平塚の文化史                          

平塚は、遺跡が数多く見られ縄文や弥生時代の土器が出土されている。平安時代(876)には、墨書土器が使われ早くから開けた古村であった。また、平塚の延命寺は、寛弘2年(1005)賢澄上人の開基と伝承されている。鎌倉時代(文永のころ)は、北条実時の称名寺領であった。戦国期には小金城主高城氏の出城であった小森城跡も見つかっている。町内に残る幾つかの史料(名内の十一面観音懸仏などの銘文)などからも地名は、室町時代末に「平塚郷」と記されている。江戸時代、高岡藩の初代藩主大名井上筑後守正重は幕府大目付となり、下総国庁南を領したが、寛永17年(1640)1万石に転封され、この時点で「平塚村」になりのその領主となった。井上筑後守正重はキリシタン禁教の総元締でもあった。天保9年(1838)当時の状況として、家数、81軒、人口、男252人、女254人、計506人で、神社仏閣は延命寺、鳥見神社、八幡宮神社、弥陀堂、薬師堂などがあり、今に受け継がれている。

白井町史 史料集、白井町の文化誌 鈴木普二薯より