ボクラ少国民」
 〜子どもから見た戦争〜


1941年12月8日、太平洋戦争のはじまった日、ラジオにじっと耳を傾け、感慨に胸を震わせていた一人の少年がいた。当時国民学校の4年生だった山中恒である。少国民だった山中恒にとって、生涯忘れられない日となった。
それから60年、少年は作家になっていた。
現在69歳の山中さんの言葉
「12月8日、戦意高揚して真っ赤に燃えたあの日の日本人のことを、絶対忘れてはならないと思う。私は、12月8日が来るたびに、あの熱狂的な愛国少国民であった自分を思い出し、また、このような少国民に仕立て上げたものは何だったのかに、こだわり続けてきました。つまり、私にとって12月8日は、あの戦争を聖戦にイメージデザインした、国のうさんくささを考える日になりました。」
 

幼年時代
日中戦争 祝賀行列
1931年(昭和6年)山中は、看板屋の長男として生まれた。この2ヵ月後、満州事変が勃発。さらに、昭和12年7月、日中戦争が始まった。後に、陸軍は、列強からアジアを護るための聖戦と称して、国民の戦意を昂揚させた。同じ年の12月、国民政府の首都南京を占領。これを記念して日本全国で祝賀行列が行われた。山中が小学生に上がる前の年である。

山中:
「飛行機画報」という絵本を買ってもらって嬉しくってね。空襲は恐ろしいとは書いていない。空襲のすばらしい力と書いてあるのよ。子どもがこれを見たら、絶対そうだと思うよね。
俺をお袋があと1年早く生んでくれれば、俺も祝賀行列に旗を振って参加し、「天に代わりて不義を打つ…」と歌って歩けたのにと思ったね。

小学生時代
奉安殿の前 奉安殿の前で最敬礼
皇国民としての練成 興亜奉公日の奉仕活動
昭和13年4月、山中は念願の小学生になった。山中は、軍国少年としての道をひたすら邁進する事になる。当時の教育の目的は、忠君愛国の精神の育成と、臣民の道の強化だった。
学校には奉安殿と呼ばれる建物があり、そこには御神影とされた天皇、皇后の写真や教育勅語が収められていた。
子どもたちは、奉安殿の前を通るときは、必ず最敬礼することが義務付けられた。
アジアに君臨する大日本帝国の子どもとして、天皇の御民として強く正しく生きることが求められた。
昭和16年、山中が4年生のとき、これまでの尋常小学校は国民学校と名前が変わり、皇国民を練成するという目的が一層強化された。

山中:
軍国日本の少国民として、先生、親の言うことをよく聞き、兄弟仲よく、ものを大切に、きちっと勉強して、いつでも明るくね。やったね、これがまた。恥ずかしいね。やっちゃったもんね。ずっと小学校を終わるまで優等生だよ。


国民学校では、戦争遂行のため、男子も女子も体錬が重視された。毎月一日は興亜奉公日と定められ、戦勝祈願や奉仕活動が行われ、子どもたちも参加した。

太平洋戦争の勃発
砲撃する軍艦 祝賀行列
昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発した。
先生は作文を書くよう指導した。

山中の作文より:
12月8日、いつもより早く起き、玄関に新聞を取りに行ったとき、いつもより激しいラジオの音がした。お母さん臨時ニュースだよといった。”帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において米英陸海軍と戦闘状態に入れリ”と報じた。
とうとうやったぞ。さあこれから、大人も子どもも一体で総力戦だ。ラジオは、”敵は幾万ありとても…”という軍歌で勇み立っている。敵の軍艦を轟沈、撃沈のニュースに、思わず皆拍手喝采した。


真珠湾から2ヶ月、シンガポールを攻略、日本全体が祝賀一色、山中も祝賀行列に参加した。

山中:
行列に参加すると、キャラメルの配給があるんだよ。また嬉しかったのは、ゴムボールの配給もあったんだよ。当時ゴムボールなんかないんだよ。みんな喜んで校庭で、白い花が咲いたみたいにゴムボール遊びだよ。その時、戦争に勝つって、ほんとにいいことだと思ったね。
職員室に入るときだけど、前は一礼すればよかったのに、「何年何組だれだれが、何々先生に用があって参りました。」と自己申告する。「よし入れ」という。これは、陸軍の内務班教育の作法なんだよ。それを俺たちにやらせるんだ。学校の先生は怖いんだよ。何かすればぶん殴られるし、先生は絶対権力者だからね。

戦局悪化
せっせと慰問文を書く 山と積まれた慰問袋
海軍大将 山本五十六 海軍士官が挙手の礼で棺を送る
昭和18年2月、25000人の戦死者を出したガダルカナル島から日本軍は撤退した。大本営は、ガダルカナル島から日本軍は転進したと発表した。「打ちてし止まん」のスローガンが叫ばれる中、北洋アリューシャン列島の戦局も悪化した。学校では、出征兵士のため、手作りの服や慰問の手紙や絵を送る運動が盛んになった。
11歳の山中は、少国民の務めを積極的に果たした。

山中:
慰問文をたくさん書いたね。兵隊さん、天皇陛下の御ために勇ましく死んでください。あとは僕らが続きますと。兵隊さんに死ね死ねと書いて、表彰状をもらっちゃったんだけど、その時は本気だったもの。

山本元帥戦死。
6年生の山中は、勉強机に山本元帥の写真を貼り、海軍兵学校を目指していた。

山中:
あのえらい山本元帥が格好よく死んで、若い海軍士官たちがね、口を真一文字に結び、挙手の礼でね、山本元帥の棺に向く。このシーンは忘れがたいですよ。この一員に俺はなりたいと思ったわけですよ。


中学生時代
国民義勇兵
18年4月、山中は中学生になっていた。
20年3月、山中は親に説得され、いやいやながら北海道に疎開した。昭和20年、日本全国の都市が空襲に見舞われた。山中は、海軍兵学校を目指すことを断念する大きな決断に迫られた。議会は、本土決戦に備え、15歳以上の男子を、国民義勇兵として動員する法律を定めた。学校は、15歳未満の生徒たちにも、国民義勇兵学徒隊に志願するよう説いて回った。

山中:
いま国が求めているのは、国民義勇兵になることなんだ。兵学校に行って、何年後かに士官になることではないんだよ。みんな、何の疑問もなく署名してるんだよね。俺ばかりではないんだよ。いずれ皇軍本体の土台にしかならないのに。それで名もなく死んでも仕方がないなあ。お国のためだもの。あまり悲壮感がなかったね。これで、海軍兵学校は遠のいたなあと思ったよ。

終 戦
日本に向かう米軍爆撃機 都市をめがけて爆弾の雨
終戦のラジオ放送を聞く人々 8月15日終戦のショック
昭和20年8月6日、新型爆弾が投下された。広島が壊滅したとのうわさが流れた。それでも山中は、日本の勝利を信じていた。しかし、長崎にも新型爆弾が投下されて数日後、山中の信念が完全に裏切られることになる。
「ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。…」
8月15日、ポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は終わった。

山中:
日本は神国で絶対負けないと教えられてきたんだもの。日本が負けるときは、宇宙がパンクすると教えられてきたんだもの。
陛下のご宸襟を安んじ奉るため、がんばってるのに、それができないんじゃ不忠の極みだろう。だったら自決すべきだろうと僕は考えたね。純粋といえば純粋、ばかばかしいと思うかもしれないけど。これは伝えにくいね。
ところが同級生がね。負けたら死ねといった先生が、まだいるじゃないか。見習って死んでも遅くはないじゃないかって。大人に、先生に、二重にたぶらかされて、負けたんだなあ。そのせつなさ、情けなさね。

アメリカ軍上陸。
山中は、戦争の終わった秋、アメリカ軍が上陸するのを見つめていた。

山中:
海が、真っ黒なアメリカの軍艦、上陸用舟艇で一杯になっていてすごかった。大人が、神国日本として、ずっと締め付けて教育してきたものが、だんだん化けの皮がはがれてくるし、国も俺たちをだましてきたんだなあと思うと、よい少国民だったことが次第にいやになってくる。ものの見事にだまされたピエロのような気がして恥ずかしい。そういう思いが強烈に襲ってきたんだよね。

山中まとめ:
全く突然に8月15日の敗戦がやってきた。僕らは最後の一人まで戦うつもりであった。だからこそ、国民義勇兵に志願したのである。敵の弾丸を一発でも多く消耗させるなら、たとえ正規軍の単なる弾除けに使われようと、それが天皇陛下の命令とあれば、喜んでそうしようと思った。これは100年戦争で孫子の代まで続き、僕らの時代で終結するものではないと信じてきた。まして僕らは、物心ついてから戦争する国に育ち、戦争のための行き届いた教育を受けてきた。その教育の中で、日本が負けるとは一言半句も教えられなかった。
作家山中恒、69歳。21世紀に入っても、これまで生きてきた世紀にこだわり、少国民であった自分を見つめていく。



HP作成者所感:
私は、作家山中さんとは同世代どころか、同じ昭和6年生まれである。戦前から戦中にかけての山中さんのいろいろな体験は、私の体験と大差ない。私は当時、地方の盛岡にいたが、小学校の奉安殿も、中学の職員室入室時の挨拶も全く同じだった。中学では足にゲートルまき、木銃を担いで登校した。焼夷弾も受けたし、グラマンの機銃掃射も見た。
ある先生は「原爆が落ちても、日本は、アメリカ上空で爆発する風船爆弾を考えている。簡単に負けるわけはない」と言っていたが、8月15日がきた。学校を護るためと称して柔道場に寝泊りしながら、正午、校庭で終戦放送を聞いた。
山中さんは、私と違って、聡明でまじめで一生懸命だった。慰問文にしても、兵学校志願にしても、14歳の敗戦時に自決を考えたことにしても、鍛え上げられた純粋そのものの少国民だったんだと思う。
21世紀は、このような、人々の人生を狂わす悲劇が2度と起こらないよう、政府を、社会を、教育を監視していくことを若い人々に託したい。
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