1 「WHAT」〜学校事務とは何の仕事をするのか〜

学校事務職員のビジネスモデル序章でこれからの学校事務職員像を展望するのに次の5W1Hで策定する必要があると述べました。いよいよその内容に踏み込んでいきたいと思います。(どきどき。)

「WHAT」(学校事務とは何の仕事をするのか)
「WHEN」(いつするのか、期間はどうか)
「WHERE」(どのサービス領域で展開するのか)
「WHO」(誰に向けての仕事なのか)
「WHY」(何故その仕事をするのか
「HOW」(いかに仕事をするのか)

(1)組織の方法を備えていること

 公立小中学校は、ほかの行政組織・企業組織と同じく、学校という組織単位での協働により公教育の目的を果たしています。たとえ個人が特殊な能力を持っていたとしても、組織の方法を身につけないまま個人プレイで組織に関与するのは難しいものです。
 組織の方法とは組織の中で仕事をすすめていく上で身につけておくべき最低限のマナーというべきものであり、組織風土の独自性を肯定するものではありません。具体的には、

・感情をあらわにしない対人関係

・自立心と責任感覚をもつこと

・職業上知り得た情報をみだりにしゃべらない倫理観

・全体と部分に配慮する視野を持つ(バランス感覚)

・個人生活と組織生活との区分が明確(公私を混同しない)

などを要件とした、組織に属する者として最低必要な資質であるといえます。

 さて、学校事務職員がこれからの学校運営の新しい力となるためには「学校組織で役割を果たす上での基礎的職業教育」とそれに続く「キャリア形成のための教育・訓練」が必要です。

 これらに関連して、よく制度研修の不備がとりざたされるところですが、制度の不備をあげつらい「これが改善されなくては一歩も前に進めない」と断定してしまうのは、あまりにも他力本願で無責任です。

 行政のほかの職種や教員などの置かれている状況と比較して、その制度的環境の差異を取り上げ、だから採用・処遇の差はあるのはやむをえないことだ、ゆえにその格差を解消するには人的・制度的環境をそれらのものに近づけるべき、とする論は一見科学的ですが、理論としては狭いといわざるをえません。それは、現象を説明していますが、問題の根本的要因まで考察が及ばず、問題解決の展望にはつながっていないからです。

 長年言われている、われわれの職務内容が不明確であるという問題には、上で掲げた「制度的要因」のほかに、「学校組織風土」、「個々人の意識と行動」の要因があり、これらはどれも影響しあっています。制度や風土が変わっていくのを傍観者然として待っているだけではどんな問題も解決をみることはありません。
 制度や風土の改善と平行して、個人レベルで意識と行動を変えていくていくことの必要性が、これまではあまりにも軽んじられてきたように思います。そして、それは、われわれ学校事務職員が、組織の方法を身につけていたかどうかさえもあいまいにしています。

 そのような観点からも、この学校事務的ビジネスモデルが、個人の意識と行動を変えていく手助けになることを願っています。

 

(2)「WHAT」(学校事務とは何の仕事をするのか)

 これまでの学校事務職員はどうあるべきか、という議論は、いかに高級な職にしあげその賃金対価の合理的理由をどのような「権限」で飾るべきかといった議論に終始しがちでした。ところが昨今、学校事務の機能をあげ、それに携わる職員としてどんな配慮をもって業務をすすめるのかという視点からの研究が深まりを見せています。

 ここに、興味深いレポートがあります。週刊教育情報No.686から、<シリーズ学校改善:事務新時代「総合的学習にかかわる事務職員の前提」>を引用します。

****ここから引用******

「最近、全国レベルから地方の大会まで学校経営との関係で事務職員論が展開されることが多い。しかしながら、どれも、職務権限との関係だけで、教育との関係で述べられているものはない。」

「今年の2月に全事研セミナーで京都教育大学の堀内 孜氏が、@学校経営参画は「学校」を理解していないとできない極めて難しい仕事で、軽々にいえないことであるA学校事務の見直しは教育そのものに立ち返って見なければならない部分を抱えているB(職務の深さ等の)事務職員の内部分析がなされていない、と指摘されたが、同感である。」

「私なりの理解では、以下のようになる。@について言えば、学校を理解するには、学校の基幹である学習や子どもの心理・行動、保護者・住民を含めた地域、学校を取り巻く仕組み等を理解することが必要で、例えば、学校指導要領を読んだこともない学校事務職員が学校経営云々すること自体がおごりといっても過言ではない。」

「Aについては、子どもにとって「学び」といえるかどうかは教師の指導法にかかっており、それは、たゆまぬ授業研究・教材研究に尽きるともいえる。「学び」の財政的裏付けが予算なら、安易にセット教材に走る教師に警告を与え、「生活科の目的にセット教材は合わない」「かけ算九九カードは子どもに作らせるべきで市販品を買うべきでない」という教育部分事務職員が踏み込む必要がある。公費の執行だけかかわっていればいいので教師が言ってくれば何でも買う、私費は自分には関係ないという事務職員では学校本来の目的は達成できないし、私費の執行が学年や学級で個人的に処理されているとしたら、もはや公教育ではないのである。」

「また、教育委員会事務局の姿勢により、学校が必要としてる教材が買えない市町村がある。さらに、当該市町村が、自ら設置した学校を市町村の財務事務上の法的位置付けをせずに放置し、「前例がない・分からない」等という理由で購入を阻むレベルから、予算算定基礎であるはずの学校運営費標準が基準に変質して、「学校運営費標準にないから買えない」というあたかも学校がその学校運営標準にある教材を購入して「学び」をやる収容所のように思い違いをしているレベル等いろいろである。」

「教育委員会事務局職員も学校職員も子どもたちの「学び」をサポートする立場では同じである。こういう市町村では、学校でする「学び」を理解してもらう努力を学校関係者がすべきだろう。」

「Bについては、予算事務なら予算事務でさまざまなレベルがあるのに、「予算事務」というくくりで同じものとして扱ってきた実践・研究の方法に誤りがあるということである。事務職員の職務権限を明確にし財務を執行するといっても、学校の目的である児童・生徒の「学び」に直接結びつかないのでは困るのである。」

******引用終り*******

 東京都練馬区光が丘第七小学校浅川晃雄氏のこのレポートは、次の言葉で締められています。

「与えられた条件の中で児童生徒の「本当の学び」をサポートすることが、われわれの職務の核でなければならない。」

 

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