2005年に出版された「国家の品格」(藤原正彦/新潮新書)は、読み物としておもしろい本ですが、真に受けると大変危険な本であると思います。読者に思考停止を進めているからです。

著者はぼくも尊敬する数学者エッセイストで、ときおりエキセントリックになるのも含めて情緒的で、エッセイとしては大変に情緒豊かで格調高い物を数多く書かれています。「国家の品格」は日本国民のありかたについてちょっとユーモアを含めて述べたエッセイといってよいと思います。教育などについていくつか非常にいいことが書いてあります。しかしさっきいったように非常に危険な部分もある。

著者はまず、自分が教育者として体験したアメリカのやりかたにかぶれ、それを日本に持ちかえって日本人に押しつけようとしてうまくいかなかったことの反省として、また英国人学究たちの腹芸ともいえるコミュニケーションをみて、すべてが論理で解決されるのは間違いだと感じるようになったと書いています。

おもしろいのは、そこから、自分のアメリカ式が日本でうまくいかなかった原因の追及において、「自分無謬のための」アプローチをしてゆくことで、自分のアメリカ式がうまくいかなかったのは、周りに退かれるような自分の強引で過剰な自意識ではなく、アメリカの徹底した合理主義にあるという方向に持っていっていることで、そこには、自分のアメリカ式の採り入れかたがうまくなかったというアプローチではなく、今までナアナアでやって来ていた会議にいきなり新参者がオレが正しい正しいとヒステリックにまくし立てはじめても退かれるのは当然だったという自省は見られません。「オレはわるくないのにうまくいかなかったのはアメリカの合理主義がまちがってる」という方向に行ってしまったようです。しかし、その「まちがってる」はずのアメリカ人はけっこううまくやっている。そこでアメリカ自体が間違いだといいはじめる。こういう自分無謬前提のアプローチは過去、どこかのエリートたちの行動でみたことがあるわけですが、どうでしょう?

で、ここまではまあ芸風、歯に衣着せぬ痛快エッセイとしておもしろく読めるわけですが、おもしろく危険な言葉が出てきてしまいます。それが、「押しつけ」の勧め「ダメなものはダメ」。痛快なだけに魅力的で危険です。

一大数学者に「不完全性定理」とか持ちだされて「論理は世界をカバーしない」とかいわれるとぼくなどは萎縮して「はあ、そんなもんですか」と納得してしまいそうになりますが、たぶんこれは持って来方にトリックがあるので、この場合著者はそれを、「ダメなものはダメ」を「理屈」で「証明」するために持ってきている。権威からその権威の都合の悪いものにその権威でで否定されると、素人はすべて反論できなくなる。しかし、選ばれた人間が、自分より劣ったものに、自分が劣っているとみなすものに、辛抱強く地道に啓蒙する努力もせずただ「ダメなものはダメ」と「押しつけ」ていいというのは思い上がりです。

子供から「人を殺してはいけないのはなぜか」と訊かれて、これに教育関係の偉い人が答えられなかったということに対して、「ダメなものはダメだからと言え」というのはいちばん明快でカラッとその場で回答者本人には気分のいい解決かも知れませんが、「なんでだめなの?」と真剣に尋ねている者に対しては失礼きわまりない、その人格を否定した答えかただと思います。

社会生活で人を殺してはいけないのは、その社会が「人を殺していい」と言ってしまった時点で、その社会の誰も社会による命の保証を失い、他人を信用するという、人間社会の営みの一番基本的な前提がなくなってしまうからです。質問した子供も、答えに詰まった先生も、その時点では自分が心情として「殺す側」に立ってしまっているので、「殺される側」になるなんて思いつきもしていない。そのへんにいる他人に、気分次第でいつ殺されるかわからない社会になったときのことを考えれば、人を好きに殺していいなんて言えるわけがない。極端な話、そんな社会じゃあ先に眠ったものが負けで、眠った時点で殺されて身ぐるみはがされるわけですから。件の子供はたぶん、「自分だけ」が「特定の人間」・・・たとえば凶悪犯罪者とかいじめっ子とか憎い自分の親とか・・・を殺したいという限定的な前提で「なんで殺してはいけないの?」と訊いたのでしょうけれど(まあ、えらいひとを困らせて得意になってやろうという小才ぶった子供らしい虚栄心かもしれませんが)、「殺していい」は一人に許されるなら全員に許される性質のものです。戦争においても、殺していいのはその人の国社会が保護しない敵国人です。味方は自国民だから少なくとも味方には殺されない命の保証がある。戦争でも味方を殺すのは犯罪として罰せられる。その考えがあるから、まっとうな国なら自国の保護下に入ったとみなせる捕虜という存在は殺させないし、アメリカ軍などはそれを拡大解釈して自軍の損害を嫌うのです。

また、日本において卑怯がいけないのは「恨みを買わない」ためです。恨みを買えば、いつどこででもどんな仕返しを受けるかわからない。すべて返り討ちにればいいというけれど、そんな生活は非常に神経を使う生活で、夜もろくろく寝られない。そんなことができる肝のある人はごく少ない。しかも、恨むものにも口があるので、恨まれるものの悪口をあることないこと言いふらしたりしてそれが人々の琴線に触れでもすれば、社会世論も敵にまわすかもしれない。マスコミによる「世論の敵」への袋だたきは日本の伝統文化です。吉良上野介や田沼意次は「卑怯」であったがために罪も犯していないのにひどい目に遭ったわけで、その針のムシロの怖さを知るものが、生活の智慧として「卑怯はダメ」といったのでしょう。部下に復讐を受ける可能性のあるひとがいれば、その上司もそのことに神経を使わなければなりませんから(頼んだ仕事が復讐されておじゃんになる可能性が出ます)日常業務に支障をきたします。むつかしいことではないが、決して「ダメだからダメ」なわけじゃない。ダメなものはダメと言って思考を停止させてしまうと、本来なにかの意味があって続けていたことのその意味が忘れ去られ、形骸化する危険がある。鎖国などがそのいい例でしょう。鎖国以外にも徳川幕府の重鎮たちは「東照神君がダメって言ったからダメ」といって思考停止し、出る釘を打ち続けた結果腐って破産して滅びましたし、立派なはずの明治維新が育てた子供たちも革新の二十世紀のなかで多くの時代遅れの「ダメなものはダメ」を思考停止して大切にしたために1945年に滅びてしまいました。多分、伝統ある大会社が潰れる原因にもその「ダメなものはダメ」という思考停止があるに違いなく、九十年代後半の日産におけるカルロス・ゴーン氏の成功は、その「ダメなものはダメ」を討ち滅ぼせた点にあったと思います。

父の威厳は、子供が一定以上の年になると、上っ面が高圧的なだけでは保てないと思います。子供はその場では恐れても尊敬はしない。そこで中学生日記のような青いことになる。父親は、説明できないにしても子供といっしょになって立ち向かってまじめに考える態度は必要かと。押しつけるには押しつけるだけの理由が必要です。ただ気にくわないからなんてのは理由にならない。(お前がそれやるとオレが気にくわなくて胃潰瘍になるからダメ、というのはアリです。)

そして、ダメなものはダメって言われて納得してしまうような「ききわけのいい子」では物事の理由を考えたり障害に理性的に立ち向かう力が育たない。せいぜいできて逆ギレくらいしか・・・(・・・おれじゃん・・・)

なわけで、「ダメなものはダメ」はダメです。

日本人には日本人ならではのすばらしい自然によるすばらしい誇らしい情緒があることは認めますが、それは別に世界一ではない。我々が殺風景だと思ってるところの人々にだって豊かな情緒はちゃんとあるし、殺風景に情緒を見出せるくらいだから情緒力は我々の上かもしれない。もちろん下品なアメリカ人にだって優れた情緒はある。それを見下したりせず認めあい、いいところは採り入れることが相互理解と社会生活の向上につながると思うのですが。

先の戦争は、日本民衆の「情緒」が産んだ反感を、官僚がおのれのナワバリの拡張に利用して、情緒の前に引っ込みがつかなくなってはじめられたものでした。その決断に「数字的にムリ」という専門家の「理論」は全部無視されました。特攻も情緒を利用したし、終戦の決断まで「この雰囲気ではいいだせない、陛下に決断を・・・」という当時の憲法に反した天皇への決断の押しつけで情緒によって決められました。

「流れる星は生きている」の、あのちいさな子供が泥にまみえて凍える、つらい悲しいエピソードの原因が日本人自身の情緒だったというのはなんという皮肉でしょうか。

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