〜ビーノで乾杯〜(7)

あ〜、行っちゃった
 エンダイアからオステルリッツ(パリ)行きの夜行は4本あるはず
である。しかし、税関から直接ホームに入って来た私たちは、どの列
車が何番線から出るのかさっぱりわからない。ホームには表示もない
し、放送も一切ない。駅員に聞こうと思っても夜中なので居ないし、
売店のおじさんも知らないという。そこでラルフは簡易寝台券を買っ
て来ながら調べて来ると言って出かけて行った。私は列車に乗
つてか
らお腹がすくと思ったので、売店でビーノとビスケットを買っ
た。
 しばらくすると、ラルフが寝台券が買えたと言って遠く
の方から私
たちを呼んでいる。彼の素振りをよく見ると時間がないか
ら急げと言
っている。私たちは大きな荷物をガラガラと引張って
急いだ。すると
彼は、ホームから線路へ下りて、反対側のホー
ムに止っていた列車のド
アをあけて、線路から直接乗ろうとしている。
地下道を回っては面倒
だし、第一時間がないのだ。ホームの高さは30
センチ位しかないの
で行けないことはない。彼はみつ子と自分の荷物
を列車のフロアに放
り上げて乗った。つづいて私も・・・と思ったとた
ん、列車が『ガタ
ン』と音をたてて動き出した。これには全く驚いた。
私は、自分の荷
物を線路上において、

「ラルフ 戻れ 下りろ!」と私は叫んだ。
ところが、彼は落ち着いたものでにこやかに手を振って、
“I’ll
come back soon.”(すぐ戻って来る)
この列車は線路の入れ替えですぐに戻ってくるから、ホームで待って
いるようにという仕種をした。
私がホームに戻ると4人の女性たちは
心配して同時に
「どうしたの?」と聞いた。

「あの列車は線路の入え替えで、こちらのホームに入って 来るらしい
ヨ。」と私は説
明した。残された5人は列車の動きをじっと見ていた。
ところが列車は
止まりそうな気配はなく、むしろ、だんだんスピードを
増していく。
本当に戻ってくるのだろうかという疑問が頭をよぎる。
そして、
『戻ってくれ、止ってくれ』と祈るような気持ちで列車を見
つめいた。
しかし、無情にも列車は静かな夜空にガンガタンというリ
ズムを響かせながら、2つの赤いテールランプとと
もに暗闇の中にす
い込まれて消えて行ってしまった。

「あゝ、行っ ちゃった」と誰かがポツンと言った。駅員がホームを
掃除していたので

「あの列車は戻って来ないのか」と聞くと、

「パリまで行ってから戻ってくる。」と言われ、唖然とした。私たちは
ホームに置いてきぼりになったのだ。 大変なアクシデントが起きてし
まった。佐藤さんは事の重大さにた
だオロオロするばかりである。
みつ子は体調はようやく治りかけて
いたが不安から土色の顔をしてい
る。私がみつ子に、
「彼はパスポ
ートを持っているのか」と聞くと、彼のも自分が持って
いるし、彼はお
金もほとんど持っていないという。さらに、寝台券を
買うために私た
ちの乗車券を全部持っているのだ。私は、こうなった
からには

『私が判断し、皆をつれて行かなければならない。』
と急に責任の重さを 感じた。 そして、『ラルフはどういう行動をとる
か。』を考えた。

 @次の駅で下車し、このエンダイアに戻って来る。
 A次の駅で下車し、そこで私たちを待つ。
 Bパリ・オステルリッツの駅のホームで私たちを待つ。
 彼はパスポートもお金も持っていない。それに私たちの切符を持っ
ているのだ。必ず私たちを探すだろう。私たちも彼を探せば、どこか
で接点があるはずだ。私は『動く』決心をし、
「まず乗ろう。」と言った。それに呼応して、 小池さんも
「乗るべきョ。」とキッパリと言った。 彼女の判断の早さと決断に
私は勇気づけられた。このエンダイア
の駅で待っていても彼は戻って
来ない気がした。時間的ロスが大きく
なるだけだ。途中、列車が止ま
る毎に窓からホームを見て行き、それ
でもだめなら、オステルリッツ
にいるだろうと思った。一番会える
可能性の強い方法を選ぶべきであ
る。ただ、乗るにしても切符を持って
いない。本来なら改めて切符を
買い、ラルフと会えたところ
で、彼の持っている切符を払いもどすべ
きであろう。しかし、事情を
説明すれば車掌さんはわかってくれるか
もしれない。どうしても分かって
もらえないのであれば、その時に車
掌さんから買えば良いと考え
とにかく乗ることにした。
*** 
 私たちのいるホームに先程から止っている列車が、次に出るオステ

ルリッツ行きだという。そこで、私たちは乗り込んで8人用のコンパ
ートメント(部屋)に入り、荷物を棚の上に上げ、ひとまず落ち着い
た。しかし、まだ発車まで多少時間があるとみえて、車内の電灯が
いていない。薄暗い室内に不安は広がるばかりであった。時々、
ドア
を開ける人がいてもいっぱいだと言って断わる。私は入口のところ

座り、ドアのノブを持って、開けられないようにしていた。ラルフ

今頃どうしているだろうか。何でこんなアクシデントが起きてしまっ
たの
であろうか。ただ、もし、途中の駅でも、オステルリッツの駅で
も会え
なかった時はどうすれば良いだろうか。パリでラルフが行くこ
のはっきりしているのは、彼の日本入国の件で日本大使館、韓国大
使館
それと大韓航空である。多分、彼はみつ子がそれらの所へ行くこ
を知っているから、彼も行くであろう。そこで、それらの所に私た
ちの
パリの宿泊ホテルを知らせておけば連結がとれるかもしれない
どと考えた。
ただ、私たちにはもう一つの問題がある。切符を持って
いないということである。発車してしまえば降りろとは言わないだろ
という判断である。しかし、車掌さんがスペイン語か英語ができれ
ば良いが、もしフランス語しかできない人であればどうしようとか、
いやいや、乗客の中にはフランス語とスペイン語か英語を話せる人が
いるだろうとか、切符を買えと言われても、オステルリッツまで
はと
にかく勘弁してもらうよう交渉しようとか、無賃乗車で何倍も取
られ
るかもしれないとか、いろいろな意見や考えが出てくる。結論と
して
は、ともかく何かにブチあたれば、その時その時で解決してゆく
しか
仕方がないということであった。

***
 コンパーメントの明かりが点く。40w位の薄暗いものであったが、

お互いの顔が見えるだけでも少しは落ち着く。電灯が点いたので、す
ぐ出発かと思ったら、反対側の列車が、窓ごしに動き出したのが見え
た。
「あっちが先だったのね」
「この列車はいつ動くのだろう。」と皆の心にそんな思いがよぎる。
それからしばらくして、『ガタン』という音をたてゝ私たちの列車が
ゆっくりとホームをすべり出した。
ここで私がオロオロしたり、弱気
になったりしてはいけないと思い、

「あ〜、お腹がすいちゃったョ」と言って、皆に元気を取りもどすよ
う促したが、かえって白けてしまった。女房は先程からおとなしくし
ているが、もし、ラルフと私の2人が先に行った時には、どんな 風に
思い、行動するだろうか。ひょっとしたら発狂するかもしれない。

う考えると、みつ子の心中いかばかりかである。

「何かの間違いなのだからきっとどこかで会えるヨ。」
と誰かが彼女を元気づける。

オ〜、ラルフ!

 スペインと違ってフランスの列車は速い。真っ暗闇の中を私たちの
不安
を乗せて突っ走る。15分位走っただろうか、急に列車は速度を
落として
止った。
「あっ駅だ。」と言って私は裸足でコンパーメントから廊下へ出た。
小さな駅だ。駅員の放送が聞こえる。

「×××××××」フランス語であるからチンプンカンプンである。
「××××・・・Yoshi〜da」あれっ!?
「みつ子!呼んでるみたいだヨ。」
と私は叫びながらコンパートメントに顔をつっ込む。みんなビックリ
して飛び出す。そして、デッキヘ行き、ホームヘ身を乗り出してよく
見ると、遠くに荷物を肩にかけた大男が1人立っているではないか。
「ラルフ!」みつ子が叫ぶ。
「ラルフだ!ラルフ!」私も思わず呼ぶ。
「本当にラルフか。」と彼女に聞くと
「そうヨ。」と言って彼女は
ホームに降りて彼の方へ小走りに走って
行った。
私は大声で、列車の窓からホーム を見ている女房たちに
「ラルフがいたぞ!」と言ってホームに降り、
2人が来るのを待った。
彼等は互いに腕を背に回して、ニコニコしながら
近づいて来た。
“ラルフ!”と言って私は握手を求める。
“Mizono san I am sorry.”
と言って彼は大きな両手で私の手をギュッと握った。
***
 列車は再びゆっくり走り出した。ラルフが簡易寝台券を持っていた
ので、
その列車のものではなかったが、車掌と交渉をして寝台車を
ることができた。
そして、丁度6人用の部屋へ入ると、 何はさておき、
“ビーノでサルー!”と思いのほか早く訪ずれた彼との再会に乾杯
をした。
「神様のチヨットしたい
たずらだったのかしら。」と誰かが言うと、
それを聞いてラルフは
胸でクルスを切った。そして彼は、みつ子に熱
いキッスを贈っ
た。私たちはそれを見て、
ビーバー!(万歳)今日は無礼講だ! と言って2人をはやし
たてた。
「それにしてもお腹がすいたなあ。」と
私が言うと
「ほんと、安心したら急にお腹がすいた。」と小池さん。

「そう言えば、イカのすみ煮をはさんだパンがあるはずだけど・・・」
と女房が言うと、ラルフがバスケットから
“Please”
と言って出してくれた。彼も持っていても食べる状態では
なかったら
しい。女房は再びイカのすみ煮が食べられると言って感激
した。そし
て、エンダイアのホームで買ったビスケットも食べ、ビー
ノも飲みほす
と一段落ついた。ラルフとみつ子は最上段のベッドで先
程か
ら抱きあっている。それを見て、小池さんが
「見チャおれないワ」と
中段のベッドに横に寝そべって言う。そして、
「どう私、着衣のマハ
ヨ」と、プラド美術館のゴヤの絵の仕種を真似
て言うと皆は笑いころ
げた。
「こんな大さわぎして寝ないのなら、寝台車をとる必要なかっ たな
あ。」と誰か。

「もったいないから寝ようか。」バヨンヌとダックスの駅に列車が止
ったのは知っていたが、あとは覚
えていない。 気付いた時は、白々と
夜が明けかけていた。列車はパリ郊外の農村地
帯を走っていた。

***

「ところで、ラルフ、昨日のアクシデントはなぜ起ったのですか」
パリに着いた私たちは、ホテルの一室に集まり反省会である。

「列車が動き出して、Mizunoさんは飛び降りたが、私は線路
の入れ替えかと思って、そのまま乗っていた。ところが一向に止まら
ないどころか、だんだん速くなる。ポッポー!シュシュシュシュッ・・・」
と汽笛と列車の走る様子をまことに上手に真似て説明する。皆そ
れを見て拍手喝釆の大笑いである。皆が心配し、どうしようか迷った
ことなどを彼にみつ子がかいつまんで話す。
「すみませんでした。自分も同じようなことを考えたけど、
ともかく次の駅で降りて、6枚の切符をマスター(駅長)に見せて
説明したンです。
“He is good mastter.”

まずエンダイアの駅長に電話を入れてくれ て、5人に11時05分
発の列車に乗るよう放送してくれと頼んでいた。

そう言えば,ほとんど放送など聞いたことのない駅で、何やら放送し
ていたのを思い出したが、フランス語であったために誰もわからなか
つたのだ。ラルフはしきりにやさしい英語で私たちに説明しよう
とするが、もどかしくなり、みつ子を通じて一気に話した。そ して彼
女は私たちに通訳をする。

「駅長さんは、それ以後テレビのオペラを見だしたらしいのよ。し
かし、ラルフはそんな気持ちには全くならず、ウロウロあたりを歩い
ていたンだって。すると、駅長さんが、きっと会えるから心配するな
ッテ。この駅を通過するパリ行きの列車はすべて止めて調べると言っ
てくれたらしいノヨ。それで安心して彼もテレビを見ることにしタン
ダッテ。少したつと、駅長さんが
“Vamos!”と言って、ホームに出て行ったので、彼も後について行く
と、痛闇の中から列車が近づいて来
た。彼はこの列車に5人が乗って
いるようにとキリストに頼んだんダッ
テ。そして列車がゆっくりと止
ったので、彼は、ホームの前から後
まで歩いたンダソウヨ。それに、
丁度、コンバートメソト(部屋)の
窓側がホーム側であったので、彼
は全部確認したんだけど、その列車
には乗っていなかった。それで、
駅長さんに言って発車させてもらった
が、寂しさだけが残ったらしい
のヨ。ラルフは本当に寂しそう
にしてビーノを飲んだ。私たちはその
続きを身をのり出して聞いた。

 駅長さんは、再びテレビのオペラを見て、楽しそうに鼻歌を歌って
いる。ラルフは私たちのことを考えると気が気でなかったが、今の
列事の中には絶対いなかったという自信があったので、次の列車で来
るだろうと思い直したらしい。ところが、結果的には二番目の列車で
も私たちを見つけることができず、自分は何と不幸な星の下に生まれ
のだろうと、キリストを信じ難くなったという。そして、彼は再び
ビーノをやけっぱちの仕種であおった。
 三番日の列車で来なかったら、自分もその列車でパリまで出よう
決めていたらしい。信じ難くなったキリストに祈り、列車を待った。

テレビのオペラはクライマックスであったらしい。丁度三番目の列車
が来る時刻なので、駅長さんはシグナルを赤にして列車を止める準備
をして待ったという。そして、列車が入って来ると駅長さんが放送を
かける。それが、それまでオペラを見ていたので放送もオペラ調にな
つて・・・
“〜〜Yo〜shi〜da〜”とラルフがオペラ調で駅長の真似をしたので皆
をかかえて笑いこけた。そのオペラ調の放送とやらを、列車の窓から
私が聞いたのだ。
「私はキリストを信じてよかった。」と言ってラルフがみつ子の肩を
抱いてキッスをした。

***


 長いスペインの旅はこれで終わった。マドリー、トレド、サラマンカ、
それに
小さな漁村のセデイラやサンタンデール。いつの日かもう一度
是非行ってみ
たいと思う。

 
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