問題提起 2

学校配当予算の増額は、住民の合意を得られるか

 

 この夏、ワタシの前任R小学校のある町で、町長がR校の廃校を広報で告知をしたそうだ。廃校は2年後。町の中心校に統合されるのだという。

 どんなに小さな学校でも、そこに学校があるだけで人件費、経常経費等でどんなに安く見積もっても、最低2000万円の支出は覚悟しなくちゃいけない。(ワタシの経験から算出。)それ以外に、市町村の負担ではないけれども、当然教師の人件費が教師の人数分かかる。市町村に配置する教師をかかえるのは都道府県だ。給与費の半分は国が出してくれるというものの、給与費の外に退職金とか年金とかも心配しなくちゃイケナイのだから、学校の数が多く教師の数が多いということは、実は都道府県の財政にとっては、脅威であるはずだ。

 ことほどさように、「人間を使う」ということは、お金がかかる。じゃあ、教師をはじめ学校に働く職員がその支出に見合った「成果」を、あげているのか、というと「教育という公的な事業は、すぐに成果の見えるものではない。」などと詭弁でかわされる。逆に「成果」を期待している住民(なり、親の側)に、あなた方は教育にいったいどんな成果を期待しているのか?と問えば、これまた千差万別で、というよりむしろ相変わらず「良い学校・良い就職」が大半を占めている状況では、実は「教育の成果」に何を求めるかはあいまいで混沌としているのだ。あえて、文部省が示す文言をひっぱってきたとしても、「それで、子どもたちが将来食べていけるの?幸せに暮らせるの?」と問われれば、胸を張ってイエスといえるほど、実は、日本の隠れた「職業的階層化」は解消されていないのだ。これをしっかりと認識すべきだ。例えば、女性労働者。雇用均等法に罰則を設けたと言っても、まだまだはびこる慣習によって、自分の生涯にわたる食い扶持を稼ぐことさえも、出産や育児によって中断される場合が少なくないのだ。今の50才台のおじサンたちの給料は、こんなパート労働者によって支えられている、ということを謙虚に受け止めてもらいたいものだ。

 

 はじめから思いきり話しが逸れているが、地方教育行政の在り方を問われ、地方分権が叫ばれる中で、学校は自主自立のために独自で予算要求するべきであるという論議が活発である。財源を自ら学校現場の主張でとることで、その仕事も役割も重きを増す、というのが、われわれ事務職員のはかない希望であるようだが、それは単なる妄想だろう、とワタシは断言したい。

 

 仮に、予算ヒアリングの場に、A:介護老人の問題と、B:学校教育の問題と、C:幼児の保育の問題を並べられたとき、あなたが首長だとしたならどこに重点を置くか。お金で解決でき、成果が目に見えるところに重きを置くのではなかろうか。そして、次期選挙の票の獲得につながるところに着目する。ワタシは迷わず、A、C、Bの順に優先順位をつけたい。Aは文字通り、今最も住民ニーズが高い。Cを充実させれば子どもの世話のために女性を家に貼りつけておく必要はなくなり女性雇用者を拡大できる。Bはといえば、実はいちばん問題が曖昧で、なんとか現場を知っている人間で智恵を出し合ってなんとかしてほしい、いじめや不登校の問題は、金より現場の教職員の資質や教育理念の問題ではなかろうか。…そうんなふうに考えるのではないか。

 ちなみに、我が家には、寝たきりの介護者1人、保育園児1人、義務教育児童・生徒が2人いる。

 義務教育児のうち一人は実は、不登校気味だったりするが、彼に必要なのは、人手や行き届いた学校施設よりむしろ、彼の中に流れる時間を尊重されることだろう、などと親のワタシは思っている。

 

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