学校事務職員コンシェルジェ論

「学校事務職員はコンシェルジュかも!」と思いついたのが9月。あれからひと月。思いついたのはいいけど、いっこうにまとまりません。不安になって文献を読んでは「うーむ。」少しずつ書き溜めて、日記風に書き溜めて、ある程度になったらまとめることにして、見切り発車です。

2001.10.16 学校はなんのために?
2002.4.28 職業的自己評価と社会人的自己評価
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2001.10.16 学校はなんのために?

阿部佳著「わたしはコンシェルジュ『けっしてNOとは言えない」職業」を読んだとき、閃いた。学校事務職員って、学校のコンシェルジュかもしれない。

コンシェルジュとは、フランス語では『守衛・門番・管理人』という意味でもあります。(略)コンシェルジェの仕事は多岐にわたります。レストランの案内や、航空券、レンタカーの手配、旅行のプランニング、ビジネス文書の作成などなど。また、時間のあいたお客様や長期滞在のお客様の話し相手を勤めることもあります。いわばホテルのよろず承り係といったところでしょうか。
    〜阿部佳著「わたしはコンシェルジュ」より〜


うーん。あるあるある。転入職員の宿の手配から電話加入の連絡まで。会議文書の作成、日程の調整、各種連絡の取次ぎ。蛍光灯換え。教室に戻れない子の話し相手。姑との折り合いの悪いお母さんからの悩み相談などなど。自分の仕事ではないけれど、「私の仕事じゃありませんから。」とつっぱねたくても、じゃあ誰かしかるべきな担当者がいるんかい!?と問われれば、それも答えに窮してしまう。しかし「それって仕事なの?」と言われればソレマデ…ナンダケド・・・・。

日々限りなく、なんでも屋・便利屋を求められる場面は多い。が、単純に「なんでもこなせる器用自慢」をしたいのでなければ、器用貧乏であることに開き直っているつもりもさらさらない。

でも、コンシェルジュはお客様におもねているわけではありません。コンシェルジュはお客様の召し使いでも便利屋でも手配師でもありません。あくまでも心地よさを創造し、演出するプロのサービス・ディレクターなのです。

ホテルを訪れるすべてのお客様に気持ち良く過ごしていただけること。それは、いつでも変わらない私たちのモットーなのです。


ホテルでいうところの心地よさの創造。学校でのそれは、いったいなんなんだろう。人が生活する上での最小限の施設設備は必要だろうがしかし、デパートやホテル並みの施設環境やもてなしはいらないだろう。学校は、なんのためにある?

どうもそこらへんに鍵があるようだ。

果てしなく限りなく知的好奇心を満たしてくれるところであること。学校はつまり、そういうところであるべきだ。ひとりひとり異なった個性を持つ子どもたちが発する知的好奇心は、けっして一様ではない。100人の子どもがいれば100通りの方法でその学習の営みを支える教師の側にも、自律的・創造的な資質を要求される。

行動科学者、C.アージリスによれば、「作業の専門化は個人の深い関心を妨げ、階層化は個人の自主性を抑圧し、指示の統一は個人の敗北感を深める」そうだ。学校の組織が整然と構成されればされるほど、教師としての職能成長を生み出す基盤であるところの教師個人の自律性が阻害されてしまうことが多々ある。学校は、専門職としての教師が自律的に創造的にいかんなくその能力を児童生徒の十全な育成に向けて発揮される組織でなければならない、とどこかの大学の先生も述べている。

しかし、その一方で、専門分化された現代社会があちこちにブラックボックスを作ってしまったように、教師の自律的・創造的な専門職業的活動が人々の目に届かないブラックボックスの中に閉ざされていってしまったことも否めない。専門家は自らの専門家としての責任を果たしているのか。教育活動の決定が専門家による独善に陥っていないか。学校教育活動が目的とするものそれ自体が妥当なものであるのかどうか。

学校の説明責任とはそんな文脈の中から生まれたのであって、「○○するためにいくらかかりますからお金を出してください」という次元の話ではないのである。

単なる効率・非効率という点からばかりではなく教育はいったい誰の意思にしたがって行われるべきであるかという学校教育活動の正統性という点から学校は社会に開かれていく必要がある。

そして、そういった方向からの学校事務職員の働きを考えてみる価値は十分にある。

一般的に事務処理というのは、没個性的に誰がやっても同じ結果を求められる仕事である。丁寧にしあげた書類などと情緒的な価値をいただいたところで、正確でなければその仕事の意味がない。データをもとに処理される情報の処理は、機械がやってしまったほうがばらつきがなく正確であることは間違いないからだ。もしもあなたが、末端の現場まで機械化の波がこないことを理由に「人間がやることに意味があるのだ」などと自惚れているのであれば、時代に取り残されてしまうだろう。だから私は日々増える一方の事務を処理するための人員を増やすべきである、という考えには与できない。事務処理というのはあくまでも事後処理であり、それはやがて機械化・合理化されるものだと思うからだ。次後処理に重点を置くよりもむしろ事前のリサーチ、入念な準備、行程の監視などを重要視すべきで、その過程において、学校教育活動の正統性はクリアに保たれていくのだろう。

んじゃ、わたしは、いったい、何をするんだ?

参考「教育行政学」黒崎勲(岩波書店)
  「わたしはコンシェルジュ」阿部佳(講談社)

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2002.4.28補足・改題 職業人的自己評価と社会人的自己評価

道を行く運送屋さんのトラックを見るたびに考える。「どんなにスピードを出して運んでも、運べる荷物には限りがある・・・ってことは、同じように運んでいる限り、「儲け」はその計算された最大効果以上には期待できないってこと。だからって、そこに甘んじるかどうか。人の一日は24時間しかない。お金持ちの人にも貧乏な人にも。物理的な限界は平等である。誰もが物理的な限界を最大限を利用できる技を持っていたとすれば、世の中は勝ち組だの負け組だの関係なくなるんじゃないか。
しかし、実際には、世の中には勝ち負けが存在するわけで。先の運送屋さんの例で言えば、北海道のトラックが九州まで走る、なんてことはしていないはず。できることには限りはあるけれどできないと思っていたことも、ちょっとした発想の転換で可能になる。便利になる。うまくいく。

だからといって例えば掃除機にラジオがついていたとしたら?そんなの、無用だよね。誰がどんなときに使うんだろう?想像もつかない。
また仮に「この計算機は、掛け算と割り算があいまいです」なんていう計算機があったら、たぶん誰も買わない。部屋にかかってる時計がもし、100ぶんの1秒までも測れるように秒針(もしくはデジタル表示でもいいんだけど。)がついていたら、なんか、落ちついて暮らせない。

利益を追求する企業であれば、自分がどれだけ収益をあげているか、という指標で自己評価もやりやすい。学校の先生なら、わかる授業をするという目標に向かってどれだけ教材研究をしているか、で自己評価ができます。

一般的に、事務という仕事が「没個性的に誰がやっても同じ結果を求められる仕事」であるならなおさら、より早くより正確に、が自己評価の視点になるのだろう。しかし、それを教育現場で行う、ということには、どんな価値が期待されているのでしょか。学校事務職員としてのあなたの自己評価のものさしはいったい何ですか。(単なる事務職ではなく、学校事務職、ということです。それとも、学校事務職は単なる事務職と同一なのかな。)ちょっと考えてみてください。

あなたは、あなたなりの評価のものさしがありますか。

 

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