集団自決 戦後64年の告白
〜沖縄 渡嘉敷島〜

 平成21年6月23日、沖縄は戦後64回目の慰霊の日を迎えた。およそ3ヶ月の戦闘で、住民と日米両軍の兵士など20万人が犠牲になった。那覇から西へ35キロにある渡嘉敷島。この島には戦後64年、誰も語ろうとしない悲劇がある。島の人々が玉砕場と呼ばれる谷で起こした集団自決である。
 追い詰められた人々が、鉈や包丁、石など使って愛する家族を手にかけ、幼い子供やお年寄りなど346人が犠牲となったという。その時何があったのか。
 生き残った人々の多くが、これまで堅く口を閉ざして語らなかった戦後64年目の告白である。

戦後64年、はじめてあの日を告白する兄弟
アメリカ軍の沖縄進攻
戦争の悲劇を描いた画
仏壇に手を合わせる金城さん
小さな畑の金城さん
 沖縄戦は、太平洋戦争の末期昭和20年の3月末に始まった。当時日本は、アメリカ軍の本土進攻をできるだけ遅らせようと、沖縄で徹底した持久戦を行った。人々の生活の場が戦場となった沖縄の住民たちは、あらゆる悲劇を集めた地獄だったといわれている。

 戦争に巻きこまれた住民たちの悲劇を描いた画がある。住民たちの証言をもとに描かれた。激しい地上戦ですべてが焼き尽くされた沖縄では、住民の証言だけが戦火を伝えるものなのである。渡嘉敷島では毎年、集団自決がおきた3月28日に慰霊祭が行われる。渡嘉敷島の集団自決の犠牲者は346人。沖縄全体では、もっと多くの人が亡くなっている。

 金城重栄さん(82歳)。毎年欠かすことなく慰霊祭に参加してきた。人目を避けるようにたった一人で祈る。金城さんは集団自決のとき18歳。両親と幼い弟、妹の家族4人を手にかけた。金城さんは、これが最後の機会だと、家族を亡くした日のことを話し始めた。
「あの幼い子供たちを思うとね、夜通し眠れないことがありますよ…。同じ死に方でも、弾にあたって死ぬのはいい方です。自分たちで殺し合いして玉砕するというのは、何ともいえない死に方なんですよ…」。

金城さんは毎日仏壇に手を合わせる。位牌には、両親と幼い弟、妹の名前が記されている。金城さんは毎日小さな畑に通う。戦争ですべてを失った金城さんには、この畑だけが家族の思い出が残る唯一の場所なのである。

 金城さんは、戦後60年以上、集団自決のことを子供たちにさえ話していなかった。集落の代表やPTA会長などで地域に貢献してきたが、自らの戦争体験を若い世代に語り継ごうとはしなかった。集団自決は、渡嘉敷島の人々が決して触れようとしない過去であった。
 父が子を、夫が妻を、島の人々が家族の命を奪うことになった集団自決。今も集落には、自分の家族に手を下した人と、隣り合って暮らしている人がいるのである。

 渡嘉敷島でただ一人、家族に手をかけたことを人前で語っている人がいる。金城重明さん(80歳)、重栄さんの弟である。実は兄弟二人で家族を手にかけた。重明さんは、30年ほど前から、沖縄戦の証言活動を続けている。重明さんは戦後すぐ島を出て、19歳でキリスト教の洗礼を受け、その後大学に進学、30歳で牧師になった。信仰によって自らの過去を克服しようとしてきた。
重明さん:
「僕は16歳で島を出ました。逃避でもありました。顔を見るたびに思い出すんです…。」

玉砕場における集団自決の惨状
住民の持つ手榴弾
自決を描いた画(1)
自決を描いた画(2)
 昭和20年3月下旬、突如現れた大艦隊のアメリカ軍が、27日には渡嘉敷島に上陸する。住民は、アメリカ軍上陸の直前に北へ逃げていた。集団自決が起きたのは、その翌日のことだった。人々はどしゃ降りの中、およそ7kmの険しい山道を夜通し歩き続けた。小さな子供の手を引く母、お年寄りを背負って歩く少年、暗闇の中、誰もが無言だった。後に玉砕場と呼ばれる北の谷についたのは、翌28日の朝だった。

 およそ700人の住民が集まった。このとき、人々は手榴弾を手にしていた。自決用に住民に渡っていた。午後3時、村長の天皇陛下万歳の声を合図に、住民たちは一斉に手榴弾で自決を試みる。しかし、その多くは不発、その事が更なる悲劇を起こした。

 その時、何が起きたのか。生きのびた人が、玉砕場で目撃したことを語ってくれた。
「斧や鍬を持って暴れまわる者、刃物を持ってやって歩く者。ほんとに人間の仕業でなかった。」「血を流してへなへなっと死んでいく人もいるし、青白くなってガタンと行く人もいる。あっちでもこっちでも。地獄。この世の地獄とは、ああいうことを言うんでしょう」。

 次々と奪われていく命。鉈や包丁、石や木の枝、その場にあったあらゆるものが使われた。金城さんは、この時両親と幼い妹弟と、そして2歳年下の重明さんと一緒だった。二人は一言も言葉を交わさなかったという。
兄 重栄さん:
「ああいう戦争では、怖がる人はいませんでした。早く僕から殺してくれと…」。
弟 重明さん:
「一言の会話もなかったです。みんな生き残ったら、どうしようと思っている。だから家族の死に手を貸しました。ひとかけらの殺意もない。ただ泣きながら手を下したんです」。

 どうせ死ぬならアメリカ軍に切り込もう。金城さん兄弟は山を下った。ところが、すぐに日本兵に出会う。誰一人生き残っていないと信じていた金城さんたちは、愕然とする。島は玉砕していなかったのである。あの日、なぜ家族の命を奪わねばならなかったのか。戦後も金城さんの心から消えることはなかった。

軍事訓練 ”生きて虜囚の辱めを受けず”
前列中央が当時の金城さん
軍事訓練を受ける島の女性
アメリカ軍が生存者を病院に
 昭和17年の金城さんの写真がある。この頃島では週に一度厳しい軍事教練が行われていた。金城さんには、この時教えられた忘れられない言葉がある。”生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ”。軍隊の規律を記した戦陣訓の言葉である。金城さんはこの言葉を、絶対に守らなければならない国家の命令と受け取っていた。
「この言葉はもう、頭から消えないですよ。それだけ厳しく教えられているんだから」。

 昭和19年、沖縄戦が始まる1年前には敗戦の色が濃くなり、日本は沖縄を急速に重要な軍事要塞とする必要に迫られていた。島の女性たちにも、軍国主義が徹底的に教えられるようになった。当時19歳だった内原さんは、アメリカ兵の怖さを繰り返し教えられていたという。
「もし万が一敵が上がったら、男の人はどうされる?女の人はどうされる?女は強姦されるよ。だからめいめい、自分の家族を責任を持って殺さないといけない」と。

 沖縄戦の最中に日本軍が住民のために作ったビラがある。
”鬼畜米獣が、片っ端から住民を虐殺している”。ほとんどの住民には、最後まで自ら捕虜になるという選択肢はなかった。

 金城さん:
「アメリカに捕まったら、一寸切りにして殺されてしまう。生きて帰る人は一人もいないから、絶対に捕まってはいけない。そういう教えですから、敵が目の前に来ているなら、自決せざるを得ないと思っていました」。

 集団自決の数時間後、アメリカ軍はその現場に入った。生存者30人ほどを病院に移送し、治療した。沖縄戦の終了後、金城さんはアメリカ軍の捕虜になった。その時、死ぬしかないと思い込んでいたことが間違いだったと気づいたのである。

生涯消えない心の傷
息子夫婦と暮す金城さん
那覇の病院で弟と
生涯心の傷の消えない金城さん
 多くの命が奪われたあの日から64年。かってアメリカ軍の上陸した浜は、多くの観光客で賑わう海になった。激しい戦争が行われた傷跡は、ほとんど残っていない。

 金城さんは、終戦から10年以上経った30歳のとき、周囲の強い勧めで結婚、4人の子供をもうける。今は息子夫婦、二人の孫と暮らしている。しかし暮らしが平坦で豊かになればなるほど、苦しみは増していった。もしあの時手を下さなければ、幼い弟や妹も幸せに暮らしているに違いない。金城さんは、孫の姿を見るたびに、二人のことを考えずにはいられない。
 「早まったことをしてしまったという、お詫びの言葉しかない。実は僕たちも、こういう風に生きているとは全然考えていなかった。これだけの家族を殺してしまって。いつでも心の中で思いつめているんです」。

 平成21年2月、金城さんは那覇の病院にいた。今年に入り認知症の症状が出始め、急速に体力も衰えていた。これまで一度も島を離れたことのない金城さんが、一人那覇で入院することになったのである。

 金城さん入院の知らせは、すぐに弟のもとに届いた。戦後ほとんど会うことのできなかった二人の兄弟、顔を合わせるのは十数年ぶりである。
弟 「今日は。しばらく…」。戦後、互いに支えあうこともできずに生きてきた。島に残った兄は孤独だった。手を下した者として集落の人から避けられ、心から悩みを分かち合う友人もできなかった。弟は集団自決を告白すると、加害者としての責任を厳しく問われたこともあった。

 兄弟は戦後何度も死のうとした。しかし重荷を背負いながら生きてきた。
弟:「忘却することが、かえって被害者に対して申し訳ない。命を失われた人の痛み、苦しみへの反省。怒り苦しんでもなくなった命は取り戻せない…」。

戦後64年目の慰霊の日
64年目の慰霊の日
 平成21年3月28日の渡嘉敷島。今年も慰霊の日を迎えた。64年前の日本は、沖縄で多くの住民を巻き込んで戦争をした。その事が、今なお沖縄の人々を苦しめている。今年の慰霊祭に、金城さんの姿はなかった。

 那覇の福祉施設。晴れると遠く渡嘉敷島が見える部屋に、金城さんはいた。生涯消えることのない傷を背負って生きてきた金城さん、82歳。

沖縄は、今年もまた慰霊の日を迎えた。

HP作成者所感:
 金城さん兄弟は軍事教練で教えられた”生きて虜囚の辱めを受けず…”の戦陣訓の言葉を守り、”鬼畜米兵が住民虐殺”の日本軍のビラを信じて、玉砕場での家族の集団自決に手を貸したという。どうしてもう少し冷静に行動できなかったのかと思う人がいるかもしれない。

 しかし、当時私は中学2年生。同じような教練を受け、日本は絶対戦争に負けないと信じていた者にとっては、あながち突飛な行動とは思えない。

 生涯消えることのない心の傷を背負って生きてきた金城さん。できれば授かった認知症のもとで、何とか過去を忘れて安らかな余生を過ごしてほしいものである。



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