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ぐるり気ままに 文学紀行

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――< 日本編 >――

――< 海外編 >――
★掲載写真は筆者撮影(注釈のあるものを除く)★


パリ(Paris)  カフェ「ドゥ・マーゴ」
戦後のベビーブームの時期に生まれ、1970年前後に学生時代を送った当時の 私にとって、海外旅行など夢のまた夢。パリなど遠くの未知なる世界でした。 ところが大学生になったばかりの1968年5月、私の目は連日テレビニュース に釘付けになりました。パリのソルボンヌ大学で、集会中の学生と警官隊が 衝突したのです。これに先立つ3月にはパリ大学ナンテール校で、大学側の 寮の管理強化に反発する学生の校舎占拠事件が起き、紛争の火種となってい たのです。

当時はベトナム戦争の真っただ中。アメリカで起きたベトナム反戦運動の 動きがイタリアや西ドイツでも起こり、瞬く間に各国の学生運動と連携。パ リでは5月10日、世界中から留学生が集まる町カルティエ・ラタンが学生に より占拠され、警官隊と衝突。石畳がはがされ、石が飛びかいました。古い 体制への反発と反権力を鮮明にしたこの紛争は、学生運動の枠を超えて労働 組合にも波及し、ゼネストが行われ、本格的な社会変革闘争へと発展したの です。

その結果、フランスではド・ゴール大統領が退き、高等教育基本法が制定さ れ、大学の学部制が廃止され、パリ大学は解体されて13の独立した大学に改 編されました。「パリの五月革命」と呼ばれたこの出来事は、さらに日本の 学生運動を刺激して、日本でも瞬く間に全国の大学で学園紛争が吹き荒れる ことになります。東大安田講堂占拠事件や私のいた福岡では、九大構内に米 軍の偵察機ファントムが墜落炎上し、学園紛争が激化しました。否が応でも 何かしら落ち着かない、強い刺激を受けずにはおれない学生時代を送りました。

そんな思い出のあるパリに50歳を過ぎていくことになって、行きたいところ が多すぎて困りました。個人旅行なので行き先もルートも自分で決めます。 パリの中心部は、東京山手線の環状内にすっぽり入る大きさだそうですから、 数日滞在して西・東などに分けて歩けば、十分見て回れる広さでした。

パリの街を自分の足で歩いて回ると、何といっても目に付くのはカフェの多 さです。大きく開いた窓、テラスにせり出した日除けの下にはテーブルと椅 子が並び、開放的な空間を作っています。セーヌ川左岸、つまりパリ第5・6 区の大学街など先進的なエリアを歩き回った日、最後の目的地はカフェ「ド ゥ・マーゴ」でした。パリのカフェは17世紀半ばに登場し、人々の生活の一 部となったばかりでなく、芸術家たちのサロンの役割も果たしたといいます。

ノートルダム寺院を見て、サンジェルマン大通りをしばらく歩くと、古い教 会サン・ジェルマン・デ・プレが姿を現します。その正面にあるのがドゥ・ マーゴです。セーヌ左岸にはカフェ「ドーム」「ドゥ・フロール」「ロトン ド」など、歴史的に有名なカフェが軒を連ねています。カフェ巡りはパリ旅 行の楽しみの1つかもしれません。

オルセー美術館
雨にけむるセーヌ河畔とオルセー美術館
PARIS
雨に濡れるカフェ・ドゥ・マーゴ 上階はアパルトマン

そんなカフェが最も活気を帯びていたのは、第1次世界大戦後の1920年から 30年代といいます。当時パリにはアメリカからも多くの青年が集まっていま した。ヘミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルドなどの「ロスト ・ジェネレーション」と呼ばれる人々です。その中のヘミングウェイはトロ ントの新聞「スター・ウィークリー」特派員として1921年からパリに滞在。 ドゥ・マーゴの常連となり、創作活動を始めています。後にドゥ・マーゴの 上階のアパルトマンにはサルトルとヴォーボワールも住んで、カフェは書斎 代わりだったとか。

ヘミングウェイの作品「移動祝祭日」(今村盾夫 訳)の一節・・・

 「もし若いときにパリに住む幸運に巡り会えば、後の人生をどこで過ごそ
  うとも、パリは君とともにある。なぜならパリは移動する祝祭だから」

パリには国境や人種を超えて、若い情熱を虜にするなにかが確かにあるよう です。ドゥ・マーゴやすぐ近くにあるドゥ・フロールには、バルザック、モ ーパッサン、ゾラ、サガン、アポリネール、ピカソ、カミュなど、私たちも 名を知る文学者や思想家、芸術家がたむろして、思索にふけり、議論にあけ くれ、情報を交換し、批判が生まれた場であったようです。パリのカフェは 単にお茶を楽しむ場所ではなく、際限ない議論の場であり、ジャーナリズム の生まれる土壌ともなったのでした。

さまざまな日本人もまた、パリに足跡を残しています。1931(昭和6)年末、一 人パリ北駅に降り立ったのは林芙美子。当時すでにベストセラー作家だった 芙美子はホテルやアパートに滞在し、芝居・音楽会・美術館・オペラに通い、リュクサ ンブール公園、モンパルナス、カルチエ・ラタン付近など、セーヌ左岸を散 歩してまわり、約半年とはいえ28歳の多感な時期をパリですごしています。

芙美子より先だつ1923(大正12)年、パリ在住の画家藤田嗣治のアトリエを19 歳の海老原喜之助が訪問。1929(昭和4)年、今度は海老原喜之助を頼って渡 仏した同郷鹿児島の中学の同級生で画家の吉井淳二は、パリ・モンパルナス のカフェ「ロトンド」で海老原と再会しています。このとき海老原は吉井を パリ仕込のキスで出迎えたそうです。彼らの滞在した建物もカフェも当時の ままに残って、現在も使われています。

PARIS3
左:海老原の住んでいたアパルトマン。  右:カフェ・ロトンド

三島由紀夫が初めてパリを訪れたのは、27歳のときでした。このとき三島は、 冬のヨーロッパの陰鬱な風景に気を滅入らせたようです。若き日の三島はフ ランス文学の影響を強く受け、特にレイモン・ラディゲに傾倒し、また映画 を思想の表現手段とした詩人ジャン・コクトーにも傾斜したようです。のち の1960(昭和35)年12月15日、三島由紀夫(夫妻)は案内役の朝吹登水子とカフ ェ「ドーム」で待ち合わせ、近くの小劇場の稽古場でジャン・コクトーと会 っています。このときコクトー70歳でした。

ドゥ・マーゴの椅子にゆったり座り、正面のサン・ジェルマン・デ・プレ教 会を眺めながら、コーヒー片手に至福のときを過ごす。これを楽しみに雨 の中を歩き回ってやっとドゥ・マーゴに到着。回転ドアを押して中に入ると、 何と店内は満席。雨降りなので人々は悠然と腰を落ち着かせ、おしゃべりに 夢中になってお茶の時間を楽しんでいます。

しばらく待ちましたが、順番待ちも多く、席の空く気配なし。とうとう諦め て出ました。テラスに並んだ椅子やテープルが雨に濡れているのを恨めしく 眺め、絶対また来るぞ!とつぶやきながらホテルへ向かいました。近道しよ うと途中裏通りに入ると、真冬なのに超ミニ姿で脚線美を見せ、濃い化粧の 若い黒人女性が街頭のあちこちに立っています。夕暮れ迫るパリはもう昼間 とは違う顔を見せ始めていて、驚いて足早に表通りへ戻りました。(2004年7月17日)
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ストラットフォード・アポン・エイヴォン シェイクスピア 生誕地
シェイクスピアの生まれ故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォン訪問は、 ヨーロッパ旅行最後の1週間のイギリス滞在に組み入れました。ドイツの首都 ベルリンのテーゲル空港から飛んで、お昼過ぎにロンドン郊外のヒースロー空 港着。リムジンバスで最寄りの国鉄駅レディングへ移動し、そこから列車を利 用しました。

レディングにはストラットフォード・アポン・エイヴォン行の直行便も停車し ますが、到着したときにはもう出たあとでした。次の直行便まで1時間半待つ と日が暮れるので乗り換え便を利用。マンチェスター行急行に乗りレミントン ・スパでアポン・エイヴォン行に乗り換えました。古びた2両編成のいかにも ローカル列車という趣で、乗客も十名ほど。出発前に運転手さんが乗客に行先 を聞いて回り、乗降客のない駅はそのまま通過してしまいました。

その日の宿はその日に探す方法のヨーロッパ旅行でしたが、アポン・エイヴォ ンは到着が夜になるので、日本を発つ2日前にインターネットでB&Bを検索し、 部屋の写真まで載せていた駅から6〜7分のところに予約していました。案の定、 移動中に日没となり、地図を片手にB&B「ハムレットハウス」を探し出したの は夜の7時。ベルリンのペンションを出発して10時間後です。でもあの大都会 からイギリスの小さな町まで10時間で移動できたのは、早いともいえるし不思 議な気持でした。

B&Bは自宅の2階4部屋が客屋で、朝食は1階の食堂。オーナーでもあるこの 家の奥さんが、温かい朝食を作ってくれます。食堂は玄関横の10畳ほどの広さ。 出窓があり、テーブルが4つ置かれ、調度品もファブリックもテーブルセッ ティングも凝っていて、奥さんのセンスが感じられました。部屋のいたるところに ここに泊まった世界中の客からの手紙や葉書や写真も飾ってありました。ここに2泊するの で2日目は丸1日、たっぷりアポン・エイヴォン散策を楽しむことができます。

ストラットフォード・アポン・エイヴォンは1日あれば歩いて回れる、小さな 町でした。朝食後さっそく外出。ヨーロッパの旧市街地がそうであるように、 町の中心には広場があって、日曜日のその日、早朝から市が立ってにぎわって いました。近くの農家から野菜・果物・ハム・ソーセージ・チーズ・花などが 持ち込まれ、屋台に並んでいました。周辺は観光客目当てのお土産屋さんもひ しめいています。

そこから歩いて数分のところに、シェイクスピアの生家が保存されています。 木組みの柱がむき出しで、茶色の土壁と赤い屋根瓦が印象的な、二階建に屋根 裏部屋のある大きな家です。生家の隣にはシェークスピア・センターがあり、 そこで12ポンド(当時のレートで約2,280円)払ってチケットを購入。その1枚で 生家のほかに孫娘の結婚相手のナッシュの家、シェイクスピアの妻の実家アン ・ハサウェイ、義理の息子の家ホールズ・クロフト、実母の実家メアリ・アー デンなど5カ所の家を見学することができます。

シェークスピア生家
シェークスピア生家(裏庭より見たところ)
ニュープレイス
ニュープレイスから望む古い町並み
シェイクスピアの生家はもちろん、どの家も中まで見学できますが、調度品や 小道具など、約450年前の当時のものがそのまま置かれていました。これらの シェークスピアゆかりの施設は「シェークスピア・バースプレイス・トラスト」 の管理により、入念な保存と展示が行われています。生家に隣接するセンター にはシェイクスピア関連の資料コレクションがあり、研究者専用のスタディー ・センターもあるそうです。生家には世界中から年間数十万人の見学者が訪れ るということです。私の行った日も大勢の観光客でにぎわっていました。

町にはほかにもシェイクスピアが1564年4月26日に生誕洗礼を受けたホーリー・ トリニティ教会、15世紀後半築のギルドチャペルのタワーと隣接するグラマー ・スクール、ファルコン・ホテルなど400年以上前の古い建築物がたくさん並ん で、中世そのままの町並みを形成しています。生家など見て回った古い建物の 木の床は少し傾いているし、足下でギィと鳴りますが、単に保存されているだ けでなく、ちゃんと機能しているのには驚きました。

シェイクスピアは劇作家ですから、作品を読むというより演劇を見ることが主 眼だと思います。そういう意味では私は日本人演ずる「ハムレット」の舞台を 1回観たきりです。「リア王」「オセロ」「マクベス」などは映画化されたも のをテレビで観ただけですから、あまりシェークスピアの作品については語れ ません。

シェイクスピアは18歳の時、26歳の女性アン・ハサウェイとできちゃった結婚 を余儀なくされます。その後次々に子供が生まれ、家族を養うために彼は妻子 をストラットフォードに残してロンドンに移り、俳優兼劇作家として活躍しま す。シェイクスピア最初の作品「ジュリアス・シーザー」が上演されたのはテ ムズ河畔に建てた「グローブ座」でした。木組みと漆喰仕上げの白壁、茅葺き 屋根を持つ円形の独特の形のグローブ座。それを忠実に再現して、新グローブ 座が1998年にテムズ川南岸にオープンしています。

ストラットフォードの町はゆったりと流れるエイヴォン川の北岸に発展してい て、河畔にはエリザベス朝の演劇スタイルが体験できるというスワン・シアタ ー、そしてシェイクスピア劇の本拠地ロイアル・シェイクスピア・シアターが 並んで建っています。本当のシェークスピア劇を堪能するには、こういう劇場 やロンドンのグローブ座で、英国人の英語による舞台を観ることでしょう。言 葉の壁もありますが、一生に一度は本場の劇場でシェイクスピア劇を観たいと、 強く念じています。

近年シェイクスピア作とされる作品が、本当に彼一人で書かれたのかという疑 問が提示され、多くの議論がされたのは記憶に新しいところです。シェイクス ピアは常に早く脚本を書く必要があり、時には他の作家と共作したり、いろん な詩や他の作品から啓発されて劇を構成したり、演出したりという日常だった ようです。作品にムラがあると指摘され、結果的にそれが疑問視されたという 事情もあったようです。

それはともかく、ハムレットの「生きるか死ぬか、それが問題だ」というセリ フはあまりにも有名ですが、シェイクスピアの創造した新しい言葉や表現は 3,000ほどあり、多くが引用されて、それが今では常套句となって日常的に使 われているそうです。人間の行動や心理の動きに裏打ちされた言葉・セリフが 普遍性を持つからこそ、シェイクスピアの作品の数々は現代でも通用するし 支持されているのでしょう。シェイクスピア劇が今も世界中で上演されている 秘密は、そのあたりにありそうです。(2004年6月17日)
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上海  「吶喊(とっかん)自序」魯迅
鹿児島あるいは福岡から東京へ行くのと上海へ行くのは、どちらが近くて安 いか。その答えは上海です。鹿児島=上海までの飛行時間は、鹿児島=名古 屋にほぼ同じ。九州から見た場合、東京よりソウルや上海のほうが断然近い ことは、地球儀を見れば歴然としています。その上海へ昨年夏新疆ウイグル への旅の途中に立ち寄り、魯迅記念館と旧居跡を訪ねました。

中国の友人の手配してくれた車に乗り、運転する人が日本語のわかる友人を 通訳として同行してくれたので、とても助かりました。国内線空港横のホテ ルを出発してハイウェイを北上するとだんだん渋滞してきました。上海観光 のメッカ外灘地区に入ったのです。摩天楼の林立する近未来的な大都会上海 の様相に、目を見張るばかりです。

ここを抜けてハイウェイから一般道へ入り、さらに北方向へ走ると、急に庶 民的な生活の匂いのする古い街並みに入りました。道路は狭く、人は多く、 舗道が道路より一段高くなっていて、道路に面して商店や住宅がずらりと建ち並ん でいます。何だか見慣れたような街だと思ったら、ここは戦前日本人の居住 区だったそうです。70年ほど前まで、魯迅もここに住んでいたのです。

道路標識で魯迅記念館をたどりながら、ゆるゆる走ると、ありました。駐車 場などないので、適当に近くの路上に駐車。大きな門を入ると、植栽の向う に白壁の堂々たる建物がありました。上海魯迅記念館です。1人5元払って 中に入ると、人はまばらで、ゆっくり見てまわることができました。魯迅の 生涯と活動が写真や遺品などで展示されています。世界各国で翻訳出版され た魯迅の本が、壁全面を埋め尽くすコーナーは壮観でした。

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上海魯迅記念館 入口
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魯迅記念館内部
約22万平方メートルあるという広大な魯迅公園には、魯迅記念館から歩いて 10分ほどの奥まった緑豊かな一角に、椅子に座した魯迅の像と、お墓もあり ました。周囲の植え込みはよく手入れされ、泰山木が訪れる人たちに涼しい 木陰を落としていました。公園内にはあちこちに人だかりができて、得意の 楽器を演奏したり歌ったり踊ったりする人、それを見る人、思い思いに楽し んでいるようでした。

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魯迅の銅像 後方に廟がある
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公園で休日を楽しむ人々

魯迅記念館から歩いてさほど遠くない場所に、魯迅が晩年をすごした赤煉瓦 の旧居が保存されています。私たちが午後4時3分に到着すると、あいにく 開館は4時まで。鉄の門扉はもうピッタリと閉じられていて、同行の中国の 人が門を叩けどむなし。 諦めて外観を写真に撮ってそこを離れました。

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魯迅旧居
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魯迅旧居横の道路(旧日本人街の一角)

近くには「上海特色街」と称して、魯迅が暮らした当時の街並みが再現され、そ の一角には魯迅が足繁く通った内山書店跡もあるはずですが、見過ごしました。

魯迅は1902年、20歳で日本に留学し、東京の弘文学院に入学しますが、のち 医学の勉強のため仙台医学専門学校に入学、2年後退学して東京へ戻り、28 歳で帰国するまで7年半の青年時代を主に東京で過ごしました。魯迅が医学 を志したのは、漢方医に頼って病気の父を早く亡くした経験から、西洋医学 を学び中国の病人を救いたいからでした。しかし在学中ある一枚のスライド を見たのがきっかけで、文学へと方向転換します。

そのいきさつは作品集『吶喊(とっかん)』の「自序」に詳しく述べられてい ます。医学から文学の道へと魯迅の一生を決したという一枚のスライド(写 真)が、魯迅記念館内の壁いっぱいに拡大されて展示してありました。今ま さに軍刀を振り下ろそうとする旧日本軍兵士、目隠しされ後ろ手に縛られひ ざまづき処刑されようとしている中国人、それを取りまき笑いながら見ている兵士たち。

中国人にとっては屈辱的な、日本人にとっては過去の日本軍の蛮行を見せつ けられるその写真・・・。この大写真の前では思わず足がすくんでしまいま した。この処刑場面については、魯迅は別の文章では銃殺とし、映画のニュ ースで見たとも書いていますが「医学から文学への転機を得た」点では一致しています。

『吶喊』は1923年に新潮社から出版され、「狂人日記」「阿Q正伝」など魯 迅の代表的な小説が含まれています。吶喊とは敵陣に突撃する時雄たけびの 声をあげること、だそうです。私は20代のころ高橋和巳訳で読みましたが、 冒頭の「自序」に書かれた文章は当時の私にとっては衝撃的でした。文学と いうものへの迫り方が厳しく強烈だったからです。

そして「狂人日記」や「阿Q正伝」は題名からして何やらおぞましく、読ん でも面白いわけではなく、それまで私が何となく憬れて読んできたヨーロッ パやアメリカの文学や日本の文学とも違う、何かのっぴきならない世界でし た。それはまた、私が中国に対して無知に等しい、乏しい知識しか持ちえて いないことの反映でもあったと思います。

かつて日本では、文学は男子一生の仕事ではないと言われていた時代もあり ましたが、現在では有名な文学賞を取ったりベストセラー小説を書けば、一 躍有名人としてもてはやされる時代です。売れるかどうかが文学の価値基準 となり、流行の激しいファッションと変わらなくなりました。

私は最近『吶喊』を竹内好訳で読み直しましたが、「自序」は今読んでも強 い、良い意味での緊張を感じます。魯迅がなぜ文学に向かったか、なぜ書こ うとしたか、何のため、何を書こうとしたのか、それを静かに伝えてくれる からです。そしてそれは文学という切り口で生き、外の世界と関わりたいと 願っている私のテーマとも重なっているからです。(2004年5月17日)
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ゲーテ街道  「若きウェルテルの悩み」ゲーテ
高校時代、図書室のある本棚にゲーテ著作集がずらりと並んでいました。シリーズ本や全集をまるごと全部 読んでしまうのが、当時の私の読書方法でした。 中学時代「若きウェルテルの悩み」を読んでゲーテに興味を持った私は、その本棚に挑戦しました。3年かけて 読みましたが、難しかったという記憶だけが残っていて内容はほとんど覚えていません。

それから35年経ってヨーロッパ旅行の機会ができた時、ドイツはゲーテゆかりの地を歩くことに決めました。 ドイツ観光といえば日本ではメルヘン街道やロ マンティック街道が有名ですが、ベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが統合したのを機に、ゲーテ誕生の地 フランクフルトから勉学の地ライプツィヒまでの 400キロが、新しい観光ルート「ゲーテ街道」として脚光をあびています。

ゲーテは自家用馬車でフランクフルトからワイマールを9回、ワイマールとライプツィヒ間を幾度となく旅して います。ゲーテ街道はフランクフルトを起点 に、ヴェッツラー⇒フルダ⇒アイゼナッハ⇒エアフルト⇒ワイマール⇒イェーナ⇒ライプツィヒまでを結び、 そのほとんどは旧東ドイツ内に位置しています。 私はフランクフルトからフルダ経由でワイマールまでのルートを列車でたどりました。

フランクフルトはドイツのほぼ中心にある金融都市で新旧の建物が入り混じった大都会です。ヨハン・ ヴォルフガング・フォン・ゲーテは1749年8月28日、 この町の裕福な家の長男として生まれました。その当時の家が現在でもゲーテハウスとして公開されています。 5階建ての立派なもので、書斎や台所・食堂 など当時のままに保存されています。

フランクフルトで神聖ローマ帝国ヨーゼフ二世の戴冠式が行われた際、当時15歳のゲーテはモーツァルトの 生演奏を聴いて感動したそうです。16歳でライプ ツィヒ大学へ入学、その後シュトラースブルク大学で法学の勉強を終えで22歳のとき帰郷します。23歳のとき 父の勧めに従いヴェッツラーの帝国高等法務院 に研修に出かけますが、そこで美しい娘シャルロッテ・ブッフと出会います。

ゲーテはシャルロッテに夢中になり、彼女の家を足繁く訪問します。しかし彼女は有能な法律家ケストナーと いう婚約者のいる身でした。苦しんだゲーテは ついに身を引いて、4ヵ月後にはヴェッツラーを去ります。その直後ゲーテは、人妻に恋した知人が苦悩と 絶望のあまりピストル自殺をしたことを知らされます。

知人の悲劇的な死と自分の経験したシャルロッテへの希望のない恋。また新婚家庭へ無邪気に出入して、 その夫から出入禁止を申し渡された自分の苦い経験 などを経て、フランクフルトに戻ったゲーテは「若きウェルテルの悩み」を書き上げ発表します。ゲーテ25歳の時でした。

「若きウェルテルの悩み」は書簡体で書かれた恋愛小説です。私は中学2年生のころ、主人公ウェルテルの 熱烈な恋心をドキドキしながら読んだものです。 ウェルテルの恋の相手は婚約者のいる家庭的なロッテという女性。その設定はゲーテの経験そのままですが、 ウェルテルはかなわぬ恋に苦悩して、ついにピ ストル自殺を遂げます。中学生の私は、死ぬほどの恋というものがよく理解できませんでした。

「若きウェルテルの悩み」は発表されるやヨーロッパで大評判となり、名声を得たゲーテは26歳のとき、ワイマール 公国カール・アウグスト公に招かれ、ワイマールに移り住みます。イルム公園内にあるガルテン・ハウスや広大な 邸宅などを贈られ、以後82歳で亡くなるまで、ゲーテはワイマールで行政官・大臣 などの要職のかたわら詩人・作家としても大活躍し、その生涯の大部分をワイマールで過ごしました。

フランクフルトからワイマールへ至る中間あたりに、中世の面影を残す都市フルダがあります。フルダは人口 6万人足らずの小都市ですが、8世紀以来修道 院を中心にして栄えた宗教都市としても有名です。市内を2時間も歩けば、フルダ大聖堂、 ミヒャエル教会、領主城館などバロック様式の堂々たる建築物を多く見ることができます。

フルダにはゲーテが旅の途中で常宿としたゴルデナー・カルプフェンという高級ホテルが現在も営業し、館内の レストランではゲーテが好んだ定食メニュー があるというから驚きです。

フルダからアイゼナッハ、エアフルトを経てワイマールへ到着。26歳のゲーテが到着した当時のワイマールは、 人口10万人の農業国ザクセン・ワイマール公 国の首都で、人口6千人ほどでした。現在のワイマールは人口6万人あまりの小都市ですが、教科書で必ず習う ワイマール憲法で有名な歴史的な地です。

ワイマール駅から20分ほど歩くと、フラウエンプラーン広場に面した所にクリーム色の壁の広大な邸宅があります。 これがゲーテが死ぬまで50年間住んだゲーテ・ ハウスです。1階には建物内に車庫がありました。そこにゲーテが旅に利用した大きくて立派な自家用馬車が実際 に置いてありましたが、その大きさや古風 な形に、200年前へタイムスリップしたような感激を覚えました。

ゲーテハウス
ゲーテ・ハウス
中庭
ゲーテ・ハウスの中庭
2階の17の部屋は書斎や寝室などが当時のままに保存されていて、ドイツの国民的詩人ゲーテが現在でも尊敬され、 大切にされていることが伝わってきます。 ゲーテ・ハウスの近くにはシラー・ハウスもあり、二人は友人でした。国民劇場の前の広場には、ゲーテとシラーが 並んで立った大きなブロンズ像が建って いて、目を引きます。ゲーテが大作「ファウスト」を完成させることができたのも、シラーの励ましがあったからだと いわれています。

ワイマール駅通り
この通りをまっすぐ上った所がワイマール駅
国民劇場前広場
国民劇場前に立つゲーテとシラーの像
2泊しただけのワイマールでしたが、落ち着きのある美しい町で、住みたいと思ったほど私の気に入りました。 しかし帰国したのち、ワイマール郊外にはナ チス時代にブーヘンヴァルト強制収容所が作られ、ユダヤ人や反ドイツ政治犯など5万6千人が虐殺されたと いう暗い歴史の一面があることを知り、愕然と しました。(2004年4月15日)
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ロンドン  「自転車日記」夏目 漱石
1900(明治33)年5月、熊本の第五高等学校教授夏目金之助(漱石)は、文部省第1回給費留学生として2年間の 英国留学を命ぜられます。上京 して妻の実家に身を寄せた後、9月8日単身横浜よりドイツ客船プロイセン号に乗り込み、英国へ出発。イタリアの ジェノバに上陸し、パリ に立ち寄り、目的地ロンドンに到着したのは10月28日のことでした。

英文学研究のため国家の期待を背負ってロンドンへ留学した漱石でしたが、当時のロンドンは世界最大の産業都市。 後進国日本との格差を まのあたりにし、異質な文明との衝突を余儀なくされます。ロンドン市内を歩けば煤煙と塵埃と濃霧に悩まされ、 雑踏の中で孤独感にさい なまれた漱石は、次第に精神的不安に陥っていきます。

引越し魔だった漱石は熊本在住の4年間に6回転居していますが、ロンドンでも滞在2年間の最初の9ヶ月に4回も 下宿を替えました。5番目に クラパム・コモンという大きな公園の北側ザ・チェイス81番地のミス・リール姉妹の経営する下宿屋に移り、やっと 落ちついて帰国ま での1年半をここですごしました。

「もし学成るなくんば死すとも帰らず」という強い覚悟で留学した漱石は、生活費のほとんどを本代に使い、下宿に 引きこもって研究に打 ち込みますが、激しい緊張と疲労の中で深刻な神経衰弱に陥ってしまいます。そんな漱石を見かねて、下宿屋の 女主人は気晴らしに自転車 乗りの稽古を半ば命令的に勧めます。漱石は仕方なく近くのクラパム・コモンや4キロほど離れたバタシー・パーク で練習します。

  然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり、
  向へ押しやると往来の真中へ馳けださうとする、乗らぬ内から斯の
  如く処置に窮する所を以てみれば乗った後の事は思ひやるだに涙
  の種と知られける(略)

  ちらほら人が立ち留つて見る、にや/\笑つて行くものがある、
  向ふの樫(かし)の木の下に乳母さんが子供をつれてロハ台に腰を
  懸(か)けてさつきから頻りに感服して見て居る(「自転車日記」より)

漱石が「自転車日記」を書いたのは神経衰弱の一番ひどい頃ですが、これより前に「倫敦消息」と題したものを書いて、 病臥中の友人正岡 子規に送り、留学の様子を知らせて彼を励ましています。これらの文は漱石が作家としてスタートする以前の作品で、 子規が提唱した写生 文ということを意識して書かれています。35歳の漱石が自転車乗りに悪戦苦闘している様子はユーモラスでもあり、 のちの漱石文学の特徴 がはっきり出ているといえるでしょう。

正岡子規は漱石が自転車乗りをしていた頃、1902(明治35)年9月19日に亡くなりました。そのショックや深刻な神経 衰弱から抜け出そうと いう思いもあって、漱石は自転車の稽古に熱中したのでしょう。その後スコットランドに招かれて1ヵ月滞在し、美しい 風景に触れて緊張 がほぐれ、漱石はやっとイギリスの自然と人の心に親しみを感じとったようです。

約100年後の2002年3月5日、ヨーロッパ旅行最後の滞在地ロンドンにいた私と娘は「ロンドン漱石記念館」へ行く計画 を立てました。とこ ろが観光地図で捜しても見つからず、電話を掛けても通じません。最後の手段で、成田空港で貰った小冊子にあった ○△プラザに駆け込み、 「漱石記念館」の位置を聞き、周辺地図のコピーをいただきました。記念館は観光地図の枠外にあり、電話が通じない のは市内局番が3ケタ から4ケタに変わっていたのです。

正しい電話番号でかけても通じないので、行けばわかるとピカデリーサーカスからウインブルドン方面の地下鉄に乗り、 クラパム・コモン 駅下車。地上に出るとすぐ広大なクラパム・コモンが目に入りました。コモンとは公有地のことです。そこには芝生が 広がりカエデやプラタ ナスなどの大木があり、その下にはロハ台(木製ベンチ)もちゃんとありました。寒いので人はまばらです。

ここで漱石が自転車乗りをしたのかと、感慨深くコモンの中を歩き、地図を見ながらザ・チェイス通りに入りました。ここは 17世紀に発展した 住宅地で、通りの両脇には漱石の留学時代そのままの瀟洒なレンガ造り4階建の建物が並んでいます。歩道の郵便 ポストはヴィクトリア朝 からの時代物だそうです。ガレージには高級車が2台ずつ並び、裕福な人たちが住んでいる住宅街のようでした。

SOUSEKI2
広大なクラパム・コモン
SOUSEKI1
ロンドン漱石記念館入口
内装や外装の手入れをして家と街並みの景観を美しく保ち、住宅地全体の価値を高め、資産価値を守っていく。それが イギリス人の家に対 する考え方と聞いていましたが、築50年などは新築の部類だそうで、築200年や400年の中古住宅が流通しているという のも大げさな話では ないと、ザ・チェイス通りを歩きながら思うことしきりでした。

家々のドアのプレートを確かめながらずっと奥まで歩くと、目指す81Bを発見、漱石が下宿していた場所です。道路を挟ん でその真向かいの 80Bに鹿児島県出身の恒松郁生館長が私費で開設されている「ロンドン漱石記念館」があります。ところが入口の プレートを見ると、何とその 日は休館日。電話も通じないはずです。翌日帰国する私たちは残念無念。せっかく来たのに館長さんにも会えず、 事前の下調べの不足が悔やまれ ました。行かれる場合は、くれぐれも開館日と時間を調べてから行かれることをおすすめします。(2004.3.15)

倫敦<ロンドン>漱石記念館 http://www.soseki.org/
住所:80b The Chase, London SW4
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ベルリン  「舞姫」森 鴎外
2002年2月から、私と大学生の次女と2人で冬のヨーロッパを1ヶ月かけて旅行しました。鉄道の1等車に乗り放題の ユーレイルパスを使い、 パリを基点にイタリア、オーストリア、ドイツとまわりロンドンが終点でした。大まかなルートと日程だけ決めて、降りた 駅で安宿を探して荷 物を置き、市内をひたすら歩いて回るチープな旅です。

ベルリンはツォー駅近くのペンションに宿を取り、1日目に西側、2日目にSバーン(近距離電車)を利用してベルリン の東はしの Hackescher Markt 駅で下車。旧東ベルリン内を見て回りました。テレビ塔、マリエン教会、ベルリン大聖堂を見てウンテル・デン・ リンデン通りを西方 面へまっすぐ歩くと、フンボル大学の横を通ってブランデンブルク門に突き当たります。このあたりは120年前に 森林太郎(鴎外)が歩きまわ ったところです。

その途中で南へ下ると、東西ベルリン時代に検問所だったチャーリー・チェックポイント、そして保存されている ベルリンの壁を見ることがで きます。すぐ近くにはポツダム広場があり、ソニーセンターの周辺は建設ラッシュでした。ベルリンは新生首都に 生まれ変わりつつありました。

ブランデンブルク門から北方向に歩くこと10分、シュプレー川を渡り、閑静な街並みの一角に森鴎外記念館を発見。 4階建の1階角部屋の窓にお 習字が展示してあったのでピンときたのです。入口に森鴎外記念館を示すプレートがありました。さっそく2階に上 がりベルを鳴らすと、日本 人の若い女性が館内の説明をしてくれました。

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チャーリー・チェックポイント
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森鴎外記念館(2階)への入口

2階部分の一角が記念館になっており、図書室や研修室、一番奥の1室が鴎外の下宿した部屋で、留学時代その ままに再現されています。副館 長ヴェーバーさんが流暢な日本語で対応して下さいます。記念館はフンボルト大学の資金や日本企業の寄付で運営 されているそうです。

鴎外の部屋1
復元された鴎外の部屋(入口から見たところ)
鴎外の部屋2
鴎外の部屋:机と本棚とストーブ(絵葉書より)
東大卒業後陸軍の軍医となった森鴎外は、明治17年(1884)から約4年間ドイツに留学しました。ドイツの軍隊の 衛生制度を学ぶために、陸軍か ら留学を命ぜられたのです。帰国後、ドイツでの体験をもとに鴎外は初めての小説「舞姫」を発表します。明治23年 (1890)のことでした。

「舞姫」は政府からドイツに派遣されたエリート留学生太田豊太郎が主人公。豊太郎は父母や役所の上司に忠実な 模範生でしたが、本当にそれ で生きたといえるのかと異国で懐疑心を抱きます。そんなときマリエン教会らしき古寺の近くでエリスという貧しい 踊り子と出会い、2人は恋 に落ちて同棲するにいたります。

豊太郎は女性がらみの不品行を理由に留学生の身分を剥奪されますが、西欧の自由な市民社会の実態に触れて 自我に目覚め、恋愛の尊さを知り、 エリスとの貧しくとも幸福な生活に埋もれることを良しとします。エリスが妊娠してその重大さがまだぴんと来ない 豊太郎は、生活費のことも あり、日本からドイツ視察にきた政府高官の通訳として同行し、その抜群の能力を認められます。

政府高官とともに来た豊太郎の親友相沢は、エリートコースを踏み外した友人のためを思って手を尽くし、豊太郎 に帰国を勧めます。ベルリン で愛する人と暮らす生活に充足していた豊太郎でしたが、捨てたはずの出世欲や自分に対する国家的要請の強さに、 エリスへの愛もゆらぎます。

親友の奔走で結局豊太郎はエリスを捨て、無理やり帰国させられますが、裏切られた身重のエリスは発狂してしま います。豊太郎はエリスへのす まない気持と、帰国を仕向けた親友に対する感謝と恨みの混じった複雑な気持にさいなまれ、苦しみ続けます。

以上は小説のあらすじですが、実際に鴎外の帰国直後、エリーゼという名のドイツ人女性が、船で追うように横浜 に上陸しています。この事実 から「舞姫」のモデルの問題が浮上し、一時期騒がれました。もちろん事実と小説を混同してはいけませんが、出世 のために恋人を捨てた主人 公と、日本まで鴎外を追ってきた恋人を鴎外の親族が説得してドイツに追い返した、このことがあいまって「舞姫」の 評価は不当にゆがめられ てきた一面も否めません。

では社会的非難は覚悟の上で、鴎外はなぜこのような小説を書いたのでしょうか。「舞姫」は結果的に卑怯な行動に 走った青年の物語ですが、 たんねんに読めば、明治のエリート青年が封建的・官僚的意識を脱却して、西欧の自由な市民社会の中で自我に 目覚め、自由恋愛の尊さを知り つつも、一方で親の期待や国家的要請を断ち切れない、その矛盾と苦悩の過程があからさまに描かれています。 そこに注目すべきでしょう。

明治20年当時、日本にはまだそういう小説は書かれていませんでした。そこに「舞姫」が近代日本文学の初期の 代表的小説といわれる理由があ ります。旧東ベルリンの中心部へ行くなら、森鴎外記念館にもぜひ足を運びたいところです。(2004.2.15)

<森鴎外記念館>(ドイツ語)
http://www2.rz.hu-berlin.de/japanologie/mog/index.html
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アトランタ  「風と共に去りぬ」マーガレット・ミッチェル
アトランタは1996年夏にオリンピックが行われ一躍世界の注目を集めた都市で、ジョージア州の州都。1999年、 二度目のアメリカ旅行は アトランタでした。泊まったホテルも利用した地下鉄も圧倒的に黒人で占められ、さすがに南部の町だと実感しました。 アトランタは公民権運動指導者マーチン・ ルーサー・キングJr.の出身地で、記念館や生家もあります。

アトランタにはニュース番組で有名なCNNセンターやコカ・コーラの本社もあります。CNNセンターの巨大な建物に 入ると、放送中のスタ ジオや編集室などがガラス越しに見られる見学コースも整備され、観光客で賑わっていました。映画館やショッピング モールもあり、 観光のメッカのようです。

アトランタに行くならぜひ訪ねたいのがマーガレット・ミッチェルの住んでいた家。ミッチェルは1900年にアトランタで 生まれ、育ち、 1925年にジョン・マシューと結婚。新婚当初から住んだアトランタのこの家で、10年をかけて「風と共に去りぬ」を書き 上げました。

この長編小説はジョージア州アトランタの郊外とされる、架空の大農園タラが舞台。南北戦争という激動の時代を 背景に、勝気と 虚栄心と行動力で生き抜く魅力的な主人公スカーレット・オハラはあまりにも有名。その強烈な人間像は映画でも 大ヒットとなり、 小説を読んでいなくても、映画を見られた方は多いはずです。

記念館へは市の中心部からマルタ・トレインを利用するのが便利。ミッドタウン・ステーションで下車、歩いて2、3分 の場所です。

マーガレット記念館全景
マーガレットミッチェル記念館
マーガレット・ミッチェル
マーガレット・ミッチェル

記念館の建物は一軒家のようにも見えますが、当時内部はアパートに改造されて10世帯ほどが住んでいたようです。 玄関は共同で、 ミッチェル夫妻が使っていた部屋は割と狭い2DKくらいの広さです。しかし家具や調度品や台所の調理器具など当時 のままに復元され、 ミッチェルの使っていたタイプライターが居間の小さなテーブルに置いてあり、当時の雰囲気を偲ぶことができます。

復元された居間 この建物は放火などで2度の火災に遭ったそうで、現在は修復されて「Margaret Mitchell House & Museum」として 公開されています。 見学はビジターセンターで申し込み、30分おきにガイドさんが20名ほどの入場者を連れて、各部屋を英語で説明しながら 回ります。管理が厳重なので、 ゆっくり自由に見て回ることはできませんでした。

ガイドさんの説明も私の英語力では理解不十分でしたが、あの名作がこんな場所のこんな部屋で書かれていたんだと、 それが実感でき ただけでもジンと胸に来るものがありました。各国で翻訳された本やミッチェルの自筆手紙などの展示もあります。

最後の展示室でガイドさんは、ミッチェルが晩年に出版や映画化などで得た莫大な収益の一部を、黒人の地位向上 のため慈善事業に使った ことを力強く説明していました。記念館内では全て写真などの撮影は禁止されており、代わりとなる絵はがきを購入 しました。隣接する 博物館では映画「風と共に去りぬ」関係の写真や衣装が多く展示されています。

世界中で聖書の次に売れたという大ヒット作を書いたミッチェルは、大きな名声と莫大な利益を得ましたが、その後 半生は再びペンを取る ことはなく、「風と共に去りぬ」の著作の権利を守ることに奔走させられたともいわれています。

作品が世界中で読まれている半面、奴隷制度を美化しているとの批判も受け、元の住まいが2度も放火されたりと、 「風と共に去りぬ」は アメリカ社会の全ての人々に受け入れられていない側面も、根強くあるようです。黒人の地位向上のための慈善活動も、 ミッチェルは 匿名で行っていたそうです。
マーガレット・ミッチェルは1949年8月、アトランタで交通事故により49歳で亡くなりました。(2016.7.20)
※写真は記念館で買った絵葉書を使用。館内は撮影禁止です。
「マーガレットミッチェル記念館」 Margaret Michell House & Museum
http://www.gwtw.org
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