靖国神社
〜占領下の知られざる攻防〜

 靖国神社は、国家の命令で戦争に赴き命を落とした軍人・軍属など,、およそ264万人を神として祭っている。今、総理大臣の参拝の是非をめぐり、国の内外で議論が沸き起こっている靖国神社は、どのようにして生き残ったのか。60年前、靖国神社の廃止をめぐる日米の激しい攻防は、今に何を伝えるのか。占領下の知られざる記録である。

■終戦前後のアメリカの見た靖国神社と日本人
死を恐れない日本人
参拝する天皇
臨時大招魂祭
東條元首相
 昭和16年、真珠湾攻撃で始まった日本とアメリカの戦争。日本の軍国主義の源泉はどこにあるのか。なぜ日本兵は死を恐れないのか。アメリカ国立公文書館に、靖国神社について書かれた極秘文書が眠っている。日本を占領した後、軍国主義を支える独特の精神構造を、どう変えるのか。国務省の内部機関PWC(戦後計画委員会)の文書に、「靖国神社は、我々の考える宗教ではない。攻撃的英雄を崇拝し、攻撃的国家主義精神を育む場である。こうした神社は信教の自由に反することなく閉鎖できる。昔からの神道(しんとう)は問題ではない。しかし、国家神道は非常に攻撃的な国家のカルトであり、太平洋の平和・世界の平和にとってまぎれもない脅威である」とある。

 戦争中アメリカ陸軍省の作った日本についての映画で、次のように言っている。「天皇は、日本人にとってもっとも神聖な目に見える神である。すべての支配者として、政治と宗教を一人で握っている。日本人は戦死しても、その魂が名誉の場所に行くと信じている。英霊となって、聖なる靖国神社に祀られるのだ。そこには天皇さえも参拝に訪れ、戦死者に頭を下げる。だから日本人は、降伏よりも死を選ぶのである」と。

■終戦直後の臨時大招魂祭をめぐる動き
 昭和20年の終戦直後、靖国神社の管轄は陸軍省と海軍省だった。靖国神社を存続させる上で、重要な役割を果たしたのは、陸軍省高級副官の美山(みやま)陸軍大佐だった。

 占領が開始されれば陸海軍の解体は時間の問題と予想される中で、陸軍省は、靖国神社の大祭を実行しようとしていた。国家が、戦没者を慰霊しその功績を褒め称えるのが目的だった。戦没者が神となるには二つのステップがあった。招魂と合祀である。暗闇の中、新たな魂を招く招魂の儀式、魂が本殿に運ばれ神として祀られる合祀である。美山大佐は、陸海軍が解体されるまでに臨時大祭を行い、膨大な数に上る戦没者の合祀を行う必要があった。

 アメリカ軍の進駐が始まる前日、美山大佐は東條元首相を訪ねた。東條元首相は、後にいわゆるA級戦犯として裁かれ死刑となる。「靖国神社は永久に存続させねばならない。天皇の参拝も当然のことと思う。国体と呼ばれた天皇中心の国の仕組みを守るために、周囲が皇室を守らねばならない。」との意見だった。さらに元首相は、「戦争責任をとって自決した軍人も、今後は合祀すべきだ」と提言したのである。美山大佐は、会談の内容を陸軍大臣に伝えた。終戦時の自決者は、後に昭和殉難者という呼び名で、戦死者と共に合祀されることになる。

■GHQ監視の下での大招魂祭
マッカーサー最高司令官
靖国神社のアメリカ兵
臨時大招魂祭
 昭和20年8月30日、厚木飛行場にマッカーサー最高司令官が到着し、連合国による占領が始まる。日本軍が受け入れたポツダム宣言のもとに、アメリカは初期の対日方針を打ち出す。「超国家主義的かつ軍国主義的組織および運動が、宗教の仮面に隠れることは許されない」マッカーサー最高司令官は、即座に武装解除と戦犯の逮捕を命じた。実行したのは、当時日本のFBIと呼ばれた対敵諜報部、ソープ准将であった。

 9月10日、ソープ准将の配下が東條元首相の家に踏み込む。東條元首相は自決を図るが失敗、逮捕される。その2日後、靖国神社に100名のアメリカ兵が現れた時の写真がある。当時、対敵諜報部を中心にGHQの将校たちは、靖国神社の焼き討ちを主張していた。

 10月末、陸海軍の完全な解体が1ヵ月後に迫り、陸海軍は臨時大祭の準備を急いでいた。しかし、戦没者の身元の調査が進んでおらず、一括して魂を招く臨時大招魂祭が企画された。勅許がおり、臨時大招魂祭が開催されることになった。GHQのソープ准将が動き、日本に好き勝手に、大招魂祭をやらせていいのかと強く主張した。GHQ内部の意見が割れたが、大招魂祭の様子を見てから決めても遅くないのではという意見が通った。日本政府は、GHQに対し大招魂祭に向けた天皇の詳細スケジュールを提出した。前日、風邪で寝込んだ昭和天皇は、「明日の行幸は大切なれば、是非行く」と語ったという。天皇の参拝は予定通り行なわれることになった。

 11月20日、GHQの監視の下、陸海軍の大臣以下部隊の代表が参列、参拝者は3万人に上った。GHQの印象を良くするため、軍人たちは背広で参列。昭和天皇も参拝し、靖国神社は、今までの30万人から一挙に200万人を超す戦没者の招魂を行ったのである。美山大佐は目的を果たした。後は招魂した200万人の正式な合祀だった。

■信教の自由と国家神道廃止への道
宗教家バンス課長
純粋宗教で
神道指令
 アメリカ政府は、国家神道の廃止に向けて、すでに動き出していた。国務省の高官が国家神道について次のように発言している。「日本が二度と世界平和の脅威にならないようにせねばならない。神道が個人の宗教である限り干渉しない。しかし、国家神道は廃止すべきだ。人々は国家神道への支援を強制されず、学校に神道の場はない。日本の軍国主義、超国家主義は全面的に抑圧する。」と。

 本国の方針を受け、マッカーサーは民間情報教育局(CIE)に指令を作るよう命じた。国家神道廃止の指揮を取ったのは、宗教家のバンス課長である。今年98歳になるバンスさんは、ワシントン郊外に住み、占領時の出来事を鮮明に記憶していた。「靖国神社は、特別の意図をもって国家が作った特殊な神社です。すべての人々が訪れ、戦没者を崇拝するための場所でした。私は、必ずしも守るつもりはありませんでした。」当時のメモに、「国家神道に関して、宗教的な部分には関与しない。私は、すべての宗教を平等に扱おうと考えていました。ともかく日本に信教の自由が確立されるべきでした。」とある。

 靖国神社の横井権宮司が当時の出来事を語ったテープが見つかった。「靖国神社は戦争の中心になったと思うから、そのままでは置けない。旧来の状態で行ない、向こうから潰しに出てこられたら、お終いだ。」横井権宮司は、GHQが信教の自由を重視していると知り、神社存続のための方針を打ち出した。「うまく収めるためにも、向こうの意向に従え。もっと純粋な宗教の姿で行なおう。名前はどうでもいい。靖国廟宮という名前を考えた」と。バンス課長は「なかなかいい考えだ」と。

 この頃、アメリカ政府やGHQからも、さまざまな改革案が持ち込まれた。記念碑案、無宗教追悼施設案などである。昭和20年12月15日、靖国神社のその後を決定付けるマッカーサー指令448号、いわゆる神道指令が出された。これにより、国家神道を廃止し、軍国主義、超国家主義の宣伝が禁じられた。政教分離によって国家と宗教のつながりが絶たれた。靖国神社は、信教の自由によって他の宗教と同じ扱いを受け、宗教法人として生きることになったのである。

■対日理事国の圧力と強まる締めつけ
天皇の人間宣言
戦いのレリーフ
遺族からの嘆願書
合祀された遺影
 昭和21年、天皇の人間宣言によって、天皇の神格性が否定された。また同年4月、靖国神社はGHQから新たな通告を受ける。それは昭和天皇の靖国参拝を認めないというものだった。臨時の大招魂祭から半年、招魂された戦没者の合祀にとって、天皇は欠かせない。

 昭和天皇の参拝中止の決定には、意外な背景があった。アメリカの大学で今年GHQ宗教家の大量の資料が発見された。写真や秘密文書など数千点に上る。バンスさんは、天皇の参拝中止の背景をこう語った。「あれは天皇自身がお決めになりました。天皇は物事を穏便に運びたいとお考えになったのでしょう」

 当時、日本の占領政策や東京裁判について、厳しい態度をとるよう、アメリカに求める声があった。ソビエト、中国、オーストラリアなどの国が、天皇の靖国参拝を外交問題にする恐れがあった。この批判的な見方に対し、マッカーサー司令官は言った。「やつらは共産主義者だからな」。GHQの資料によれば、このために天皇の参拝取り止めを、政府と靖国神社に示唆したといわれている。

 9月、GHQは合祀祭そのものの禁止を通告する。さらに11月、マッカーサー指令で、国のものである神社境内の土地の譲渡は認められないとした。 横井権宮司は、生き残りをかけて、様々な構想を打ち出した。「靖国を守るためには、自給自足をせねばならん。神社の周辺を劇場、音楽堂、美術館を中心に公園化しよう」と。中国やソビエトなどから、軍国主義的な要素として撤去を命ぜられたものもある。13mの巨大な灯籠に飾られたブロンズ製のレリーフ、日本軍の戦いを記念したものである。横井権宮司は、レリーフをコンクリートで塗り固めるよう指示した。占領が終わった後、元に戻され今に至っている。

 GHQに、靖国神社の存続を願う遺族たちの声が届き始めた。アメリカの公文書館に残されている請願書がある。「靖国神社が軍国主義的神社として存廃の岐路にあるようですが、これが本来の姿ではなかったのです。何とぞ、私たちの心情を斟酌され、寛大なるお慈悲を持ってお取りはからい下さい」。昭和22年、遺族たちが組織を作り、声を上げ始めた。

 靖国神社から、遺族たちに合祀通知状が送られた。公けに行なうことが禁止された戦没者たちの合祀は、神社内部で行なわれた。合祀は200万の遺族たちを、靖国神社につなぐ役割を果たした。

■東西冷戦激化に伴うアメリカの路線転換
アメリカで語るバンスさん
天皇からの御幣物
現在の靖国神社
 占領が終りに近づくと東西の冷戦が激化、日本を共産主義の防波堤にするため、占領政策が大きく変わった。それまで進められてきた非軍事化路線は転換した。バンス課長の部下の調査官が書いた秘密文書:「靖国神社の将来に対する見解」で「靖国神社の存在を認めるべきだ。廃止は、かえって問題を増やす恐れがある」と書かれている。また未発表原稿には、「神社の廃止は難しい。数百万に上る遺族の反対が予想されたこと、さらに信教の自由を尊重することにGHQ自らが失敗したとの批判を恐れている。そして時代の変化で状況が大きく変わった」としている。

 バンスさんは「結局、我々は手を引くことに決めました。日本に制裁を加え続けるのは、私たちの望みではありませんでした。あの時点では、日本は私たちが望むように進んでいたのです」と。また、GHQ宗教家は昭和24年の覚書に、こう記している。「終戦直後の1945年〜46年までに、軍国主義的神社は廃止すべきだった」と。

 昭和26年9月、GHQは、これまで許可しなかった靖国神社への国有地の譲渡を認めた。こうして靖国神社は残った。翌昭和27年、占領が終わった。

 その年、昭和天皇の靖国参拝が復活した。靖国神社の重要な儀式は、今に引き継がれた。合祀も続けられ、240万人が祀られた。年2回、天皇の使い、勅使も派遣されている。天皇陛下からのお供えである御幣物もを携え、参向している。

 戦争の惨禍を2度と繰り返さない、そう誓って再出発した戦後日本。戦没者を神として祀る靖国神社は、一宗教法人となって今に残った。戦争で命を落とした人々を、誰がどう慰霊し記憶するのか、靖国をめぐる60年前の日米の攻防が、今に問いかけている。       

所感:
 昭和20年の終戦を迎える前から、アメリカは靖国神社を軍国主義神社とし、死ねば英霊として祀られることが、日本人の心のよりどころであると分析していた。GHQが、いわゆる国家神道を極めて危険なものとし、駐留後、躊躇なく廃止命令を出したのは当然なことである。しかも、信教の自由を妨げないとした基本的な考えは、さすがにアメリカであった。

 昭和27年、占領が終わりに近づくにつれ東西の冷戦が激化し、アメリカは靖国どころではなくなり、手を引かざるを得なかった。かくして、靖国神社は法人として甦った。占領終了後、戦犯といわれる人々も合祀を終えた。戦後、二度と戦火を繰り返さないと誓った日本にとって、今後、靖国神社がどう位置づけられるのだろうか。

 大国中国は、経済成長と軍備増強を続ける中で、60年前からアメリカの生ぬるい靖国政策に反対し、今なお、首相の靖国参拝を非難し続けている。この事実を、私達はじっくり考えておく必要があるのではないか。


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