八高線事故から65年/ 2011.2.25 新型車両と事故碑
★2012.2.25で八高線事故から65年になる。事故時間の午前7時、八高線の高麗川発東京行きの直通電車が事故碑前を通過した。事故碑にはこの時期になると多くの方が訪れる。献花も一番華やかになる。早朝7時なのに献花が事故碑に飾られていた。事故を知る地元の方の厚意の現れだ。65年経っても、未だに事故現場は畑のままで、家は建っていない。細々と遺族の建てた慰霊碑が立つのみである。記念館や学習の看板の設立の話も出ては消え、出てはきえる。この場所に住む人々にとっては「忘れてはならない場所」である以上に「思い出したくない場所」である。当時の悲惨な状況を思い出すような資料や写真を展示する事は、ハッキリ言って「恐ろしい記憶」が蘇るだけで「眠れなくなる」という「感情」が存在する。鉄道チャレンジクラブで毎年、この事故を取り上げる事も、非常に、まわりの「厳しさ」を感じざるをえない。それでも、鉄道ファンだけには、知ってもらいたいと、こうしてホームページに掲載している。

★八高線事故現場のそばが鉄道チャレンジクラブである。毎年事故日になると多くの方が訪れる。その人たちのお話を聞くのも鉄道チャレンジクラブの使命のようになってしまった。御遺族の気持ちを考えると、逆なでするような事は出来ない。マスコミもこの時期となると、やたらと動き出すが、事故の風化はすすみつつあり、ひょっとすると、この町の人々すら、あの事故の事は知らないという世代も多いに違いない。そうした意味で、知らない人々に語り継ぐ事も大切な事ではあるが、それは、どうしたらいいのか、いまだに難しい局面がある。

★まさに鉄道チャレンジクラブ本部から事故現場は200メートルたらずである。毎日のように事故現場を通る。そこに立つと、どんな欺瞞もきれい事も皆吹っ飛んでしまう。うそつきやインチキは皆暴露されてしまう。いい加減な気持ちや、遊び半分の自分勝手ワガママは認められない。鉄道趣味を語る時、こうした歴史と事実をふまえて物事は語らなくてはならない。「電車大好き」だけでは人も歴史も見据える事は出来ない。いい加減な気持ちの鉄道趣味人は、ここに来て歴史を知るべきである。また鉄道に従事している人々も是非この場所に来て欲しい。事前にご連絡いただければ、少ない資料だが、鉄道チャレンジクラブでお見せする事もできる。

2012年の春に北海道から鉄道チャレンジクラブに御遺族が訪問された。八高線事故の事の詳細を鉄道チャレンジクラブのホームページで知ったという。お子さんがカナダでアクセスして御遺族のお母さんに知らせたという。そのお母さんのお母さんが何年か前に亡くなられ、その時、始めて自分の父が八高線事故で亡くなった事を知り、父親の姿を求めて、鉄道チャレンジクラブにご訪問になり、事故現場を見たいという事だった。そんな経緯で、鉄道チャレンジクラブは、「八高線高麗川事故」という30分のビデオを制作した。事故当時国鉄職員だった細田さんの撮影した事故現場の写真と、鉄道チャレンジクラブの撮った事故慰霊碑と御遺族の証言を加えた資料映像である。但しこの映像作品は著作権と肖像権の関係で、不特定多数への販売配布を目的としていないので、鉄道チャレンジクラブにて試聴しいいただく事のみである。



八高線事故の目撃証言

「あの日、2月25日は、よく晴れた日だった。丁度、学校へ行く時だった。当時小学4年生だった。学校は、あそこのセメント工場のある方で、高麗川小学校だ。当時の家はここではなく、線路の向こう側の小畦川の方だった。キーーと言う凄い音がしたので、いつもとは違うと思った。急ブレーキをかける音というか、線路と車輪のすれる凄い音がした。あの音は今も忘れない凄い音だ。機関車と客車1両は、高麗川側に走っていったようたが、直後、凄い地響きと音がして、土手の向こう側に轟音とともに土煙があがった。こりゃ大変だと、土手に向かい、土手にのぼってビックリした。客車が土手下と線路下に落ちて、メチャクチャになっていた。あちこちで、うめき声がして、いまでも、あのウメキ声は忘れる事が出来ない。近所の人がかけつけて、救助している姿がみえた。客車下に潰されている人を助けようと、テコで動かそうとするとすると、傾きの逆の方にも人がいて、痛い止めてくれと叫んでいた。助けようと手を入れると、埋まっている人が、皆助けてもらおうと、その手につかまるので、救助する人が、逆に引きずり込まれる形になっていた。凄かった。土手の上の線路には、今でも覚えているが、ゴールデンバットの煙草の箱が散乱していた。きっと食料買いだしの人が食料と交換しようと持っていたものらしい。そんな荷物があちらこちらに散乱していた。きっと客車に乗りきれない人が、客車のデッキにしがみついていて、放り出されたようだ。土手下にもリュックや人が散らばっていた。そのまま学校に行ったら、先生が、事故現場に行ってはいけないと、言われた。子供に悲惨な状況を見てもらいたくないからだろう。逆らって行くとブン殴られるので、近くには住んでいたが、その後、見に行ったのは、随分たってからだった。結局、この道は狭くて大型車は入れず、あとになって道路を造った。また、この付近には病院がないので飯能までケガ人を運んでいた。機材は、アメリカ進駐軍のジョンソン基地/現入間基地/から、運んで作業にあたったようだ。戦後間食糧難で買いだしの人が一杯乗っていた。ここも食糧難で、畑はやっていても裕福ではなかった。東京の人は八王子から八高線に乗って高麗川や武蔵高萩あたりまで買い出しに行ったのだろう。この慰霊碑が出来る前の木の墓標が、まだそのままここにまだそこに横たわっている。つい最近、この道路の整備が行われる前には、客車の洗面台が、埋まってカオを出していたいたが、無くなってしまった。客車の残がいも相当あって、向こうの森の方に捨てられたようだが、どこに行ってしまったかわからない。事故後も線路工事が繰り返されて、砂利が随分、このカープ下に捨てられた」

確かに、この慰霊碑の周りの土手の下には、鉄錆びのついた褐色の砂利が現在でも散らばっている。当時のものか、その後のモノかは分からないが、相当な年月を経過した「化石」のようになっている線路の砂利である。話を聞きながら土手下を歩いていると、事故車輌の一部と思われる錆びた鉄片がカオを出している。抜いてみると、客車の角を固定したと思われる鉄材に見えた。また、ひん曲がった枕木を固定するイヌクギもあった。形からして、今のモノではない。それらのものは、事故当時のモノかは分からないが、この場所を掘れば、相当な残がいが出てきて不思議ではない場所である。そっと、慰霊碑の横に置いておく事にした。1時間近く、お話を聞いて、改めて事故の恐ろしさが伝わってきた。日も暮れて、寒さが身にしみた。

鉄道チャレンジクラブとしては、八高線事故65年にあたり、近くに住む以上、これは、見逃してはいけない、地元の鉄道趣味人の義務として、この事故の事は、永久に語りつなげなければいけない。当時を知る証言者の世代も高齢化となり、生き証人もますます少なくなってきた。語りつながなくてはならない側の鉄道チャレンジクラブの清野浩志も若いとはいえない。しかし、事故は未体験ではあっても、様々な資料で、この事実は、まとめていかねばならない。


八高線高麗川事故資料

鉄道チャレンジクラブホームページ http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/