1. 私の大学院体験:ケーススタディ

1-1 学部時代

私は地方の国立X大学の理学部を卒業したあと、科学哲学を学ぶために同大学の文学部哲学科に学士入学しました。専攻は、アングサクソン圏で優勢な、一般に分析哲学と呼ばれるものであり、その中でも特に帰納の問題、因果、法則、反事実的条件文の問題などに興味を持っていました。だが、大きな希望を持って文学部に再入学したとたんに、理学部との違いに面食らうことになりました。理科系では、まず…を学び、次に…を理解すればこれが理解できるという段階が明確です。従って教育体制がよく体系化されており、教官もこの体系に十分な配慮をもって教育を進めるのが普通です。しかし私が入学した文学部哲学科ではまったく違いました。哲学以外の言語学や心理学ではいかにも入門コースといった楽しい講義もありましたが、哲学の講義では、どの教官も自分の専攻の細かい問題を取り上げ、それは一般の学生や初心者が聞いてもまったく理解できないものでした。とくにギリシャ哲学専攻のC教授の言っていることはほとんど全く理解できませんでした。彼は最前列に陣取った数人の自分の教室の大学院生だけと時々会話を交わして満足している様子でしたが、残りの学生の冷ややかな視線には全く気が付いていないようでした。また現象学とニーチェが専攻のB教授は椅子に座ったまま自分の論文を読み上げるだけといったひどい手抜き授業をするので有名でした。また彼は、自分は満員電車に乗るのが嫌だから学者になったんだ、と公言していました。(ただし公的な場では「書斎人への憧れから哲学者になった」と言っていますが。)また、演習では、いわゆるステューピッドクエスチョンが歓迎されないのに気が付きました。はっきりとした解答してもらえなかったり、あるいはあたかも進行を妨げる不愉快な存在と言わんばかりの扱いをされることがほとんどでした。特に分析哲学専攻のA教官は、演習で私のスチューピッドクエスチョンに露骨に嫌な顔をし、いらない発言はするなと言い、質問には答えませんでした。そして次の学期から急に、大学院生は参加自由だが、学部生は原稿用紙20枚の論文を提出せよ、と言い出しました。この条件はそれまではなかったものですが、誰を排除したいのかは明らかであるように思えました。(付け加えておきますが、この演習は大学院生も学部生も出られると規定されていました。)その他の教授のほとんどの演習は昨日学部に上がってきた学生からオーバードクターまでごちゃ混ぜで、初歩的な文法の話が続くかと思えば最新の論文の話題がそれに続くという頭の混乱するばかりのものでした。そして何より授業科目の中に哲学史がないのには驚きました。これは教育というものに対する配慮の欠如の象徴であるように思えました。これらの状況には本当に呆然とするばかりでした。このようなことは決して理科系では考えられないことで、どのような教官でもそれなりにまとまった授業を行い、質問にはたとえそれがつまらないものであっても丁寧に解答してくれるのが普通でした。(上手さや熱意に濃淡はありましたが。)理解できない講義を聞いても時間の無駄であって、自然と出席しなくなりましたし、また演習では、質問に答えてもらえないのも邪険に扱われるのも快いものであるはずもなく、ただ黙って座っているだけとなりました。私は、このような「授業」や「演習」を行うことを、彼ら教授は教育であると考えているのか、非常に大きな疑問を持ちました。最も勉強したかった哲学とはどのようなものか全く見えないまま、こうして二度目の学生生活は当惑と迷いの内に過ぎていきました。

もともと学問がやりたくて学士入学したのですから、大学院に進むのは最初から決めていたことでした。学部の段階で既にひどい違和感を感じながらも、それが実はどのような状況かを認識できなかった私は、愚かにも同じX大学の大学院に進むことに決めました。ほとんどの大学では、文科系大学院の修士課程の試験として外国語二つと専門の試験、および論文審査が課せられます。文系の学問では語学が基礎ですから、当然のこととしてまず外国語は絶対に落とせません。これは当然として、問題は論文です。私の提出した論文は、残念ながら混乱した怪物でした。そのようになった理由は後に述べることにして、次の点は学部生の人は特にしっかりと記憶に留めておいてもらいたいと思います。最も大切な点は学問には水準というものがあるということです。まず初心者は学問の基本的な形を知らねばなりません。具体的には、ある問題を取り上げるなら当然知らねばならないこと、当然読んでいなければならない論文、当然言及するべき話題というものがあります。そしてそれをまとめる論文にも一定の形式があります。議論の展開の仕方、その際の言い回し等がそれにあたります。このような基本を守らないのものは素人の雑文でしかありません。素人にしばしば見られる欠陥を列挙してみましょう。まず一番多いのがひとりよがりな議論、具体的には必要な文献を全く読んでいないのに自分の言いたいことだけを書き並べたものです。また全く読んでいないというのではないが、文献の読み込みが足りない人も非常に多く見られます。具体的には、一連の文献の自分の気に入った一部分だけを摘み食い的に読んだだけという症状がほとんどです。(これはまさにアマチュアとプロフェッショナルを分ける点で、プロというものは専攻分野に応じた一定の範囲は、自分の好き嫌いにかかわらずすべて一定の水準まで勉強しているものなのです。)また読んだ部分についても生半可な理解しかしていないことが多く、そのせいで議論がとんでもない方向に進んでしまうものも非常に多く見られます。とにかく論文を書くためには、まず論文をきちんと読むという訓練が絶対に欠かせないのです。さらにその後今度はきちんと論文を書くという訓練が必要になります。この段階では、内容に関することはもちろん、議論の進め方や引用の仕方など一定の「作法」を身に付けることが最重要課題となります。このような作法を守らないものは論文の名に値しないと評価されるのは当然です。私の提出したものはこれらの欠陥すべてを持ったものでした。しかし当時は自分の論文がそこまでレベルの低いものであるとは全く認識していませんでした。言い替えれば、私は単に論文を読んだり書いたりする方法を知らなかったというより、学問を学ぶこととは何かというもっと根本的なものを全く知らなかったのです。

さて、そのような状態だった私は、大学院修士課程に通ってしまいました。このことで私は、自分の書いた論文、学問に対する姿勢などは正しい方向を向いているという誤った発想を持ってしまいました。今から思えば、あの時点で落とされていればその後の悲劇を避けられたかと思うと、落されていた方が幸せであったに間違いありません。また落されていたならその時点で何らかの反省をし、行動を起こすことによって、自分の置かれた状況やX大大学院のレベルについてもっと早く認識できたかもしれません。結局そのような素人そのままの態度のまま修士課程に進んだせいで後に私は非常に痛い目に会うことになります。

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