中央アルプスを登り尽くせ知り尽くせT

 

     私の地域研究−念願の念丈岳に登る ---- 西山秀夫

 

 5月3日の深夜天白区に怪しい女二人と瘋癲男が密かに集まった。クルマに荷物を積み込むと夜逃げ同然に走り去った。中央道を北進し恵那SAでまた仲間と合流。既に5月4日となっていた。怪しい一味は甲村、横田、志水、西山だった。計画を聞くと人知れぬ山への逃避行だった。

 4日の未明。もう白み始めていた東の空を仰いだ。少しは横になりたいと鳩打峠の手前でテントを張った。30分も寝ただろうか。熟睡感を得られぬままの出発となった。前日布目氏が松川村へ情報を聞いたら小八郎岳の形が変わる程の山崩れがあったとか。その為か峠から小八郎へは一人乗りのモノレ−ルが敷設してあった。高齢化時代で足腰の弱った作業員を山頂へ楽に運ぶ為のものだ。最近あちこちで見かける。登って見ると確かに山頂がかなり狭くなった。すぐそこまで崩壊が迫っていた。山頂を辞して巻き道と合流してしばらくで休みたくなった。睡眠不足で力が出ない。出力不足、不完全燃焼のエンジンである。横になって寝た。落葉松の明るい差しがまぶしい。

 先行した3人は元気よく行った。左が山崩れの急登になった。雪も出てきた。アベックが立ち往生している。思わぬ雪にとまどっていた。またまた急になった。雪も深くなった。ずぼずぼ潜る。寝不足の身にこたえる。針葉樹林帯の薄くらい中を黙々登ると明るい所へ出て岩の塔が見えた。烏帽子岩だった。やれやれの思いでたどり着いた。周囲を見晴るかすと360度の大パノラマが得られた。東には南アルプスの大山脈、西は安平路山に連なる中央アルプス。だが、思いがけない程の雪の多い山稜に前途の計画がガラガラと音を立てて崩れていく気がした。雪は北斜面か吹き溜まりに又は谷に残る程度を前提としていた。それがどうだ。小さな雪庇まで望見出来た。これでは登山靴が持たない。深い雪の尾根のラッセルが大変なアルバイトになりそうだった。プラブ−ツもわかんも用意してこなかった。4人で相談の末計画縮小を決断した。念丈岳の先の予定地は変更。烏帽子岩の直下のわずかな平坦地にテントを張った。此処しか無かった。名古屋の布目氏に携帯電話をかけた。とぎれとぎれながら通話が出来たのは幸いだった。少し早めの夕食をとるともう寝不足の身には睡魔がおそった。

 5月5日。5時。ぐっすり寝込んでしまったらしい。誰もが。7時、急いで朝食をとって念丈を目指した。烏帽子岳を越えるともう踏み跡は無かった。今春の登山者はどうやら我々が最初か。ル−トは迷いそうな所はない。針葉樹林の中を池の平山目指した。明るい広い平らな山頂だ。夏はコバイケイソウなどが茂る湿原だ。ここからの展望がいい。仙崖嶺、越百山が真っ白な堂々たる山容で迫る。素晴らしい。湿原をやや下り気味に念丈への稜線に導かれていく。樹林は疎林となり雪で明るい。テントはどこにでも張れそうだ。伸びやかな稜線だ。山頂は広々とした気持ちの良いところだ。三角点の所は雪が消えていた。砂礫の座しやすい場である。此処は中央アルプス南部が見渡せる最高の展望台だろう。特に安平路ってあんなにいい形?と思った。仙崖嶺の陰になってさっきまでは全容が見えなかった南駒が一際雄大に聳えて素晴らしい。約一時間は山頂の憩いを楽しんだ。縦走出来なかったうらみは残るがこの展望が癒してくれた。下山は元のル−トを辿った。烏帽子岳には鈴なりの登山者がいた。日本全国登山日和絶景絶佳。テント場に戻りパッキングし直して下山した。小八郎岳は巻き道をとった。往きには気がつかなかったが落葉松の芽吹きが初夏を告げていた。山躑躅もきれいだ。峠に戻って明日を相談した。やはりアザミ岳をやろうと決まった。飯田市内で買い物を済まして摺古木山の休憩舎を目指した。

  中央アルプスを登り尽くせ知り尽くせU

 

     私の地域研究−忘れられた山・アザミ岳に登る ---- 西山秀夫

 

 中央アルプス南部の縦走路が開削されたのは比較的新しい。

 「岳人」101号(昭和31年9月号)によれば昭和29年の愛知岳連による国体登山部門愛知予選が摺古木山を中心として行われて以来注目され登山路開発の要望が高まったことに端を発すると言う。飯田市は地元山岳会「飯田スキ−山岳倶楽部に踏査」を依頼しその記録が101号に掲載された。この時点でもアザミ岳の名は無い。昭和34年9月号No137になって初めて登場する。この年越百山以南の山に2m幅の縦走路が開通する。松川乗り越しにはブロック建ての避難小屋が完成。摺古木山〜大平峠間は4時間半のコ−スタイムで紹介されている。これにより全山縦走が可能になった。中ア登山史上記念すべき年だった。年月が流れ11年後の昭和45年12月10日に大平が集団離村し飯田市と三留野(南木曾)を結んでいた1日2本のバスも

廃線となった。

..摺古木山まで南下してきた登山者は昭和52年版のガイドブックでは2本の選択が出来たが両方とも難儀を極めた。大平へ下山すれば飯田市への長い車道歩きが大変なアルバイトとなった。またアザミ岳を経て木曽見茶屋に下ろうとすれば手入れされないままヤブに帰っていた縦走路をル−トファイディングしながらビバ−クも覚悟の上で挑まねばならなかった。無事茶屋についてもまだ6キロ車道を歩き人里にでてやっとバスに乗って南木曾駅に出られた。下山後の不便さを嫌ってか越百山以南は再び静寂を取り戻し縦走路は荒れるに任せ荒廃した。1983年版のガイドブック以来摺古木山から大平峠間はさらっと記述するにとどめ地図からは破線路を消してある。マイカ−登山の普及と林道開発のお陰で摺古木山は日帰り出来る2000m峰として人気が高い。一方でアザミ岳は忘れられた。東沢林道終点の休憩舎から見るアザミ岳に見入って何年かたつ。近そうで遠い山になったアザミ岳に何とか立ちたい。中ア最南端の2000m峰である。登る価値はある。大平から床浪林道から摺古木からと挑戦してあっけ無くはねつけられてきた。この山に弱点は無かった。今回は4回目。

 5月6日、休憩舎で一夜を明かす。6時40分出発。いきなりの急登。しばらく歩くともう雪が現れた。春遅くになって降った雪は柔らかく潜りやすい。分岐点でトレ−スのない左へ行く。ますます雪は深くなり歩行は難渋した。夏道も一部分かりにくくしばしば立ち止まった。最後の谷の登りでは雪も締まり歩きやすくなった。南のこぶとのコルに出た。右は本峰だが前方のアザミへの尾根へショ−トカットする事にした。雪の詰まった谷を下り尾根へ2〜3分で登り返す。コルまでは雪に泣かされたがコルからは雪を利用して楽が出来た。以前に下って引き返した所迄は簡単に行けた。斜めになった白骨林から笹の海を下った。残雪が所々にあり大回りしてもつなぎながら歩いた。大方は残雪の上を歩けた。1995mPから下ると湿原らしい平地にでた。また雪の上を拾って歩いた。

..いよいよアザミが目前に迫った。右へ回り込んで行く尾根に取り付いて登った。北面の所為か雪が多くしかもよく締まってキックステップが快い。山頂へは灌木を抜けて行く。するとピンク(元は赤か)のテ−プがあった。ほぼ昔の登山道をトレ−スしているらしい。山頂部は矮小化した灌木林だった。風が強い所為で育ちが悪く背が高くない木ばかり。シャクナゲが割りと多い。等高線が緩い地図のとうり平坦な山頂からの展望は無い。東にでて見ると休憩舎が見えた。南に目を転ずると長々と稜線が続く。が踏み跡はない。何本かの尾根が東沢に下って行く。凝視してみたが切り分けらしいものは無かった。南下は諦めざるを得なかった。

..山頂に戻ると志水さんが正田さんに携帯電話をかけた。つながった。緑さんが出た。今東北の岩手山と言う。地域外で聞き取りにくいが通信に関する限り日本は狭くなった。昼食を済ませてどう下山するか話し合った。北東尾根を下ろうかと偵察を試みたが雪が緩んで歩きにくくヤブもひどい。尾根の突端にすら近づけず元のル−トを下山した。1995mPまで戻ると往きには見落とした古い指導標に気づいた。これは昭和34年以来のものか!?朽ちて字は読めなかったが厚みがあってしっかりしたものだ。鞍部まで下り再び摺古木山への登りとなった。登山靴は水分をふくんで重いが通い慣れた登山道に戻ると安堵感が出た。休憩舎から再びアザミ岳を仰いだ。やはり遠い山だと思った。感慨に耽っていると続々2パ−ティの登山者が下山してきた。越百山からだと言う。山慣れた強者という感じだった。2年前の夏私も越百山へ逆縦走したがたった1パ−ティしかいなかった。GWというのに静かな山域である。

 

同行者 志水、甲村、横田

記録 休憩舎 6:40〜山頂10:30−11:30〜休憩舎14:20

中央アルプスを登り尽くせ知り尽くせV

 

             私の地域研究−廃村大平ノ−ト ---- 西山秀夫

 

昭和45年、大平峠と飯田峠に挟まれた標高1170mの高原にある大平村は廃村となった。私は数多くの山村を見てきた。電柱が続く限りは村があり家があった。電柱には昭和40年代とラベルに書いてある事が多かったと思う。昭和40年代の5万図ではまだ家まで破線路が記されていた。つまりクルマが通行できる道が通じていなかった。

 50年代になって村または家に着くと廃村となっていることもしばしばであった。奥三河でも奥美濃でも同じだったと思う。なぜか?考えてみた。電気が導入されると生活は一変したと思う。明るい、便利、楽、そしてテレビからの情報の洪水。まず若者が村を出たがった。出るともう戻らなかった。これでは村を維持出来るわけがない。設楽町の奧の開拓村の小さな廃屋をのぞくと東芝の初期のハンドル式搾り機付の電気洗濯機が

あった。文明生活は出来たのである。だが若者が定着しなかったと言う。大平はどうか。

では松山義夫著「深山秘録」(法政大学出版会)の”大平暮色”を読んで見よう。著者の松山氏は地元の民俗学者。昭和39年に実際にこの村を訪問している。開拓期は修験者が入山して修行していた。まだか細い踏み跡程度の山道があった程度だ。次に木地師らが入山する。町人が開拓に入る。入会権を主張する村から廃村の要求が藩に出される。こうした経緯で明治時代になる。中央線が三留野(南木曾)駅まで開通し伊那電鉄(飯田線)が飯田まで開通して伊那と木曽を結ぶ大平街道が整備される。大平は宿場となり中継地として栄える。木曽からの荷と伊那からの荷がここで別の馬に載せ変えられる。伊那と木曽合わせて400頭の馬が峠道を往来した。中央線、伊那電鉄が全線開通すると中継地としての役割を終える。この宿場時代を頂点に大平は寂れた。また農業中心の生活に戻る。戦後はエネルギ−革命で木炭や薪も需要が衰える。 全国的にも山村の過疎化が社会問題となった。鈴鹿山麓の山村でも昭和40年代に離村が多かったことが分かる。西尾寿一著「鈴鹿の山と谷」に書いてある。戦後は煮炊きの為に山の木を伐った。パルプ材、建築材としても皆伐された。山は禿げ山になった。保水力を失った山に大雨、台風が襲う。ちょっとした大水が大洪水をもたらした。「ぎふ百山」の能郷白山の項には能郷谷の災害は昭和41年9月の大雨、「東海自然歩道」のガイドブックには鍋倉山の山麓・高橋谷の谷山集落の離村は伊勢湾台風が原因、「中央アルプス」駒峰山岳会編には摺古木山東側の松川入・入道集落の集団離村も台風禍が原因となって、いずれも30〜40年代の離村である。山の木を伐りすぎたのだ。裏木曽でも伊勢湾台風で大きな被害をうけて林道を建設し夥しい倒木を処理した。この時良材まで一緒に伐った。山は皆伐された。植林したがカモシカに苗木を食われたり山肌の表土が洗われてポドゾル化し順調に育たなかった。京大の四出井綱英(参考・中公新書・「日本の森林」/森林生態学)は名古屋営林署の幹部を叱りつけたと言う。現在各地に見られる笹原の山はその名残である。人間の知恵は大抵浅知恵か後知恵さもなくば悪知恵だろう。後手後手の治山治水が今も続く。  閑話休題。著者の松山氏は食糧になる栗の木が育たず住み難い村だったからと喝破している。確かに村人の中には執拗に稲作を試みて失敗した例があると言う。文字通り農業で食って行けなかった。一方で40年代の日本は工業化を急いでいた。工場労働者が不足していた。離農離村を促して町の工場へと人工移動が謀られた。若者達は大挙して工場へ就職した。司馬遼太郎の「街道をゆく」9潟のみち”山中の廃村”の文中に昭和39年6月の新潟地震の災害復旧工事を契機に`上杉川の人々も里に降りて土工などの仕事をし、いい賃銀をとった。贅沢も覚えた。人間はいったん現金が手軽に入って手軽に消費できる暮らしの中にまぎれこんでしまうと、山に帰る気がしなくなるのであろう。山では何もかも自分の手と足で生活の必需品を作らねばならないし、燃料も山へ入ってシバを刈らねばならず、そのシバで風呂を沸かすにしてもまず谷から家まで水を汲み上げることから始めねばならない。(里というものはこんなに体が楽なものか)`と書いている。この文におそらく離村の本質が語られている。これでは山は寂れるばかりだ。山には伐る木もすくなくなった。木炭は売れない。木材は輸入材が安いとなった。その上山津波に襲われて何で山暮らしが続けられようか。もちろん信州の山村には高原レタス栽培で成功を収めた村もあった。大平でも検討されたであろうか。長野県や飯田市はわざわざ移住費をだして離村を促した。もう少し粘って知恵をだして定着出来なかったか。200年の歴史を持つ山村はこうして消えた。

 春の大平は落葉松の芽吹き、夏はオオハンゴンソウの黄色の花、晩夏は蕎麦の白い花、夏の夜は河鹿蛙の鳴き声、秋はまた落葉松の黄葉、東沢から自然園に至る道は赤や黄の紅葉に彩られる。本当に素晴らしい高原だ。この資源を生かして再生を祈りたい。  

 

参考文献

大平の民俗     飯田市教育委員会

深山秘録      松山義雄              法政大学出版局

日本の森林     四出井綱英             中公新書

 4 森と人間の文化史  只木良也              NHKブックス

 5 山と木と日本人−森に生きる木曽人の暮らし 市川健夫   NHKブックス

 6 水と緑と土     富山和子              中公新書

 7 木炭        樋口清之              法政大学出版局

 8 山に生きる人々   宮本常一              未来社

 9 ワンデルング9月号 1983年−兀岳と夏焼山 深谷 泰      岳洋社

10 木曽谷の山と街道 大平宿と夏焼山、兀岳 1987年 三森嘉久雄著 岳洋社

11 信州山岳百科U 中央アルプス              信濃毎日新聞社

12 岳人 9月号  1964年(昭和39年)  No198    

          木曽特集 木曽に入る峠  朝 史門(森本次男のペンネ−ム)

13 岳人 5月号  1963年(昭和38年)  No181

          木曽路の春 桜と新緑の匂う山と峠 森本次男

14 自然と文化  ’81 秋季号  南伊那谷・大平宿    大平素描 松山義雄       日本ナショナルトラスト