中央アルプス・白川遡行と歴史の物語

登場人物 西山秀夫、北折佳彦、横田よしえ、木下万沙代、安藤千鶴子、寺東育子

時代   平成14年7月13日から14日

舞台   長野県楢川村奈良井川源流部

脚本・演出・撮影 西山秀夫    監督 北折佳彦

開        演

奈良井川は上流部で黒川を分けて本流は白川となる。栃洞沢の林道の車止めから2時間余(5:15出発7:20入渓)の後白川に面した。昭和50年頃は車止めまで奈良井から登山バスが出ていた。そして林道終点まで歩いた。終点から左へ胸突き八丁への道がある。それ以前は戦後奈良井から黒川まで森林軌道が敷設されていたので山村の人や登山者はそれに便乗していた。岳人の記録も軌道を利用して黒川と白川の出合で下車し白川を遡行し木曽駒ヶ岳を登って伊奈川を下った。写真の石垣は用水路で右に取水口がある。これは明治6年(1873年)に完成し権兵衛峠を経て伊那の小沢川に流して別の用水路に取り込み西箕輪地区の開田に役立ってきました。昭和34年の伊勢湾台風で破壊されたため43年にトンネルによる新水路が完成して現在に至っています。この水路が完成するまでは江戸時代から140年にわたる水利権の争いがあったそうです。この山に近い鉢盛山にも薮原側へ流れる沢の水を水路を通って安曇野へ引いた例がありました。このことからも木曽は森林と水の国であることが理解できます。

中央アルプス唯一の日本海側の登山口である白川にそんな歴史があったなんて知らなかった。

最初の5m滝のあるゴルジュを抜けた所が右岸からの山抜けで埋まっている。すぐ下に4mの斜瀑がある。右の乾いた岩を登る。美しい林と草地を背景に絶景。最初で最後のゴルジュを突破して初めて開けた沢に出る。流木が多い。流木の多い沢を過ぎると平流になり滑となる。しばらくは続く。もっとも楽しい所。スノーブリッジを潜る。手前は目前に崩壊した雪で気を緩められない所。冷たい雪解け水に足を浸して滑を溯る。「おーい!だいじょうびかい」と北折氏が声をかける。厚さ2m超はあろうかという積雪だが水と土に接した所は融雪し易い。スノーブリッジの上は極めてもろく乗れば全体が破壊される。一触即発の感じがする。そんな目にあったら圧雪で窒息か首の骨を折るかもしれない。要注意である。スノーブリッジの向こうにも斜瀑が見えている。スノーブリッジの天井部分。滴り落ちる水滴が不気味である。いつ落ちても不思議ではない。斜瀑を抜けると更に滝が待っている。10mの滝を登る。更に上には15mの滝が見える。「大丈夫よ」と木下さんがエールを送る。「そこを足場にしやあえーじゃん」と北折さん。右岸にも巻けるルートはとれたが日進で熱心に鍛えた北折さんは「巻くなんて沢登じゃないじゃん」という気概を持ってまずの支流の滝を登り本流の滝上にトラバースした。

閉          幕

物語はこれでは終わりです。じつはこの最後の滝をトラバース中に雷が鳴り雨も降ってきたのです。ゆえにカメラもしまいました。滝上でようやく雨具を着ましたがすでにずぶ濡れでした。一段と細くなった本流は滑が続きます。やがて伏流して草付に消えました。白川の水源は岳樺の森になっていました。藪漕ぎは一切なく快適な遡行でした。森を登りきると登山道に飛び出しました。明日はもっと悪くなるからと茶臼山を往復しました。霧の山稜を歩いたのです。それはそれで風情のある感じでした。晴れていれば木曽駒ヶ岳を見晴るかす大展望が得られたのに。

 分水嶺を経て小屋へは午後2時半でした。意外なくらい早かったのです。小屋は私たちだけと分かり玄関の土間は濡れ物で埋まりました。ストーブがことのほか暖かく感じられたのでした。翌朝は将棋頭山をピストンして下りました。権兵衛峠への縦走は途中で諦めて白川へ下りました。すると例の用水路の保守点検に来ていました。台風で手痛い目にあっているので休日も物かわすぐに見回りに来ていたのです。二言三言言葉を交わして別れました。ひたすら林道を歩きました。黒川の出合からは殆ど高低のない川が延々つづきます。奈良井の意味が何となく分かりかけてきました。奈良は均すことから平坦に近い地形を現し井とは用水のこと。楢川村の前は奈良井村と呼んだそうです。この村は米が採れずとも水は豊富にあった。峠より標高の高い1700m付近で取水して1500mの峠まで水を引き伊奈側へ流す。古人の知恵が生んだ用水でした。木曽谷の福島以北は米が乏しかった。権兵衛街道は伊那の米を木曽へ運んだ道であった。白川の水と伊那の米をめぐる物語でした。

記 ・ 西山秀夫(東海白樺山岳会・会長)