2006年の流行り言葉といえば、「ってレベルじゃねえぞ!」が真のチャンピオンかもしれませんが、表向きは「格差」でしょうか。

「虚業」で楽をして儲けた人々と、額に汗しても我が暮らし楽にならざりという人々の格差。それを唱えて印象づけようとしているのは、テレビとかのマスコミとか反政府文化人とかなんですが、そもそも、こいつらも「虚業」で食ってるんじゃねえの?

まあ、彼らにもそれなりの職業上の苦労はあるんでしょうが、かれらの収入は明らかに日本の平均を超えてるでしょう。そんな彼らが彼らよりも収入の多い人々へ「格差」とかいっても、ぼくにはただの新興勢力へのライバル意識からくる妬みにしか聞こえません。でもそんな妬みアジは欲求不満気味の民衆の感傷には取り入りやすい。取り入ることができれば彼ら言論人の自己顕示欲とコンプレックスは民衆の支持を得たということで満たされます。妬みを「格差」という「義憤」にかこつけて訴える。これは、ドラマの主人公が「勉強なんてできてもえらくない」みたいな、よく考えるとまずいんだけど耳に心地いいことをいうと人気が出るのと同じで、民主主義社会の君主たる民衆への道を誤らせる甘言というべきで、危険な印象操作です。

勉強ができるのはえらいことです。持って生まれた感覚、それがない場合の並大抵でない努力と、勉強への興味を持てる知性、こういうものはその人の持って生まれた天才で、サッカーがうまいのと同じように褒められ尊敬されて当然。教育を受けようって人が、受けた教育で今後の人生を生きていこうって人が勉強できないのは恥ずかしいことです。サッカーする人がリフティングできないのと同じくらいはずかしい。それを、できない人の劣等感へ取り入ってできないほうがカッコイイみたいなことをいうから、今やできないから頑張るのがカッコ悪いみたいになってしまった。頑張るドラマがあったにしても、努力はするけど苦戦するというほうが、ポイントを見極めてさらっと要領良く解決する頭の良さよりもドラマチックなので、なんだか要領いい人が悪者で、頭悪くて煮詰まってるだけの人が頑張っててカッコイイみたいな評価をされてしまう。ぜんぶ印象だけで見ちゃって本質で評価されていない物が多い。昔の日本陸軍では、兵隊をたくさん死なせた指揮官は、「あいつは激戦をくぐってきているから優秀だ」と評価され、損害をおさえて任務達成すると「あいつは逃げてばっかりの憶病者だ」とボロクソだったそうで、なぜかといえば、部下を死なせないように任務を遂行するほうが難しいのと、部下を死なせちゃうような単細胞のイケイケの部下の方が自分の組織上の脅威になりづらいという一石二鳥からで、要領いい方を褒めるとイケイケの可愛い部下がみんな劣等生になってしまうし、調子づいちゃうからおもしろくない。だから出る釘は打っておいて平等にしてしまう。こういう切れ物排除は平和になった江戸時代にもあったから(戦国時代にこれをやると有能な部下はよその大名に逃げちゃうから、逃げられた大名は滅びてしまう)、なにも戦後日本特有のことではないようです。世の中が泰平な証しといいましょうか(皮肉)。

なぜある人々はこういった印象操作を支持するのでしょう。それは、自分が人より劣ると思いたくない意識と、劣っているなら努力すればいいのに、それをしない、心のどこかにある怠け心から、またはどうやっても才能がないということを認めたくないから。どうやったら合法的に要領良くお金を儲けることができるか日夜休まず考えたり、考えて実行しようとする気力がないから普通に仕事して普通の収入しかもらえない。努力してても、努力の方向が間違ってるからただの自己満足に終わってしまい、それで満足ならいいんだけれど不満で、苦労に収入が見合わないと感じてるのに方向を変える智慧がない。理解しようという工夫と努力をなまけてるから勉強できない。ボールリフティングなんてみんなで集まったときしかやらないからできない。でもそれでは努力してるひとや才能のある人においていかれてしまう。当然のことで、できないんだからしょうがない。甘んじるべきなのに、自尊心だけは大きいから、成功者を貶めて自尊心を満足させる。親がそれなら子供だってそっちの法が楽だからマネをします。ぼくみたいに親が勤勉だって怠け者な子もいるくらいなんだから。さらに困ったことに、そういった「格差」好きな親は自分の子ができないとわかると、自尊心が傷つくので「平等」とか言いだす。「平等」ということの本質は「適切な努力の前の平等」「才能の前の平等」「対価の元の平等」なのに、彼ら妬みの人々は「頭数割りの平等」にすりかえてて、受ける側もそんなことに誠心誠意答えて説得するのが面倒くさいからいいなりになって、駆けっこ全員同時ゴール一等賞みたいなバカなことを平気で採用してしまう。これでは子供はダメになるのはあたりまえっス。ダラダラ遊んでても一等賞なんだから。いろんな競走の中で自分の取り柄、好きなことを活かす道を見つけて自信つけていかなければいけないのに。で、平等に努力しない子が増える。へんな平等が基準になって、半端に外れた子はいじめられたりするから並の子は自分を平均に抑えるようになる。一方できるこはそんなのは相手にせず置いてく。一層できるできないの距離が増える。「格差」増えちゃってますよ。

そして次に出てくるいいわけが、「今のギスギスした競争社会が心のゆとりを失わせて格差を生む。昔はよかった」ということのようなのですが、そもそも自分たちの嫉妬の心が昔のゆとりある汚職や談合を厳しく締めつけたからギスギスしちゃったということは忘れている。ひと昔まえはある程度全部がゆるかったからゆとりがあったわけで、社会の元締めを締めたらその社会の底辺まで絞まるのはあたりまえなのに、そんな緩んだ社会は許せないというから締めたわけなのに。

人に厳しさを求めるなら自分にも返ってくる。改革は痛みを伴うと口では言いながら、その痛みは他人事だと思っている、生活感のない浮世離れした文化人や賄賂ももらえないような甲斐性ナシが、妬みから、いままでナアナアでうまくやってた政治家と実業界の足を引っ張って、当然起きた不況に自分でびっくりする。そもそも緩んだ社会を許せないという主張自体が、自分がただ目立ちたいためだけのゼスチュアで、日本をよくしたいなんて言う壮大な構想はかけらも持ちあわせていないで目先の虚栄心だけで言ってたわけだから、これからどうしたらいいかも考えてるわけがなく示せない。彼らの誘導した世論自身がナアナアを拒絶することを支持したから競争社会が来たいうことを説明しなければいけないのに、めんどくさいから目をつぶって、先人のつけということにして全部押しつけてしまう。そのほうが楽だから。大きな声出してさらに新たに他人のあら探しをするくらいしかできない。世論を敵に回すと面倒だから、戦後せっかく民主主義体制を得たのに政治を政府と役人に任せっきりで放任してきた国民の責任部分の追及とこれからの意識改革なんてことはいわずに、ひたすら政府のせいにする。社会のせいというけれど、社会を自分たちも構成してるということは棚に上げている。

だめです。他人のせいにしようとする心地いい声に耳を傾けては。まず今の自分が持ってるものを正確に把握しなくては。鳥が飛べるからと言って鳥を妬むだけの人は空を飛べないけれど、鳥を勤勉に観察し、人間の限界を理解し、そのうえで知恵を絞ったリリエンタールは手持ちの材料で飛ぶことができました。リリエンタールを妬まずに彼の成功と失敗を観察して学び、活かした人々は、リリエンタールよりも速く安全に遠くへ飛べるようになりました。妬みからできあがった、成功者の足をひっぱって全体のレベルを下げるような文化は最終的に憎しみくらいしか生み出さない。われわれはこれから、道徳として、無能を妬みにすり替えることを拒否する、自分の因果を世の中のせいにしない、自分と他人の可能性をちゃんと分けて理解し役立てるための出発ができる訓練を受けた子供たちを育てる文化をまず作らなくてはいけないのではないでしょうか。あと親がバカでもそのバカを分析して自分の知恵として乗り越え、かつ産んでくれた親として愛することは忘れない文化ね。

オレみたいな口先だけのカイショナシの独身中年がいっても説得力ゼロだけどね。しょうがない。努力しないとねえ・・・でもできないや・・・がっくし・・・かっこわる・・・

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