気付きませんでした。あったのです。前方後円墳が。いや、それらしき墳丘墓が。
私は、前方後円墳は伊豆においては沼津以南には無いと思っていましたが、実は伊豆長岡町に立派な駒形古墳群というのがありました。(考古学者によるとまだ前方後円墳とは確認できていないという)
これらの古墳群が、後の北条氏と関連あるかどうか全く想像の域をでませんが、ここら(狩野川西岸地域)が当時の伊豆の地における豪族の本拠地を示すものであることは確かでしょう。(北条氏は桓武平氏に出自が求められるそうですが、実際先住勢力とどういう姻戚関係があるのか全く謎です。とにかく都から移住してきた一族と先住勢力が結び付いていったのか、先住勢力が都の有力な一族とあえて姻戚関係をつくったのかわかりませんが、地域支配者としてのネームバリューを求める意図もあったかもしれません。)
そこは、大正時代頃には川西村といったそうです。それが、今は江間などを併せて伊豆長岡町となっています。畿内に由来をもつのか長岡という地名の他、小坂、天野、墹の上、江間、花坂、戸沢、古奈などの地区が狩野川西岸地域を構成しています。
伊豆長岡の古墳群の築造年代は七世紀頃だそうです。副葬品から大和朝廷の影響下にあったことが伺えます。古いものでは五世紀後半から築造されはじめた様ですが、大方は七世紀で八世紀中頃までが伊豆の古墳時代です。ですから、およそ百年そこそこの間にこれら古墳群は盛んに造られた訳です。つまり三〜四世代の分の墓が古墳や横穴として残っているのです。
この前方後円墳とおぼしき神社の奉られてある丘を一号墳といいますが、その隣の二号墳、三号墳からは人型埴輪、環頭太刀、蕨手刀、金環、管玉、馬具、農機具などが出たそうです。少なくともこれらは円墳であることは確かなようです。その周辺にも小規模な墳墓が多数見つかっています。一族、従者が集落をなし居住していたのでしょう。残念ながら肝心の一号墳は建設工事や江戸時代以降の不完全な発掘によりかなり壊れてしまっているようで、石室や石棺などの埋葬施設はこれまでの考古学調査では確認できなかったそうです。この駒形古墳群は全部で五基あったそうですが、四、五号墳は狩野川堤防改修工事のさいの土砂採取のため崩されてしまい、原形をとどめておりません。素人の私には墳丘の区別は現地に立ってみてもさっぱりわかりませんでした。
また、狩野川西岸地域は他にも古墳や横穴群が多い地域です。北江間から南はこの駒形古墳に至るまでの伊豆長岡町内には29群173基の古墳時代の遺跡が密集しているのです。そのうち横穴は23群151基を数えるそうです。参考までに述べておきますが、大体一つのエリア内には横穴群と古墳がセットになって存在するものなのだそうです。そして居住地に近い、谷の入り口の良い場所に古墳が盛られ、その奥の谷の斜面に横穴群が掘られているというのです。これは古墳時代(伊豆においては六世紀後半から八世紀前半まで;畿内より三百年遅れて古墳出現ということになる)というのは階級社会が畿内から持ち込まれた時代であることを示唆するものでしょう。七世紀にはこの地域に寺院も築造されたようです。屋根瓦が発掘されています。
古墳時代の伊豆は狩野川西岸から居住地域が開けていったのかもしれません。東岸(韮山地区)は低湿で氾濫による水害を受けやすかったのでしょうか。仮に何か古代遺跡があったとしても水に流されてしまっていることでしょう。農地もあったとは思いますが結構災害に苦しんだことでしょう。
とにかく伊豆の古墳群というのはこの伊豆長岡の江間から小坂にかけての平野に限られて密集しているらしいのです。つまり六世紀後半から八世紀前半には盛んに畿内から人がこの地域に流入した時代だとみることもできましょう。そのころの畿内(中央政権)ではどうなっていたかといいますと、聖徳太子〜蘇我馬子〜遣随使〜仏教国化〜大化の改新という政変〜百済の滅亡にともなう百済人の流入〜壬申の乱〜天武、持統朝〜奈良時代と変遷した激動期でした。都の動乱にともない全国各地へ人が動いたことでしょう。
伊豆に流れ込んだ人々はまずこのあたりの地を選び、定住していったと思われます。その際、先住者達とはうまくやったのでしょうか。中央の史料によれば「〜を伊豆に流した」という記事がならび、どうも朝廷とは立場を異にする人達が追放された地という印象が致します。ただし、それなりに朝廷としては伊豆を支配地としてコントロールを効かせる自信があったのではないでしょうか。でなければ、重要人物を流配しても監視ができないでしょう。書紀にも天武朝紀(七世紀)に伊豆国を駿河国から分離したとあり朝廷の権限が伊豆に及んだことを示唆しております。
当時から人々は狩野川を生活の大動脈として利用していたことはまちがいないでしょう。勿論古墳時代以前から伊豆には先住者達がいた訳で、弥生時代後期から水田が田方平野には拡がっていたのです。
伊豆の古代史は文献資料に乏しく固有名詞が少なく誰が何をしていたのか実に謎のままです。
伊豆長岡の古墳にはどんな人達が葬られたのでしょうか。想像は膨らみます。特に駒形古墳は伊豆ではおそらく最大規模の古墳ですから国造(くにのみやつこ)級つまり「伊豆の王」が葬られたのではと勝手に想像を逞しくしました。
ここを善知鳥坂(うとうざか)ともいい、被葬者は善知親王だという伝えもあるそうですが、それ以上詳しいことはわかりませんでした。
私は数少ないその時代の資料をあさってみました。やはり主に日本書紀に頼るしかないようです。どうしても中央の側からの歴史記録を探るしかないのです。伊豆独自の記録があればどんなにか生き生きとした史料となることでしょうが。
総じてみるに、この時代は豊かというより、かなり自然災害や疫病が多く厳しい時代背景があったような印象です。以下に目についた記事を列挙してみます。
まず、六世紀については全く信頼できる確かな文献史料なし。
伊豆国造については『先代旧事本紀』(この書は現存していない)に「神功皇后の時代に物部連の祖先のアメノヒボコの8代目のワカタケルノミコトを国造にした」ような伝説があるそうですが、一般にどこでもポピュラーになっていた先祖を語るときの伝説の節回しの一環のようで信憑性はなさそうです。どうも日本の地域支配者達も昔から、自分の祖先は〜天皇の〜世の子孫だとういうようないいかたが流行っていたようです。(いやこれは日本に限らず、中国、朝鮮でも同様の様です)
史料が具体性を帯びるのは七世紀中頃からです。これは伊豆長岡においては丁度古墳が盛んに築造された頃に一致します。(日本書紀においても大化の改新以降歴史記録が具体化してくるのです。おそらく、その頃よりこの藤原氏のクーデターを契機として文章に具体的に記録を残すことの重要性を朝廷が政権として認識し初め新たな記録が書かれはじめたのかもしれません。《支配者側の主張する歴史であり必ずしも史実とは限りませんが》それが日本書紀の史料として使われたのでしょう。いや、それ以前にも、蘇我氏や聖徳太子の編纂させた歴史書が有ったらしいようですが残念至極焼失してしまって現存していません。もし焼け残った木簡などが発見されたならマニアはよだれを垂らして飛びつきそうです。以下、伊豆の七〜八世紀を年表式に書いてみます。
620年(推古28)「屋久島の2人が伊豆に流れつく。」;こんなこと結構ありそう ですがわざわざ日本書紀に載せたとなると何やら曰くありそうで す。どんな「2
人」だったのでしょう。男と女でしょうか?
639年(舒明11)「東の民に百済大寺を造らせた。」;百済からの移民、亡命者が
続々渡来 してきたのでしょう。このことは文化的にも日本に多 大な影響を後世に残しました。
646年(大化2)「皇極天皇、東国の国司らに勅命;政治を正しなさい」
藤原氏のクーデター直後ですから実際には蘇我氏の残党粛正が行 われたのでしょう。おそらく地方にも追手は及んだことでしょ う。
地方の有力者達は中央の権力恐ろしさにさぞビビッタことでしょ う。
何も書かれていませんが、蘇我氏の関係者が全国特に東国方面に
どっと逃れ散ったことではないかと私は想像します。
649年(大化5)伊豆の興嶋(おきつのしま)噴火 ;どの島のことでしょうか。
(大島?)
663年(天智2) 白村江(現韓国の錦江の下流域)の戦 百済滅亡 以後百済から 大挙して亡民流入
666年(天智5)百済の人二千人を東国にすまわせた。
「東国」とは大ざっぱな書き方ですが、どこのことでしょう。
とにかく、首都は渡来者で賑わっていたか,或いはあふれていたこ
とでしょう。職、食を求めて混乱もあったことでしょう。
670年(天智9)伊豆国造に伊豆直(いずのあたい)の祖先の御立(みたて)を任 命
彼が日下部の直姓となる。 ;ミタテという名の人が伊豆国造に なったと いうのでしょう。彼が物部連の祖先のアメノヒボコの8 代目のワカタケル
ノミコトの子孫だと自称したのでしょうか。? とにかく素性は不明。その後子孫がどこにつながるのかもさっぱ り?でも年代的にも駒形古墳などと一致する感じ。
672年(天武1) 壬申の乱(天智没後、首都動乱 天武が即位)
675年(天武4)または676年(天武5)とも 「三位麻続王を因幡へ流し、その一 の子を伊豆へ流した。」さあ、この辺から追放の記事が急に多く なるのです。天智
死去(暗殺説もあり)、天武即位などが中央で は起こっています。血を血で洗う抗争が畿内で相次ぎ政治犯が 続々と粛正されていた時期でしょう。
676年(天武5)10月16日「筑紫より貢する唐人30人を遠江に住まわせた。」
この頃には「白村江の戦(663年=倭の援軍唐の水軍に大敗、百 済滅亡)のほとぼりも冷めはじめたのか、統一新羅(百済滅亡 後、668年高句麗も滅亡)との民間交流も復活してきたような印 象があります。新羅の人が来たとか、新羅へ渡ったとか結構記 事が散見されるようになるのです。
この記事には「唐国」とありますが、新羅とも考えられます。
遠州には新羅人が移住してきたのでしょう。
677年(天武6)4月11日「杙田史名倉が天皇を非難し、伊豆へ流された」
680年(天武9)7月「駿河国より伊豆国を分けた」
684年(天武13)10月「伊豆に大地震」かなりの被害が出たとあり。
この年、土佐、伊予、伊豆で地震となっていますが四国でも大地 震があったのでしょうか。伊豆では「西北の二面が隆起しまた一 つの島となった」とよくわからないことが書かれていますが、淡 島のことでしょうか?
686年(朱鳥元)大津皇子のクーデター未遂事件 大津は処刑、30人逮捕
10月「礪杵道作を伊豆に流す」
礪杵道作は大津皇子の部下だったらしい
註)壬申の乱後、天武が即位。その時の新政権での序列はNo.1が 草壁皇大津皇子、No.3が高市皇子であった。いずれも有能なニュ ーリダーだったが3人とも相次ぐ政変の中で死を遂げる。律令体 制成立までの古代史上重要な謎の部分であり事件の解明が期待さ れる処。
689年、草壁皇子没
696年、高市皇子没
結局、権力闘争の末、持統天皇が退位し文武が即位した。 699年(文武3)5月24日「役君小角を伊豆嶋へ流す」(以下、続日本紀となる)
伊豆にはこんな人まで来ています。「伊豆嶋」を伊豆大島という 書もありますがどれも後世のものであり半島内なのか島嶼なのか はよくわかりません。とにかく、相当の人物が伊豆には本人には 不本意ながら訪れているのです。役君小角とは役小角であり、一 般には呪術を使う修験道者と思われている謎の人物です。謎なん ていっているだけでは不満なので私が察するところを少し述べて みます。
諸説ありそうですが多分、彼は660年頃生まれています。彼に最 も時代が近い記録は続日本紀であり、以後彼のことは「日本霊異 記」「本朝神仙伝」「今昔物語集」「扶桑略記」「水鏡」「大峯 縁起」などいずれも十二世紀以降の書物に書かれており、時代が既に異なり内容も仏教説話と超人伝説的な部分が多くどこまでが事実なのかさっぱりです。後世の書物になるほどフィクションが付け加わっていく感じです。その効あってか彼はすっかり歴史上のスーパーマンとなって現在に至っております。実際にはどんな人物だったのでしょうか。彼は賀茂氏の出自のようです。本名は不明です。小角というのが幼名ともいいます。二十歳頃には大和の葛城山で新興宗教(密教)的活動をしていたと思われます。葛城山といえば雄略記においても一言主の神が登場し、かの強権的な雄略天皇に対し互角にものを言ったなどという記事が残る程、朝廷に対しては不気味な山域だったようです。時代を通じ反体制的な勢力がそこに籠ったのでしょう。
七世紀末はやはり激動があったようです。天武天皇がおそらく何らかのクーデターに倒れ、持統が即位。その後No.1の太政大臣となった高市皇子が何らかの関わりをもって、わずか数年で倒れ、持統が退位し、文武朝となるのです。書紀にははっきり書かれていませんが、首都は動乱状態だったかもしれません。葛城山に籠った勢力もありそうです。そういう時に密教が朝廷にとっては不気味な存在になったのでしょう。その有能なホープが役小角です。人気者だったようです。彼に従う者もかなりあったことでしょう。
朝廷は、彼が何をしたのか知りませんが、「妖惑の罪」という分けのわからない「罪」で彼を逮捕しました。彼の弟子の物部韓国連広足が「天皇を暗殺しようと計画している」と内部告発したと続日本紀にはありますが「民心を惑わした」ということでしょうか。要するに、「扇動罪」といった治安維持的な理由で捕えられたようです。(具体的に何をしたという記録は全く無し)この際、頭のいい彼は逃亡が機敏でなかなか捕まらず、業を煮やした朝廷は彼の母を捕え人質にしたのです。彼は仕方無く出頭し、逮捕されたのです。
彼の信奉者が多く、その場で処刑しにくかったのかよくわかりませんが、朝廷は彼を伊豆に流したのです。後世の書物にはその後伊豆で処刑されそうになったが、その奇蹟的な術で難を逃れた様に書かれているものが多いのですが、私はどうも伊豆で秘密裏に701年頃処刑されてしまったのではないかと想像してしまいました。伊豆流刑後の彼にまつわる各書の記述はどれも現実にはあり得そうもないスーパーマン的なものばかりが目立つからです。都に戻ったとか、唐の国に渡ったとか、昇天したとか、僧道昭が新羅で彼に会ったとか記述は一致しません。
結局、葛城山を本拠とする物部氏が朝廷に降り、朝廷にとって得体のしれない新興宗教の教祖を排除し、不穏地域を平定したということでしょう。私は伊豆の葛城山を眺めるとこの話しを思いだし、役小角という人物像を勝手に想像しております。
さて、話しを元へ戻します。年表の続きです。さあ、役小角のたたりでしょうか、この後の伊豆は大変だったようです。
701年(大宝1) 役小角を伊豆国より召し返す。(本当かどうか怪しい)
8月、遠州にいなごの害、台風被害甚大
702年(大宝2) 8月5日、台風被害甚大
9月、駿河、伊豆が飢饉。「駿河、伊豆、下総、備中、阿波の五 国飢える」とあり。
704年(慶雲1) 夏、伊豆、伊賀で疫病 伊豆大島噴火
706年(慶雲3) 正月、駿河で疫病 ;インフルエンザでしょうか?
709年(和銅2)伊豆、甲斐など五国で長雨のため不作
710年(和銅3) 4月、遠州、駿河で飢饉
712年(和銅5) 5月疫病流行
715年(霊亀1)遠州で大地震、170余戸倒壊
と書くのも嫌になるくらい災難が続き、よい記録はひとつもないのです。
こうした中で伊豆においては古墳時代が閉幕となりました。以後は火葬の時代となります。これらの、災難が宗教観をも変える一役を担ったのでしょうか。特に疫病→火葬というのは衛生上も宗教的儀式の型をも変えうる動機づけとなったのではと想像します。仏教では元より火葬であるわけでありますが、仏教はその数百年前より伝来はしていたのに火葬ではない古墳時代を日本は経ていたのです。ここに弔いの方法まで仏教を取り入れるに至ったのです。
この七〜八世紀は日本列島は寒冷期にあり、このような災難が多い時代だったとも考えられます。寒冷化→不作→飢饉→疫病→経済、治安の悪化→難民発生→動乱→政変と大体どこの国でも歴史をみるに一連の混乱期を気候変動と連関してサイクリックに経験してきているようです。地球規模の温暖化〜寒冷化の気候変動は人類の歴史に無関係ではありません。
と、こんな厳しい歴史背景が浮かび上がりました。
駒形古墳からは人物埴輪が推定で四体出土したといいますが、うち一体は地元にほぼ完全に近い保存状態にて大切に保管されています。古墳というものは墳丘を築きその周囲を縁どるようにたくさんの埴輪を並べて立てるものです。当初はもっとたくさん埴輪が立っていたはずです。
若干垂れ目ぎみに楕円形の穴のあいたその目はどんな歴史を見つめてきたのでしょうか。付近の農地からは土器片も見つかるそうですが、もしかしたら墳丘に並べられていたたくさんの埴輪の破片かもなどと、私は素人想像しながら、往時できたての埴輪のならんだ伊豆王(国造)の墓を人々が祀っている光景を思い浮かべました。