topページへ



slow work  slow life を考えるサイト

ソトコトnet
田んぼの学校

藤原和博のよのなかNETへようこそ

構想日本
日パ旅行社
森岡正博の生命学ホームページ



地球の食べ方・暮らし方

人間がひとり生きてゆくのに必要な食料は、穀物だけだとしたら150キログラム。穀物とは、米はもちろん、とうもろこしや麦、大豆などをいいます。もし、牛肉を1キログラム得ようとすれば、8キログラムの穀物をその牛に与えなければいけません。同じように、豚肉だと5キログラム鶏肉だと2キログラムの穀物が必要です。1998年に世界で生産された穀物のうち5割が人間に、5割が家畜の飼料にまわっています。ちなみに、食肉の一人当たりの消費量は、アメリカ112キログラム、ドイツやフランスで100キログラム、イタリアで70キログラム。アジアでは、タイやインドネシアで10キログラム、中国で30キログラム(急増中)、日本は50キログラム。

*****

土曜日の午後、何気なく聞いていたラジオからこんなメッセージが飛び込みました。 「生きていくために熱帯雨林を伐採し焼畑をして食糧を確保する。そんなふうにしか暮らしていけない人々に、環境保護だの森林を熱帯雨林を守ろうというのは、ほんとうのエコロジーとは言えないのではないだろうか。」そんな内容でした。 その企業は、焼畑をしなくても安定的に食糧自給を確保できるようにフィランソロピー(社会貢献)を推進しています。人口から考えればおそらく自給自足には十分に可能なはずで、外貨を得るために安く効率よく食肉を確保するために森林を伐採しているのでしょう。ハンバーガーの値段を考えてみればすぐにわかることです。しかし、そのようなことには、触れたくても触れられない、あるいはまた、わかりすぎていてイマサラ触れる価値もないのかもしれません。

*****

この企業のラジオ広告を書いた、コピーライターの河村祐介さんの過去の作品には、こんなものがあります。長くなりますが、引用します。
「『彼女は東京で働いている。北米の森林から切り出した木材のパルプに印刷された新聞を読む(これらの木材・紙メーカー、新聞社は、原材料を伐採して製造した紙ではなく、管理された森林の樹を使い、また使用した分を植林などで補っているのだろうか)。彼女の食料と衣料は、世界各地で育った動植物である。木綿とカシミアはアジアから、魚は太平洋、インド洋、牛肉はオーストラリアと北米の牧草地、果物と野菜は4大陸の農地から集められる(これらの食料品メーカーなどでは、きちんとした品質管理のもとに、安全な商品を製造・販売しているのだろうか)。彼女の飲むコーヒーは熱帯、中南米にあるプランテーションで収穫され、コーヒーを淹れる水は近郊の地下水から汲み上げられたものである。(プランテーションで働く人たちは、搾取などされていないだろうか)』。――――身のまわりのものが『どこから来たのか』を考えることは、それらが『どのような考え方の企業や人々によってつくられ、自分のところにやってきたのか』を考えることにつながります。」
*****

1998年の世界の穀物生産量はおよそ19億トン。上記のような割合で人が穀物を食べていたとしても、世界で餓える人々はいない計算になるのですが、計算通りにいかないものです。そこへ、どんどん肉の消費量が増えるのであるのだとしたら。そして、それを「1円でも安く」欲することが善と考える人々が世の中の正義だとしたら。(2002.11.3)



ノンキャリア・エンパワーメントー女性が働く、ということ―

能率、生産性、競争の原理だけが普遍的で、その枠組みが生活の全てのシーンであたりまえになってしまったのは、いつからだったでしょうか。景気が低迷している現在、女性を保護しながら差別する・・・ということが難しくなってきたなか、一方で出産や育児のために休みをとっても代替え人員を雇う体力がない多くの日本企業。国がどんな政策をかかげようが、「笛吹けど踊らず」な状況。5パーセントの金持ちと95パーセントの貧乏人の国へまっしぐらといった状況で、職業をもった女の人がほんとうに安心して子どもを生めるのはもはや、学校の先生くらいになってしまいました。
そんななかだからこそ、政治も企業も効率よく「スポンサー」を得ようとしています。政治は大企業を、企業は資本家を贔屓します。ゴミの出し方とか子どもの明日の時間割とかそんな細々したことには気を配らなくても1日中365日お金を儲けることだけを考えていられる人がいわゆる「勝ち組」とされ、短期的な利益のためには「搾取」もいとわない世の中。誰もがそんなふうになれるのではなく、働いても働いてもちっとも生活が楽にならない搾取される側の人のほうが圧倒的に多いのが現状。(2002.8.30:10.31追加記載)



ケアリング&ナーチェアリング

「スローワーク」「スローライフ」で検索すると、特別な技術を持ち、職人技を極める人たちのサイトにヒットします。ポリシーを持って自分のやりたいことを極めるその姿勢はとても清清しい。2番目にヒットするのはNPOなどの非営利団体、もしくはワーカーズコレクティブなど市民の事業体。どちらの場合も、利益を得ることよりも、強い意思と信念のもとに誇りと夢を持って、仕事をすることじたいに価値をみいだす人々を紹介しています。

高度成長期以降、経済を支える生産活動だけが価値ある営みであるかのようにいわれてきました。またそのような仕事は貨幣的価値も高く、人々もそんな仕事を競って求めるようになると、世話をする(ケアリング)とか育む(ナーチュアリング)といった仕事は、社会的にも貨幣価値の低い仕事とされるようになりました。

人の営みには<仕事>と<余暇>ばかりではなく、次世代を育み老いていく人々を看取るという<生活>の領域があるはずです。しかし男女雇用の均等化は、そのような家庭的な責任を果たすことを棚上げにしたまま施行されました。頑張れば上に上がれる、ということは裏をかえせば頑張り続けないといけないということで、生活領域をどれだけ切り捨てることができるか(転勤、サービス残業etc・・・。)ということが、経営者にとってもっとも都合がいいのでした。

ということはつまり、被雇用者でいるかぎり、スローワークもスローライフも夢のまた夢、なのかなぁ。(2002.8.1)



「早くゴールをしたらもったいない」エコロジー少年、Sくん。

春のころ。二男とその友だちに連れられ(子どもが3人、大人はわたし。)ウオーキングに参加したときのこと。

いちばん短い距離とはいえ、参加コースは12キロ。初参加のわたしは、さっさと歩いてとっとと帰りたい。・・・そんなふうに思っていました。その不埒な気持ちを見透かしたのかどうか、「おばさん、早くゴールをしたらもったいないよ。」と参加者の友人Sくん。

「おばさん、そんなに飛ばして歩いたらバテるよ。」ではなくて「早くゴールしたらもったいない。」。

おばさんと呼ばれてむっとする年齢はとうにすぎているので(苦笑)それよりも、小学生の口からもったいない、なんて台詞がでたことのほうに新鮮な驚きがありました。2度目の参加という彼は、ほんとうに、ほんとうに楽しそうに歩く。

その楽しい気分は、歩き初めのときからぶちぶち言っていた、なんとなく参加してたもう一人のお友だちさえも、ゴールが近づにつれて残念がってたくらい。彼らを見てたら、「ほんとうはどんな子どももそのころの好奇心に見合っただけの時間の流れがあるのかもしれない。子どもを必要以上に大人の時間に会わせ過ぎちゃって、子どもも時計がおかしくなってきているかも。」などと思いました。首のうしろの三日月型の日焼けはそのときの気付きのしるし。(2002.7.24)



巾のある時刻表

6月の末のことです。とある勉強会に参加するために、東京にいきました。人波に乗れない、方向音痴、地図や案内図が読めない…迷うことは必死!と、早めに家を出ました。通勤時間帯はとうに過ぎていましたが、日曜日ということもあって、田舎の駅は町へ出たい人々でいつもより人が多い。自分が乗る電車が到着すると、降りるお客さんの中に、足がちょっぴり不自由な女の人がいました。電車からホームの段差にとまどっているように見えました。その様子を見て、すかさず、ホームにいる男性のお客さんが彼女を抱きかかえようとしたのです。しかし。

「あ、ごめんなさい、いいんです、時間がかかりますけど、自分で降りれますから。」

わたしはドキッとしました。そして、男の人の顔にもちょっと意外だという色が見えました。

降りてから彼女は言いました。「皆さん、見守ってくださって、ありがとう。」

★ ★ ★

とっても算数の苦手な男の子がいて、個人的に居残りをさせて、どんなに丁寧に教えてもちっともわかってくれない。
しかし、あるとき、まるでそれまで千切れていた線がやっと繋がったかのように「解った」りすることがあります。わかる直前に、何か外から働きかけがあったかというと、そうでもない。

★ ★ ★

お年寄や子どもや障害を持った人々に対して、健常者の時間にあわせた動作できるようにサポートするのが、支援や手助けと思っているフシが、もしかしたらあったかもしれない。もしもそうだとしたならば、どんなに個別に支援したところで、本人にとっては生きてる手ごたえよりも生かされてるという心苦しさがあるのかもしれない。
機が熟すという言葉があるように、時間が解決するという言葉があるように、タイミングや時間の経過が必要なことは世の中にはたくさんある。科学や技術が発達しても、譲れない時間の壁はやっぱりある。

 

いつまでにどれだけの成果をあげるか。
それをはっきりさせてこそ、ビジネスの世界では生き残れるのでしょう。
ビジネスの世界では時間はお金と同義語です。

しかし、ふだんの暮らしの中で自分らしく生きる、ということは、自分のリズムが尊重される、ということであって、そんな暮らしのルールまでもがビジネスルールで動いていたのでは、ほんとうにほんとうに苦しい。。

いろんな人がいろんなリズムで生きていく。自分ができる精一杯のことをやって、それが生きる糧となる。
そんなことを漠然と考える年齢になってきました。時間がかかってもいいじゃない。そんなにせかさなくたってさぁー。(でも仕事にいらない時間がかかるのはいやだ。その分、自分の時間が侵食されるから。)

このコンテンツがどう転がって行くかは見当がつきませんが、えいやぁ!とアップロードしてしまおう。(2002.7.11)