残暑見舞い


1週間に渡る吹奏楽部の夏合宿が終わろうとしている。
はばたき市から少し離れた山間にある、学校の合宿所。
その庭先の東屋では小さなため息をついた。

日の長い夏の事、まだ明るさは残っているが、その日差しは山の稜線に遮られ、夜の涼しさが滲み始めている。

東屋のベンチに腰かけて、足をブラブラとさせながら夏の夕暮れを見送る。


こんな夏合宿も今回で3回目。
そして………最後の夏合宿でもある。
今回の合宿は、特に一生懸命練習したつもりだ。自分でもなかなか成果が会ったと思う。
この分なら、きっと明日の総括では、褒めて貰えるだろう。
………氷室先生に。

どこかこそばゆい様な期待感が、合宿をやり終えた充実感の中でドキドキと息を潜めている。

まず名前を呼んで、最初に結論……というか評価。
それから、その評価の内容を話してくれる。
その話し方は、無駄がなくて分かりやすくて、とても氷室先生らしいと思う。
あんまり無駄がなくて、面白くないとかコワイとか言う人もいるけど………。

けど、でも。
先生が、名前を呼んでくれる響きが………好き、だと思う。




心の中で響いた声に、現実の声が重なる。

「えっ?!」
「え、ではない。こんな処で、何をしている? 今は…帰宅準備の為の休憩時間のはずだが………」

驚いて振り返ってみれば、眼鏡のレンズの奥で少し目を細める様にして、先生がこちらを見おろしている。 先生の、その半ば呆れたような訝しげな表情に、顔に血が集まってくるのが分かる。

「はいっ、あの………っ、帰宅準備が済んだので、少し夕涼みを……っ」
「……夕涼み、か? ……結構。」

そんな苦し紛れの答えに虚をつかれたのか、一瞬の間の後、センセイがくっくっと短く笑った。

「確かに、ここならば風も通るし、夕涼みにはもってこいだろう。 合理的かつ情緒的な選択といえる。」
「………はぃ」

………笑われてしまった。

いつの間にか、辺りは夕暮れの茜色に染まりはじめている。
赤くなってしまったこの顔も、この光の中では、分からないにちがいない。

そう思うと、先生を見上げるわたしの肩からも余計な力が抜けていく。

空も、まだ日差しの残る山の端も、明るく茜色に光る。
同じ様に茜色に染まった先生の横顔は、いつになく穏やかな表情に見えた。




時が移る。
昼のざわめきが鳴りを潜め、夜の囁きが漏れはじめる静かな合間。
ちょうどその時、甲高い、しかし澄んだ鳴き声が山間に響いた。
その鳴き声は、何かに呼びかける様に近く遠く、周囲の山々に木霊する。

「あ………」

何処か切ないその澄んだ響きが、言葉を、時間を、そして場所を、自分すら忘れさせる。
それは先生も同じだったのだろうか。
ややあってから、先生が小さく呟いた。


「………蜩、だな」
「………ヒグラシ、ですか?」

「あぁ。小型のセミで、こうして夏の終わりから秋にかけて、夕暮れに鳴く。」
「セミ!! ………わたし、鳥なのかと思いました。 聞いたの、初めてです………」

その鳴き声の主を知った驚きに、思わず声をあげるわたしを、先生の呆れ顔が迎える。

「ヒグラシは、主に山間部に生息する。 君が知らないのも無理はないかもしれない……
 が、一般的な教養としては、覚えておいた方がいいだろうな」
「………はぃ」

やはり先生は先生。その的確な指導に、少々の冷や汗と一緒に返事をする。
が、すぐに先生の言葉が苦笑交じりに続けらる。

「それに………こんな美しい音色を知らないのは、惜しいとは思わないか?
 ………自然は……、時として、完璧な響きを我々に示してくれる。
 ごく小さな虫に託して。」

見上げた先生の横顔は。
今ここでヒグラシの鳴き声を聞きながら、でもその眼差しは遥か遠く、山の向こう………ぃや、もしかしたら時間をも超えて、遠くを見ていた。

「……先生?」

”………どこを、何を見ているんですか?”


ここではない、どこか。そして何か。
不意に心細くなって、先生を呼ぶ。もう一度。

「氷室先生?」
「………っ。すまない。」

戻ってきた氷室先生は、小さく咳払いをして言った。


「つまり………この鳴き声は、そうだな、自然から私たちへの残暑見舞いの様なものなのだろう。」
「……はい?」
「………君のレベルに合わせて言うと、だ」

よほどわたしの周りを?マークが飛び交っていたのだろうか。
思わず聞き返したら、ジロリと睨まれてしまった。眉間に縦皺が刻まれている。
でも、その頬が少し赤く見えるのは………夕焼けのせい、という事にしておこう。

「どうでもよろしいっ。
 、……もう戻りなさい。ここはじきに暗くなる。」
「はい、あの…先生は…」
「私は………もう少し涼んでいく」


そう云う先生に、お先に失礼しますと声をかけて東屋を後にする。
部屋へ戻る時、一度だけ振り返ると、早く行きなさい、と叱られた。

いつか………先生と同じ場所を、モノを見られたなら………。

ヒグラシの鳴き声は、わたしがこの夏最後に受け取った残暑見舞いになった。


The End.
2002.08.29.



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素材提供 Rain Rain 様