4. 追記
4-1 カウント3000のタイミングで
(1) 消えた指導者 (出版された情報より)
本サイト立ち上げの動機の一つとして、誰もがアクセスできる大学院のダークサイド情報が余りにも少ないという実情を挙げて来ました。私の知る限りでは、過去に出版されたものの中で、自らの経験としてこれについて述べたものはただ一つしかありません。それは
原田浩二「研究テーマより大切な指導教官」(川成洋『だから教授は辞められない』(ジャパンタイムス、1955)所収
です。(ただし、雑誌についてはできる限り気を付けてはいますが、すべてに目を通すのは不可能なので、私の知らない情報があるのかも知れません。)これは私立大学の人文系大学院での事例という大変珍しいものです。内容を一言で要約しますと、在院中に指導教師が転任してしまったというものです。この教師は日本一のT大出身者だったのですが、後任の教授はその次とされるK大の出身で、前任者の教師の影響をすべて排除しようとする中で、著者も翻弄される経緯が描かれています。本文中でしつこく繰り返しましたが、大学院生にとっては指導教師がすべてです。それが消えてなくなるというのは予想できる最大の悲劇であり、致命的出来事であることは本文を読んで頂いた方には良く理解できると思います。(もちろんその後にもっと良い指導者が着任するという可能性もあるでしょうが、この事例の場合そこでも最悪の可能性が実現したわけです。)
しかし、このような惨劇は比較的しばしば生じることであると思われます。研究者からしてみればより良い環境を求めて移動するのは当然かつ正当な行為で、「自分が指導する大学院生は可哀想かもしれないが、そのために自己を犠牲にするなどありえない。まあカルネアデスの舟板さ。」といった所でしょう。私もこのような事例を聞いたことがあります。これはもっと悲惨で、ギリシャ哲学を専攻していたのに、指導教師が転任して学内にギリシャ語の読める教師がいなくなった、というものです。学内にギリシャ語に堪能な教官は一人しかいない大学は沢山あるはずです。ギリシャ語のように他の専攻の教師が片手間に指導することのできないような高度に専門的な能力を必要とする分野を専攻する学生は要注意です。とはいえ、学問とは大なり小なりそのようなものであり、指導教師が「消える」ことは大学院生にとって死刑宣告に相当するものであることはかわりありません。一度ある学部生が、退官間近な有名教官に師事したいと言って修士に入学した例を見たことがありますが、このサイトを見て頂いた方はこれがいかに馬鹿げたことかを理解されると思います。大学院に学ぼうと言うものでこの程度の計算もできないものは最初から落後する運命にあります。
ある大学院生がこのような悲劇に遭遇する確率は、指導教師の年齢、才能、そして彼が所属する大学の「階位」と深い関係があります。まず分かりにくい「階位」から説明しましょう。例えば私の所属したX大学は研究者のキャリアとしてば「上がり」に近い大学で、ここに着任した教師がさらに他大学へ転任することはまずありませんでした。(一度日本で二番目といわれるK大学から若い助教授が着任したことがありますが、いかにも切れ者そうだった彼は早々に母校へ帰りました。彼は着任したX大大学院の惨状に愕然とし、嫌悪していたという噂を聞きました。これは在院中に私の見た唯一の例外です。)このような大学では指導教師が「消える」という可能性はほとんど考慮する必要はありません。病気や事故を別とすると、「消える」可能性は退官のみですが、これは計算可能です。(もっとも再就職先の私立大のポストが偶然空いたので、急きょ退官を決めたと言う例も見ました。大学教授も再就職は大変なのです。)問題はアカデミックキャリアとして「振り出し」や途中段階と見なされる大学の大学院で生じると見て間違いありません。出版された上の事例も小田急沿線の富裕層の多い私立大での出来事で、これに合致します。それではその「階位」とはどう決まるかなのですが、一つの尺度は一般的な意味での大学の「階位」とほぼ合致すると見て良いと思われます。そしてもう一つ忘れてはならないのは「関東、関西>>地方」という物差しです。地方国公立大学→関東、関西の有名私立大学という移動は若くて優秀な研究者に非常に良くられる見るパターンです。(このパターンは、研究環境のみならず収入面でも多いに魅力があるはずです。)文系のアカデミックキャリアの「階位」はこれらの尺度の微妙な絡み合いによって決定されています。キャリア官僚の「階位」ほど明確ではありませんが、大雑把に言って、地方の一般大学は「振り出し」、関東、関西の大学は「上がりか、上がりに近い途中段階」そしていくつかの特定の国立大学は「上がり」と言えるでしょう。(理科系の場合研究環境の魅力が大きくものをいいます。すなわち、研究を進めやすい所=豊富な研究費が得られる所=結局有名国立大学、となります。結果は同じでも理由は大きく異なります。さらに言えば、理系は成果の客観的評価が明確なので、所属大学の「階位」に拘る発想は希薄です。)
もちろんほとんどの研究者は普通より階位の高い大学での研究を希望するでしょう。しかし一方で全ての研究者の希望が叶うわけでないのも当然です。所属大学の移籍は、研究者の才能と年齢という二つの要素で決まります。若くて優秀な研究者は他大学から求められることも多く、一般に流動的です。一方、高齢だったり無能だったりする研究者は移籍したくてもできないのは容易に想像が付きます。そのような研究者はたとえ「振り出し」に所属していても、移動はありえないでしょう。(また国立大学を定年となった高齢の研究者は、私立大学の箔付けによく利用されます。上の事例の、後任の教授もこれ。もっともこれは「消える」ではなく「現れる」ほうですが。)このように、自分の指導者が「消える」かどうかは、指導者の年齢、才能、所属大学の階位によって微妙なバランスで決定されることになります。
上の手記をまとめた方は消えた教師に対する怨みごとを綴っていますが、確かに学部生の段階からこれを予測するという知恵は働くものではありません。しかしその一方で、こうした事態はこれまで述べた通り予測可能な範囲のものです。大学院選びはただでさえ微妙、複雑かつ困難なものですが、ここで述べたことも大学院選びにおいて重要なファクターになるはずです。くれぐれも失敗のないようにして下さい。