〜東京裁判・尋問調書より〜 |
| 日本を戦争に導いたA級戦犯として絞首刑に処せられた東條以下7人が13段の階段を上る前に、手錠をしたたままで名前をしたためた。昭和23年12月23日、東條ら4人、そして広田ら3人の絞首刑が執行された。 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷する前に、巣鴨プリズンで行われた2万枚を超える尋問の記録がアメリカに残されていた。尋問を受けた戦犯容疑者は、軍人、政治家、官僚など100人を超える。日本が戦争に突入した経緯、理由などが厳しく問いただされた。東條、広田らがどういう質問にどう答えたのか。満州事変から太平洋戦争へと突き進んだ昭和の日本。A級戦犯は戦争責任をどう語ったのか、膨大な尋問調書から密室での攻防を明らかにする。 (戦争の他のページ「日中戦争」「日米開戦を回避せよ」など参照) |
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「生きて虜囚の辱めを受けず」。東條は自ら示した戦陣訓を全うできなかった。 翌日には杉山元陸軍大臣が自殺。さらに12月16日には元首相の近衛文麿が服毒自殺した。昭和20年12月、皇居の側に国際検察局が設立される。アメリカのキーナン主席検事を中心とする国際検察局は、東京裁判で起訴するA級戦犯を選び出す任務を担当。連合国から派遣されたおよそ100人の検察官が準備を進める。 国際検察局は、巣鴨プリズンでA級戦犯容疑者に徹底した尋問を行った。日本軍や政府が、敗戦直後に大量の書類を焼却したため、戦争への経緯を示す多くの証拠が失われていた。ここでの尋問がA級戦犯判定の鍵を握っていた。国際検察局が最も重視したのは東条英機。巣鴨に収監されたのは、真珠湾攻撃から4年目の12月8日のことだった。 東條に対する尋問は3ヶ月にわたり合計52回行われた。その内容は日米開戦の理由、御前会議における天皇の発言、米英とのあつれきを起こした中国大陸への進出など、あらゆる項目に及んだ。 |
国際検察局は、満州事変を日本の軍と政府が一体となって、起こしたものと見なしていた。しかし謀略を計画したのは、現地の関東軍参謀石原と板垣だった。石原はこの戦争の意図について「謀略により軍部主導となり国家を強引する。満蒙問題の解決とは、これをわが領土となす事なり」と書き残している。 翌昭和7年、傀儡国家満州国を建国。清朝最後の皇帝溥儀を、初代執政に就任させる。中国はこれを国際連盟に提訴。満州事変は自衛のためだったという日本の主張は否定され、これを不服として日本は国際連盟を脱退した。 当時日本は、中国の領土保全を定めた9カ国条約と、国策の手段としての戦争を放棄したパリ不戦条約に調印していた。 この二つの条約をどう考えていたのか、東條に問いただした。
満州事変以後の戦争は、自衛のためだったと主張する東條。これに対し国際検察局は、あくまで計画的な侵略であると分析していた。 満州事変は、アメリカとの戦争につながる、日本の侵略計画の最初の事件だった。 |
協同謀議は、違法行為に同意したものをすべて罪に問う法概念である。 ナチスドイツの戦争犯罪を裁いたニュールンベルク裁判から、戦争責任者の責任を問う、新しい戦争犯罪の概念が採択された。「通例の戦争犯罪」に加えて、侵略戦争を起こした「平和に対する罪」、非人道的な行為を犯罪とする「人道に対する罪」。東京裁判でも、この三つの罪で指導者の責任が問われることになる。 日本の協同謀議を追及する国際検察局の尋問は、政治家に対しても行われた。満州事変の後の外務大臣や首相を歴任した広田弘毅は特に重視された。この時期から陸軍の政府支配を妨げるものはなくなった。首相になった広田は、閣僚を選ぶ段階から、軍の干渉に悩まされる。
国際検察局は、広田が首相時代に下した決断を重要視していた。「陸軍大臣、海軍大臣は、現役の大将、中将に限る」という制度を、復活させたことである。軍を文官ではなく現役の軍人が統制するこの制度は、軍の影響が強すぎるため一度廃止されたものだが、復活により案の定、広田内閣は軍部との対立によって総辞職に追い込まれる。 広田の尋問の結果、国際検察局の報告書に、こうまとめられている。 「広田自身は軍国主義者とは認められない。しかし、政府を統制しようとする陸軍の圧力に屈した。」 1945年秋、蒋介石自ら作成した20人の戦犯リストが残っている。一位とされた土肥原賢二は、清朝最後の皇帝溥儀を満州に連れ出した軍人。 昭和21年2月、中国代表の検事が来日、戦犯リストを国際検察局に提出するが、中国担当のモロー検察官から「確固たる証拠が全くない。これではA級戦犯を訴追することはできない」と。 中国検事は「被害者が、加害者が誰だったかを確定することは難しい。日本の軍隊が占領して行った犯罪を証明するのは、中国民ですよ」と返した。 |
国際検察局は、この時政府が派兵予算を認めたことに広田の責任を追及した。
日中の武力衝突は上海にも飛び火する。3ヵ月後上海は陥落。目的は達成されたはずだったが、現地部隊は首都南京に向けて進軍を開始。軍中央と政府はこれを追認する。昭和12年12月13日、南京は陥落した。 明治憲法では、軍の統帥権が内閣から独立し天皇直属、国務大臣は軍事に一切口出しできなかった。国際検察局はこの日本独特の意思決定のしくみを十分把握しておらず、広田は軍に同調していると見たのである。 日本の戦争犯罪を追及する中国が、終戦前から調査に力を入れた事件があった。南京虐殺事件である。中国検事団の一人が記録していた。 「日本が南京を占領したとき、外国人宣教師たちがいて、逃げ遅れた民間人を難民区で保護していました。日本兵の残虐行為を目撃した宣教師もいました。また、埋葬を仕事にしていた人達が、一日に死体をいくつ運んだという記録も残していました。」と。 モロー検察官は、南京における残虐行為は司令官松井の命によるものとし、直ちに巣鴨プリズンへの出頭を求めた。
松井が当時記した日記に、「12月20日、わが将兵により、少数の略奪行為、強姦などもありしごとく、多少はやむなき実情なり。」と軍規の乱れを認識していた様子が日記から伺える。 |
「皇軍破竹の進撃により、米英の豪語する対日包囲陣の一角は全く崩壊し、帝国は断固として最後の鉄槌を加えんとするものであります。」 東條への質問:
この開戦決定について、昭和天皇の責任をどのように扱うか、連合国の間にもさまざまな意見があった。アメリカでは、二人以上の人間が共同で違法行為を行うのは、天皇も協同謀議罪の一人に当たるとしていた。 天皇追求の矢面にたった東條の巣鴨プリズンでの日記によれば、自戒と題して、「戦争の全責任の前に立つこと。ことに聖上陛下に責任の帰せざることについては、全能を尽くす」と。 東條への質問:
広田への尋問:
巣鴨プリズンでの尋問、それを通じて国際検察局は、満州事変以降14年にわたる戦争は、協同謀議による罪で訴追できるとの結論に達した。 |
まず東條英機がA級戦犯に選ばれる。広田弘毅も訴追される。広田の報告書には、「広田の反対は言葉の上に限られており、彼は陸軍の積極的な追随者だった」。中国検事団の主張により、中国侵略にかかわった軍人も選ばれた。満州事変の首謀者だった板垣征四郎、溥儀を連れ出す工作にかかわった土肥原賢二も。 会議の最後にオーストラリアの検事が、天皇を含めるべきだと提案、議論となった。議事録による会議の結論は、「国際検察局を超えた判断によって、天皇を被告に含めるのは誤りということになっている。」天皇を訴追せず。この判断を下したのはマッカーサーだった。日本の占領統治を円滑に進めるために、天皇不訴追の方針を固めていたのである。 昭和21年5月、東京裁判が開廷した。28人のA級戦犯が平和に対する罪や人道に対する罪に問われた。この二つの罪は、開戦したあとに作られたもので、事後法だと主張する動議が出されるが却下された。 2年に及ぶ審理の結果、昭和23年11月、判決が下される。 広田は、中国侵略の協同謀議に加え、南京事件の責任において有罪とされ「極東軍事裁判は絞首刑に処する」とされた。東条英機は、侵略戦争を計画遂行した協同謀議により死刑。松井石根は、協同謀議には加わっていないが、南京事件の責任から死刑となった。 東京裁判では、判決文の朗読のほかに、一部の裁判官によって少数意見が提出された。インドのパール判事は、日本の協同謀議は実証されていないと指摘、被告全員の無罪を主張。しかし、南京事件など日本軍の残虐行為は否定できないとした。オランダのレーリンク判事は、協同謀議についてはその認定に異論を唱えた上で、広田の無罪を主張。軍の戦地での行為について、政府文官の責任を問うには、極めて慎重でなければならないとした。 |
終戦直後、国際検察局はさまざまな制約の中で尋問を続けた。それは、満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至る、昭和の戦争の責任を明らかにしようとした始めての試みだった。 指導者たちの残した言葉から、何を汲みとればよいのか。アメリカに残された膨大な尋問調書は問い続けている。 |
| 作成者所感: 今から60年以上前に行われた極東国際軍事裁判が行われる前、巣鴨プリズンで100人を超える戦犯容疑者に、長い間尋問が行われた。その膨大な調書が今も、アメリカの残されているそうだ。ここでは、主として軍人東條英機と文官広田弘毅を中心に、検事の尋問の抜粋と回答の内容が具体的に述べられている。 穏健派の文官広田は、首相のとき軍の統帥権を内閣から独立させ、明治の体制に戻したのは、軍の独走を許すに至った最大の失敗だった気がする。東條も広田も、天皇が訴追されないよう、徹底してかばったのは昭和天皇の人徳か。 満州事変から日中戦争と戦って敗れた中国は、蒋介石が南京虐殺をを中心に強い日本批判をしたのは当然だが、今でも南京虐殺について、歴史家を中心に実態の議論をしているのはどういうことか? この連合国検事、判事による軍事裁判に、原爆の悲劇という人道上の話題が全く出てこないのは、やはり勝者が敗者を裁いた裁判であった事実は、否めないだろう。 インドのパール判事は、ナチスの行為とアメリカの原爆投下、またヨーロッパ諸国の東南アジアの植民地化と、今回の日本の侵略との違いがどこにあるのかとの、強い信念の持ち主だったと聞き敬意を表したい。 |
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