日米開戦を回避せよ
〜新資料が明かす最後の和平交渉〜

昭和16年の日米開戦は、日本側の妥協案に沿った回答がアメリカ側に用意され、直前まで回避される可能性を残していた。開戦をめぐる日米交渉に新たな光を当てる数年前に発見された資料に基づき、戦争を回避する動きがなぜ潰えたのか、最後の日米交渉に秘められた外交戦の真相に迫る。

▼次第に悪化する日米関係
当時の東南アジア情勢
 1937年に日中戦争が勃発。アメリカにとって、中国は重要な海外市場、日本に独占されてはたまらないと中国に経済援助と武器援助をする。当然日米関係は悪化していく。さらに日本はインドシナ南部まで進駐するに及び、当時アメリカの植民地だったフィリピンが近くにあり、ここでも両者の利害は激突する。この時アメリカは、日本に対する石油の輸出を全面禁止するという態度に出たのである。
 石油の70%以上をアメリカに依存する日本は大打撃となり、日米関係は開戦前夜の状態となる。この時、開戦を回避しようと動いたのが東郷茂徳外務大臣だった。東郷外務大臣は、即時開戦を迫る軍部に対してどのように説得し、どのように交渉を進めて行ったのだろうか。

▼東郷外務大臣と軍部との駆け引き
演説する東郷外相
臥薪嘗胆の時と東郷
 昭和16年(1941年)11月17日(開戦3週間前)、東郷外務大臣が行った国会演説が残されている。
「現内閣において、太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、帝国政府においては、本交渉の成立に向けて最善の努力を傾注している次第であります」。日本政府は、外交によって戦争を回避する道を模索していた。

 東郷を含む東条内閣の閣僚と、軍部の首脳が首相官邸に集まった。
軍部は「石油を止められた以上、日本はジリ貧になる一方である。アメリカと戦うには石油の蓄えのある今しかない」と。東郷は「日本の国力は、アメリカには遥かに及ばない今は臥薪嘗胆、がまんの時だ」。そして、先に示した甲案より大幅な譲歩をした乙案を示した。「日本はインドシナ南部から軍隊を撤退させる。その代わり、アメリカには石油の供給再開と中国問題への不干渉を要求する」

 その結果、軍部が開戦の準備を進める一方、東郷の乙案をもとに、アメリカとの交渉を続けることが決められた。ただし軍部が東郷に条件をつけた。「11月30日一杯中までに交渉がまとまらなければ、日本軍はアメリカに攻撃を開始する」と。

▼開戦回避に向けてまとまりかけた日米交渉
野村、来栖駐米大使
ハル国務長官
 東郷は、ワシントンにいる駐米大使野村吉三郎に電報を送信、「乙案は名実ともに最終案である」と。ところが、この暗号文による極秘電報を読んだのは、野村大使だけではなかった。アメリカ大統領ルーズベルトである。アメリカは、1年余り前から日本の外交暗号文の解読に成功していたのである。ルーズベルトは乙案が最終案であり、これを拒絶すれば、開戦に踏み切る可能性が高いと読んでいた。

 この時ヨーロッパでは、ヒトラー率いるナチスドイツが、領土拡大をもくろみ各国と戦争状態にあった。ルーズベルトは、ドイツとの戦争準備を進めつつあり、同時に日本と戦うには3ヶ月以上の準備期間が必要と考えていた。ルーズベルトは日本との交渉責任者であるハル国務長官を呼び、次のように指示した。「日本との戦争準備が整うまで開戦を引き伸ばすこと。そのため暫定協定案を作り交渉を進めよ」と。

11月20日、野村、来栖の二人の駐米大使がアメリカ国防省を訪れ、東郷の乙案を手渡した。すでに乙案を知っていたハルは、「十分検討したうえで返答させていただきたい」と。11月22日、暫定協定案ができた。「日本がこれ以上南方進出をしないことを条件に、アメリカは経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない。ただし、この提案の有効期間は3ヶ月とし、それ以後はあらためて交渉する」。ハルは、この戦争回避のための妥協案をイギリスなど同盟諸国の了解を得て、日本に提出しようと考えていた。

▼蒋介石の必死の外交戦略
ハルと胡適大使
中国の指導者蒋介石
 11月22日、ハルは国務省にイギリス、オランダ、オーストラリア、中国の大使を呼び、暫定協定案への了解を求めた。中国大使胡適はこれに大きな衝撃を受け、直ちに蒋介石に電報を送った。その日記に「不安と怒りが激しく交錯した。わが国は絶体絶命の危機から生還できるだろうか」。直ちに胡適大使に命ずる。「何としてもアメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と。

 さらに蒋介石は思い切った手を打つ。一面識もなかったチャーチルに電報を送ったのである。「アメリカが日本と妥協案を結んだら、中国の人々は失望し戦いは崩壊する。それ以後のどのような助けも空しく、中国はあなた方の語る国際信義という言葉を信じなくなるだろう」と。

 11月24日、ハルは胡適を呼び了解を求めた。11月25日、ハルは閣僚たちを前に日本に暫定協定案を提示すると宣言する。蒋介石は非難の電報を洪水のように送りつけ、胡適は猛然と反対する。「アメリカは日本に石油を売るつもりか。蒋介石は石油を日本に一滴売れば、中国軍兵士の血を一ガロン流すことになると言っている」と。

同じころ、日本海軍の機動部隊が、ひそかにエトロフ島に集結。日米交渉の期限が切れれば、直ちに実行される極秘作戦ハワイ真珠湾攻撃の命令を待っていた。 ハルは日本への返答をさらに1日延ばす。この一日が日本の運命を大きく変えることになる。

東郷外務大臣静かな対応の謎
解読していた暗号電報
イギリス首相チャーチル
 野村大使は東郷あてに次々と電報を送った。「アメリカに返答の督促を繰り返すが、協議中という理由で引き延ばされている。中国大使の胡適が、単独でハルと協議している。注意すべき動きだ」。
これに対し、期限が刻一刻と迫るなか、戦争を回避すると言う強い願いを持っていたはずの東郷は、なぜか沈黙を続けた。

 近年発見された当時の外交電報の中に、絶対極秘、そして暗号電報であることを示す文字があった。その中に、ワシントンから重慶の蒋介石に当てたものが見つかった。つまり日本は、アメリカがやったように、開戦直前までアメリカ、中国などの暗号電報を解読していたことが明らかになった。東郷は暗号文に自ら目を通していた。東郷は、アメリカが妥協案さえ出せば、戦争は回避できる。東郷はアメリカを刺激しない道を選んだ可能性が高い。

 11月25日の夜、イギリス首相チャーチルからルーズベルトに、1本の電報が届く。「もし中国が崩壊すれば、私たち共通の脅威は著しく増大するでしょう。アメリカは中国の立場を十分考慮した上で、政策を実行することをイギリスは期待します」。この時イギリスは、ドイツの猛攻撃を受け、苦しい戦いを余儀なくされている。もし日米が開戦すれば、アメリカは日本の同盟国ドイツとも、いや応なく戦うことになる。アメリカ軍の対独参戦を強く望むチャーチルは、蒋介石と同じく日米妥協を良しとしなかったのである。

一転妥協案を無視したハルノート
ルーズベルト大統領
東郷外相
 11月26日の朝、ルーズベルトの下に軍部から驚くべき情報がもたらされた。「数10隻からなる日本の輸送船団が、台湾沖を南に移動している」というのである。これは、米軍部の過大報告だった。これを聞いたルーズベルトは烈火のごとく怒った。「日本は和平交渉で、インドシナからの撤退を口にしながら、遠征軍を送ろうとしている。これは握手を求めるもう片方の手で、短剣を突きつけるようなものだ。日本をもはや信用することはできない」と。

 1941年11月26日、野村、来栖大使を国務省に呼び出し、返答を待ち受ける二人に語った。「アメリカは、中国を見殺しにするなと言う意見などにかんがみ、本日の案を提出することになった」。この文書は後にハルノートと呼ばれる。この文書は、日本が待ち望んだ石油の供給再開の文字はなく、さらに衝撃的な情報があった。「日本政府は、中国およびインドシナから、すべての陸海軍と警察部隊を撤退させること」。それは日本軍部が到底受け入れられる条件ではなかった。

 東郷外相はこう記している。「目もくらむばかりの失望に打たれた。米側の提示し来たれる対案は、帝国の立場を無視せるものなり」。戦争に反対し、あくまでも開戦を回避する道を探り続けた東郷が、交渉を断念した瞬間だった。

外交とは可能性の芸術
大本営陸海軍部発表
カイロでの3首脳
 1941年12月8日、大本営陸海軍部発表「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。日本海軍の機動部隊が、真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃、3年8ヶ月にわたるアメリカとの戦争が始まったのである。はじめは優勢だった日本は、やがて圧倒的な国力の差から、敗北を繰り返すことになる。

 1943年11月、エジプトのカイロであの3人が始めて一堂に会した。ルーズベルト、チャーチル、蒋介石である。この会談で3人は、これまで以上に結束して日本と戦うことを確認した。蒋介石はハルノートを見た時、日記に書いている。「昨日以前のアメリカの日本への妥協的な態度は、根本から変わった。外交とは、常に変化し続ける無常なものである」と。

戦争回避を実現できなかった東郷は、戦後こう記した。「深夜の帝都は深い静寂の中にあって、数刻の後には世界歴史上の大事件の起こるべきを思い、種々の感想に打たれた。当時を偲ぶだに今なお目頭の熱きを覚える」と。

 「外交とは可能性の芸術である。状況が激しくうねる中で、一瞬のチャンスを捉えて可能性を追求する」という言葉がある。
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 日米開戦回避に向けた東郷外務大臣の対米交渉は、11月25日まではハル国務長官の暫定妥協案でまとまりかけていた。もしこのまま、まとまっていれば、戦争はなかったかもしれない。
 蒋介石の中国を救おうとする必死のアメリカ説得、またドイツの攻撃に苦しんでいたチャーチル首相を味方に引き込んだ、蒋介石の積極的外交が成功し、アメリカの対日強硬案(ハルノート)を引き出した。蒋介石のすばらしい外交戦略だった。日本の4年に及ぶ日中戦争と南方への進出が、世界に受け入れられなかったというしかない。東郷外務大臣の開戦回避の努力には敬意を表したい。

 外交というものは可能性の芸術であり、常に逆転を秘めている。あの日本人拉致問題でも、したたかな相手にひけをとらない外交戦略を期待したいものである。 


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