Sea wind5月も終わりになると、風はすっかり夏の色に染まる。 どこか青みがかかっていた春の光は、きらきらとその光の強さを増して、車のフロントガラスの上で踊っている。 社会見学の一環としてのドライブ。 マセラティGT3000は、彼女の――ぃや、参加者の意向を汲んで、海へと向かっていた。 目的地が海なのは特に意味はない。 博物館はすでに先週見学済みだし、植物園も先月訪れたばかりだ。 いくら希望があったと言えども、社会見学にもっとふさわしい場所があれば、そちらへ行く事を私は提案したであろう。 が、今はない。 それだけの事である。 それにしても、良い天気だ。 行楽日和とはまさにこのような日を言うのだろう。 チラリと助手席を見れば、彼女もそう思っているのだろう、嬉しそうに車窓の外を流れる景色を眺めている。 「どうした? 急に静かになったな」 そんな横顔に問いかけると、彼女が振り返る。 「はい。つい、流れる景色に見惚れてしまって」 そして、私に笑いかける。 前方を見ている為、彼女の方を向く事はできないが、それは分かる。 「そうか。ドライブを楽しんでいる様だな。 結構。連れ出した甲斐があった。」 「えぇ、とっても。」 そうしてまた、車中に穏やかな沈黙が訪れる。 私は車内では音楽をかけない。 それは、運転に集中する為でもあり、そしてまたこの名車のエンジン音を楽しむ為でもある。 ――先生は、車の中でもクラシック音楽を聴いているんだと思ってました。 初めて私の車に乗った時、驚き、そう言っていた彼女も、随分と慣れた様だ。 今では、互いの沈黙は決して不快ではない。 「でも、本当に今日はいいお天気ですよね。風がとっても気持ち良い………」 どうやら、彼女はまた視線を車窓へ転じたらしい。 その言葉は本心だろう。 だがしかし、私は、彼女の視線がそれた事に一抹の寂しさを感じる。 馬鹿げた感傷だ。 何故なら、注視されたならそれはそれで運転に差し支えるに違いないのだから。 再び彼女の視線を戻したいが為に言葉を紡ぐ―― それはごく簡単な事だが、昨夜の悪友の言葉を思い出して、その誘惑に耐える。 『あの生徒さんと 二人っきり で海へドライブ、ねぇ。 これで手作り弁当なんかあった日にゃ、お前――まるっきりデート、だな』 妙に「二人きり」というフレーズを強調したヤツは、そう言って意味ありげに笑うと器用に片目を閉じてみせた。 が、しかし、これはもちろん社会見学であり、デートなどではない。 何故なら、彼女は生徒で、私は――彼女の教師なのだから………。 思わずこぼれそうになるため息を、注意深く飲み込んだその時、ふと彼女が振り返った。 「そういえば、今日はお弁当を作ってきたんですよ。 母と一緒に、早起きして頑張っちゃいました」 「――なっ?!」 あまりにタイミングのいい彼女の台詞とその内容に、思わず彼女を振り返りそうになる。 が、今は運転中なのだ。 かろうじて踏みとどまる私を、怪訝そうに見る彼女の視線を感じる。 「先生……?」 「ぃや――、その、つまりそれは」 「はい、いつも先生にお世話になっているお礼にって、母が」 「………」 ――そうか『母が』か。 現金なもので、途端に熱が冷めるように冷静に戻る。 「――私は、特定の生徒の父兄から贈答品を受け取るわけには行かない」 我ながら大人気ないとは思いつつ、極力冷静に答える。 こういう時ばかりは表情が出ない自分の顔がありがたい。 「そうですよね……。 あ、でも、わたしも作ったんです。えっと、その―― 家庭科の実技の一端という事ではダメでしょうか?」 海へ向かう最後の信号の赤に、車が停まった。 ゆっくりと振り返れば、真顔でそう問いかける彼女がいて。 そうだった。 初めて、彼女が私にプレゼントを贈ろうとした時も、こうやって断ったのだ。 彼女はこんな私の答えすら予想していたのかもしれない。 「――そういう事ならば、頂こう」 「はいっ!」 彼女の笑顔と同時に信号が青に変わる。 アクセルを軽く踏み込めば、滑るように車は走り出す。 目的地の海岸まではもうすぐだ。 「あ!カモメ!!」 進行方向の空をよぎる鳥の姿に、君が歓声をあげる。 青い空と海のはざま、海からの風を受けて白い鳥影が舞い上がる。 自由に――風そのものの様に。 そう、自由にはばたけばいい。 あの鳥の様に。 君が高く自由に飛びたてる様に力を尽くす事――それが教師としての私の務めなのだから。 そして、君がどんなに高く遠くへ飛んだとしても、おそらく――私は君を見失ったりしないだろう。 伊達に年はとっていない。 海からの風は心地よく、潮の香を運んでくる。 その風に頬をなでられながら、私は新しい季節が訪れようとしている事を知った。 |