1. 私の大学院体験:ケーススタディ

1-2 修士課程時代(前半)

修士に進学した私は、明らかにまずい立場に立っていました。私の専攻する分析哲学が専門の教官はX大にはA教官一人しかいませんでした。そしてこのA教官は、文学部ではなく教養部の教官であり、規則上指導教官とすることができない上に、例の理不尽なレポート提出を命じたり質問しても邪険に扱われるだけという演習の主でした。私はこの教授の演習に出ることを放棄しました。そして、止むを得ず分析哲学はまったく駄目なニーチェと現象学の専門家のB教授を指導教官とせざるを得ませんでした。このB教官は例の有名な手抜き教官でした。彼は手抜きだけでなく、身内しか出席しないのを良いことに、連絡もなしに演習に来なかったり、ある時間の演習を勝手に一学期間中止したりと好き放題のことをやっていました。私はこの教官の演習には(指導教官の演習であるから規則上当然ですが)ちゃんと出席していたのですが、彼は学生が自分の知らないことを知っていることはありえないと思っているらしいのか、ここは分析哲学ではこうなっていると話題を振ってもまったく聞いてもらえませんでした。このような環境で、私は一人で勉強を続けるしかありませんでした。自分では勉強をしているから良いだろうと思っていました。その当時はそれがいかに馬鹿げたことかが分からなかったのです。

二年経って博士課程への進学を迎えることになりました。博士への進学は、修士への入学とは比較にならない厳しい関門です。内部の人間の進学の際には、審査は殆ど論文のみで決まります。問題はその審査です。大学院博士課程のあるぐらいの大学なら、哲学のなかでもさらに細かい分類(例えばギリシャ哲学・中世の哲学・近世の哲学…など)について、それを専攻する教官をそれぞれ少なくとも一人づつぐらいは揃えているのが普通です。当然、例えば中世哲学を専攻した学生の論文は中世哲学の専門家が中心になって審査することになります。中世哲学を専攻する学生を審査する中世の専門家、というのは、早い話指導教官に外なりません。通常修士段階の学生は指導教官の演習にまめに出席し、論文作成についても構想の段階から十分相談しているはずです。当然ですが指導教官との意志疎通が不十分なら間違いなく落とされてしまうということになります。私は、専攻している分析哲学の「専門家」のA教官の演習には出席せず、指導教官のB教授の演習に出席していましたが彼の専門は畑違いだったことを思い出して下さい。私の置かれていた立場からはどのような結果が生じるか明らかでしょう。論文の審査会では分析哲学のA教官からは罵詈雑言を浴びせられ、専門違いの指導教官Bはそれを聞いて、お前はもう哲学を止めろと言い出す始末でした。もっともこの分析哲学の教官が指導教官であったとしても、結局演習に出ていない私がパスするはずはありません。たぶん多くの人は「先生と良い関係を作っておかないほうが悪いに決まっている」と言うでしょう。しかし、次に述べるように問題はこのA教官の資質にありました。

論文審査で落とされて、私は困惑してしまいました。分析哲学のA教官の批判がまったく理解できなかったからです。それは単なる罵詈雑言であり、単に私の論文をよく読んでいない(「僕は昨日の夜これを読んだんだけど」という一句を極めてはっきり覚えています)だけでなく、どうも論文で取り上げた主題の背景を知らないらしいように感じました。これは驚くべきことでした。話の都合上細かいことになりますが少し我慢して下さい。私の取り上げた主題は「出来事」というものでした。これを論ずるのには様々な方向がありますが、私はデイビッドソンという人の説を中心に取り上げました。これには理由がありました。デイビッドソンの「出来事」への関心は「行為」という別の主題と大いに関係があります。一方このA教官は行為論が専門であるという触れ込みでした。しかも彼のしばしば言及する論文は、私が取り上げた論文と同じ論文集に入っているのです!私としても、「出来事」という主題をデイビッドソンの線で取り上げておけば、このA教官も必ず読んでいるはずであり、色々なところでしばしば見られる、専門違いの人間の間での噛み合わない議論も避けられるだろうという計算があった訳です。それだけに、まったく読んでもないし知りもしないとしか思われないA教官の反応がいかに大変な驚きだったかを理解してもらえるでしょう。それ以上に、彼の罵詈雑言からは、論文のどこがどう悪いのか、悪いとすればどう書き替えれば良いのか、あるいは主題そのものを変えたほうが良いのか、といった点がまったく分からなかったことには困り果ててしまいました。これでは次の対策の立てようがありません。しかしこのA教官も国立大学の助教授(当時。X大出身の生え抜きでした。)であって、いくら学生に嫌がらせをしたり質問を受け付けないといっても、その学問的能力を疑うよりは先に自分の能力を疑うほうが学生として順当でしょう。

そこで私は、他大学からX大大学院に来た先輩の紹介で、その大学にいたD先生に論文を読んでもらうことにしました。この先生は後に重厚なシリーズ本を出して有名になるのですが、その時はまだ知る人ぞ知るという人でした。彼は、先輩の電話一本で、その場で電話を代わった私のお願いを気軽に引き受けてくれました。そしてその結果は驚くべきものでした。まず驚いたのは、丁寧にいちいち箇所を挙げて批判した手紙を受け取ったことです。見ず知らずのものにここまで手の掛かることをする親切さは、これまでの大学教授に接した経験に照らして、全く信じられませんでした。そして内容的には徹底的に批判されていました。しかしその批判は、まずこちらの言いたいことをこうであろうとまとめ、つぎにしかしここはこれではこうおかしいという見事なものでした。(もっともそれ以前に何を言っているのか分からないと指摘された所も多数ありましたが。)頭の良い人だと聞いていましたが、その切れ味は恐ろしささえ感じるものがありました。そして批判の内容は私を納得させました。いくつか反論したいことはありましたが、罵詈雑言には反論したいと思わせる点はそもそも見出せないものです。こうして私の分析哲学のA教官に対する疑いは、単に私の見当違いではないことを確信できました。また論文の欠陥も学問的に明確な形で明らかになりましたし、何よりこれで自分の取るべき方針がはっきりしましました。

ケーススタディ:目次


表紙