Charles Bronson
| プロフィール | |
| 生年〜没年 | 1921年11月3日 |
| 出身地 | アメリカ・ペンシルヴェニア州エーレンフェルド生まれ |
| 映画デビュー作 | 赤い空 |
| 主な経歴 | 炭坑夫の父の元、14人兄弟の七番目として生を受ける。ハイスクール卒業後、炭坑夫として働く。1943年、22歳で空軍に入隊し、B29の射撃手として東京空襲にも出撃している。第二次世界大戦後除隊。ニューヨークに渡り、本格的に演技を学ぶ。下積み時代の49年に女優ハリエッド・テンドラーと結婚。そして51年、『赤い空』で映画デビュー。この時、既に30歳。54年、ャールズ・ブチンスキーのまま本名で出演していたが、FBIによる赤狩りを危惧しハリウッドにあるパラマウント・スタジオの「ブロンソン・ゲート」からヒントを得てチャールス・ブロンソンに変名。58年の『機関銃ケリー』でついに主役に抜擢され、TVシリーズ『カメラマン・コバック』でも主役を張った。そしてデビューから9年後の1960年、『荒野の七人』で、孤高の雰囲気と子供を庇って死ぬカッコ良さはスター街道の幕開けとなった。63年の『大脱走』そしてさらに68年、『さらば友よ』でアラン・ドロンと共演、人気を世界的なものにする。75年の『ブレイク・アウト』で史上初の100万ドル・スターとなり、この記録はギネスブックにも掲載された。また私生活では1965年にハリエッドと離婚、1968年に元モデルで女優のジル・アイアランドと結婚。多数の共演作を連発する。1990年、69歳の時に生涯の伴侶ジルを乳癌で亡くし、ついに自らも引退宣言。98年12月、なんと77歳で39歳下の女優キム・ウイークと三度目の結婚。 2001年11月、80歳になったブロンソンがアルツハイマー病を患っている事が発表された。新聞記事によると、1999年に症状が表れて2000年に医師から病名を宣告された。 |
| 年代 | 作品名 |
| 1952年 | 赤い空 |
| 1953年 | ホンドー |
| 1953年 | 平原の落雷 |
| 1953年 | 肉の蝋人形 |
| 1953年 | 雨に濡れた欲情 |
| 1954年 | 勇者の汚名 |
| 1954年 | ヴェラクルス |
| 1954年 | 太鼓の響き |
| 1954年 | 攻撃目標零(ゼロ) |
| 1954年 | アパッチ |
| 1955年 | 真昼の脱獄 |
| 1955年 | 去り行く男 |
| 1957年 | 赤い矢 |
| 1958年 | 機関銃(マシンガン)ケリー |
| 1959年 | 戦雲 |
| 1960年 | 荒野の七人 |
| 1961年 | 独立騎兵隊 |
| 1961年 | 空飛ぶ戦闘艦 |
| 1962年 | 恋のKOパンチ |
| 1962年 | テキサスの四人 |
| 1963年 | 大脱走 |
| 1964年 | マードックの拳銃 |
| 1965年 | バルジ大作戦 |
| 1965年 | いそしぎ |
| 1965年 | 雨のニューオリンズ |
| 1967年 | 特攻大作戦 |
| 1968年 | 戦うパンチョ・ビラ |
| 1968年 | 大砂塵の男 |
| 1968年 | サン・セバスチャンの攻防 |
| 1968年 | さらば友よ |
| 1968年 | ウエスタン |
| 1969年 | おませなツインキー |
| 1970年 | 夜の訪問者 |
| 1970年 | 扉の影に誰かいる |
| 1970年 | 狼の挽歌 |
| 1970年 | 雨の訪問者 |
| 1970年 | アドベンチャー |
| 1971年 | レッド・サン |
| 1972年 | メカニック |
| 1972年 | バラキ |
| 1972年 | チャトズ・ランド |
| 1973年 | シンジケート |
| 1973年 | さらばバルデス |
| 1974年 | 狼よさらば |
| 1974年 | マジェスティック |
| 1975年 | ブレイクアウト |
| 1975年 | ストリートファイター |
| 1975年 | 軍用列車 |
| 1976年 | 特攻サンダーボルト作戦 |
| 1976年 | セント・アイブス |
| 1976年 | 正午から3時まで |
| 1977年 | ホワイト・バッファロー |
| 1977年 | テレフォン |
| 1979年 | 太陽のエトランゼ |
| 1982年 | ロサンゼルス |
| 1984年 | 地獄で眠れ |
| 1985年 | スーパー・マグナム |
| 1986年 | 必殺マグナム |
| 1988年 | メッセンジャー・オブ・デス |
| 1989年 | バトルガンM−16 |
| 1991年 | インディアン・ランナー |