比の好きなもの  「飛行機」
------------------ Caution -------------------
これは、私の記憶のみで書いています。
とくに、資料を準備して、確認しながら
書いていないので、間違いもあるかもしれませんが、
話半分で読んでください。
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1.黎明期
はじめて、飛行機と接したのは、良く覚えていないが、おもちゃとして認識していた
ように思います。当時標準的な、ブリキのおもちゃ。フリクションで走るもの。
走らせると、プロペラが回った。米軍の、双発の輸送機だたと思います。
C47じゃないのは、前輪のある3輪式でしたから、C5?とかゆうやつかな。
それで、けっこう遊びました。プロペラが回るのが、自動車のおもちゃとは、ちがう
感じがしました。

紙飛行機は、折り紙、といっても、新聞の折込広告で、作りました。
近所のお兄さんに教えてもらったのが、紙飛行機です。
幼稚園には、たくさんの、折込広告が準備してあったので、ほとんど毎日
飛行機を折っていました。飛ばすことが好きでした。

2.飛行機のプラモデル事始
プラモデルというものは、幼稚園の年長の時に、おやじさんに作ってもらいました。
スケールのない、だいたいの大きさのものだったように思います。
銀色の小さな、B29でした。旋回機銃が、黒のモールドで2個くらい、
ついていました。
そのB29を持って、よく遊んだので、主翼が付け根から折れて、何度か
セメダインで付けなおしてもらいました。当時は、今と違って、ブリキの
おもちゃより、プラスチックのほうが、高級な感じがしました。

小学校1年に入ると、同じクラスで、プラモデルを作っている子がいたので、
その影響があって、少ないお小遣いで、買って作る気になりました。
マルサンの50円の、スケールは、1/100だったかなの、
シリーズです。はじめに買ったのは、いまでも覚えていますが、
Ju87です。グリーンのモールドで、キャノピーは、ゴロンとした、
透明のかたまりで、キャノピーとは、言えないものだったと思います。
おやじさんからは、急降下爆撃の正確性について、聞かされました。
たぶん、おやじさんは、九九艦爆の急降下爆撃を意識していたのかも
しれません。
その後、そのシリーズを買い取った、ニチモ(だったかな)の復刻版も
中学時代に懐かしくて、作りました。グリーンのモールドが、マルサンもの
とは、違って、濃くなっていたので、違う感じを受けました。金型が
すこし、へたっていましたし。

その後、だいたい、50円のそのシリーズを結構作りました。
しかし、さすがに、小さくて、貫禄が無いので、100円の、
ちょっと大きなものが、欲しくなりました。
何機か、ニチモあたりの、100円のものを作りましたが、
スケールは無かったと思います。モーターを入れて、プロペラを回すと言う
おもちゃ的なもので、スケールモデルではなかったものです。
のちに、LSの1/75の零戦21型を作ったとき、100円にしては、小さいなと
感じましたので、1/60くらいのスケールのように思います。

田宮の、1/50のシリーズが、ありました。クラスメートの
お兄さんが作ったのを見せてもらって、憧れでした。
200円でした。200円という金額は、とてつもなく、高額なのです。
「中華そば」と呼ばれた、ラーメンは、70円くらいだったと思います。
少年サンデーは、50円でした。ゴジラが出てくる、怪獣映画は、50円で
見ることができました。ですから、200円は、すばらしく、高額です。
おばあちゃんが、2学期の成績が、1学期よりよかったら、200円の
プラモデルを買ってあげるといいました。「やったー」です。
そして、2学期が終わって、成績票が配布されました。上がっていました。
小学校2年生の時です。田宮の1/50の、雷電でした。

雷電の話です。
おやじさんは、元海軍でした。ただし、訓練生のまま、終戦を迎えたので、
実戦の経験はないそうです。訓練したのは、厚木の航空隊でした。
こどものころ、お風呂に入りながら、よく、厚木の航空隊の話を聞きました。
特に、雷電のエンジン音は、変わっていたとよく聞かされました。
今考えると、強制冷却ファンの音と思います。「キーン」という音だよ、
と、よく説明していました。形は、ゼロ戦とはちがって、ずんぐりしているが、
あっというまに、飛び上がって行ったといっていました。その話が、
雷電に興味を持たせたのだと思います。

田宮の雷電については、良く覚えていません。確かに、買ってもらったのですが、
作ったときの記憶がないのです。はじめての、200円のプラモデルですから
もっと、覚えていても、よいように思いますが、思い出せません。ああもったいない。

小学校2年か、3年の時に、近所に火事がありました。早朝でした。
親に、「火事だから、逃げろ」と、言われて、あわてて、机の上にあった、
プラモデルをつかんで、逃げようとして、しかられた覚えがあります。
その時は、命の次くらいに、プラモデルの飛行機が好きだったのかも
しれません。その飛行機は、日本機だったように覚えていますが、
ニチモの紫電改だったように思います。(そんなのなかったかな)

低学年の時の、プラモデルは、最後に、田宮の1/50の彩雲の
半分クリアーのものを作っておしまいでした。
なぜか、そのあと、ぷっつりと、プラモデルをやめました。
たぶん、プラモデルより、漫画を読むほうに興味が行って、
漫画雑誌を買うので、お小遣いを使ってしまうからと思います。
漫画雑誌を買うことは、小学校6年生まで続きました。
ところが、中学校に入って、なぜか、ぷつりと、漫画雑誌を手にしなくなります。


3.プラモデル再び
小学校5年の時に知り合ったY君は、おもに、戦車を作っていたのですが、
飛行機も好きでした。小学校5、6年生の時に、田宮の1/35の戦車の話を
してくれましたが、とくに興味を持っていませんでした。

中学校1年で、偶然にも、部活でYくんと一緒になりました。
話すチャンスが増えると、なんとなくプラモデルの興味が沸いてきます。
そんな時、ちかくの模型店で、ボヤ騒ぎがありました。消火のために
放水した水が、プラモデルにもかかったものがあり、箱がボロボロに
なりました。その、ボロボロのものを、半額処分するというのです。
見に行ってみました。もちろん、何年かぶりに、模型店で、プラモデルの
パッケージを見るのですから、浦島太郎です。見るものすべてが新鮮でした。
Revelというメーカーは、まったく知りませんでした。アメリカのメーカーと
教えてもらいました。グンゼ産業というところが、日本向けとして、販売している
ということでした。本格的なスケールモデルを目にして、びっくりしました。
Revelの1/32シリーズが、気にいってしまいました。500円のところ
250円でした。「やっぱりゼロ戦でしょう」ということで、零戦52型を
買ってきました。のちに、零戦としては、出来が悪いキットと知りますが、
当時は、とてもすばらしいものだと思いました。

塗装するにも、何もありません。家に帰って、零戦の組み立て図を見ると、
細かく色の指定があります。これもびっくりしました。以前やっていた、
組み立てるだけのプラモデルと考え方が、根本的に違います。
「何色か買わなくちゃいけないんだ」。お店に行ってみると、マルサンの
「プラカラー」と、Revelの「レベルカラー」が並んでいました。
マルサンは、すでに倒産していて、「プラカラー」は、在庫で残っているだけ
だそうです。それでは、「レベルカラー」のほうが良いだろうということで、
見てみました。一本50円です。当時のお小遣いからすれば、50円は高い
もので、組み立て説明に載っている、すべての色は、買えそうにありません。
表から見える部分だけに絞って、買うことにしました。
記憶をたどると、上面用の、濃緑色、下面用の灰緑色、そして、カウリング用の
つや消しの黒、それからエンジン用に黒鉄色を買いました。
それぞれ、たしか、灰緑色は思い出せないが、No16,??,33,28
だったと思います。でも、後に、カウリングが、つや消し黒とちがって
すこし青みがかっていると知り、その時もびっくりしました。

さて、零戦は、1週間くらいでできました。なにしろ、小学校低学年並の
技量ですから、組み立てて、塗装を簡単にするだけですから、
すぐにできるわけです。あとで見ると、ひどいものですが、大きさに
救われて、そこそこに見えていました。
面白くなってきました。次は何を作ろうか。でも、お小遣いはあまりありません。
中学校1年の、夏になっていました。部活で、出かけた時、山形駅で、列車の
待ち時間ができました。
当時、山形駅は、ステーションデパートと言って、テナントがたくさん入った、
デパート形式になっていました。そのなかに、模型店も入っていました。
時間があったので、見に行くと、米沢では、在庫として見たことも無いのもが
並んでいました。Yくんも何か買ったと思います。私もひとつ買ってみようかと
いうことで、眺めていると、Yくんは、これが良いと言っていたのは、
Revelの1/72のFW190A(たぶん、初期のタイプでA-3あたり)でした。100円です。
まあ、「高い買い物ではないな」ということで、買って帰りました。
でも、ピンチです。塗装の指定は、迷彩です。ドイツ語が思い出せないし、
ルフトバッフェのRML番号が思い出せないのですが、下面は、ヘルブラウ(だったかな)
で、上面は、ブラウン(名称は忘れた)に、なんとかグリュンのスポットの指定。
Revelの言い方では、下面が、ライトブルー(20)で、ライトブラウンに
ダークグリーンのスポット。とにかく、3色を買い足して、迷彩に兆戦
しました。あとで見ると、ひどいものでした。でもそうやって、ほかの人も
のめりこんで行ったのでしょう。

4.ライトプレーン
ここで、ちょっと、話題を変えて。
小学校低学年の時は、ゴム動力のライトプレーンは、おやじさんに1台
作ってもらいました。近所のお兄さん達は、自分で作っていました。
がんばっている人は、ゴムを巻き上げる専用のワインダーを持っていました。
低学年の子としては、とうてい相手にしてもらえません。
小さい子は、お店で売っている、小型の薄い布貼りのライトプレーンも
ありましたが、なにぶん飛びがあまり良くありません。それから、お店には、
胴体に、主翼と尾翼を取りつけるだけの、ハンドランチグライダーのような
小型のものもありましたが、作りの割に高いので、買った記憶がありません。
ライトプレーンをまともに自分だけで作ったのは、たぶん中学2年だと
思います。
これも、Yくんと一緒で、Yくんの家の近くの公園で飛ばしました。
ワインダーは、すでに持っていたハンドドリルに太い針金をくわえたもので
巻き上げました。なんとか使い物になりました。
はじめは、キットとしてぶら下がっていたものを使いましたが、そのあとは、
バラで部品を買いました。プロペラは、バラで大きさがいろいろと売っていたので、
やたら巨大なものをつけて、ゴムも、長いものをつけて、どのくらい飛ぶか、
比較してみました。

プロペラを二つ接着して、4枚ブレードにしたものは、プロペラの回転数が
下がるので、長時間プロペラが回るというメリットがあるものの、
プラスチックのプロペラ自体の重量と、全体の重量に占める割合が
高くなるため、飛躍的に飛ぶということは、ありませんでしたが、
見た目の珍しさでは、「どうだ」という感じでした。

ゴム動力のヘリコプターはできないかと、考えていました。ゴム動力の
ライトプレーンと違って、ローターを大きくすると、反トルクを打ち消すのが
大変そうですし、動力のゴムの長さをとるのをどうするのか、考えていました。
とりあえず、桧棒3本と、ハードバルサで、枠を作ってみました。枠は
「練習機だから、黄色だ」と、黄色く塗装して、にやにやしました。
ゴムを張って、壊れないことを確認しました。ライトプレーン用の
一番大きなプロペラをつけてみましたが、ブルーンとまわすと、反トルクが
かなり来ます。飛びあがる時に、トルク打ち消すように、3方向に、羽根を
張り出せばどうかと、脚といっしょにして、羽根をつけました。
そうこうしているうちに、雑誌にゴム動力のヘリコプターの製作記事が
載りました。びっくりしました。上下にプロペラをつけています。
反転するわけですから、トルク打ち消すのは簡単です。
あとで考えれば、簡単なことだし、模型だからできることだったのです。
カマンハスキーは、簡単に作れませんが、上下につけるのは
模型では簡単です。でも、「こっちは脚をつけたから、ランディングできる」
と、負け惜しみ言うしかありません。悔しいけれど、そのまま、試しに
飛ばしました、完全に、反トルクは打ち消せないので、くるくると回りながら
上昇して、そのまま、ふわりと落下してきて、ランディングしました。
充分満足した結果でした。それを最後に、もうゴム動力を触ることは
なくなりました。並行して、作っていた、室内機は、中学生には、
やっぱり難しくて、試験飛行を一度して、破損してから、やめてしまいました。
いまは、ちょっと後悔しています。もうちょっと、がんばれば、もっと
飛んだはずです。あのあと、いろいろ情報が入ってきて、作り方や、
やっている人を知りました。当時の米沢では、いなかのため、室内機の
情報がかなり少ないのでした。

紙飛行機に関しては、折り紙のものは、幼稚園時代に作っていましたが、切り紙で
作ったのは、中学校1年からです。中学校の図書室においてあって、月刊誌に
毎月、付録で、紙飛行機がつきました。学校のものを作るわけにはいかないので、
自分で、その雑誌を買ってきて、切りぬいて作ってみました。
飛びはすばらしいものです。折り紙と違って、スピードといい、滞空時間と言い
とても魅力的でした。その紙飛行機の特集号を買ってくると、理論的なことが
書いてありました。読むと、なんだか作れそうです。実際に、切り紙で作る
実際のサイズのものは、確かに飛ぶのですが、そこまで大きくなくとも、
練習用には、もっと小さくとも、そこそこ飛ぶだろうということで、小さい
ものを作り始めました。最終的には、中学生には、主翼長150mmくらいが
扱いやすいようでしたし、比較的狭いところでも、飛ばせました。そのサイズで
15秒をねらって作っていました。今から見ると、たいした造りではないですが
当時の自分としては、15秒は、かなり長いものでした。夕方に近所の広場で
力いっぱい飛ばして、飛ばし方も練習しました。


5.プラモデルに、はまりこむ
さて、プラモデルの話題に戻ります。
始めの頃は、一番作ったのは、Revelの1/72の単発機です。100円の
やつです。FW190Aからはじまって、覚えているところは、Bf109E,Me262,
スピットファイアー、ハリケーン、テンペスト、P51D,P47,P12,F3A,F4F
疾風、隼、それと複葉機が何機か。田宮の1/72も鐘軌、疾風。1/100の
ジェットシリーズも、100円のわりに、出来がよかったので、
ヒューイ(イロコイ)をはじめに、たくさん作りました。ヒューイコブラ、A4E。
ファントムUは、100円じゃなかったので、たくさん買えなかったけど、
F4EとF4Kは、作りました。100円のものから、ステップアップしていくと、
長谷川の1/72が立ちはだかってきました。だいたい、200円から、300円の
ものが主です。当時、長谷川は、FROGと提携していて、FROGのものを
長谷川ブランドで売っていました。たぶん、この時に、イギリス機を作ったのが
後に、イギリス機にのめり込むきっかけのように思います。長谷川のものは、
RF101,F4J(だったかな),F102,F106は覚えています。FROGものは、ボーファイター
が強烈に覚えています。

大物の話です。Revelの1/32零戦52型で、はじめたのですが、大物はすぐには
作れませんでした。その後、大物に挑戦したのは、Revelの1/72で、爆撃機の
シリーズのB17Fです。当時は、450円で、1/32の500円より、50円安いのが
魅力でした。ちなみみに、覚えいるのは、このシリーズは、ほかに、B24
B24の海軍仕様(型番は忘れた)、カタリナ、ランカスターのダム爆破仕様、
があったように覚えています。B17は、その直後に見ても、ひどいできでした。
最低だったのは、キャノピー部を接着剤で汚してしまって、真っ白にして
しまいました。でも、細かいことは考えずに、大物が出来上がると、
気持ちの良いものでした。大物で、いままでで一番大きな物は、Revel 1/32の
モスキートの爆撃型ですが、天井からぶら下げていたら、いきなり、
急降下して、粉みじんになってしまい、残骸も残っていません。

大物の4発機は、B17しか作っていませんが、単に大物ということでは、
Revelの1/32は、結構作りました。でも、怖いもの知らずで、そのまま
組み立てた時代は、零戦から始まって、P51B,スピットファイアー,
P40,Ju87,F4U-1,モスキート、タイフーン,Fw190D
それから、長谷川でも、1/32を発売しましたので、作りました。
Fw190Aは、2機作りました、1機は、鉄十字以外は、すべて手書きマークの
はじめての兆戦でした。F6Fは、内翼に下反角がついているのを修正して
手間取り、そのあと、透明パーツを壊してしまったため、挫折しました。
Me163は、デカール貼りの直前で、壊してしまいました。

中学校2年の時だったと思います。1年下に、静岡から転校してきたと
いう子に会いました。静岡イコールプラモデルという図式は、あまりにも
安易ではありますが、偶然その子は、プラモデルが好きでした。ただ、
1年下の学年に多かったのですが、AFV派でした。1台見せてもらいました。
感激しました。汚し塗装がぜんぜん違います。パーティングラインとはめ合わせの
消し方もきれいです。行くべき方向を見せられた気がしました。
それに比べれば、いままでの自分の作ったものは、なんて、ひどいのだと
はじめて気がつきました。そう言えば、ある人に見せたとき、「こんな程度の
つくり...」と、うすら笑いだったことがあります。あれは、それを意味していたの
ですね。それまで、気がつきませんでした。
それから、兆戦が始まります。ラジオで深夜放送聞きながら、作っていました。
シンナー臭くなるので、冬でも、窓を開けていました。ここは、雪国ですから
吹雪の日も窓を開けていたこともあります。

どのモデルからうまくできたかは、よく覚えていませんが、Revelの1/32 
コルセアF4U-1は、時間をかけて作ったように覚えています。しかし、
このコルセアは、曲者でした。間違いだらけなのです。作ってから、
モデル雑誌やら、航空関係の雑誌を見ると、間違いがたくさん指摘してありました。
これがきっかけで、まず、雑誌などの資料をよく確認してから作らないと、
そのまま、キットの説明書の通りに作っては、いけないと気がつきました。
それに、このコルセアではじめて、汚し塗装と言うものを実践してみました。
今では、幼稚な感じですが、塗装のはげかかった様子を再現しようとして、
あらかじめハンブロールのシルバーを塗っておいて、その上に、Revelカラーを
塗ったので、あとで、軽く刃物でこすると、ぱらぱらと、塗装面がはがれてきました。
友人から、やりすぎといわれ、汚し塗装の難しさを思い知りました。


6.では実物は
零戦は見ました。大学生の時です。知り合いの、ラジコンの好きな方に
誘われました。アメリカ人が、零戦をレストアして、日本を興行してあるいて
いて、宮城県にもくるというのです。カメラを持って出かけました。
ローカルな飛行場という感じの場所に待っていると、飛んでくるというのです。
予定時刻になっても、なかなか現れません。エンジン不調ということで、
調整に手間取っているということです。セスナを飛ばしたり、ラジコンヘリを
飛ばしたり、時間稼ぎをしていました。しばらくすると、飛んできました。
とんでもない爆音です。さすが戦闘機です。静かに飛ばすと言う考えはないわけで


飛行機というもの乗ったのは、だいぶあとです。米沢の某新聞社主催で
体験飛行というものがあります。当時は、羽田から、小型の旅客機で
米沢上空まで来て、上空を何周かして、また、羽田に戻って、行くと言う
ものに、参加したときです。ほかにメニューとしては、整備工場見学や
トレーニングセンター見学もあって、飛行機が好きな人には、こたえられない
もよおしでした。

二度目は、社会人になって、新婚旅行のときです。
ヨーロッパに行ったので、往復は、ブリティッシュエアウェーでした。
シベリア経由の直行便ではなかったので、行きも帰りも、アラスカのアンカレッジ
で、燃料休憩でした。片道16時間くらいかかったと思います。ロンドン
ヒースロー空港についたときは、心底ほっとしました。
ヨーロッパ内移動は、ルフトハンザでした。ルフトハンザは、B727で、後部に
ついている、タラップから乗り降りしたので、良い思い出です。
搭乗員は、いかにもゲルマンとい感じの、やたら身長の高い女性だったのを
覚えています。ルフトで始まるものにじかにふれたのですから。
ルフトバッフェのJu52に乗りたいというのは、夢ですね。

会社で、海外向け製品の部門に回されてからは、海外出張が多くなり、
旅客機に乗るチャンスは多くなりました。
プロペラ機も乗りました。JFKから、ボストンローガン間は、
10年くらい前には、プロペラ機でした。
プロペラ機の楽しいところは、低空を飛ぶので、
地形がよくわかることです。特に、ボストンのローガン空港に降りる時に
ボストンの西側から入ると、地図で見ている地形がよくわかります。
フリーウェーは、太いので、認識しやすいものです。「90ターンパイク」「495」
あたりは、よくわかりました。プルーデンシャルやジョンハンコックなどの
高い、有名なビルが見えると、ああ、ボストンだと、実感できます。
はじめて、サクラメントに行った時は、サクラメントまで、旅客機で
いってしまったので、プロペラ機の体験でした。サンフランシスコから、
サクラメント間が、結構小さな20名くらいしか乗れないプロペラ機で
サンフランシスコとサクラメント間を40分くらいで飛びます。そのあと
車で走ったら2時間でしたので、もう趣味でしか乗りません。それに、
40分もかかるのに、その飛行機をピストン式に使って、1時間ごとに
飛ばすという無茶なスケジュールのため、慢性的に遅れていました。
たぶん日に2本くらいは、運休させて、ごまかしていたはずです。

アメリカの国内便は、その昔は、バス並でした。ボストンから、ニューヨーク
に行く時、ボストン空港につくと、あと5分で飛ぶ便がありました。
1時間に一本あるので、5分後に飛ぶ便に無理して乗る必要はないのですが、
チケットを自販機で買っていると、早く乗れと、手招きするのです。
「ええっ」。荷物の検査もせず飛びこみました。飛びこむと、ドアが
すぐしまりました。ここに座れと、示されるところに座ると、
ガラガラでした。どこに座っても自由みたいなものです。
ボストンで暮らしていた時期もあり、何度か、ボストンニューヨーク間を
乗りましたが、最終便だと、搭乗員より、客の方が少ないこともありました。
さすがに、その航空会社、「パンナム」は、倒産して、今はありません。
それで、国内便の場合は、ニューヨークは、JFKじゃなく、ラガーディアに
行くので、そのときは、ジェットでした。
JFKと、シャルルドゴールでは、コンコルドのテークオフを見ましたが、
あの騒音と、排気の黒さは、目に焼き付いています。乗らずに終わりました。

札幌に家族旅行したことがあります。仙台空港から、千歳に飛びました。
行きは、まあ普通のフライトだったと思います。帰りが忘れられないフライトと
なりました。千歳を飛び立つと、結構遠くの景色が見渡せます。あっという間に
海が見えました。そこがどこかは、北海道の地理に詳しくないので、わかりません
でしたが、本州が見えはじめると、気がつきました。以上に空気中にほこりや、水分が
なく、雲もないのです。まず、岩木山と八甲田が見えました。十和田湖もはっきり
確認できます。しばらくすると、まだ、岩木山も、八甲田も見えているというのに、
増したに、岩手山が見えました、遠くを眺めると、八幡平も、見えます。
まだ、かすかに、岩木山が見えている時、鳥海も蔵王も確認できます。
よくよく見ると、飯豊、朝日もかすかに見えます。
つまり、福島県をのぞく、東北の山々が一望に見えるのです。
なんてラッキーなんでしょう。山々に見とれているうちに、短く感じた
フライトは終了してしまいました。最高の遊覧飛行でした。


7.WWUイギリス機にはまる
いつ、何をきっかけに第二次大戦のイギリス機にはまったのかは、よく覚えていません。
友人たちは、やっぱり、ドイツ機が好きというのと、日本機が好きということで
イギリス機をかえりみるものはいませんでした。スピットファイアーなら
知ってはいるが、という程度でしょう。でもね、長谷川とフロッグが提携して
長谷川ブランドで、フロッグのキットを安く買えたので、自然とイギリス機を
目にする機会はあったのですよ。印象にあるのは、そのフロッグのスピットファイアー
のMK14でした。V-1がおまけについたやつで、1/72のくせに、
300円もするとは、けしからんという感じでした。でも、プロペラの枚数が5枚も
あるなんで、びっくりでした。
でももっとびっくりなのは、ガネットの二重反転でしたが。
ブリストルボーファイターは、真っ黒な塗装にして、喜んで作りました。
真っ黒なのは、半分黒のスピットも、モスキートの夜戦もつくりました。
戦闘機は、スピットもハリケーンも良かったけど、タイフーンとテンペストに
魅力を感じました。馬力のでかいエンジンを詰めこんで、無理やり飛ばすやり方に
魅力を感じました。テンペストは、Revel 1/72で100円で買えました。何台か
作りましたが、問題の多いやつで、パテ盛り修正に手間取るやつでした。
タイフーンが問題で、安いものは、ありませんでした。モノグラムの1/48は、
憧れでしたが、田舎では買えないし、第一高すぎます。タイフーンは、
Revelが、イギリスRevelの開発で1/32のシリーズを乱発した時に、
作りました。前に書いた、モスキートと同じような時期です。あのシリーズは
あのころの目で見てもひどいもので、なんとか修正したいものの、実力が
伴わず、そのまま組み立てました。Fw190DもこのRevelの1/32シリーズで作り
ましたが、あまりにもひどいできでした。デカールの悪さは、天下一品で、
色もひどけりゃ、がりがり、ボロボロで、貼るとき割れるし、貼ってもはがれるし、
まいりました。長谷川も1/32をやり始めて、あまりの差にもう、Revelの1/32は、
作らないと、誓ったものです。
結局、イギリス機は、作りたくて、たくさん集めましたが、作れずに、そのままに
なったものが多いのです。一番多いのは、マッチボックスのものです。
大きいのは、スピットのMK22/24の1/32から、1/72もたくさん仕入れました。
エレールのイギリス機もいくつかのこっています。

8.その後の飛行機
プラモデルは、まだ作っていないのが残っています。ダンボール何箱か
あります。
おととし、だったかな、友人のYくんに、価値を見てもらったのですが、
高いものは少なかったと思います。そうですね。人気の無い、イギリス機か
中心だし、マッチボックスだらけだし、あとは、出来の悪いエアフィックスと
きたら、人気はないよね。モノグラムと、エッシーのものが、ちょっと
高めのやつがあったようです。

こどもが小さい頃、紙飛行を折ったくらいですね。上の子が、ケント紙を切った
紙飛行機を作ってきた時、小型のものをすぐに作って見せた時が、飛行機らしきものを
作った最後かな。もう、飛行機をさわる暇はなくなってしまいました。

(2002.12.18)



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