1. 私の大学院体験:ケーススタディ

1-4 博士課程時代

博士課程の学生は、いわばセミプロです。学会にも所属できるようになるし、発表するものは業績として扱われます。そして指導教官の持つ重要性がそれまでと比較にならないほど大きくなります。例えば、論文を書いたとしても、誤りはないか、それが学問的水準に達しているかどうか、そうでなければどう直したら良いのかなど細部にわたって教官の意見を聞く必要が生じます。また、翻訳の一部を分担させてもらったり、学会で他の先生に紹介してもらって知名度を上げるとかの活動も極めて重要です。そしてなにより就職に際して様々な「援助」「プッシュ」が必要となります。いわゆる先生−弟子という関係は、博士課程になってから始まると言って間違いありません。その結果、学生と指導教官との関係は非常に微妙なものになります。そういう訳で、学会などで、尊大な様子で何かを言っている中年と一生懸命その顔色を窺ってその話を拝聴している若者や、不機嫌そうに何かを言っている老人と頭をペコペコ下げて謝っている若者が居たら、それは博士課程の学生とその指導教官であると見て間違いありません。大学というところはあらゆることが下のものの目には見えない雲の上で決まってしまいます。教官の機嫌を損ねてしまったり、無能な親分、勢力のない親分についてしまったなら、特別な事情がない限り学者としての将来には望みはありません。ましてや親分がいないというのは論外です。私としても自校の内部にそのような親分を見付けることができないのなら、外部にそのような人を早急に見付ける必要がありました。

こうして何らかの対策を探っていたとき、入会したばかりのある学会の会員名簿で、分析哲学の分野でかなり多くの本を出しているF教授が隣の市にある大学に移っていることを知りました。この距離(D先生は関東に移ってしまい、半径400km以内で分析哲学を専攻している研究者はわれらのA教授だけでした。)なら通って直接教えを請うことができるかもしれません。この教授はそれまでは長く東京の一流大学にいたので、田舎の、それもあまり評判の良くない(しばしば新聞の社会面に登場していました)大学に移っていたのは意外でした。ただ、彼は多数本を出していましたが、そのほとんどが多くの人から強く批判されており(彼が出したアメリカのP教授の本の翻訳は「Pの名前で出ている不思議な本」と呼ばれています)、学問的には非常な不安がありましたが、もう何にでもすがりたいような気持ちでした。また信じられないほど運の良いことに、アルバイト先で知合った大学院生がこの大学に講師として就職していました。この好運に私としてはやっと大学院生活の中で一条の光を見た思いでした。そこで早速この講師に連絡を取って、F教授を紹介してもらうことにしました。彼からF教授に話をしてもらった後、直接電話でお願いして、ちょうど学内で発行している論文集に発表する予定だった論文を郵送して読んでもらうことにしました。ところがいつまで経っても返事が来ません。論文の締切は迫ってくるし、これには非常に困りました。大きな仕事が入って後回しになっているのかもしれないし、催促でもしようなら、これまでの大学教授の振る舞いからして「読んでやっているのにせかされる筋合いはない」等と嫌味を言われるのは目に見えています。動きが取れないまま、駄目でもともとと思っていたので諦めてこのまま論文を提出しようと考えていたとき、一ヵ月程たって返事が来ました。それには「私はあなたの友達でも何でもない」などとあって、たいそうご立腹のご様子でした。もちろん論文についての細かい評価はなく、ただ駄目だとだけ書いてありました。また、F教授の存在を知る前にはこの論文を提出しようと考えていたので「自分としてはこれを決定稿と考えている」と書いてしまったところ、「決定稿なら自分が読む必要がないだろう。誰に対してもこのような言い方をするのは失礼だ」とありました。(皆さんも「決定的」などの表現には十分注意するようにして下さい。)手紙の書き方が悪かったのは明らかでした。もちろん返信用の封筒を入れるなどの点は押さえていたつもりでしたし、これまでの経験から教授様に話し掛けるとき、特にお願いをするときには失礼な言い回しなどに極度に神経を使うべきであることは重々承知していたつもりでした。しかし私の場合、仲介もあったし、一度電話でお願いしている(しかもこの時の対応も失礼なく切り抜けた)のだからと、つい気が緩んでしまって「前略、先日お願いした論文を送ります。どうかよろしくお願いします」程度の簡単な手紙を(しかもこの論文は「決定稿」だと言って)書いてしまったのでした。たとえ仲介もあるし、一度電話でお願いしているにせよ、手紙を出すのは初めてなのであるし、はるかに目上の人に手紙を出すのですから「謹啓、先日来の勝手なお願い誠に恐縮に存じます。このような混乱した幼稚な論文で先生の研究時間を妨げるのは誠に心苦しいのではありますが、他に相談する人もなくぜひとも先生のお力にすがるしかありませんので、どうかどうか…」といった文章を書かねばならなかったのです。大学教授に対する言葉は最大限の注意を払わねばなりません。彼は一ヵ月間怒りを堪え、頂点に達してこのような怒りの手紙を書いたのだと思います。さてその後のことですが、仲介者とこの教授様にお詫びの手紙を書く一方、論文を読んでもらう人を急いで探しましたが、心当たりのあろうはずもなく、結局切羽詰まって再びD先生に頼ることにしました。しかしこの時にはD先生からも返事はありませんでした。私は論文を出すのを諦めざるを得ませんでした。(後で分かったのですが、運の悪いことにちょうどこの時D先生の父上が亡くなられて、私の論文どころではなかったのです。)F教授にお詫びの手紙を出して半月ほどして、ご機嫌を直されたのか、F教授からもう一度読んでやろうという有り難いお手紙が来ました。しかし私にはもうどうでも良いことでした。

このことが駄目押しとなって、私はすっかり大学教授が恐くなってしまったのです。これはレトリックではなく、本当に恐いのです。教授の前に出ると頭が締めつけられて痺れるように感じ、ほとんど口がきけなくなるのです。一時は、テレビに大学教授が出てくると、こいつからいじめられている学生がたくさんいるのだろうという考えが反射的に頭に浮かんで離れず、耐えられなくなってチャンネルを変えるほどでした。しかし大学教授が理解できない、恐い、というのは、私の側に責任があります。いくら一般社会と違うといっても、彼らの常識はイコールこの業界の「常識」なのですから、この業界の中では私は非常識人、アサノタクミノカミなのです。前に書いた通り、この世界で生きてこうとするなら、論文を読んでもらうにせよその他様々な援助を頼むにせよ、あらゆることで大学教授に「お願い」をせねばなりません。それなのに大学教授が恐いのでは話になりません。私は、もはやこの業界でやってゆくのは絶望的であることを悟りました。一旦見えたと思った希望が、想像もできなかった悪い結果に終り、鬱病も再びぶり返してきました。

この後に起きたことについては、色々書きたいこともありますが、特に印象に残った出来事を書くのみに留めます。まずそれまで一度も出席したことのなかった隣の研究室(別の学科)のある教官の演習について是非書かねばなりません。この研究室の助教授(当時)はハイデッガーが専門ですが、興味の展開するままに様々な本を演習で取り上げて読んでいました。その彼がウィットゲンシュタインから発展してフレーゲの「算術の基礎」を読むことになったという話を聞いてこれに出席することにしたのです。この助教授の演習はしばしば4時間以上に及ぶ上に出席者に要求するものも高く、厳しいので有名でした。最初は単位欲しさの選択でしたが、出席してみるとこれまで経験した演習とはまったく違うのに気が付きました。まずこの教官は出席者の様々な発言をきちんと聞いて、全員で理解を深めようという姿勢がはっきりしていました。そうなるとこちらも下調べに力が入るし、出席に際しても厳しさの中にも楽しさが感じられるようになりました。出席者には分析哲学や論理学に明るい人はいませんでしたが、それでも大勢で知恵を出し合いながら綿密に読むと、相当に、正直言って期待していたものを大幅に越えて理解が深まりました。たとえ専門が違おうとも、十分な好奇心と学究心を持って臨めば大きなものを得ることができるのです。これは非常に大きな驚きでした。その一方で、これまで出席してきた演習は何であったのかと思うと虚しい気持ちにならざるを得ませんでした。さらに、もし優れた分析哲学の専門家によってこのような本格的な演習が行なわれていたら、ただそれに出席し続けるだけで非常に多くのものを得られていたでしょう。いやそんなことは通常当たり前で、博士課程になって「大きく驚く」ほうが異常なのでしょう。きちんとした演習ばかりに出席している人は、多分私の言うことそのものが理解できないと思います。いずれにせよ教官の資質の差について再び考えさせられた出来事でした。

さらに私にとって大学院生活で最も大きな衝撃となる事が起きました。先にも少し触れましたけど、軽やかに知と戯れているように私には見えた大学院生のことです。彼も分析哲学を専攻していましたが、このような状況であるから多分彼も困っていたと思います。その彼が、東京の有能な分析哲学の教授の許に、私淑するような形で学ぶことになったのです。勿論費用はすべて自費ですし、学籍を残していてこちらの大学院にも学費も払っています。私が永年苦しんできたことも、金さえあれば「だったら出ていこう」と簡単に解決できるのです!そんなことは勿論分かっていたましたけど、実際に目の前でそういうことが起きるとさすがに大きな衝撃でした。さらに追い打ちをかけるように、彼の首都圏に移っての活躍を見た、やはり分析哲学を専攻している大学院生が、首都圏に移っていたD先生の元に国内留学をすることに決めました。この学生の実家は医者で、やはり裕福な暮らしぶりでした。私はあせって、学術振興会の奨励金に応募しようと考えました。その支給額は東京での生活にも十分なほど大きいけど、当然競争も激しく、さらに文系には冷たい傾向があります。駄目でもともとでしょうが、応募せざるを得ない気分でした。私は研究内容をまとめ、指導教官のB教授に推薦書を書いてもらいに行きました。しかし彼はそのまとめを見ようともせず、お前のやっていることは分からないから推薦書は書けないといって突き返されました。これが長い間大学院で受けた屈辱の総仕上げでした。もはや他の選択肢は全く見出せず、私は大学院をやめました。

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