<歴史研究のページ−その2−>

ここでは、今まで僕が歴史や本の執筆のための研究として行った取材旅行の事などを書きます。
 一番最近行った旅行から書き始めますが、これは記憶が新鮮でその資料が細部まで残っている事と、今もっとも僕の関心が強いテーマ等にその旅行が最も近い所に位置付けられいる、という理由によります。またこのHPを開設してから後の最初の旅行という意味もあります。

<中部・近畿地方の旅行>(2001年2月27〜3月6日)

 ○2月27日(初日)(東京〜三重の鈴鹿〜津)

  今回の旅行では中部、近畿地方で主に母方の先祖の事や、その主家の藤堂家、父方の祖父の恩人の事、また母方の曽祖父の親友の一家の事等を調べるのが目的でした。

  そこでまず、東京駅から山陽・東海道新幹線で出発し、最初の目的地、三重の鈴鹿を目指します。ところが旅行の最初でいきなりトラブル発生〜! 早めに駅に着いて八重洲の地下の喫茶店で朝食を食べた後、オフ用のお土産を地下のお店で買い、余裕で新幹線の改札を通った直後、大変な事に思い至りました。なんと持ってこようとしたカメラを家に忘れてきてしまったのです! このカメラはママが何かの記念に手に入れたもので何かの会の「〜周年記念」というような文字が刻まれています。途中でなくしたわけではないのが不幸中の幸いでしたが、折角持ってきた何十本ものフィルムがこのままでは無駄になってしまいます。前の取材旅行で北海道や九州、東北に行った時もいつもこのカメラを持っていきました。 あわてて構内の売店で訊きますが、売っているのはインスタントカメラだけ・・。せめて改札をくぐる前ならカメラ屋もあったと思うのですが、嘆いても後の祭り。仕方なくインスタントのを2つ買い、10時過ぎの新幹線「ひかり」に乗ります。

 車内販売でお弁当やら何やら買って食べ、名古屋へ。家に電話してカメラを忘れたが買った事を告げ、今度は今から行く 「佐佐木信綱記念館」 にその旨の連絡を入れておきます。 すると、この車内でまたトラブル発生〜! なんと車内放送で、 「今気分の悪い方が出ました。お客様の中にお医者様はいませんか?」 と言っています。おやおやと思っていると、また放送があって、本来到着予定のない、三河安城の駅に緊急停車するということになったようです。三河安城の駅で止まりますと、病人が出たのは僕の乗っていた車両のすぐ次の車両だったので、担架で人が運ばれていくのが見えます。救急隊員や駅員さんも何人かいます。そして5分ほどで無事発車すると、また放送で 「無事病院い搬送しました。ご迷惑をおかけしました。10分程遅れております・・」 ということで、遅れを取り戻そうと少しスピードを速めたようです。名古屋からの乗継ぎの関係で一寸心配でしたが、何とか間に合いそうで一安心。搬出された方は無事でしょうか? 後ろの座席の人が乗継ぎの時間がなくなりかけていて、車掌さんに問合せていますが、急げば間に合うし、間に合わなければ、こういう事情なので切符の振替えもできます、といわれて安心しているようでした。

 12時をある程度回って、約8分遅れで名古屋に着き、荷物を抱えて急いで関西本線に乗換えです。乗ったら余裕があって、座れたし、暫くしてからの発車でした。JRの大きな線なのに、車両が2〜3両しかなくて意外でしたが、寄る駅も寂しい感じのとこが多く、旅行に来たな〜、と実感しました(笑)。

 13時20分頃目的の加佐登駅に到着。ここから記念館までは少しあるので、バスかタクシーですが、駅員に相談してタクシーを電話で呼びます。まもなく来たタクシーで一路「佐佐木信綱記念館」へ。運転手さんに訊いたら、今日泊まる予定の津へ行くには、JRより、近鉄の方が本数があってよいので、その平田町へ抜けるのが近いとのこと。そうすることにして、記念館に到着。

 玄関には電話でお話した職員のK.Mさんが待っていてくれました。この記念館は歌人として有名な佐佐木信綱の生家の横に資料館とともに創られたもので、この土地の出身の信綱の顕彰を目的とする資料館です。信綱は僕のおじいちゃんの恩人のM.Iという法律家の歌の先生で、他にも遠縁とかが何人か少し弟子とかとして関係があるので、前から連絡を取っていました。でも実際に訪問するのは今度が初めてです。いつも連絡していた職員のY.Sさんはお休みでしたが、K.Mさんの他にも顕彰会々長のK.Uさんがおられ、色々と資料や情報の交換をしました。

展示も、お弟子さんの一覧表のような物とかがあって、M.Iはじめ知っている人、今僕が調べている事に関係ある人とかが、何人も出ていて感動しました。他にも色々な資料で縁のありそうな人々の名前を見つけて歴史の重みを実感しました。佐佐木家は「宇治川の先陣争い」で有名な宇多源氏の佐佐木高綱の子孫かと思っていましたが、別の源氏でやはり近江の盛綱の子孫である事や、信綱が上海旅行をした時、名刺を作る際に「佐々木」の「々」が和製漢字で中国になかったので「佐佐木」に変えたこととか、「卯の花の歌」の花を見せてもらったり、色々興味深いエピソードを知りました。

 資料を少し買って、閉館時間の17時頃まで居座って話込み、タクシーを呼んで貰って、記念館を後にします。タクシーの運転手さんはなんと行きと同じ人で、開口一番「まだいたの〜!?」(笑)・・先程の話通り平田町の駅まで頼みますと、10分程で到着しました。カメラが買いたい、というと運転手さんは駅の側のショッピングセンターを示してくれて、あそこなら買えるだろう、と言ってくれました。

荷物を抱えてショッピングセンターまで一歩き、いい運動です(^^)。中はとても大きなスーパーで何でも揃いそう! デパートみたいに色々あって道に迷いましたが、カメラショップまで来て物色します。ご夫婦でやってるらしい、カメラ屋さんは事情を話すと同情してくれ(笑)、キャンペーン価格で売っていた物の最後の残りというニ○ンの高級一眼レフを勧めてくれました。本来12万位はする物らしいのですが、最後のサンプルで4万弱で良い、とのこと。でも額が額なので悩みましたが、他のカメラもそう安いわけではなく、立派なバッグや望遠レンズまで付いているので、思い切ってカードで買いました。多分僕は詐欺の被害に遭い易いタイプです(笑)。使い方をあれこれ詳しく説明してもらい、フィルムも1本サービスしてもらって、ようやくこれで重い思いで持参した沢山のフィルムが使えます〜。

店内の100円ショップで大きな袋を買って余計な荷物を入れ、駅を目指すと、もう18時を回っていて、外は真っ暗でした。慌てて予約していた今晩のホテルに電話して少し遅れると告げ、最初の目的地の鈴鹿を後にし、近鉄平田町駅から伊勢若松経由で今日泊まる津へと向います。

 19時過ぎ、津駅に着き、直ぐ側の「ホテルサンルート津」へ行きます。今晩はここに宿泊です。チェックインして、フロントで近所の名物の食べ物屋を訊くと、専用の地図をくれ、営業時間の関係で、有名なうなぎ屋を教えてくれました。津のうなぎは有名らしいですね。荷物を置いたら、直ぐ出発。通っている英会話学校の津の学校があったので、寄ってみましたが、残念ながら今日は僕が参加できるコースはやっていないとのこと、写真だけ撮りました。そこで、一路うなぎ屋を目指します。少し迷いながらも10分程で目指すお店に到着です。

お勧めの、うなぎを乗せたうな重を、お茶付けのようにして食べるセットを注文し、食べます。とても美味しい〜! こういうスタイルのは初めてでしたが、確かに美味しかったです。でも初めてでよく分からないので、どうやって食べるのか店員に訊いたら、面倒臭いのか、お好きなようにどのようにでも食べて下さい、としか言ってくれず、接客態度はよくないあ〜、と思いました(笑)。うなぎのスープも独自のものようで本当に美味しかったです・・。名物に美味い物なし、とよく言いますが、そんなことないと思いますよ〜(^^)! 

食べ終わったらすぐ看板で、近所の散歩をしながらホテルに帰ります。と、大きな古本屋があって、寄ってみると面白そうな本や中古のTVゲームが沢山! であれこれ眺め、探していた栗本薫の「魔界水滸伝」の全巻が安く揃っていたので、旅先なのに買ってしまいました〜。僕は衝動買いが得意です(^^;)。

近くの本屋でも藤堂家や郷土の歴史関係の本がいくつかあったので、色々買込みました。で、ホテルに戻って、カメラのケースとかと一緒にこういう購入した物を全部宅配で家に送る事にしてフロントでその用紙と箱を買い、部屋で荷造りです。大変でしたが、なんとか箱に全部押込み、家にも電話して、テレビを観て、0時頃就寝。第1日目はこうしてトラブルが続きながらも、どうにか無事に終わりました・・。

 ○2月28日(二日目)(津〜名張〜伊賀上野)

 朝7時頃起床。テレビを観て、ホテルのレストランで洋食セットの朝食を食べて、昨日訪問した「佐佐木信綱記念館」にお礼の電話をします。今日はY.Sさんもおられ、資料交換について感謝して頂き、また来て下さいね、というお話になりました。 10時40分頃、宅配の荷物をフロントに預け、チェックアウト。荷物を預かってもらい、暫く津の町をあちこち歩いてみる事にします。ところがホテルから一歩外に出ると、雨です! 傘を持ってこなかったので、「ひどくなったら買えばいいや」 と軽く考え、小雨のぱらつく中を歩いて三重県立美術館を目指します。 駅前で、11代藩主の藤堂高吉の造った「偕楽公園」を観て、美術館をへと歩くうち、段々雨が激しくなってきます・・。傘を買ってから歩き出すべきでした(^^;)。しかし美術館付近は店もなく、仕方なくかなりずぶぬれに近い形で美術館に飛び込みます。近代的な大きな県立美術館は県内随一の観光名所でもあり、西洋絵画や焼き物とか色々ありました。皆美しく良かったです。尤も今回の僕の旅行の目的とは直接関係ないので、むしろ雨宿りの意味の方が実際には大きかったかも知れません(笑)。

気が進まないながらも再び雨の降りしきる外に出て県立博物館を目指します。ホテルでもらった地図を頼りに歩きますが、一向それらしき物がわからず、近所のお店で訊くと、反対の方に歩いてきている事がわかり、滅入りながら再び雨に濡れながら、来た道を戻ります。 そして偕楽公園の横の方にようやく見つけ、博物館を見学します。ここは主に県内で発見された石の調査など、古代史、考古学の研究展示が多く、。一部文化史のものもありました。屋外には特別天然記念物のオオサンショウウオも飼ってあり、暫くじっくり観察しました。また庭には古墳の跡があり、発掘された古代の石棺も展示してありました。

中で受付の学芸員に来意を告げ、藤堂家に仕えていた先祖の資料を寄贈すると、学芸員のN.Hさんも色々と藤堂家関係の本等を出してきてくれ、僕の先祖の記録が出ているか、一緒に調べてくれました。先祖は津藩ではなく、分家の伊賀上野の家に仕えていたせいか、結局具体的には何も判明しなかったのですが、もし僕の先祖が三重に特徴的な「無足人」という郷士階級の出だと別の資料に当たらないと分からないだろう、という意見を頂きました。 N.Hさんに津城跡への行きかたを訊いて、もうどうせかなり濡れていたので、歩いてゆくと決めて、徒歩でやや距離のある津城跡まで行きました。

雨が段々酷くなりましたが、仕方なくジャンパーのフードを立てて、道を訊き訊き津城を目指します。思っていたより随分距離がありましたが、やがて市役所の前の城跡につきます。お城は門の小さな天守閣のような建物を除き、もうないですが、城壁はみごとです。中は公園になっていて、藩祖藤堂高虎の馬に乗った勇壮な像がありました。そして、隣接した高山神社(高虎を祭っています) に参拝します。社務所でお札などを受けました。そこには、神主さんと氏子会の役員さんがいて、「どこからですか?」 と親しげに訊かれるので、「東京からですが、先祖が藤堂の分家に仕えていたもので・・」 というと「それはそれは遠い所をわざわざ・・ご縁があるのですね・・良いご滞在を・・」 とニコニコしながら応対してくれました。で、今後のスケジュールの事を考えて、タクシーでホテルまで帰ろうと思って神主さんに尋ねると、直ぐ側に某社のタクシープールがあるので、そこで拾えます、ということでした。タクシープールは確かに歩いて5分程の所にあり、そこから電話で呼ぶとすぐ一台来てくれました。車中で運転手さんに名張まで急いでいくのはどうしたらよいか訊くと、調べてくれ、14時40分津発の特急で行けば速いということになりました。そこでホテルに14時半について速攻で預けた荷物を受け取り、すぐ駅まで行きます。そして急いで切符を買って構内に入ると、ギリギリ特急に間に合いました(ホッ!)。

途中中川駅で、大阪行き特急に乗換え、名張へは15時20分に到着です。駅員さんに名張藤堂家邸跡への行き方を訊き、再び雨の中を覚悟を決めて、傘を持たずに歩きます。途中案内板もあり、約7〜8分で、着きました。周囲は直ぐ前が小学校、隣が幼稚園で、近くに消防署までありました。邸跡自体は綺麗な古い木製の塀に囲まれた日本家屋で、門も立派な造りです。そこに看板が出ていて、中に入ると、屋敷を入った玄関の側に受付があります。もう閉鎖時刻が迫っているためか、他に見学者はいないようで、受付で券を買うと、ガランとしています。受付に「説明をご希望の方は受付にお申し出下さい(約10分)」 と案内がありましたので頼むと、受付の係の人がそのまま出てきて、入口の部屋にある、表や図面を提示しながら説明してくれました。

もともと名張藤堂家の藩祖は織田信長の重臣丹羽長秀の子であったのが、子のない藤堂宗家初代の高虎の跡取として養子に入ったそうです。しかし後に高虎に実子ができて、分家されてしまったそうで、そのため津の本家と名張家とは反目が続いたようです。その後上野の分家である保田家とも交流が始まり。経済的に苦しかった上野の物産や品々が色々入ってきたそうです。展示品の中にも上野の家紋が入った鎧がありました。

見学を終えて受付で資料を寄贈しようかなと申し出ましたが、その受入れ体制がないので、隣の市史編纂室に言って相談してほしい、といわれ、屋敷を後にします。ほんと編纂室は直ぐ隣で、担当者のYさんという方に先祖の調査の事など説明して資料の寄贈を申し出ると、色々関係資料を出してきてくれました。名張市は伊賀上野市や県史編纂室とも密接な連絡があるようで、上野関係の興信録のような古い資料も出してきてくれ、「この方関係ないですか?」 とある人物の履歴の書かれたページを示されました。すると、なんとそれは僕の母方のお祖父ちゃんだったのです!・・(以下続く)

<四国・近畿の旅行>(2001年5月12〜6月7日)

 今回の旅行は約1ヶ月と長く、歴史研究とは直接関係のない要素もあり、容量やスペースの関係もあるので、大まかな流れでまとめて書きます。

 ○東京〜大阪〜徳島(5月12〜15日)

  今回も3月の時と同様カメラ(前回の旅行中鈴鹿で買った物)を忘れそうになってタクシーで途中引返したり、大阪までの新幹線の出発の際、飛び乗った人がいてドアにトラブルが生じて発車が遅れたりと、とかく幸先の良くない旅となりました(笑)。

 でも2泊した大阪の淀屋橋のホテルは快適で、学生時代のサークルの先輩で関西在住のK.Mさんにメキシコ料理をご馳走になったり、東京のお台場そっくりのインテックスという巨大な催し物会場で、ネットを通じてお付合いのあるAR(アフレコ)活動のサークルの方々が参加されてたARや漫画などの同人活動のイベントを見学しました。その方々とも一部初めてお眼にかかって、ARの出品作品や同人誌等色々買込ませて頂きました。大きな会場を埋め尽くす、物凄い人出で、窒息しそうでしたがこういうお祭り騒ぎは好きですし、楽しかったです。 また、ホテルの側に緒方洪庵の適塾の跡の建物もあり、公園になっているそこの施設を休館日だったので外から見学したりしました。梅田では通っている英会話学校の梅田の教室で会話に参加しました。僕がその辺にいた同じ日にそこにあるデパートを恐喝した男が直ぐ近くで逮捕されたそうで、後で知って一寸怖かったです・・。

あと、今話題のオープンしたてのUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)にも行きました。GW後の平日昼間だったので空いていると思ったのですが、とんでもない話で、予約券を持って行っても朝から凄い行列でした。ライドは90分〜2時間待ちで、結局ブルースブラザーズのショーとか、特撮の説明の施設とか、スヌーピーのジェットコースターとかしか乗れず、「E.T」や「バックトゥーザフューチャ−」「ジュラシックパーク」とかのキャラグッズのお土産を買い捲り、アイリッシュレストランで食べたお昼のマトンシチューやフィッシュ&チップスが一番の思い出となりました。ライドを外からは見られるので、「J.P」のライドで水しぶきを上げて乗っている人の恐れ戦く姿を観て、一寸だけ乗れなかった悔しさが紛れました(笑)。ライドは怖い一瞬を設置されてるカメラが捉えていて外から毎回のお客の静止画像が見られ、頼めば自分が写っている写真も買えるので、乗れた人にはまたとない良い思いでの品です。僕はスヌーピーのライドの写真だけ買いましたが、また絶対来てやる、と思いました。

  高速バスで淡路島を通り、一気に大阪から3時間半で徳島に着きます。徳島では駅の近くのホテルに2泊して、「文化の森」と呼ばれる県立の総合文化施設に行き、その中の文書館、図書館、美術館を訪問。学芸員に面会して資料交換をします。近藤廉平という三菱や日本郵船の役員をやった人物が徳島市の麻植という場所の出身なので、ここでは主にその事を調べました。また「阿波踊り会館」からロープウェーで登った山の上にある、「モラエス館」に行き、明治から昭和にかけて日本で活躍したポルトガルの外交官モラエスの事を調べました。 お城の山を登ったり、徳島でも英会話学校に参加しました。

  ○徳島〜高知(16〜18日)

 徳島から阿波池田を通り、大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)の風光明媚な自然を観ながら、御免(ごめん)駅とかも通り(皆名前が面白い!)、今回の旅行のメインである高知に入ります。市内ではまず、坂本竜馬の生家跡に建てられた別名「竜馬の宿」と呼ばれる「ホテル南水」に2泊しました。竜馬の資料が宿泊客には無料で貸し出されるので「おーい竜馬」とかの漫画とか読みました。客室のテレビでは深夜まで繰返し「竜馬が行く」等の竜馬関係のドラマとかを放送していて、面白かったです。持参した歴史資料をホテルの人に寄贈したら喜んでくれて、旅館オリジナルグッズのポン酢の詰合せとか特別なお土産までくれました。ここは旅館の名前入りのお土産が沢山あって、竜馬像やらタオルやお酒とか色々買込みました。ホテル自体が歴史観光名所です。ホテルの隣は同じ海援隊の近藤長次郎の生家跡もあります。

ホテルの人に紹介されて、近所の高知の「竜馬の会」の事務局へ行きました。ここは「才谷屋」と言う喫茶店で、その女主人さんが、大の竜馬ファン。お店の中も竜馬のポスターとか資料が一杯で、この方が書かれた本もあります。「才谷屋」とは竜馬の生家のお店の屋号で、竜馬自身一時「才谷梅太郎」という偽名を使っていたこともあります。すっかりこの女主人さんと打解けて話込み、資料を寄贈して、その場で「竜馬の会」に入会してしまいました〜! 近所には竜馬の生家跡記念の石碑と電話ボックスの上にある竜馬像とかもあります。また竜馬の郵便局と呼ばれる、竜馬の切手や特別な消印を押してくれる郵便局もあって、僕も家に葉書を出しました。

市内で板垣退助や後藤象二郎の生地、武市瑞山の処刑地、吉田東洋の暗殺地とか幕末維新期に活躍した志士たちの縁の場所をあちこち回り石碑があると写真撮影。タクシーの運転手さんに頼りっぱなしです。少し離れた南国の県立歴史民俗資料館にも行き、資料交換もしましたが、ここはデラックスでした。

  有名な桂浜にもタクシーで行きました。この時の運転手さんが、日本男性と結婚した韓国女性で、韓国女性としてはプロドライバー第1号らしいです。来日15年ということでしたが、日本語がペラペラなので感心しました。行く途中日韓問題も色々話しましたがお互いに得る所が大きかったので、この偶然の出会いは新鮮でした。 桂浜では竜馬記念館を見学し、副館長さんと会って資料交換をしましたが、ことの他喜んでくれました。竜馬の直筆資料の特別展もやっていて、つい長居し、運転手さんが心配して中まで僕を探しに来る、というエピソードも残してしまいました。待ち時間分料金を少しサービスしてくれたので悪い事をしたな〜、と思い、最後に少し料金を上乗せしましたけど(笑)。 他には桂浜では有名なアイスクリンを初めて食べて美味しかったし、浜辺も綺麗で修学旅行の中学生集団をぶつかって水族館見学を断念したり、巨大な竜馬像を観たり、色々ありました。竜馬関係のお土産も山のようにあって少し買いました。

帰りは「自由民権記念館」までタクシーで送ってもらい、そこで見学と資料交換をしました。館長と資料受入担当の学芸さんが親切に応対してくれ、持参した資料を興味深く観てくれました。後日研究協力への感謝のお葉書まで送ってくれましたが、「自由民権の風は土佐の谷間から」という言葉も出来たほど民権運動には高知出身の運動家が多く参加しました。幕末期土佐藩参政の吉田東洋は、武市瑞山率いる「土佐勤王党」に暗殺され、これを怨んだ東洋の甥の後藤象次郎やその友人の乾(板垣)退助は、武市や勤王党の郷士を捕らえて厳しく詮議しました。後藤や乾は当時の土佐の支配階級の「上士」といわれる階級で、武市や竜馬は差別される「下士」の郷士階級でした。この厳しい上下の身分差別が、幕末の土佐藩の政治的な動きに大きく影響したと言われますが、幕末期には差別や取締りをしていた上士の後藤や乾が明治になると、心を入替えて、「大同団結運動」 など民権運動の中心になってゆくのはひじ久那話です。彼らの心の変化には、竜馬との出会いとその影響が大きかったと言われています。