軽野の船
                            今野 哲夫
 伊豆の天城湯ヶ島町には軽野神社がある。この軽野という名は日本史上、伊豆に関しては一番乗りに、古事記では仁徳条に、日本書紀では応神条に登場する。いずれも「枯野」または「軽野」という伊豆国に朝廷が建造させた船の名前として紹介されている。
 これら記紀での「軽野」が当院前の神社の「軽野」に通じているのかどうかの確証は全くないが、他に該当しそうな候補もまた、ないので書紀にいう伊豆国の軽野といえばとりあえず、ここら辺りをさしていうことと考えるのが自然であろう。(古事記では伊豆とはされておらず河内、淡路の話のように書いてある。)
 もとは、天城湯ヶ島町は「狩野」という地名であった。ここを貫いて流れる大動脈の川の名も「狩野」である。これを現在我々は「カノ」と読むが「狩」の字を当てた時点においては「狩」は「カル」と読むのであるから「カルノ」と称していたことが推定できる。 従って応神、仁徳を中国(宋)の史書にいう倭の五王の時代(4〜5世紀)のこととすればこの辺りは、1500年以上前から「カルノ]と呼ばれていたことになる。
 古地名における「カル」「カラ」というのは多くの場合朝鮮半島にあった古代国家の加羅、伽耶のことに関係があるらしい。そうすると地名からは製鉄技術のノウハウをもった伽耶系渡来集団の入植の匂いがするのである。
 ところが、ちょっと困ったことには、伊豆にはそれに相応した古墳群があまり見当らないのである。4〜5世紀といえば、全国規模で大和朝廷に関連した(服属した)豪族なり、ある程度以上の力を持った人々の墓は墳丘墓である。(実際には前方後円墳が多い。またその特徴的な墳丘墓によって奇妙にも墓の形態を時代の呼称として古墳時代などという。当時の人々は後の世の人にそんなふうに彼らの時代を呼ばれるとは思ってもみなかったろう。彼らにとっては古墳ではなく、当世の王墓だったのだから。我々だってこの「現代」が千年後に何時代と呼ばれているかわかったものではない。)
 当時の入植者(開拓者)たちが大和朝廷に服属していたのであれば天城にも墳丘墓遺跡があってもよいはずだが見当らない。もっとも、ここは川によって形成された谷間の狭い河岸段丘上の土地しか平地としては利用できないから、仮に墳丘墓が造られたとしても幾百年の間には川の氾濫による洪水も経験するであろうし、川筋も変遷するであろうから後世まで残らなかったかもしれない。
 あるいは彼らは造船のために、その生活の本拠は大仁以北の平野部におき、仕事の時には川を遡って「通勤」したのかもしれない。このあたりを本拠とするには、平地面積が狭く多くの人の食料を自給することは不可能であったろう。尚、この考えでいくと、すでに平安時代には伊豆の中心地は大仁の田京にあったことは確からしいので、田京中心地説はもっと時代を遡れる可能性がある。ただし、田京あたりでもかなり狩野川の流れの筋は変遷をしているので遺跡として残っているものは少ないと思われる。そして水害などを契機として地域中心としての役割を後世、三島に譲ったのであろう。
 確かに、沼津までいけば墳丘墓遺跡はある。しかし、沼津は狩野川河口として伊豆とは地理的、機能的関連意義(沼津は水上交通の中継点としての要衝)はあるが、支配領域という点において直接の両者の地域関連性としては疑問もある。沼津から伊豆全体を統括する王権のような支配勢力があったことを窺わせる歴史的資料は今のところ無いようであるから。
 さて当時の狩野川の風景はどんなであったろうか。勿論国道や車道などないしコンクリートの護岸もない。家もない。人の通り道も整備されたものはなく獣の通り道のような草を踏みならし掻き分けただけの木を伐る者だけが知っている小径が密やかに細々と、しかし結構網の目のように林間に張り巡らされていたことだろう。川の水は豊かで澄んでおり滔々と流れている。その曲がりくねるのに沿って淵や川原が形成されている。川の両側には小高い山が連なっていていろいろな鳥たちがさえずり、猿、鹿、猪、兎、狸、蛇など多くの動物たちが生息している。
 人々がこの地に到るには狩野川を船で遡ってくるしかない。きっと上り下りする船が行き交っていたことであろう。彼らの目的は造船のための木材の伐採と川原での造船と炭焼きと山の幸採取、ハンティングである。あるいは鉄鉱石、銅鉱石等の地下資源に手をつけていたかもしれない。実際にはここの川原などの平地で造船を行なったのか大仁まで材木だけ運んで下りそこで造船を行なったのかは知る由もない。

 伊豆の船は優秀だった。楠の大木を材料とした。そして名工たちがいた。彼らは豊富な航海の経験や緻密な設計をもとに船を造った。
 その優秀さは大和朝廷にも聞こえた。
 ヤマトの大王は側近の将軍に尋ねた。
「駿河の海の海賊はいやに手強いと聞くがなぜにそんなに強敵なのだ。」
「それは彼らの船がすぐれているからでございます。彼らの船は伊豆国で造られております。片側五手、両舷十手で漕ぎます。横揺れが少なくまた風を受け速く、追うに追い付けず逃げるに追い付かれます。また彼らは一艚単独ではなく集団で合図をかわしながら作戦行動をとるのでございます。」
「そうか、それだ。韓の国では高句麗や、新羅がここの処勢いづいておる。わが宗家に繋がる百済や新羅が危うい。彼らは我らに助けを求めてきておる。それにだ。伽耶からわが国にやってくる船がしばしば新羅に襲われ財宝や文が奪われておるともいう。大宋国にもわが国を独り立ちした国としてそろそろ認めてもらわねばならぬ。それには船なのだ。強力な水軍が必要なのだ。新羅には一泡吹かせてやりたい。ところで伊豆の輩どもは何を欲しておるのだ。……さらばくれてやれ。懐柔して船団ごと取り込み、さらに伊豆国には引き続き船を造らせるのだ。」
 ヤマトの大王はそれまでにも鉄づくり集団を原料の確保(採鉱)、製鉄、武具、農具への鋳造鍛造に至る一連の技術集団としてそれらのノウハウまで丸ごと取り込み、彼らを支配勢力に組み込み、権勢拡張に利用してきたのだ。これと同時に造船・航海術・戦闘技術・メンテナンスまで技術集団や武将までこれまた一括して召し抱えたのである。優秀な船、兵士、鉄の武器と揃えばまさに鬼に金棒である。
 こうして大和朝廷はやがて、5世紀後半武王(=ワカタケル大王=雄略朝)の時、宋の皇帝より「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の称号を贈られたのである。大和朝廷は日本列等内の支配基盤を固め、版図を拡張し、海上の国際的流通ルートをも確保し、また新たな海路も開拓していったのである。
 さてその当時活躍した「軽野」なる船はどのようなものだったのであろうか。5世紀ころの遺跡などから想像するのには船首、船尾の舳先が内側へ反り返った準構造船だったのではないだろうか。内部はジャンクの様に仕切り板で区切られ水をかぶっても全体には行き渡らず部分的に水がたまるようになっており水を掻き出しやすい構造をとっていたのではないか。冷蔵庫の製氷皿のような構造である。また、書紀にはこの船が軽く速く走ったとあることより、私は帆船であったと想像する。いく枚もの帆布をいろいろな方向に向けられるようになっておりどのような方向の風が吹いていても任意の方向へ船を走らせることができたのであろう。船の重心も適正な高さ、位置、となるように工夫が施されていたに違いない。
 そんな当時の最新式の船を造ったこの地では船の名工たちが腕を競っていたのであろう。そのすばらしい作品が大和朝廷に提供されたのだ。もちろん、狩野川を下って駿河湾へおろされ、海を渡って、河内にいたり朝廷に献上された。それは一隻のみではなく船団を組織すべくかなりの数にのぼったのではないか。
 その頃河内の港に入ってくる朝鮮、中国からの船は、彼ら使者たちを睥睨しているヤマトの大王たちの巨大な墓をみてさぞ度胆を抜かれたことだろう。巨大な墓といえば中国の始皇帝の墓をはじめ歴代の皇帝の墓を彼らは既に知ってはいたが、このように小山のごとく土を盛り白い葺き石が日の光に照り映え、夕暮れ時には夕日に赤く染まり、赤茶色の埴輪の列が数条白い葺き石の山の縫い目のごとく配置してある巨大な墓をさすがに見たことはなかったであろう。そして彼ら先進国の船にも劣らない「軽野」船団が彼ら使者の船を横目に瀬戸内海を抜け玄海を渡ったのだろう。
 さて、その船の材木としては楠の可能性が高い。伊豆には楠の巨木が多く、当地の由緒ある神社には立派な楠の巨木が聳え悠久の時の経過を見守っているところが多い。これらは神木といえよう。
 当時既に日本各地で船は造られていたであろうから(讃岐、紀伊の国など)、特に記紀に「軽野」の記載があるのはよほど当地の船が秀でていたからに他ならないと想像される。その船は当地においても「神船」として社に祀られていたに違いない。
 さて、一世を風靡し大活躍した船「軽野」はやがて古くなり朽ち果てたと記紀は伝える。日本書紀によると「軽野」を造らせたのが応神5年、廃船となったのが応神31年であるからこれが史実だとすれば26年間任務についていたことになる。
 廃船にあたって大王は群卿に詔した。
「官船のカラノは伊豆国より奉らせたものだが、もう朽ち果て就航できない。しかし永らく活躍しその功は忘れてはならない。その船の名を絶やさず、後世に伝えるのに何かよい方法はないか。」
 その回答が現代人の発想とは異なるリサイクルである。廃材を焼いて製塩したというのである。五百篭の塩を得た、という。一篭がどのくらいの容量を表すのか知らないが、人ひとりが背負える篭で最大のものを想定するなら、五百篭というのはかなりの量である。これから想像しても「カラノ」はある特定の一艚の船ではなく多数の船団だったと考えたい。それにしても塩を焼くという発想はどこから出たのだろうか。薪など他にいくらでもあったろうに。と思うのは現代人であり、古代人はそうではない。船には神が宿り塩にも神が宿っていると考えた。海水から塩が析出してくる様は神がその姿を具現した様に感じていたのかもしれない。鉱石から鉄ができてくるように。だから、神の宿った船を焼いて製塩したのだ。日本人にとっては塩を撒くとか盛るとかいう行為には厄払いの意義がある。塩にある程度の抗菌力があるせいなのかどうか定かではないが、日本人は塩に神聖なるものを感じてきたらしい。また、用が済んだら焼いて供養するという発想もこのように古くからあったようである。そして産業も神事も一体化していたのであろう。
 さて、名船を焼いてとれた神聖なる塩は諸国に配られたという。諸国が神棚に祀るべき塩である。書紀にいう「後世に伝える」とはそういう意味なのだ。それはきっと伊豆にも配られたに違いない。伊豆のどこかに塩を神体として祀っている神社はないだろうか。或いはそんな言い伝えは残っていないか私は気になっている。
 その後に書紀は妙な記事を伝えている。その塩を配った諸国からまた船が献上されたというのだが、それが武庫(神戸)の港に集まっている時、その中に新羅の使いの船が停泊していたという。その船が失火し多くの船が焼けてしまったというのだ。船が焼ける話がなぜかダブッていて不自然だが(こういう妙なダブり方は書紀にはよくあること)、伝言遊びのごとく永らく語り伝えられているうちに尾鰭が付いてしまったのか本当にあった話なのか。反新羅なる世論から生じたデマか、はたまたテロリズムか、などと想像を逞しくしてしまう。そしてその新羅人達は責められ、新羅王は責任をとり、すぐれた造船技術者たちをヤマトに奉ったとある。これらの記述はもしかすると話の順序が入れ替わっていてそれ以前より新羅など朝鮮半島諸国から技術集団が渡来してきていた史実を繁栄しているのかもしれない。
 そして記紀はさらに神秘的な話を伝えている。カラノ船を焼いた燃え残りがあったという。それらは燃えなかったというのである。その不思議な燃えない木材で琴を造ったそうな。そのころの琴といえば伽耶琴(カヤグム)であろう。琴もまた神秘の楽器である。その音は神の託宣と考えられた。古代ヤマトの王或いは斎王は琴を奏でて神の意志を占ったらしい。不思議な不燃の木材なら霊験ある神が宿っているからそれで琴を造ったというのであろう。彼らは舟材から造った琴を弾いて何を祈ったのだろうか。
 さて、ここで次の歌を紹介する。記紀共に載せられているものである。

 加良怒  志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 加岐比久夜 由良能斗能
 斗那加能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜 (古事記表記)

従来の読み カラヌヲ シホニヤキ シガアマリ コトニツクリ カキヒクヤ
      ユラノトノ トナカノイクリニ フレタツ ナヅノキノ サヤサヤ
 「枯野」を塩焼きの材として焼き、その燃え残りを琴に造り、かき鳴らすと、由良の瀬戸の海岩に触れて生えているナズの木が潮に打たれて鳴るような大きな音で鳴ることよ。
 と、解釈されてきたようだが何か釈然としない。はたして琴の音をサヤサヤと表現するものであろうか。ナズの木とは?フレタツとは「触れて立っている」で本当によいのか? またこの歌は古事記には志都歌の返歌となっているがこれも何のことやらわからない。尚、古事記の神武、景行、応神、仁徳条というのは他の部分に比べてやたらと歌が多く登場し、口誦の歌物語りという印象がある。
 音読としては大体上記のようにしか読めそうもないが意味としては全く見当外れな解釈をしてしまっているのかもしれない。もしかすると日本語ではなく、伽耶語で詠まれているかもしれないのである。その場合は製塩譚は上記の歌を誤読した後世の人のフィクションということになる。むしろ武庫の船火災のエピソードの方が史実を反映したものといえるかもしれない。もっとも新羅船失火説が本当かどうかなど全くわかりようもないが。

 狩野川、太い材木をいかだに組んで川下る人々、船を組み立てる工人たち、軽野神社の敷地に立ち川の流れをぼんやり眺めながら私は古代の風景を空想するのが好きだ。ここで造られた船が日本という国家の創世記において重要な役割を果たしてきたことをも想像しながらである。


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