●会員の広場
◎{評論}蕪村の俳句 (第三回) 高野 冬彦(78歳)
生い立ち一父との関係
蕪村の謎はまだ続く。今度は父親との関係である。
「新花摘」の巻頭に並べられた俳句の内、最初の五句は彼が母親についての思い出を述べたものであることは前回述べた通りだが、続く第六句目だけが父親のことを詠んだもので、しかも深い謎に包まれているのである。
耳うとき、父入道よ、ほととぎす
一体何を言おうとした句なのか? 耳うとき入道とは誰のことなのか?
普通の場合なら「源氏物語」の明石の入道あたりを思い起こす所だが、この場合は「曾我物語」の伊東の入道の面影だろうと専門家は指摘しているのだ。
この入道は曾我兄弟の叔父で、伊豆の豪族である。京に出向して郷土を留守にしている間に、娘の三の君が当時伊豆に流されていた源頼朝と恋愛関係に堕ち、千鶴御前という子供まで設けるに至ったのであるが、それと知った入道は遮二無二立腹し、「かかる醜聞がもし清盛公の耳に入らば、家運もこれまでじゃ。」と、いきり立ち、孫にあたる千鶴御前を水に沈めて殺害し、兵を発して頼朝の討伐を図るという暴虐の領主として描かれている人物である。母と子の血を吐く思いの嘆きの声も、ついに耳に入らない父親への憎悪・反抗の声がこの句の裏にはどす黒く流れているように感ずるのは僕一人であろか?
一体蕪村と父親との間にはどんな矛盾・葛藤があったと言うのか? それが例によって一向に分からないのであるが、資料としては次のような奇妙な事実が存在するのである。
蕪村の門人、高井几菫に「夜半亭翁終焉記」なる文章がある。所が現在残されているものの他に、没とされた二枚の草稿があり、誰が何の為にかは分からぬものの、二度に渡って修正が施されているのである。
特に注目されるのは、その冒頭、蕪村の出生に関する部分である。
第一稿ではこう書かれていた。「おしてるや難波津の辺り近き、村長の家に生い出でて― 」 所がこれがまずかったらしいのである。第二稿では、村長が郷民と書き直され、それでも何処かさしさわりがあったらしく、決定稿となった第三稿では「おしてるや難波津に近きあたりに生い立ち―
」と、具体的なことは全て省略して、追悼の辞としては異例の曖昧さを残したものになったのである。
几菫といえば、蕪村が自分の後継者として、「雪中庵」の名跡を継がせた人物、いわば子供のような存在である。師匠の経歴を知らない筈はない。それが敢えて筆を曲げて曖昧さを残したと言うのは、「村長」などと書いて、「ああ、やはりあの家の―
」などと余計な詮索をされたりすることは、先師の遺志に添わないのではないかと気がついたのかもしれない。それ程深い秘密だったのである。
何しろ自分の姓氏にしてからが、始め名乗っていた谷口というのも母方のものだったそうで、後に母が死んで、その実家とも縁が切れてからは、その郷里の名を取って「与謝」をもって姓とし、父親の姓は終生用いる事はなかったのである。
それならこの父親の本名は何というのか?― それがわからないのである。
「本朝画人伝」の与謝蕪村の巻で、作者の村松梢風は彼の出自について、
「大阪、阿弥陀ヶ池の商人、北国屋吉兵衛の倅で― 」
などと気軽に書いているがのだが、一体どんな資料によるものなのか、教えて貰いたい
ものである。また別説によれば、毛馬村の豪農、丹北屋某の子供だなどというのもあるが、豪農が何で屋号などつけるのだなどと因縁をつければきりの無い話で、結局の所何もわかっていないのである。
「こんな状態で、親子の関係はどうなっていたのか?」
心配される向きもあるかと思うが、やはり想像通りだったようである。
大阪の俳人・田宮橘庵の書いた「おこたり草」という書物に次ぎのような文章がある。彼は蕪村とは反対の派に属する人だったから、真相暴露といった形で蕪村の裏側をあばいたらしく、それだけに真実に近いと言えるかもしれない。
「夫レ蕪村ハ父祖ノ家産ヲ破尽シ、身ヲ洒々落々ノ域ニ置テ、神仏聖賢ノ教エニ遠ザカリ、名ヲ売ッテ俗ヲ引ク逸民ナリ。」
とにかく手に負えない放蕩息子で、家の財産を食いつぶしかねない危ない時代もあったのであろう。ただそれも、偏に世間体ばかり気にして、家の体面をつくろうためには自分の子供を産んだ女でも、容赦なく犠牲にして恥じない父の俗物性に反発し、哀れな母親に味方しようとした詩人の潔癖さの現れであったとすれば、まんざら同情の余地が無い訳でも無いようである。
蕪村の遊興放埓がどれほどのものであったか、それは分からないが、兎に角彼は二十歳になるころには、この乱脈な家を飛び出し、江戸という新しい天地に移り住んでいたようである。彼が自分の意志で家出したのか、或いは久離切って勘当され、人別を抜かれるに至ったのか、その辺りの所はさだかではないが、いずれにせよ最終的決裂に至るまで、たいした時間はかからなかったようである。
結局親子の関係は断絶した。しかも修復の機運は終に訪れず、蕪村はその後68歳の生涯を終えるまで、到頭一度も父祖の村には足を踏み入れることは無かったのである。遠い母への追慕・哀惜の念が深ければ深い程、その反動のように父への嫌悪の思いは増幅されたのであろう。不幸な境遇だったと言わざるを得ない。
ただ不幸をバネにして、独自の道を果敢に生きて行くのが芸術家だとしたら、蕪村は正に芸術家たるべく生まれてきたと言えるのかも知れない。
-------------------------------------------------------------------
◎ 仏訳:ポケット論語 (4) 柴田 雅寛 (62歳)
<第3章>
我は日に三たび我が身を省(かえりみ)る。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか。(学而第1−4)
1) Huang英訳
I daily thrice examine myself. In counseling men, have I not been wholeheartedly
sincere ? In associating with friends, have I not been truthful to my word ?
In transmitting something, have I not been proficient?
2) Lau英訳
Every day I examine myself on three counts. In what I have undertaken onanother's
behalf, have I failed to do my best ? In my dealings with myfriends have I failed
to be truthworthy in what I say ? Have I passed on to others anything that I
have not tried out myself ?
3)柴田仏訳(traduction francaise)
Tous les jours je fais des retours sur moi-meme a maintes reprises. Est-ceque
j'ai fais de mon mieux pour l'interet d'un autre ? Est-ce que j'ai ete fidele
a mes amis en ayant des relations avec eux ? Est-ce que je n'ai pas parle de
ce dont je ne suis pas competent ?
---STUDY--- <論語のキーワード>
〔忠〕
.◆忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず If I do my duty to my lord, I shall fail in my duty
to my father; if I do my duty to my father, I shall fail in my duty to my lord.
◆職務に忠 to be faithful to one's duties
◆主義に忠 to be true to one's colours
〔信〕
◆信あれば徳あり Faith begets virtue.
◆彼の話は信を措くに足るか Is his account trustworthy? ―reliable?
◆ 朋友信有り Friends should be faithful to each other.
---COMMENT---
これは「孝経」を著した曾子の言葉。「三省」は三度ではなく「しばしば」の意味である(渋沢論語)と。「省みる」について「顧りみる」にした方がよいかどうか調べた結果、「回顧省察」するということなので、原典通り「省みる」にした。
渋沢論語の中に次の記載あり:「余は曾子三省の実行を今日の青年諸君にお勧め致します」と。終日、回顧省察するのも結構であるが、たまには自分の感性に従って、突っ走るのもよいのではなかろうか。
「三省」が出てきたので、「三樹」と「三学」を思い出した。
三樹:一年の計は穀を樹(う)うるに如くはなし。
十年の計は木を樹(う)うるに如くはなし。
終身の計は人を樹(う)うるに如くはなし。(管子・権修)
三学:少(わか)くして学べば壮にして為すあり。
壮にして学べば老いて衰えず。
老いて学べば死して朽ちず。(佐藤一斎・言志晩録)
最近、小泉首相が、この「三学」をよく口にされる。2月28日の小泉内閣メルマガに次の記載があった:
「元気なお年寄りもたくさんいます。ボランテイアで社会に貢献している方、まだまだ現役の方、"壮にして学べば老いて衰えず" "老いて学べば死して朽ちず"と生涯学習でこれから新しい挑戦を目指す方など、さまざまだと思います。
50,60花ならつぼみ。70、80花盛り。100になったら実を結ぶ。
私の好きな言葉です。」
これまでの首相は、心に沁みる言葉を吐くことは、あまりなかったように思う。一国の首相たる者、須らく竜が火を吐くような言葉を吐き、須らく言行一致(知行合一)であって欲しいものですネー。
∬∬∬ 閑話休題 ∬∬∬
ここで一寸「論語」という言葉の訳を見てみたい。
研究社和英中辞典では、 the Analects of Confucius と訳されている。Analectsとは「(小文などの)選集」である。他方、ジーニアス和英辞典では、the
Discourses of Cofucius と訳されている。Discourseとは「講話、講演,論説、論述、論文」である。
試みにNEW斎藤和英大辞典で「論語」を引いてみると、やはり、The Analects of Confuciusであった。ついでに、次の文例もピックアップした:
◆ 論語読みの論語知らずだ He is a learned fool―"A mere scholar, a mere ass."
◆ ああいうのを論語読みの論語知らずというのだ. He is what you might call a `learned fool'.
次に論語を英訳したChichung Huangは"The Analects of Confucius"と題しているし、D.C.Lauは"Confucius-
The Analects"と題している。
他方、フランス語では、 "Entretiens de Confucius"となっている。Entretienとは、「会談、対話、話し合い、面接」の意味である。念のため、仏英辞典で調べる
と、"interview","discussion"となっていた。
最近、「NOVA」で面白い言葉を覚えた。今流行りの「在宅勤務」である。英語では、
在宅勤務する= telecommute
在宅勤務者= telecommuter
在宅勤務をすること= telecommuting
「tele」はギリシャ語で「distance」即ち、「(長い)距離を(定期券で)通勤・通
学する」ことである。
他方、フランス語では、
在宅勤務= teletravail(英訳すると:telework)
在宅勤務者= teletravailleur(男性), teletravailleuse(女性)(英訳すると:teleworker)となる。
フランス語は、毎年フランス学士院(アカデミー・フランセーズ)がその言葉をフランス語として認可するかどうか厳しくチェックする。「在宅勤務」の概念から見ると、仏語の方が、理にかなってはいるが、どうも言葉に勢いがないように思う。
他方、英語の方は、「長距離通勤する」ということで、在宅勤務と理屈に合わない面もあるが、何か言葉に勢いがあって、Magic Monkeyこと孫悟空が?斗雲(キントウン)に乗って10万8,000里を一気にネットサーフィンするイメージが湧く。
歴史的に見ると、英語は5−6世紀にゲルマン民族がブリトン島で作り出したものであるが、1世紀から11世紀までは、支配階級はラテン語を日常語として使い、1066年のノルマンの征服以降は、フランス語が公用語として使われ、国会ではフランス語、科学・宗教分野ではラテン語、文学ではギリシャ語が使われるという状況であった。14世紀になって、初めて英語が国会で使われたということであり、裁判所で使われたのは18世紀になってからである。それまでは、英語は語彙が少なく、品性もなかったので、"street language"と呼ばれていた。ところが、現在では、全世界の4人に1人(15億人)が英語を喋っている。
ベストセラー本 "The Story of English"(written by Robert McCrum, Robert MacNeil,
William Cran published by Faber and Faber Limited, U.K.)によれば、OXFORD英語辞典(OED)には50万語が収録され、その他に約50万語の技術・科学用語が未分類の状態にあるが、ドイツ語の語彙は18万5千語、フランス語は、10万語しかない。現在、世界の郵便・テレックス・電報の3/4は英語で書かれているそうである。
他方、フランス語の凋落は目を覆うばかりである。かつては、世界の外交語として、権勢を振るったが、今では、アクセント文字を割愛しないと、フランス以外では、E・メールの交換もできない。「NOVA」のフランス語の先生もこれだけは我慢できないと切歯扼腕している。ナポレオンやドゴールの再来を願っているフランス人もいるのではなかろうか。一昔前、フランスは、ピレネーの向こうは、ヨーロッパではないと豪語していた。イギリスなどは、"Outre-Manche"即ち、「ドーヴァー海峡の向こうに(住む輩)」と呼んでいたのだ。
脱線ついでに、2月25日の新聞情報によれば、米国の辞書(American Heritage College 4th Edition)に次の新語が収録された由:
1) weaponize
2) nine one one, nine eleven, 9/11(9月11日のテロ事件)
3) Taliban
4) Burka
日本語も最近、 "karoshi"や"keiretsu"がOEDに収録されたが、現在定着している
のは、次の言葉であろうか。
1) tsunami 2) sushi 3) mikado 4) samurai 5) shogun 6) ninja 7)geisha
欧州では、2月17日を以って、仏フラン、ドイチェマルク、リラ等が姿を消して、統一通貨ユーロが出現した。通貨は統一されたが、言語は当分は現状維持とのことだ。近い将来、英語に統一されるのであろうか?
イギリスはユーロに加盟する方向にはあるが、本当に加盟するのだろうか?
「論語」の英訳・仏訳から始まって、日英仏の文化・言語比較論にまで脱線してしまったが、この機会に、1990年以来英国に在住の歌人渡辺幸一氏を紹介したい。氏は何年か以前の「朝日歌壇最優秀賞」も受賞しており、現在は馬場あき子の主宰する結社「かりん」の中堅メンバーでもあると、これは、同氏が英国で主宰する「欧州短歌会」のメンバーである家内から仕入れた知識だ。氏は1997年に「霧降る国」という歌集を角川書店より出しているが、その中では英国における日本人の差別問題などが鋭く歌われている。海外勤務で苦労した経験もあるので、短歌には門外漢である私も、大いに共感を覚えるのである。
移住者を二級市民(セカンドシチズン)と蔑みし白人ありき永く忘れず
窓枠にJAP(ジャップ)とナイフで刻まれし汽車に揺られて通勤しをり
日本人の我を無視して白人の派閥一気に保身に動く
黄色人(イエロー)は黄色人(イエロー)であるほかなし
靴音たてて地下鉄(チューブ)に向かふ。
その夜はしたたかに酔ひ帰り来て解雇のことを妻に語らず
渡辺氏の短歌は、おりおりに紹介したいと思ってます。
-------------------------------------------------------------------
◎ 海のシルクロードを西南へ (3) 大竹 漠洲 (61歳)
「南インド・カンチ―プラムのヒンドゥー寺院には悠久の時の流れを感じます」
私たちをカンチープラムという町が迎えてくれたのは、雨で塗れた車窓から遠望できた「エカンパレシュワラ寺院」の高い"門塔"でした。"門塔"とは、ヒンドゥ−教寺院の東西南北四方の入り口に造られた門の上に、ヒンドゥ−教の神々の像を天まで届く高さに飾りつけた塔を云います。初めて見る人でその異様さに驚かない人はいません。この門塔は、聖地と俗地を区切る結界の役割をしているようです。
この門前には全インドから集まった巡礼者の善男善女が群をなして歩き、その間を自分の世界と言わんばかりの顔をして、牛がゆっくり歩いています。バスは目的の場所までなかなか進めません。今まで見たことのない世界が、目の前に広がっています。5200年も前から南インドのドラヴィド人が、この世界の中に生き続けてきたことは、驚きです。インドでは、すべてのヒンドゥ−寺院や聖地に入るには、我々日本人も彼らと同様に、裸足かソックス履きになるのが規則です。「郷に居れば郷に従え」が我が主義ですから、靴も靴下も脱ぎ去り、巡礼者と同じように裸足(もともと巡礼者は裸足ですが)になり、門塔から本堂へ通じる、雨水の溜まった砂利道を歩きました。日本では最近裸足になったことがありません。道の小石が足裏にあたり痛く感じます。でも寺院内の建物は石畳でひんやりと冷たく、外気の暑さを和らげてくれて爽快です。裸足は自分の体と心を解き放ってくれるように思えました。
この「エカンバレシュワラ寺院」は、ヒンドゥー教の主神であるシヴァ神を祀っています。本堂内に入ると、信者に供えられた菜種油の匂いとジャスミンの香りが身体を包み込んでくれます。堂内には灯明が薄明るく灯り、主神の首に掛けられたジャスミン・プーが強い香りを発していました。何故か本堂に近い所に、インドの駄菓子やチマキを売る店がありました。初めは熱心な信者のための食物と思い、興味をもってみていましたら、信者の集団がその菓子を買い、本堂の周囲に祀られている神々の内の一つに、その菓子を分け供え、頭を深く下げて祈っていました。そして祈りがすむと残りの菓子を皆で分け合って食べていました。ガイドに聞いてみると、これは儀式の一つで自分の信仰している一つの神に菓子を供えればこの寺院にいる全ての神々に供えたことになるそうで、神々の数が多いヒンドゥー教では効率的です。また残りの菓子を食べることは、神々のご利益を受けることになります。
上半身裸で裸足のバラモン僧が、本堂や寺院のあちこちで信者にバラモンの儀式を行っており、金銭を供した人々の額にヒンディーを印していました。一般の信者に混じって、全インドの聖地を巡礼している集団が、黒い巡礼服を身につけて熱心に祈っていました。昨日空港で出会った一団は、マレーシアのヒンドウー教の巡礼団でした。
この寺院の中には、悠久の時が流れているかのような錯覚さえしました。次から次えと供えられる灯明で光が揺らいでいます。この瞬く光を見つめて記憶の片隅から突然、密教を中国に伝えたインドのバラモン僧・金剛智が、この土地の出身であることを思い出しました。そして日本に伝わった密教の"火"との関連について考えてみました。先ず"火"を神聖視したゾロアスター教(拝火教)は、紀元前にペルシャで生まれました。このゾロアスター教は後に西と東に分かれて伝わり、東ではヒンドゥー教の儀式に取り入れられ、アーリア系の人達とともに入ってきました。ここでバラモン僧であった金剛智は、この"火"に関わる密教的な部分を中国に持ち込みました。中国では、仏教聖地の一つ五台山の金閣寺で密教学としての体系が成されていました。この金閣寺で修行した恵果は、この密教の教義・儀式を西安の清竜寺において空海に授けられたことは、歴史的事実です。
突然、雨が激しく降り出しました。寺院の中央には、大きな正方形の沐浴上がありますが、そこでは熱心な信者が雨に打たれ沐浴していました。水面には雨による波紋が、無数に広がっています。久しぶりの裸足の感触を味わいながら、寺院を後にしました。
-------------------------------------------------------------------
◎ 『エルサレム』 その6 野崎 誠介(65歳)
エルサレムの旧市街は、オスマン・トルコ時代の16世紀中頃に建設された約1km四方の城壁で囲まれている。現在の城壁には、八つの門がある。北東から時計回りにみていくと、まず「ライオン門」(LION'S
GATE)別名「「ステファノ門」(ST. STEPHEN'S GATE)がある。前者の由来は、門の上部にライオンのレリーフがある事から、又、後者の名称はキリスト教の歴史の極く初期に、この門の近くでステファノが殉教した故につけられたものである。
この門には数多くの弾痕があるが、これは1967年の「六日戦争」の際、イスラエルの空挺部隊が旧市街へ突入する前後に、ヨルダンのアラブ軍団と交戦した名残である。
門の内部にはイエスが病人を癒したと伝えられる「ベセスダの池」の跡があり、門の外には「ゲッセマネの園」、イエスが復活後昇天したと伝えられる「昇天教会」等、キリスト教関係の史跡が数多くある。
やや南にあって、神殿の丘に最も近いのが「黄金門」(GOLDEN GATE)であるが、今はレンガと漆喰で固められた「開かずの門」となっている。ユダヤ教の伝承によれば、最後の審判の日に救世主(ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリスト)がこの門から入場するという。アラブ側がこれを怖れて門を封鎖したものである。門の外のオリーブ山にはユダヤ人墓地があり、此処の土地代は世界一高いと言われている(多分日本を除いてであるが)。何故かと言えば、最後の審判の日に死者が甦える時、この墓地に葬られた人々はメシアに従がって最先に城内に入れるからという。フランスの女流作家
E.アベカシスの小説「クムラン」では、主人公が黄金門から城内に入るという大胆な発想である。
キリスト教はユダヤ教から分かれたが、両宗教の最大の相違点は「救世主」についてであり、ユダヤ教ではメシアは未だ現れていないのに対してキリスト教ではイエスを救世主(キリスト)としている。
南東側には「糞門」(DUNG GATE)がある。日本風に言えば「不浄門」である。嘆きの壁や神殿の丘を訪問するのにはこの門が最も便利である。
城壁の南側には「シオン門」(ZION GATE)があり、曽ってこの門の付近にはユダヤ教のエッセネ派や初期のキリスト教徒が住んでいたと伝えられている。門の外には「最後の晩餐の部屋」と呼ばれているものがある。これは実際にはあり得ないものゝ、この付近でイエスと弟子達が最後の晩餐をもった事は充分あり得よう。
シオン門の南側にキリスト教徒墓地があり、「シンドラーのリスト」の主人公オスカー・シンドラーの墓がある。ユダヤ系のS.スピルバーグ監督の映画を御覧になった方は御記憶と思うが、映画は第ニ次大戦中のポーランドのクラコウが舞台であり、白黒の暗い画面が多い。最後の場面は戦後となって突如として鮮やかなカラーに変わる。シンドラーのお蔭で生き延びたユダヤ人達がエルサレムのシンドラーの墓石の上に小石を置いていく。背景の音楽は第48号(2月号)での「その3」でお伝えしたエルサレムの市歌「黄金のエルサレム」であった。
西側にあるのが正門とも言うべきジェファ門」(JAFFA GATE)であり、第一次大戦中の1917年に英軍のアレンビー将軍がこの門からエルサレムに入城した。門から直進して途中で左折すれば「聖墳墓教会」へ、又、直進を続ければ嘆きの壁に至る。ジェファ門の隣にはヘロデ大王が建設した要塞の跡がある。現在は誤って「ダビデの塔」と呼ばれているが、ダビデ王とは全く無関係である。
北西には「新門」(NEW GATE)があるが、特筆すべきものはない。
「ダマスカス門」(DAMASCUS GATE)は東エルサレムのアラブ人街に近く、又、長距離乗合タクシーの乗場があるので年中混雑している。この門から余り遠くない処に「園の墓」(GARDEN
TOMB)があり、英国の「園の墓教会」が管理している。イエスが磔刑を受けて埋葬されたゴルゴダの丘の跡と言われている場所は、「その3」でお伝えした通り、現在は城壁内にある。この教会によればゴルゴタの場所は「園の墓」であるという。この場所は1894年に発見され、ゴードン将軍がその説を強く唱えたので「ゴードンのカルバリ」と呼ばれている。尚、ヘブライ語のゴルゴタとラテン語のカルバリは共に「されこうべ」を意味する。現在の雰囲気からすればこの場所がそれらしく思えるが共に確証がないので全くわからない。
最後に北側に「ヘロデ門」(HEROD'S GATE)があり、アラブ人居住区に通じて居り、門の外側には「ロックフェラー考古学博物館」がある。
以上が現在のエルサレム城壁の八つの門についてであるが、当然の事ながら現在では残っていないものの方が遥かに多くの歴史と伝承を物語るのである。今から約3000年前のエルサレムは数メートルの地下に眠っている。
---------------------------------------------------------------------
◎ 水のこぼれ話 世界ぶらり水の旅 中国編(2) 安見昭雄 (66歳)
** 中国のシンボル、悠久の大河「黄河」のあれこれ **
中国を訪れると、どこに行っても、「黄河」の話題を耳にする。それだけ、中国の人々にとっては、「黄河」が生活の原点であり、誇りであり、憧れでもある。彼等は口にこそ出さないが「黄河なくして、中国を語るなかれ」と自負しているようだ。それだけ、中国人には「黄河」が大きな存在なのだ。中国の人たちは、黄河をよく「龍」にたとえる。雨が降り続き洪水を起こし、黄土を削って田畑や村まで飲みこんでしまう激しい流れの黄河は、まるであばれ龍のようだし、反対に太陽の陽射しを受けてゆたったりと流れる黄河は、また竜の落とし子のように可愛らしく見える。
では、その偉大な存在であり、見る人たちを感動させずにはおかない黄河は、どのような役割を果たしているのだろうか。順を追って説明しよう。
<「黄河」の発生>
黄河は中国の北部を屈曲しつつ西から東に貫通する大河である。古くは単に「河」または「河水」と称していたが、その水が多くの土砂を含んで黄色を呈するために黄河の名が生じる。全長は5646キロメートルで、渤海湾に注いでいる。その広大な流域の中・下流域は、長江流域(揚子江流域)とともに、中国古代文明の開花した所である。黄河の源は、標高4000メートルを越す雄大な青蔵高原に端を発する。この源はまた、長江と同じであり、中国第二の大河である。
<黄河流域の気候と黄砂のもたらすもの>
流域は大陸性気候で、年降水量は400〜500ミリメートルであるが、蒸発量がいちじるしいため川に供給される水量は少なく、流域の植生も貧弱である。7月に年降水量の5割が集中して降り、年々の変動率も大きい。河南省陜県における観測によれば、冬季は流量毎秒150立方メートル以下になるが、春から夏には400〜1400立方メートルとなる。また黄河は昔から「河水一石、其泥数斗」といわれるが、陜県における観測によると、1立方メートルの水に含まれる土砂量は年平均34キログラム(最大含有量は580キログラムにも達する)で、世界の河川中第一位である。この土砂は主として山西・陜西の黄土地帯を南下するときに西岸の多くの支流によって運び出されるものであって、これが下流域陜に堆積して華北平野を形成したのである。しかし多量の土砂の堆積のために下流域においては、河床が両岸堤防外側の地面より高い天井川となり、出水時には堤防が破壊されやすく、周囲の人たちを恐怖に巻き込んでいる。
以上のような条件が重なり、黄河は過去3000年の間に、なんと2年に1回の割合で氾濫を繰り返しており、黄河発生時に比べその水路もしばしば変更している。
** 黄河の夏季の増水のもたらすもの **
夏季の増水は
1)信水 (融氷のころのもの)
2)桃花水 (清明節から立夏のころのもの)
3)瓜蔓水 (夏至のころのもの)
んどと呼ばれ、洪水さえ起こさなければ、農業用水として利益が多い。灌漑水路網の建設は明・清時代から盛んに行われ、中流では中衛、銀川、五原、包頭付近に発達し、渭水流域では河の利用が進んでいる。そして、数多く渠(きょ)によって灌漑する。
** 黄河の水害の根絶と黄河の水利の開発 **
黄河は華北の大平原を形成し、流域の農業に大きな利益をもたらしたが、反面、洪水による人命財産の損失は甚大で、黄河は「中国の憂患」と云われ続ける。しかし、人民共和国成立後、すでに人民勝利渠(衛河への分流)や河南・山東省境の遊水池(臨時に毎秒500立方メートルの洪水を引き入れることができる)などの完成によって、洪水の被害はいちじるしく軽減される。さらに1950年には、「黄河の水害を根絶し黄河の水利を開発する総合計画」が公表され、黄河中流域の黄土地帯における土砂の流失を防ぐ工事や、面積2350平方キロメートルにおよぶ三門峡貯水池を始めとする数々のダム建設が完成する。また長期にわたる計画としては、黄河をはしご段状の河に改め、本流に46ヵ所の水利センターを設ける。
また、最近では、黄河流域の植樹が各ボランティア団体によって行われるなど、洪水防止に対する対策が年々着実に進められている。洛陽の流域でも、ポプラ並木が生前と植えられ、緑の葉が大気を吸って生き生きと育っている。
** 黄河の土砂流失の現状と対策 **
黄河は年間11億トンにものぼる土砂が流れ込むと云われ、この流失土砂により河床が10センチづつ上昇して、現在では4〜7メートルの天井川になっている。この莫大な土砂は河道や河口に堆積し、以前は3年に2回の割合で氾濫を繰り返してきたが、解放後両岸の堤防の嵩上げを完工した結果現在まで約40年間は、大きな水害はないと云われている。
現在でも嵩上げは依然として続けられ、10年間毎に1回堤防を1メートル高くつくられている。この土砂の流失によって以前に比べ黄河の水位が全体的に低くなったため、貨物などを運ぶ船はなくなったと聞く。
また、洛陽の黄河流域で河から大量の土砂を水とともにポンプで汲み上げているのを目にしたが、これは建築用に使用するという。
** 荒れ狂う黄河を治める「三門峡ダム」**
河南省の北西部、黄河中流に位置する峡谷で、荒れ狂う黄河の治水に成功したのが三門峡ダムである。市となったのは1957年で、それ以来、瀧海線の要所として、軽工業を中心に発展している。付近には考古学的に重要な文化遺跡が多い。
長さ約7キロメートル、幅400メートルあまりの渓谷で、河中に神門、鬼門、岩石島の3島があり、流れを3つに分けているところから名付けられたという。年々発生する黄河の洪水の被害を克服すべく、1957年にダム建設に着工し、長い年月を経て、1963年にようやく完成する。現在では発電、防洪、灌漑など多面的な機能を持ち、遊覧区を設け、観光にも一役買っている。
直通の特急列車で北京からなんと14時間、上海からはそれより遠く驚く無かれ20時間もかかる。瀧海線を通る列車のほとんどが三門峡西駅に停車する。 中国は、広くて、遠い。
<転載:工業用水 第521号 2002年2月 >
〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
◎ ≪ひとこと≫
☆ 天地のメール配信読みました。株価上昇から中国経済、また孟子や論語からフランス語まで多彩ですね。(wabisuke;新規会員)
> -------- 仏訳:ポケット論語から-------------
> 「上善は水の如し」(水の如く無為自然に生きよ)
> 「長生久視」(楽しみながら長生きしよう)
> -----------------------------------------------
「上善如水」はお酒の名前だと思っていました。「長生久視」はいい言葉ですね。中野区丸山集会室の合言葉にいただきます。未熟ですが短歌ニ首おおくりします。
新しき職場への道の花マップ ミモザの黄色今朝は加える
憲法にオゾンホールのあるようなその危うさをまた思いおり
イスラエルとパレスチナの事も ゆっくり読ませていただきます。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
● 世事有情
☆遅い時間にJRの電車にのりました。立っている人はまばらで、疲れからか大半の方が居眠りしていました。突然、車内放送が聞こえてびっくりしました。最近JRに限らず私鉄でもよく聞く「車内では、携帯電話使わないで下さい」というアナウンス。乗り物各社は、携帯電話の使用について目の敵にしているように感じられる。「ペースメーカーの使用者への影響がある」としても「周辺のお客への迷惑」「トラブルの発生」は、車内アナウンスが引き起こしている面もある。携帯電話の利便性が、社会生活にプラスの影響を与えている事も間違いない。電車事故があっても、連絡の為に走り回る事はない。ハード先行でソフトの遅れがちな日本社会、電車内の使用について、一番前、或いは一番後ろというように使用可能な専用車両を設けるべきと思う。(I.H 65歳)
☆天地の事務所がある神田小川町界隈は学生が多い。ちょうど入学式シーズンなので、母と子のペアーをよく見かける。親が学校に来るのは、問題を起こした時だけという時代に育ったシニアには、男子学生の場合は特に違和感を覚える。最近の大学入学式は、大型のイヴェントホールを借り切って行うほどに親の参加が多いようです。数年前、早稲田大学のオープンカレッジ(社会人コース)の入学式に参加しましたが、あの井深講堂が満席でした。いずれにしろ、日本人はイヴェント好きです。(T.T 64歳)
● 提供情報
■ お知らせ 展覧会、音楽会 イベント
◎シニア海外ボランティア募集説明会(JICA)各地 18:30〜
2002年4月15日(月)船橋市中央公民館、
4月17日(水)川崎市産業振興会館、4月17日
4月22日(月)新宿区安田生命ホール
◎シンポジューム「暮らしの中の電子政府 eデモクラシー」
”おまかせ民主主義から、ほんもの民主主義へ”
2002年5月22日(水)午後 会場:経団連ホール
■ おすすめ図書
・「和算忠臣蔵」鳴海風 講談社 2001
和算の達人で吉良邸の警護をしている上杉家の武士を主人公とし、名人になれなかった元碁師の安井春海を脇役に、朝廷と確執ある幕府が赤穂浪士の討ち入りを容認していたとの異色の筋書き。フィクションであるがしっかりした資料を参考としている。
・「ゼロから始める Web デザイン」高橋晃 西東社2002
いわゆるホームページの制作にあたりその基本的技法をわかりやすく説明。
■ 有用URL 最近目についた Web サイト
<生活>
http://www.hosei.org/ 法政大学エクステンション・カレッジ。社会人向け
<ICT;I+Communucaion+T>
http://www.hansardsociety.org.uk/ ハンサード(英国議会議事録)
〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・
● 事務局から
・最近の中国に関心はあるが、暫らく行ったことが無いという方が結構います。上海在住の兪教授(現在、県立長崎シ−ボルト大学国際情報学部国際交流学科教授・50号、52号寄稿あり)にお願いして、今夏に見学、交流、観光をそれぞれ3分の1
ずつという旅行を、天地シニアネットで企画しております。お目にかかった方にお薦めしていますが、とりあえず関心のある方、事務局まで早めにご連絡ください。
・天地のH.Pに「ネットワークテーブル」の1号から収録してありますが、寄稿文で連載されたもののうち主なものをまとめて、プリントアウトしています。「シニアの健康実践」「京の寺社・第一部」「俳句・東京詩情」「回文」等々。実費で御送付しますので、お申し込みください。なお今後、季刊号としてまとめる予定ですが、個別に頒布できます。
・会報郵送の場合毎月1回プリントしてお届けします。実費1通分200円
振込先:三井住友銀行神田小川町支店 7871532 テンチシニアネットワーク
・配信不要の場合はご一報ください、中止いたします。
=================================
天地シニアネットワーク事務局 (津田孚人、小俣光夫、小作暁介)
〒101-0052 東京都千代田区神田小川町1−6−21−2F
TEL&FAX 03−3254−7321
E-Mail tenti@mvc.biglobe.ne.jp
URL http://www5a.biglobe.ne.jp/~tenti/