| 日米開戦を回避せよ 〜新資料が明かす最後の和平交渉〜 |
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| 昭和16年の日米開戦は、日本側の妥協案に沿った回答がアメリカ側に用意され、直前まで回避される可能性を残していた。開戦をめぐる日米交渉に新たな光を当てる数年前に発見された資料に基づき、戦争を回避する動きがなぜ潰えたのか、最後の日米交渉に秘められた外交戦の真相に迫る。 |
石油の70%以上をアメリカに依存する日本は大打撃となり、日米関係は開戦前夜の状態となる。この時、開戦を回避しようと動いたのが東郷茂徳外務大臣だった。東郷外務大臣は、即時開戦を迫る軍部に対してどのように説得し、どのように交渉を進めて行ったのだろうか。 |
「現内閣において、太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、帝国政府においては、本交渉の成立に向けて最善の努力を傾注している次第であります」。日本政府は、外交によって戦争を回避する道を模索していた。 東郷を含む東条内閣の閣僚と、軍部の首脳が首相官邸に集まった。 軍部は「石油を止められた以上、日本はジリ貧になる一方である。アメリカと戦うには石油の蓄えのある今しかない」と。東郷は「日本の国力は、アメリカには遥かに及ばない今は臥薪嘗胆、がまんの時だ」。そして、先に示した甲案より大幅な譲歩をした乙案を示した。「日本はインドシナ南部から軍隊を撤退させる。その代わり、アメリカには石油の供給再開と中国問題への不干渉を要求する」。 その結果、軍部が開戦の準備を進める一方、東郷の乙案をもとに、アメリカとの交渉を続けることが決められた。ただし軍部が東郷に条件をつけた。「11月30日一杯中までに交渉がまとまらなければ、日本軍はアメリカに攻撃を開始する」と。 |
この時ヨーロッパでは、ヒトラー率いるナチスドイツが、領土拡大をもくろみ各国と戦争状態にあった。ルーズベルトは、ドイツとの戦争準備を進めつつあり、同時に日本と戦うには3ヶ月以上の準備期間が必要と考えていた。ルーズベルトは日本との交渉責任者であるハル国務長官を呼び、次のように指示した。「日本との戦争準備が整うまで開戦を引き伸ばすこと。そのため暫定協定案を作り交渉を進めよ」と。 11月20日、野村、来栖の二人の駐米大使がアメリカ国防省を訪れ、東郷の乙案を手渡した。すでに乙案を知っていたハルは、「十分検討したうえで返答させていただきたい」と。11月22日、暫定協定案ができた。「日本がこれ以上南方進出をしないことを条件に、アメリカは経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない。ただし、この提案の有効期間は3ヶ月とし、それ以後はあらためて交渉する」。ハルは、この戦争回避のための妥協案をイギリスなど同盟諸国の了解を得て、日本に提出しようと考えていた。 |
さらに蒋介石は思い切った手を打つ。一面識もなかったチャーチルに電報を送ったのである。「アメリカが日本と妥協案を結んだら、中国の人々は失望し戦いは崩壊する。それ以後のどのような助けも空しく、中国はあなた方の語る国際信義という言葉を信じなくなるだろう」と。 11月24日、ハルは胡適を呼び了解を求めた。11月25日、ハルは閣僚たちを前に日本に暫定協定案を提示すると宣言する。蒋介石は非難の電報を洪水のように送りつけ、胡適は猛然と反対する。「アメリカは日本に石油を売るつもりか。蒋介石は石油を日本に一滴売れば、中国軍兵士の血を一ガロン流すことになると言っている」と。 同じころ、日本海軍の機動部隊が、ひそかにエトロフ島に集結。日米交渉の期限が切れれば、直ちに実行される極秘作戦ハワイ真珠湾攻撃の命令を待っていた。 ハルは日本への返答をさらに1日延ばす。この一日が日本の運命を大きく変えることになる。 |
これに対し、期限が刻一刻と迫るなか、戦争を回避すると言う強い願いを持っていたはずの東郷は、なぜか沈黙を続けた。 近年発見された当時の外交電報の中に、絶対極秘、そして暗号電報であることを示す文字があった。その中に、ワシントンから重慶の蒋介石に当てたものが見つかった。つまり日本は、アメリカがやったように、開戦直前までアメリカ、中国などの暗号電報を解読していたことが明らかになった。東郷は暗号文に自ら目を通していた。東郷は、アメリカが妥協案さえ出せば、戦争は回避できる。東郷はアメリカを刺激しない道を選んだ可能性が高い。 11月25日の夜、イギリス首相チャーチルからルーズベルトに、1本の電報が届く。「もし中国が崩壊すれば、私たち共通の脅威は著しく増大するでしょう。アメリカは中国の立場を十分考慮した上で、政策を実行することをイギリスは期待します」。この時イギリスは、ドイツの猛攻撃を受け、苦しい戦いを余儀なくされている。もし日米が開戦すれば、アメリカは日本の同盟国ドイツとも、いや応なく戦うことになる。アメリカ軍の対独参戦を強く望むチャーチルは、蒋介石と同じく日米妥協を良しとしなかったのである。 |
1941年11月26日、野村、来栖大使を国務省に呼び出し、返答を待ち受ける二人に語った。「アメリカは、中国を見殺しにするなと言う意見などにかんがみ、本日の案を提出することになった」。この文書は後にハルノートと呼ばれる。この文書は、日本が待ち望んだ石油の供給再開の文字はなく、さらに衝撃的な情報があった。「日本政府は、中国およびインドシナから、すべての陸海軍と警察部隊を撤退させること」。それは日本軍部が到底受け入れられる条件ではなかった。 東郷外相はこう記している。「目もくらむばかりの失望に打たれた。米側の提示し来たれる対案は、帝国の立場を無視せるものなり」。戦争に反対し、あくまでも開戦を回避する道を探り続けた東郷が、交渉を断念した瞬間だった。 |
1943年11月、エジプトのカイロであの3人が始めて一堂に会した。ルーズベルト、チャーチル、蒋介石である。この会談で3人は、これまで以上に結束して日本と戦うことを確認した。蒋介石はハルノートを見た時、日記に書いている。「昨日以前のアメリカの日本への妥協的な態度は、根本から変わった。外交とは、常に変化し続ける無常なものである」と。 戦争回避を実現できなかった東郷は、戦後こう記した。「深夜の帝都は深い静寂の中にあって、数刻の後には世界歴史上の大事件の起こるべきを思い、種々の感想に打たれた。当時を偲ぶだに今なお目頭の熱きを覚える」と。 「外交とは可能性の芸術である。状況が激しくうねる中で、一瞬のチャンスを捉えて可能性を追求する」という言葉がある。 |
| 作成者所感: 日米開戦回避に向けた東郷外務大臣の対米交渉は、11月25日まではハル国務長官の暫定妥協案でまとまりかけていた。もしこのまま、まとまっていれば、戦争はなかったかもしれない。 蒋介石の中国を救おうとする必死のアメリカ説得、またドイツの攻撃に苦しんでいたチャーチル首相を味方に引き込んだ、蒋介石の積極的外交が成功し、アメリカの対日強硬案(ハルノート)を引き出した。蒋介石のすばらしい外交戦略だった。日本の4年に及ぶ日中戦争と南方への進出が、世界に受け入れられなかったというしかない。東郷外務大臣の開戦回避の努力には敬意を表したい。 外交というものは可能性の芸術であり、常に逆転を秘めている。あの日本人拉致問題でも、したたかな相手にひけをとらない外交戦略を期待したいものである。 |
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