4. 追記

4-3 カウント7000のタイミングで


(1) 再び大学院における「教育」について

私は体験談やその評価の中で、X大学大学院に置ける「教育」について多くの疑問を投げかけました。その評価を変える気はありませんが、これについてしばしば持ち出される批判について(本サイト立ち上げの趣旨からは外れてしまうのですが)ここで考えてみたいと思います。その反論とは「小中学生ではないのだから、大学院にも進んで『教育』を期待するのは幼児的な甘えである。」というものです。

ここで言う「教育」が小中学生的なそれであれば、この批判は全く正しいと思います。しかしいくら何でも、大学院にまで進んで小中学生的な手取り足取り式のそれを求めたり、得られないと言って不満を言ったりするものは少ないのではないでしょうか。(余談ですが、しかし現実には極めて小数ですが自分の指導する学生を着せ替え人形のように手取り足取りで指導する教師もいます。そのような学生を見るたび従順な小型犬を思い浮かべるのは私だけでしょうか。大学教授恐怖症に陥ってしまったような私には羨ましいと思われる反面、一人立ちした後はどうなるのかと余計な心配をしてしまいます。)

それでは大学院における「教育」とはどのようなものでしょうか。私個人の見解ですが、私が大学院における「教育」として期待していたのは次のものでした。
a) 研究上のちょっとした疑問に対する回答や助言や、研究を続ける上での方針に対するより大きな視点での助言。
b) 学問を為すこととは一体どのようなものかを手本として示すこと。
これらは指導者がなすべきことだと考えますが、a)について言えば、質問をまとめたり自分なりの計画を立てるところまでと、助言を受けた後それをどう活かすか、b)について言えば、そこで示された手本から何を学ぶかは学生の側の責任であると考えます。a)については自分の関心が指導教師のそれと完全に重なっていれば良いのですが、人文系の場合そうでない場合も多く、「完全な」回答や助言が得られないのはしかたないと考えます。重なりの範囲に比例した助言があれば問題は無いでしょう。またa)は学生側の働きかけから始まるものであり、受身の姿勢で期待するべきものではありません。

そして、私は特にb)を重要であると考えています。その点隣の研究室で体験したフレーゲの演習は(私の勝手な基準で行くと)質の良い大学院教育の見本であったようと考えます。長時間にわたって緊張した空気の中で綿密に論文を読むこと、様々な意見に対して客観的で真剣な討論を繰り返すこと等、これを体験して学問を為すこととはどういうことかを理解できなければ、もう大学院に学ぶ資格はないと言えるでしょう。(終った後は心身ともに疲れ果てたのは事実ですが。)彼は決して声高に「論文はこうして読むものだ」「討論とはかくあるべきだ」などとは述べませんでした。彼はまさに行動で手本を示していたのです。また私にとって転換点であったと言えるのは、最初の修士論文を読んで頂いたD先生の批判でした。今考えると、実にいい加減な軽い気持で、しかも混乱に満ちた怪物のような論文を送りつけたのですから失礼と言うより無礼というレベルの行為でした。しかし、そのような論文に対しても綿密に目を通し、できる限りこちらの真意を読み取ろうとし、しかもきちんと場所を挙げて理路整然と批判が為されているのを見て、私は自分がいかにいい加減に論文を読んで来たか、いかにいい加減に論文を書いていたかがやっと理解できたのでした。D先生はそのような私の欠点を明確には述べてはいませんでしたが、批判という形でそれを私に知らせてくれたと考えます。私が「手本を示すこと」と言うのはこういう意味に使っています。このように自ら手本を示す指導者の背中を見て学ぶのが大学院というものではないでしょうか。またそういう意味で逆に指導者は変な手本を示さないようにするべきです。専攻と少し離れた他領域に興味を広げることは、たとえ自分にとって良いことでも、それがどのような影響を学生に与えるかまで十分に考えておかねばならない、そこまで考えるのが指導者だと言うことを本分中でも指摘しましたが、これはそのような意味で述べたものです。

私がX大学大学院における「教育」について疑問を抱くのは、この(私が勝手に考えた)基準で考えると、そこには「教育」は無かったとしか判断できないからです。本文に挙げた通り、a)に対しては拒絶や嘲笑、b)に対しては無計画かつ無気力な一連の演習が、私の経験した「教育」でした。もとより、そのような経験をしたということにおいて私の側に責任がない、とは言えないかもしれませんし、私の勝手な基準を押しつけて一方的に断罪するのは一面的なのかも知れません。しかし私を「開眼」させてくれたのは(体験記に述べた通り)すべて所属研究室の外での出来事であり、さらに中だけに居たなら永遠にこのようなことには気付かなかったであろうということは確かです。私としてはX大学大学院に対する評価を変える必要はないと考えています。

このように主張しても、なお「大学院で『教育』を期待するのは甘えである」と批判する人は、次のように言いたいのかも知れません。すなわち、お前の言う基準a)b)は確かに理想的なものかも知れない。しかしたとえそのような「教育」が望めない環境でも、そこに文句を付けるだけのお前の態度は甘い。それを乗り越えてこそ真の研究者なのだ。どのような研究室もそんな完璧な「教育」のある所は無いし、事実俺はそれを乗り越えて来ている(来た)、と。はっきり言っておきたいと思います。この見解は「異常」です。私が新たに節を立てて再び大学院における「教育」について触れたのは、このような第二の解釈が蔓延することの異常性を指摘したかったからです。何故この解釈が異常なのかを、少し遠回りをしますが以下に述べてみます。

この数年来、高級官僚、警察組織の腐敗、職場や教育期間におけるセクシァルハラスメント等、一般社会人の常識を逆撫でするような事態が次々に判明しています。私には、これらはすべて「一般社会では通用しないが組織内では通用していたローカルルールが、その組織内でも通用しなくなって来た」という過程であるように見えます。高級官僚が利害関係のある業者と持ちつ持たれつの関係となること、警察が警察の都合を最優先し、警察のなすことはすべて絶対に誤っていないと主張すること、これらはその組織内では空気のように当り前のことで、逆にそれに対して疑問を呈したり異を唱えたりするものは、ルールをわきまえない「非常識人」としてそこから排除されるのが当然だったでしょう。しかしそのルールは、官僚として、警察として、一般社会人が当然期待するものとはかけ離れたものでした。国民の利益のために働くこと、不正を摘発し、国民の安全を守ること、こういうことがこれらの組織に対して一般常識を持つ社会人が素直に考え、求めるものであったはずです。しかしそこではちょうどまったく逆のルールが支配していた点に多くの国民が激しい怒りを感じたのです。そして、その組織の論理に頭の先から爪先まで長年に渡って浸かっているものは、それにまったく気が付かないか、あるいは完璧なダブルスタンダードを使い分け、外部に対しては一般常識論で、内部に対して内部常識論で対応していたか、いずれにせよ組織内部における常識を疑うことも無かったし、いわんや変えようとは夢にも思っていなかった、そういう点がさらに一般常識人の神経を逆撫でしたのです。そのルールが裁判の場その他で一般社会の前に明らかになったとき、それは常識の範囲内であると判断されるか、どのような組織もこれを基準としたルールに従うべきなのです。

さて大学院についてはどうでしょうか。一般社会ではこれは研究・教育機関であると考えられています。事実そこでは「講義」や「演習」があり、「授業料」が徴収されています。そこに属する学生は、一人前の研究者とまでは行かないが、一般の大学生でもない、つまり自ら研究を進める一方で今だ指導を受ける必要がある(その繰り返しで螺旋状に成長するべきである)、常識ではこう期待されるはずです。しかしもし大学院に教育の要素がまったくなかったなら、それは社会の常識とはずれてしまっていることになります。例えば寿司屋に弟子入りした職人の卵が「まともな指導がなかった」と訴えたなら、世間ではそれは受け入れられないでしょう。寿司屋は(技術を習得する場ではあっても)決して教育機関とは認識されていないからです。しかし大学院は明らかに教育機関である(側面を持つ)組織であると認識されていますし、外見から見ても「講義」「演習」「授業料」と教育機関である様子を見せています。もしそこで教育と言うサービス(大学や大学院での教育をサービスと言うだけで激烈な拒否反応を示すものさえいます)を提供する必要は無いと主張するのなら、大学院は自ら、大学院とは教育機関ではなく寿司屋のような技術習得の場であると宣言し、「教授」は詐称なので「教室運営者」と名称を変更し、「授業料」は「設備利用料」と名称を変更して適切な額に変更するべきです。(そこまでするなら、大学院は教育サービスを提供しない場であっても構わないと思います。)逆に大学院は教育機関であると主張したいのなら、質の悪いサービスを提供する組織やサービスそのものを提供しない組織を排除する方向に進むべきでしょう。こうしてはじめて一般社会人が素直に考える常識と大学院の実態が一致することになるでしょう。(ここではもちろん、国公立大学は当然として、私立大学にも多額の国民の税金が注ぎ込まれていることを忘れてはなりません。)

さて(第二の解釈の意味で)「甘え」批判をなすものには、(一般に教育機関とされている組織である)大学院での「教育」の現状には目を向けようともせず、それを批判するものを甘えと判断しています。そのようなものには一般常識レベルの視点が恐らく完全に欠落しているのではないかと考えます。あるいは次のような作り話が分かり易いかもしれません。むかしある公害垂れ流し企業はその職場環境も劣悪で、長く勤務していると鼻の中の隔壁が融けてつながったと言います。さて、(ここからは作り話ですが)その現場では鼻の中がつながってこそ一人前で、そうでない若造はあらゆる面で控えめな態度を取るべきだ、という空気があったとします。そこへ新しく入って来た新人の職人が鼻に穴の空くような職場は異常であり、団結して経営者に改善を申し込もうと訴えたとします。これに対して古参の職人が、鼻の中もつながっていない若造が何を生意気なことを言うか、と批判した…私には(第二の解釈の意味での)「甘え」批判はこの古参職人の発言と同質であるように思えます。自分も自分の周りもずっとそうだった。甘えたことを言わずお前も従え、という訳です。確かにこれまでの大学院では、質の悪い教育サービスを提供したり、サービスそのものを提供しなかったりすることは、特に問題にされることもないその世界での常識でした。そしてこのような状況を「常識」として受け入れた上で、これに疑問を呈するものを甘いと決めつけているのがこの第二の解釈での批判です。このような「ローカルルールで一般常識を裁く」という現象は官僚でも警察でも、頭の先から爪先までローカルルールに浸り切ったものに共通して見られることです。彼の頭にはローカルルールがあるのみです。このような発想を持つものが、大学院生、まして既に大学で教育を施す側に立っているものの中に多数紛れ込んでいるのなら、大学や大学院が変ることはあり得ないと思います。官僚や警察などの一般常識とかけ離れた常識の支配する組織が変って来なかったのはこのせいであるし、もちろん大学院もそうであると考えます。もう一つ指摘したいのは、このような批判が有効であると見なされ続ける限り、大学教師は楽な人生を過ごし続けることができると言うことです。何もしなくても良いのですから。

本サイトが想定する読者は(しつこくて申し訳ありませんが)、これから人文系大学院に進む方です。そういう方にとっては、とりあえず自分が不利益を被らないためにはどうしたらよいかが主な関心であって、このような「大学院とはどうあらねばならないか」という議論は当面別にどうでも良いことでしょう。(もちろん私に取ってもどうでも良いことです。)ただそういういう方のために(わざわざ指摘することもない当然のことなのですが)ここで次のことを付け加えておきたいと思います。まず第一に、声高に上の基準a)b)を要求したり、大学院における教育を「サービス」などと口走らないこと。大半の研究室では所属メンバー全体から「非常識者」として排除されることになります。そして次に、もしあなたが進みたいと思う大学院に疑問を感じているのなら、これを解決する方法はそこを避けるという方法しかありません。進学して気が付いたらなら、そこをすぐに諦め、速やかに逃げ出すか、外部に味方を作るしかありません。学生から積極的に働きかければ相手も変るのではないかなどという幻想を持たないように。やる人は最初からやっているし、やらない人は決してやらないのが大学の教師です。またないものをねだっても仕方がないのは当然です。私自身も「開眼」直後に早々にX大に見切りをつけ、他大学院への道を探っていた(が残念ながら経済的問題が原因でそれは叶わなかった)し、他にも次から次に大学院生が逃げだしたのは体験談に書いた通りです。(このように次から次に大学院生が逃げ出す/辞めるという大学院は、いわば顧客から愛想を尽かされ、捨てられているのです。)環境が悪いのならさっさと逃げ出す努力が必要である、それをしようともしないものは「甘え」ている、問題の批判がこれを意味するのならその通りです。この第三の解釈なら私にも理解できることを最後に付け加えます。

追記
後になって気付いたのですが、「大学院に教育を求める」など甘えに過ぎないと主張する人々は、「教育」という言葉に「学習者はただ受動的に知識を授与される、黙って座っていれば一方的に知識が注入される」という状況を勝手に読み込んでおり、「大学院に教育を求める」ものに対して、大学院にもそのよう状況が実現されることを求めている、と勝手に解釈する人が多いように思います。事実現在の日本では小、中、高等学校や大学学部まではその状況通りですが、だからと言ってそれをもっと一般的な語にまで投影するのは身勝手な思い込みに過ぎないのは明らかです。(同じことは「指導」という言葉についても言えます。この二つの言葉には情緒的に反応する人が極めて多いと思います。)そのような患者たちに次のような解毒剤を処方しておきます。
上の「教育」をすべて「研究者養成業務」と読み替えてみよ。
私の言わんとすることが少しは見えてくるのではないでしょうか。

4 追記:目次


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