカ軍である。アメリカ軍は、島の全土でゲリラ部隊を組織し、武器や弾薬を供給していた。人々はアメリカの後ろ盾を得て、フィリピンの独立を目指していたのである。

米歩兵:
「ゲリラは島中の地形や道を熟知していました。3日間かけて島を横断する作戦が成功したのも、彼らの助けがあったからです。村人たちは日本人の居場所も聞き出してくれました。」
元兵士:
「情報が漏れるから、現地の人々を見たら殺せとという命令が出ていた。現地の人々を撃ったりしたんだ。現地の人々には申し訳ないけれど。」
拷問を受けた現地住民:
「ゲリラとわかると、日本兵は家族全員を陣地に連れて行きました。ひどいときには、一人残らず殺されました。常に日本軍に怯えて、暮らさねばなりませんでした。」

◆現本土決戦を守る天王山としての殺し合い
戦う米兵
負傷した兵士
一面に散らばる死体
 リオン峠では激しい飢えや病で、兵士たちは次々と倒れていった。指揮していた山下奉文司令官の言葉が、手記に記されている。「レイテ戦の継続は将来の戦士の非難の的になる。速やかに止めろ。」しかし当時の小磯首相は「レイテは、日米の雌雄を決する天王山である」と強調。
 戦いが始まっておよそ1ヶ月、兵士たちに死を覚悟の攻撃が命じられる。銃剣を手に敵の陣地に突入する、切込みである。

元米兵:
「ある夜、大勢の戦友が殺されました。日本兵たちは、その遺体にむごい仕打ちをしました。私はショックを受け、もっとたくさんの日本兵を、殺したい気持ちになりました。」
元日本兵:
「身近な戦友が戦死すると、ものすごく悔しくなる。相手の米軍を皆殺しにしたい気持ちになる。なぜこんなに戦友を殺すんだと。」

 日本軍の最前線で、ある事件がおこる。最前線は、現位置を固守すべしという命令があるにかかわらず、ある大隊長が独断で撤退を行った。全滅寸前の部隊を救うための行動だった。大隊長は、上官から命令違反の責任を問われる。

 上官は、大隊長に部隊全員を率いて敵陣地に突入せよと命じた。しかし大隊長は罪を一人で背負い、部隊を残して一人で突入していった。それが大隊長の最後の姿となった。
 残された兵士たちの突入は中止されることなく、代理の大隊長の下で実行された。ここでも多くの日本兵の命が失われていった。

 やがてアメリカ軍はリモン峠を制圧。犠牲になった日本兵はこの戦いだけで6,000人を超えた。

◆アメリカ軍の猛攻に日本軍はレイテ島を放棄、セブ島に転進
米軍の急降下爆撃
すべて失ったレイテ住民
犠牲になった住民
日本軍セブ島に転進
 アメリカ軍は、一気に勝敗を決しようとする。日本軍の拠点が置かれた町や村に、激しい砲撃や爆撃を繰り返した。それはレイテ住民の上にもふり注いだ。

レイテ住民のお婆さん:
「父は孫たちをかばって、建物の下敷きになり死にました。戦争で私たちは何もかも失ってしまいました。人間としての尊厳も安全で平和な暮らしも。私たちは銃や手榴弾を手に、戦ったわけではありません。私たちは、爆弾を落としたわけではありません。それでも、すべてを失ってしまいました。」

 日米の戦争に巻き込まれ犠牲となった住民は、レイテ戦全体でおよそ1万人に及んだ。戦いが始まって2ヶ月経った12月10日、レイテ島西岸の町オルモックは、アメリカ軍の手中に落ちた。

戦いの継続にこだわってきた大本営は、ついにレイテ島の放棄を決定、兵士たちに転進を命じた。向かう先はアメリカ軍の上陸していない、セブ島。海岸までの道のりは、衰弱しきった兵士たちには過酷そのものだった。次々と脱落していく兵士たち、しかし捕虜になることは許されなかった。

元兵士:
「足をやられても我慢して歩いていた人が動けなくなると、自殺用に持っていた手榴弾で「天皇陛下万歳」といって自殺しました。また鉄砲を自分に向けて、足で引き金を引くという死に方をするんです。」

 漸く海岸にたどり着いた兵士たち。しかし用意されていたのは小型舟艇4隻だけだった。優先的に乗ることを許されたのは、戦力になるとみなされた将兵だった。セブに渡ることができたのは900人。およそ15,000人がレイテ島に取り残されることになる。取り残された兵士たちに対し最後の命令が下された、「自活自戦永久抗戦」。武器、食料の尽きたまま戦い続けよというものだった。アメリカ軍はゲリラ部隊に、敗残兵の掃討命令を下す。

村の住民:
「弱りきった日本兵が、村に連行され、いきなり住民の一人が首を切りました。日本兵が私の家族や仲間を殺したから、仕返しをしたんだと。」
元日本兵:
「肩を銃でやられた兵は、骨が見えていた。ウジが山のようにたかって、ぽろぽろ落ちている。ある人は、弱った人を殺して肉を食べていた。」

 兵士たちは、密林の中で次々に息絶えていった。そのほとんどが、ここでどのような最期を遂げたのかわかっていない。

◆レイテ島決戦とは何だったのか
日米決戦の場レイテ島
逃げた日本兵が立てこもる
命を失われた若い兵士たち
 誤った情報やあまい見通しで始まったレイテ島決戦。過ちに気づいた後も、敗北が決定的になった後も、兵士たちは戦うことを命じられた。レイテ島で命を落とした日本将兵は8万人、兵力の97%にのぼる。日本が国運をかけて挑んだ決戦の結末だった。

 20歳前後で戦場に送られた兵士たちは、今80台の半ばを過ぎようとしている。同じ村から出征した戦友のほとんどを亡くした元兵士は、自分だけ生き残ったという負い目を抱え続けていた。
元兵士:
「今までお墓参りには行ったけど、遺族の家には寄ったことはない。レイテの話などしたことはない。あまりにも大勢、亡くなり過ぎました。」

 勝者であるはずのアメリカ兵も、レイテでの戦いでは、癒えることのない深い傷を残した。
元米兵:
「毎晩のように悪夢を見ました。妻を日本兵と思い首を絞めてしまったことさえあります。彼女を殺してしまわないかと、何時も怯えています。」
レイテ島住民:
「終戦間近のある日、衰弱しきった日本兵がが現れました。食べ物を与えると、懐から1枚の写真を取り出しました。写真には、奥さんと二人の男の子が写っており、幸せそうな家族でした。写真を日本に送ってほしいと頼まれましたが、どうにもできませんでした。あんなに胸を痛めたことはありません。」

 フィリピンのレイテ島、今から64年前、日米両軍の兵士そしてフィリピンの住民あわせて、およそ10万人の命が失われた。なぜ、兵士たちは絶望的な戦いを強いられたのか。なぜ人々は、無残な死を遂げなければならなかったのか。
 過酷な戦場を生き延びた人々の証言が、問いかけている。



所感:
フィリピン・レイテ島での日米決戦は、物量に勝る米軍の優勢は明らかだった。食料、j銃機など何の補給もない日本軍は、戦いの前に何を食べて生きるかだった。
日米の元兵士の話を聞くと、お互い、戦友の敵討ちのための殺し合いだったといっている。
わずか2〜3ヶ月の間に、レイテ島で10万人もの命が失われたとは。
お互い、憎しみで人を殺し合う戦争の空しさを、じっくり考えたいものである。
それは60数年前の話ではなく、現在でも同様な戦争が各地で行われていないだろうか。



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