19. 土くれ

  土はいい。
  悩まないし、
  落ち着いた香りがする。



  
 
 「ネーコ!」
 とつぜん気をうしなったネーコを見て、パーチクはあわてました。これからフェリシアと話しあい、彼を八十年あまりしばりつけてきた彼女の誤解を解こうという、そのたいせつなときに、彼女との橋渡しとなるはずのネーコがたおれてしまったのですから。呼び起こそうと、ネーコの身体を抱き起こしました。
 「パーチク」
 ゆっくりと、ネーコの目が開きました。
 「ひさしぶり」声の調子が、いつものネーコと違うことに気がつきました。このしゃべりかた!おちついた、冷たい響きのある調子は…!
 「フェリシア!?」パーチクの声が引きつりました。
 「なんで、ネーコに…!?」
 「あなたのそそっかしさ、あいかわらずね…ネーコがあなたの言葉で受けた衝撃、わからないんでしょ?こまったひと…」
 「???」
 「あなたが死ねない理由は、半分わたし。確かにわたし、あの時あなたを呪った。あなたのせいで、わたし、じぶんの立場がまるで、まるでわからなくなった。でもあとの半分はあなた自身」
 ネーコが、いや、ネーコの口を借りているらしいフェリシアがなにをいいたいのか、パーチクにはさっぱりわかりません。とまどって、口をぱくぱくさせながら彼女の目をぼんやり見つめるばかり…
 「おもいだしてごらんなさい。あの日、この場所で、トカゲを持ったあなた。小馬に乗った私。
 おもいだしてごらんなさい。あの日、夕暮れのペタの町の片隅で、私の情熱、あなたのまなざし。
 おもいだしてごらんなさい。あの日、カミュのなきがらの前で、私の怒り、あなたの想い。
 おもいだしてごらんなさい。あの日、悪魔神官ゴルグリヒの前で、私のこと。あなたのこと」
 ネーコはそういうと、パーチクの頭を両手でおさえました。やさしく。パーチクの意識が突然にどこかへ飛び去りました。

 「ぼくは…おちてゆく…過去へ…いや、ちがう、怠惰は、時間にも支配されない…いちどきに、全てのおもいでが…むしろ、これは、あのときの体験そのもの…!」

 パーチクの心に、いちどきにすべての思い出が流れ込んできました。不思議なことに、パーチクはいちどきにそのすべてのことがらを味わい直したのです…
 
……


 

 ひんやりとした土のにおい。
 ぼくは、朝から数えて五匹目のトカゲを捕まえて、腰の袋に入れた。魔法薬の材料は、失敗することも考えると、多ければ多いほどいいんだ。モラレスのやつも、それだけたくさん練習用の革が手に入るわけだし。
 その時、森の道をむこうからやってくる足音を聞いたんだ。馬のひづめ。でも、なんだかちいさいな…
 やってきたのは、ぼくと同い年くらいの、小馬に乗った女の子だった。かわいいよろいを着て、かわいい剣を吊って。森の中で。きれいな瞳と目があって、ぼくはどきっとした。赤くなったんだ。
 馬に乗ったまま女の子が聞いた。
 「あなたたち、こんな森の中でなにしてるの?さては盗んだものを隠してる盗賊なんでしょ!このフェリシア・ド・ラ・ビエールが見つけたからには、ただではおかなくてよ!かくご!」
 叫ぶと、かわいい剣を抜きざま襲いかかってきた。ぼくたちはびっくりして、あわてて袋からその日捕まえたトカゲを取り出して弁解しようとした。
 あわてすぎて、つかみだしたトカゲが指の間をすっぽ抜けて、女の子の顔めがけて飛んでっちゃった!女の子がギャッて言うと…
 
 …そうだね、ぼくの心はあの時、生まれて初めて、たしかにときめいたんだ…

 今日も魔法の修行が終わった。ジャワル先生は、ぼくのノートを見て、黙ってうなずくと、書斎へと引っ込んだ。
ぼくは勉強道具をかたづけると、先生の家を出て、いつもの場所へ。こうして、一日頑張ったあと、町のあの場所へ行くのが、フェリシアに会いに行くのが楽しくってしょうがない。ぼくの足取りは軽い。世界が、すべてぼくの足元にひれ伏しているような気分。好きな女の子とひととき話をする、たったそれだけのことで、こんなに幸せだなんて、ぼくは偉大な魔法使いになれそうもないな…でもそれでもいいような気がする。フェリシアの笑顔のためなら。
 広場を素通りして、教会の角を曲がり、裏手の大きなスズカケの下にホラ、彼女が!
 「パーチク!」
 手を振ってる!顔が輝いてる!
 「フェリシア!元気?」
 「うん、今日も腕前が上がったような気がするの!兄弟子のヨーンから二本奪えたのよ!」
 「すごいや!きみは天才なのかも!」
 「おだてないで!てれちゃう!」
 「おだててないよ!思ったとおりに言ったんだ!死人と死人使いはうそをつかないんだよ!」
 ぼくはもちろん本気で言ったのさ。彼女は世界で一番!それ以下ではなかった。
 「モラレスは?」
 「まだ来てないわ。きっと、また、途中でやめられない細工の部分に取りかかちゃったんだわ。それで…」
 彼女のまあるい額にかかったやわらかそうな髪が、夕方のそよ風に少しなびいた。二人は、そのまま黙りこくっちゃった。二人きりっていうことに気がついちゃったから…
 「背、のびたね…」
 そういう彼女のぼくを見る目が、いつもと違ってた。そう見えたのは、いつもより夕日が赤かったせいかもしれないけど…
 ぼくの彼女を見る目も、いつもと違ってた。こっちは間違いのない事実だ。
 そうして…
 そうして、ぼくのこわばった口から、言葉が。とてもぎこちない、ことばが…
 「フェリシア…」
 かすれた、いつもよりちょっと低い声。
 フェリシアはぼくの顔を見つめて、だまって続きを迫った。ぼく、なにかいいたくて、でもなにもいえなくて…
 彼女のくり色の髪はやわらかくて、彼女の背中は、からっぽでがさっとした服地の中の、思ったよりぼくに近い所にあって、彼女の胸はすこし硬くて、ぼくは、このために生きてきたような気がした。そうして、生まれて初めてこんな決定的な瞬間を味わうにしては、思ったより落ち着いてるな、と自分では思ってた。
 しかしそのとき…
 さくさくという足音。ぼくもフェリシアも、ものすごい早さでお互いを突き放したのさ。それはどきどきした!
 「よ、げんきか〜」のんびりした声がかかって。
 モラレスの困ったところは、恋だの、愛だのについて、この年になっても、まるでむとんちゃくなところなんだ。ぼくとフェリシアの間に妖しく燃え上がった情熱は、うそのように消えうせてしまったけど、友達だったから、ぼくはモラレスのこと、ちっとも邪魔に思わなかった。
 フェリシアはなにか、しいてなんでもないようにふるまってるみたいに見えたけど…

 「お嬢様、そこは、こう、横殴りに剣を振らずに、まっすぐ思いきり振り落としたほうが、断然効果的でございます」  
 「こう?」
 「そうです、うまいうまい」
 二人が、カミュとフェリシアが、夕暮れのスズカケの下で剣の稽古のおさらいをする光景。
 ぼくは、ぼくの心は、まるで、焼けた砂の上のトカゲみたいに、あせりと、あきらめと、悲しさでいたたまれない!
 ああ、身分もわきまえず、恋なんか、するものじゃあない!カミュは騎士。フェリシアも騎士。カミュはぼくが見ても欠点のない、明るくたくましく、自信に満ちあふれたきれいな若者で、フェリシアは貧しさも飢えも汚れも知らない、生き生きと美しく優しい娘。
 二人の、微笑ましく満ちたりたひとときを目にして、貧しい家に生まれ、暗黒の死人使いを目指すぼくは、ぼくには、それを見守る以外に、なにができるというのだろう。
 フェリシアの目は、もう、ぼくのことなんかまるで見ていない。カミュ。ああ、ああ。

 パーチクの心は、当時楽しかったことは楽しく、つらかったことはつらく、悲しかったことは悲しく、当時のままを感じ、閉じたパーチクの目からは、涙が…
 ネーコの身体は、フェリシアの思い出に乗っ取られて、あおむいたまま、優しく彼を見つめています。


 カミュのなきがらに取りすがってフェリシアは泣いていた。はなたらしの小娘みたいに、わあわあ。ぼくも悲しかったし、彼が死んだ原因が、ぼくたちの若さゆえの無鉄砲さにあることもまた、ぼくたちの心を痛め付ける短剣となり、気持ちを水銀のように重くした。でも、ぼくたちはまだ生きてる。いまは生き続けることが肝心だ。
 「フェリシア」
 ぼくは話しかけた。おそるおそる。彼女の滑らかな背中をなでながら。こんなときでなかったなら、この感触は天国の天使の羽根をなでるよりも幸せな手触りとして、ぼくの頭をしびれさせただろうに…
 「帰ろう、いまならまだ帰りつけるよ。カミュには自分で歩いてもらおう。ぼくの術で。出直そう!討伐軍に入ろうよ」
 フェリシアは激しいそぶりでぼくの方へ振り返った。ぼくの目は思わず大きくなった。(こわかったのさ)
 「あなただけ帰りなさい。わたしは騎士!口づけした人を死なせて自分だけ帰るわけにはいかないのよ!」
 騎士ではないぼくは、暗黒の死人使いであるぼくは、この、仲間であるぼくに対しての、騎士ではないぼくに対しての、ぼくの無力さを思い知らせる意図しない残酷な言葉に、かつてない怒りを覚えた。
 いまなら彼女の若さだと済ませられたことが、あのときは怒りを生みだした。ぼくも若者だったから。残酷なフェリシアに対して、残酷なパーチクになろうと思った。残酷な騎士の階級に、残酷で報いることを思いついた。彼女に騎士であることを苦痛に思わせるために、いま、この瞬間だけ、自分だけが認める騎士になる決心をしたのさ!
 乱暴にカミュの死骸から彼女を引き離した。いわれのない怒りが、ぼくに本物の騎士のような力をもたらした。狂気の力を。彼女の両腕をおさえて、顔に顔を押しつけるようにして、ひどくおどろいた彼女にこう言ってやった。
 「そうさ!さげすめばいい!きみのいうとおり、ぼくは騎士じゃない。死人使いだ。でも、きみに対してはたったいまから騎士だ!口づけした人を死なせはしない!」
 彼女の、思ったより冷たく柔らかい唇と、その下にあった硬い前歯。ぼくは忘れない!あたたかい、あまい、せつない、悲しい、痛い、そして必死な、受け入れられることのない口づけ。眠りの魔法。初めて使った非言語魔法…
 あの時。眠る彼女をカミュのなきがらに背負わせ、ナイメ森を脱出したときのことは、思いだせばいつでも、ぼくの心を重くする。

 ・・・


 悪魔神官ゴルグリヒは、見たかぎりおとなしげな、寂しそうな顔をした、悪の面影など全く感じられない老人だった。そう、親しみさえ感じるほど。ただ、自分の禁欲を全世界に強要しようと思ったことが、そして、それをできるだけの力を持っていたことが、彼の悪名を恐怖と嫌悪とともに、永劫に歴史にとどめる結果を生んだ。
 ぼくが討伐軍の兵士たちの先頭に立ち、ゴルグリヒの城の、彼の部屋に突入したとき、そこには、すでにフェリシアが、どうやって入ったのか、剣を抜き、玉座にかけるゴルグリヒの正面に、みじろぎもせず構えているのが見えた。
 物語のさし絵のようだった。モラレスの仕立てた革の防具は、ここに至るまでの戦いに破れはて、なめらかな背中があらわに、白い肩がまぶしく、包まれることを夢に見たやわらかなたなごころは血に。
 「フェリシア!」
 ぼくは呼びかけた。
 「さがって!あとはぼくたちが!」
 フェリシアはふりむきもせず、答えもしない。
 かわってゴルグリヒが、誰にいうともなく話をはじめた。
 「諸君、餓えにおびえ、生活に追われ、時間にさいなまれ、醜く悩む生者たちよ。なにゆえに、悩み多き、苦多き、酬われぬ生にこだわるや?生にあるは、風化と焦燥のみ。煩悩から興る悲しみのみ。なにゆえに、悲しみを好むや?ここな乙女を見よ!いま、ようやく生ゆえの、悲しみと苦しみに別れを告げたるなり!永遠の怠惰を得たり!見よ、この恍惚を!」
 フェリシアが、ゆっくりと振り向いた。こちらを。
 顔がまっしろで、表情が、なかった。
 きらきらして、見ていて楽しくなるはずだったおおきな瞳は、息をふきかけて曇ってしまった雲母のよう。
 愛らしい明るい声で言葉が生みだされるはずだったくちびるは、血の気を失い、粘土にへらで切り込んだ切れ込みのように冷たく。
 温かく、豊かだった胸の膨らみは、美しいけれど、ただそれだけの冷たい肉塊に。そして…ぼくが見ることを許されず、夜ごと夢にあこがれたなだらかな腹には、無残にも深々と短剣が差し込まれていた…ひどい傷口!…
 そう、フェリシアはもう、死んでいたんだ。
 ぼくの衝撃!カミュが彼女にキスするのを見たときの衝撃の、何倍の…



 「フェリシ…」
 ぼくの声は、きっと、声になってなかったと思う。ぼくと一緒になだれ込んだ、フェリシアを知らない騎士や兵士たちも、あとで、「きれいで、冷たくて、…とにかく、一生忘れられないいやな一瞬だった」って口々に語ったくらいの、きれいで、しかも悲しい姿だったんだ。
 フェリシアは無表情に剣を振り上げると、ぼくに向かって振り下ろした。虫けらをつぶそうとするときのように。ぼくは必死にかわした。生きてるフェリシアに一人の男として斬られて死ぬのならいいけど、虫けらみたいにフェリシアの死骸に斬られて死ぬのなんか絶対にいやだったから。だって、ゴルグリヒに斬られるような気がするじゃない?そんなことをとりとめもなく考えながら、彼女の冷たい口許を見るうちに、こんどはたまらなく、悔しくなってきた。
 彼女の剣には、もう、生前の鋭さがなかったけれど、それでもぼくにはかわすことは一苦労で、だんだん疲れてきた。疲れと悔しさで、どうでもいいやという思いがぼくをとらえ、とうとう彼女がぼくの頭を狙って振りおろす刃の下に、飛び込んだ。
 剣は、ぼくの頭をそれて肩に食い込んだけれど、彼女の剣はここにたどり着く前にかなりの数の死せる騎士をよろいもろとも斬ってきていたので、完全に刃が全部欠けて飛んでしまっていたし、曲がってしまっていたから、肉は切れなかった。ぼくの肩の骨がぐしゃりという感じにたたきつぶされる音を聞いたような気がするけど、もうそのときにはぼくはフェリシアをしっかりつかまえていて、二人は床に倒れ込んだ。
 「ぼくの…フェリシア!愛してる!」
 最後の「愛してる」は、フェリシアの口に押し当てた言葉だったから、音にはなっていなかったはずだ。
 フェリシアの身体から力が抜けてゆき、ぼくは一瞬、愛の力が奇跡をもたらしたのかと思った。なんて虫がいい!…しかし現実には、その時、たくさんの戦友の死を踏み越えて、一人の騎士が結界を突破し、ゴルグリヒの頭をその剣の一撃ではねとばしていたんだ。結果としてフェリシアの死骸を操る力が消えたのさ。
 でも、でも次の瞬間起こったことは本当だ。説明ができないけど真実だ。彼女の顔が一瞬光を取り戻し、彼女の目がぼくを見つめた!
 目がすわり、ほおが引きつり、口が笑ってるみたいに、猫みたいに切れ上がると(ぼくは別のところでもこの表情をみたことがある。絶体絶命のピンチに出くわして必死に戦ってる兵士が、やっぱりこんな顔をするんだ。みんながみんな…)、ぼくの耳に彼女の声が!

 「だいきらい!ゆるさない…」


 一人の優しい兵士が、フェリシアの死骸にすがって泣き続けるぼくを抱き起こした。彼らにはフェリシアの言葉は聞こえなかったろう。でも、それが、ぼくの魂の苦しみが始まった瞬間だったのさ。

 「フェリシア、愛してる!ずっと!醜く生きさらばえたいまだって、若くて希望にあふれてたあの時だって!
 こわかったんだ!きみの口から本当のことを思い知らされるのが!身分を思い知らされるのが!」
 パーチクは血を吐くようにつぶやきました。ネーコの手はまだ彼の顔を押さえたままです。ネーコの声が…
 「違う。あなた、昔からそそっかしいのよ…そそっかしくて、思い込みが激しすぎるの…わたし、身分なんて、気にしてなかった。気にしてたら、あなたに向かって騎士が…なんて無神経なことは言わない!
 それに、いわなくてもわかってたもの。あなたの気持ち、わかってたもの!あなたがそんなに身分を気にしてたのはわからなかったけど…それでね、あの時、あなたに向かってわたしの死骸が口にしたっていう言葉は、わたし、いった覚えないわ。現実じゃないわ。あなた、肩の骨が砕けた痛みで気をうしなったのよ。そのときなんて叫んだか、覚えてないでしょ!私は怠惰の世界から、すべて見て知っている。本当のあの瞬間を知っている。きっと、あなた、その間にかってに思い込んだんだわ。自分のうしろめたさから、わたしがあなたを呪ったと。カミュの死について、あなたにはできないことまであなたのせいだと気に病んでたのね。思い込み激しいんだから!…ちっとも怠惰じゃない!…それでその夢を現実と勝手に思い込んだ…」
 「違う!きみの憎悪は…」いいかけたパーチクの口をネーコのふさふさの手が塞ぎます。
 「わたしがあなたを憎んだように見えたのは、(半分は憎んだけど、)あなたがわたしのくちびるを、あんなときになってから、いまさらみたいに奪ったから。どうして、あの夕方のスズカケの下で奪わなかったの?モラレスが来る前に奪っちゃえばよかったのに、そうすればわたし…なんて思ったから。少し腹が立って、ムカムカして…ちょっと冷たくしただけなのに、あなたには一大事だったのね…でも、カミュを埋葬してから、あなたにも恐れられて、ひとりになっちゃって、どうでもよくなってゴルグリヒの宮殿に攻め込んで、もう身体が動かなくなっちゃって、おさえつけられておなかに短剣を差し込まれたとき、とっても楽になった。最初はすごく痛くて、怖くて、大声で叫んだ。でも、つぎにとっても楽になった。ゴルグリヒのいってたこともまんざらでたらめじゃなかったわ。
 そして、あなたのこと、カミュのこと、勝手にわたしのこと持ち物にしたがったあなたたちのこと、かわいそうになった。
 あなたたち、たかがわたしごときのために、あんなに真剣に、そそっかしい思い込みをしながら、必死に生きてたんだ。わたし、そんなこと死ぬまで思いつきもしなかった。わたしもそそっかしかった。
 でもやっぱり、一番そそっかしいのはあなた。ウフ、あなた、わたしの死骸抱きしめて、気絶する前に、アハ、なんていったか、忘れてるんだから!アハハ、アハ、アハハ、クスクスクス、く、くるしい…ネ、ネーコの身体が窒息しちゃうわ、わたしったら、死人のくせに、笑うなんて…ヒ、ヒ、あ、あなた、あんなに真剣に叫んだあのことばを忘れるなんて…」
 パーチクも笑いだしました。くすくす。肩が震えています。とうとう上をむいて大きな声で笑いはじめました。
 「アハハ、アハハハハハ、思いだした!そうさ、ぼくは、アハ、アハハ、なんて…ヒヒヒ…ククク…そそっかしいんだろう、へ.へ.へ.アハ、アハ、アハハ、自分で言ったこと忘れるなんて…ハ・ハ・ハ…あんなに思いつめて叫んだのに…ほんとにきれいに忘れてた…ハア、ハア、ハア、「ああ、怠惰よ、ぼくを永遠に拒み、土くれと化した後までも永劫の悲しみに封じたまえ!」だなんて、怠惰に拒まれ、永遠の悲しみに支配されたら、死ねるわけないよね!これ、ゴーレムに自分の魂を閉じ込める呪いの呪文を自分にかけてたことになるんじゃないか!ボクのからだ、ゴーレムのようなものだったんだ!自分の面影の…あはは、自分に呪いをかけてたなんて、忘れてた…エヘ、エヘ、エヘ…ぼくが年取って一回死んだときにあの言葉が、はずみで言ったあの言葉が、自分への呪文として、効力を顕わしたんだ!うふ…な、なんだ!あははは…は、は、そ、そうすれば、ちゃんと魂を…扱えたってことじゃない…怠惰にしなければいいんだ!なんてかんたんな…巨人だってそういってたのに…は…ははは…それなのに…ひ‥ひ…ひ…あ、扱えないなんて…難しく考えすぎてて…げほ、げほ、自分の死骸まで扱えるなんて、や…やっぱり…あは…ぼくは…そそっかしくて偉大な死人使いさ!えへ…ぐすっ…う…う」
 笑い声がいつの間にかすすり泣きに変わり、パーチクはネーコの上にかがみこんだまま、ネーコのほおをなでながら、そのまま泣きじゃくってしまいました。ネーコは、いや、ネーコの身体を借りたフェリシアは、困ったような微笑で、彼の、涙でみっともなくなった目を見上げていましたが、やがて、優しく言いました。
 「かわいそうなパーチク、やっと、魂が自由になれるのね…そそっかしいパーチク…わたしの好きなパーチク…」
 ネーコの手が、パーチクの顔を引き寄せて、ネーコのくちびるが、フェリシアの唇としてパーチクの唇に重なると、パーチクの身体が光を吸い込みはじめ、暗くなってゆき、色を失い、ネーコの身体の上にかぶさるように崩れ落ちました。土くれとなって。

 パーチクとキスをする恥ずかしくもうれしくも、どこか重苦しい夢の最中に、だしぬけに身体に加わった重さにネーコがびっくりしてはね起きると、さっきまでパーチクだったものは、ただの土の塊として、ネーコの身体の上に積もっていたのです。
 「やだ!パーチク!パーチク!いかないで!」
 ネーコの叫ぶ声がむなしく響き、さっき土の中から現われたフェリシアの像が、音もなく崩れました。

20. そしてネーコは・・・