記事タイトル:きちゃった 


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お名前: てるお   
>きりんさん

ようこそ。「ゆきのこさん」ですよね? そう僕の血の60%くらいは鹿児島の方なんです。
喜界島のご出身とは! 昨年研究で其方の方を旅行した時は、奄美大島や沖永良部島には
いきましたよ。奄美には遠縁のお墓があって、そこをやはり遠縁が管理しているので、その
お墓参りもして色々と昔の話をお聴きしました。

熊本では遠縁の熊本鎮台参謀長やその部下でここで戦死した連隊長(これも遠縁)の写真や軍服
などを熊本城内部の博物館で見ました。感慨無量でした。また田原坂では村田新八の息子の村田
岩熊をモデルにしたという馬上の美少年像も見てそこに刻まれたあの有名な「雨は降る降る、人
馬は揺れる、越すに越されぬ田原坂」という歌も見ました。自分で西南戦争の最大の激戦地だっ
たその田原坂も歩いてみて、官軍、薩軍双方の戦没者墓地も墓参しました。思い出深い旅行でし
た・・・。

僕の親戚は薩軍と官軍の双方にある程度います。この戦争の性質を如実に物語っていますね。
ちなみに村田新八は直接は関係ありませんが、彼を赦免状なく強引に喜界島から鹿児島へ連れ帰
った人物は、ある意味彼の師匠みたいな人ですが、遠縁です。その子孫とも付き合いがあります
よ僕は。この人物は自身も奄美、徳之島、沖永良部へ流されたことがあります。薩軍の人です。
もう判りましたよね〜(笑)! 沖永良部からの帰りに新八を連れてきたので。この人物の親友
が久光にとりなしてくれたようで、赦免状が出たようです。この親友の父もかつて喜界島に流さ
れたことがあり、そのためそのときこの親友もお役御免になったことがあります。この親友も実
は僕の遠縁です(笑)! この親友は官軍でした、明治11年に東京の紀尾井町で暗殺されますけ
ど・・・。この親友の息子さんは僕のパパとママの結構式にも出席してくれました。 熊本鎮台
参謀長はもっと近い親戚だけど、その息子は僕の母方のおばあちゃんの親代わりでした。固有名
詞はだせないので、今度メールででも詳しくお話しますね。ただこの人は後に新八の師匠の息子
を連れて台湾へ渡り、そこで一緒に働きました。この時僕のひいばあちゃんのお兄さんも一緒に
そこで働きました。

ところで「トゥィガ」さん(スワヒリ語で「きりん」のこと!)、HPはありませんか?  あと、
二重投稿になってたんで最初の方削除しときますね。それと、途中の文は消えたん
ではなくて、改行がはいっていなかったのでそこだけ横に伸びていたのですよ、き
ちんと横に文がはいっているでしょう? 管理人の僕もよくやります(笑)!

<説明>きりんさんはご自身で書いておられるようにemikoさんのHPに出入りされている方です。
[2000年2月1日 4時23分52秒]

お名前: どうして...   
再びきりんです
なぜか途中の文がすぽっとぬけてしまっている・・・
あれじゃ意味がわかりませんね。まあざっといえば出張でみえたということです。
あしからず
[2000年1月31日 1時45分19秒]

お名前: きりん   
こんにちわ!emikoさんとこではレスさんきゅーでした。
早速とんできましたよ。emikoさんとこでのかきこによると
てるおさんのルーツは鹿児島なんですよねー。
歴史にとても興味をもってらっしゃるようですが私は村田新八が島流しされた喜界島の出身です(笑)
勤めてたころ、たまたまその村田新八さんのお孫さんとお仕事をご一緒させていただいたりもしたんですよ。とはいえたった一週間、村田さんは私の配属先の支店(喜界島です)に検査でいらしてわたしはお茶をいれたり、電話の取り次ぎといったいわゆる雑務をやったにすぎないんですけどね(笑)村田さんは
とっても渋くて同僚たちと「かっこいいよねー」なんて陰できゃあきゃあいってたりしてました。
ああそーさっ!わたしはミーハーさっ!!(大開き直りっっ)
その村田さん、当然ですが感慨深そうになさってらして、それがとっても印象にのこってます。
ところで違ってたらごめんなさい。
てるおさんってもしかして村田さんとゆかりのあるかたでは?
歴史弱いんで自信ないんだけど西南戦争の参謀長って・・・うーん
[2000年1月31日 1時39分4秒]

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