Malaysia《Kuala Lumpur/Malacca》=仲間サザンクロスの旅=
前の職場の同僚と旅をした。サザンクロス(南十字星)の会という名の会を結成して15年。
《いつかサザンクロスを見に行こう》と考えていた。その夢を実現するためにメンバー6人で
いよいよ出発した。果たして、サザンクロスは見ることができるのか?
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旅行期間 2005・8・28〜9・1
旅 程
8月28日(日)
6:30 豊橋駅名鉄ホーム集合
44 名鉄電車で中部国際空港へ(神宮前乗り換え)
10:40 中部国際空港離陸(機内食2回)
17:00 クアラルンプール国際空港着(時差1時間)
18:30 ホテル着
19:00 中華街等観光
21:00 ホテル帰着
【日誌】
同行のMさんが以前マラヤ大学で教鞭を執っていて、一度はみんなでマレーシアに行こうと言っていたのだが
ようやく実現した。クアラルンプールに着いて、すぐにMさんの案内でホテルからすぐ近くの中華街に出掛けた。途中、
バスターミナルはこれから夜行を使ってマレーシアの各地へ向かう人たちでごった返していた。
中華街も予想以上の人でいっぱい。「本物っぽいよ!」と言ってお兄ちゃんが言い寄ってくる。Mさんを見失なわない
ように必死でついて行く。屋台で買った「ライチ」は30個くらいで150円、赤い皮を手で剥くと白い実が出てくる。ジュー
シーでホントに旨い。
「すこしお腹がすいたな〜」というと、
「私がよく行ったところに行きましょう」と言ってMさんが案内してくれた。
土鍋でお米を炒めたもの。鶏肉が入っている。何となく醤油味で、あまり油っぽくなく美味しかった。一鍋が300円位とか。
6人で2鍋食べたら腹一杯になった。
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ビールが飲みたかったが、マレーシアはイスラム国。酒屋は目に入らなかった。
29日(月)
7:30 朝食
8:30 クアラルンプール市内観光(OP昼食付き)
14:30 ホテル着
15:30 国立マラヤ大学・プトラジャヤ見学
18:00 マレーシア料理
21:30 ホテル帰着
OPで市内観光に出掛ける。
市場では新鮮な魚や野菜が豊富に並べてあった。
どこの国でも市場は活気があって面白い。
《瑞々しい椰子の実を食べさせてもらう》
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添乗員のYさんとの会話。
「クアラルンプールでサザンクロスは見える?」
「ここでは無理。夜、山の方へ行けばひょっとして見えるかもしれない。蛍の里がある。OPで明日見に
行かない?」とYさんが誘う。しかし、明日はマラッカに行く予定。しかも、サザンクロスがいつも見える
とは限らない。
「そうか、サザンクロスは南半球に行かなくては見ることができないんだ。」
国立マラヤ大学・新行政都市プトラジャヤ
【日誌】
朝8:30にホテルを出る。OPの市内観光である。最初に市場に案内された。どこの街でも朝の市場は活気がある。
おばちゃんや若い売り子が大声で客を呼ぶ。豊富な野菜、新鮮な魚、そして、鶏が毛をむしられて天井からぶら下がっ
ている。椰子の実をお兄ちゃんが割っている。甘そうなジュースがこぼれる。ジュースを取っているのではなく、油を絞る
のだそうだ。内側の白い部分が柔らかくて甘い。食べさせて貰った。
***
モスク、ヒンズー教寺院、仏教寺院にも行った。同行者には歴史のオーソリテイがいる。面白く解説してくれる。
OPの最後はKLタワーでの昼食。眼下にクアラルンプールの街を見ながらバイキングである。珍しいドリアンのソースも
味わった。しかし、やっぱりカレー系は絶品であった。
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一度ホテルに戻り、今度はMさんの案内でマラヤ大学に出掛ける。国立大学は全国に7校しかなく、私立大学はない。
将来の国のリーダーを育てる教育機関として日本では考えられないような立派な規模、設備を誇っている。
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マラヤ大学を出て、今度は新行政都市プトラジャヤに向かう。壮大な計画のもと、1999年に首都クアラルンプールから
近郊のプトラジャヤに首相府を移した。そして、2000年には他の行政機関を次々に移す。2010年に完成。但し、立法府は
クアラルンプールに残すという。
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町中でマレーシア料理を食べての帰り、タクシーに乗った。乗るときに行く先のホテルを再三確認して乗ったのだが、
着いたホテルは違うところ。片言の日本語を話す運転手は「間違えた!」と。間違えるわけがないじゃないか!どうも様子が
おかしい。持っていたホテルのカードを見せて「通り」を確認、それでも何となく遠回りをしている。結局、120〜130円で
行けるところを370円位掛かってしまった。言葉が不自由ということから誤魔化されたのだ。一日楽しく過ごすことが
できたのに、最後になって少しケチが付いてしまった。
30日(火)
7:30 朝食
9:00 マラッカ観光へ出発
17:00 ホテル着
18:00 ホテル内中華レストランにて夕食
20:30 3人帰国でホテル出発
セント・ポール教会:フランシスコ・ザビエルも一時ここに安置されていた | 1753年に建てられたキリスト教会、マラッカのシンボル |
【日誌】
車をチャーターしてマラッカへ出掛ける。運転手は前日のプトラジャヤ観光の時の李さん。落ち着いた、いかにも誠実そうな
中国系マレーシア人のベテランドライバーである。マラッカ市内を隈無く回ってくれた。ババ・ニョーニャの館では中世のマラッカの
繁栄を見た。丘の上のセント・ポール教会からはタンカーが行き来するマラッカ海峡が一望できた。
31日(水)
7:30 朝食
9:30 クアラルンプール市内及び近郊観光
18:30 ホテル着
20:00 ホテル発
23:45 クアラルンプール国際空港発
市内の繁華街、ブキット・ビンタンは独立記念日(祝日)で大勢の人が出ていた フルーツのキング、ドリアン(D24)は遂に食べることがなかった 「アルコールとは食べあわせになる」ということを聞き、 アルコールの誘惑には勝つことができなかった *** フルーツのクイーン 「マンガー」を買って食べる 果実は「ライチ」と良く似ていて、白くてジューシー甘く美味であった |
【日誌】
Mさんの案内でクアラルンプールからバスに乗って、隣の州都のシャー・アラムに出掛ける。不思議なことに、
行きのバス代と帰りのバス代が違った。そう言えば帰りのバスの方がポンコツ同様のバスだった????
***
大ピンチ:《暴漢に襲われる》
クアラルンプールに戻って、3人でモスク前から電車に乗った。乗り込む時、私の背中に何かがフッと触った。
振り返ると中年の男性が新聞を片手に持っている。それが触ったのかと思い、気にすることなく電車に
乗り込んだ。ところが、車内がイヤに混んでいる。電車がガタンと動き出した。私はちょっとよろける格好に
なった。すると、私の前にいた男性がイヤに大仰に仰向けに倒れ掛けた。直感的に《マズイ!》と思った。
"Sorry!"と言って彼を見ると、後ろにいた人に寄っかかっていて倒れることはなかった。私は事なきを得たと
一瞬ホッとした。
ところが、その後私の周りにいる男達がヤケに身をすり寄せて来る。乗るときに背中に触った新聞、あれは
私を《ターゲット》にするという仲間に対する合図だったのだ。私は《これはイカン》と思って無理矢理
その人垣を分けて別の場所に移動をした。2〜3分したところで、案内のMさんが「降りますよ」と合図を
くれた。そして、私はもう一人のNに「降りるぞ!」と大きな声で言った。そして、私が出入り口のドアまで
出ようとして後ろを見ると、Nが数人の男達に囲まれて出て来られない状態になっている。《イカン!》と
思って、私はドアが閉まってしまわないように咄嗟に入り口に立った。そして、大声で「何するんだ!」と
叫んだ。Nは、《何が何だか判らなかった。倒れ掛けたが無理矢理出てきた。出ようとしたら、俺のズボンの
裾を引っ張ってヤガンノ。この野郎と思って蹴倒して出てきた。何だあれは!》と言って、大きく息をした。
***
彼らの見込み違いは、私たちが乗車したすぐ次の駅で降りてしまったこと。それに、私が危険を察知し、
すぐに彼らの輪から無理矢理に出てしまったこと。Nについても、彼らにしてみればNがもたもたして
ドアが閉まり、Nが私たちと離ればなれになればよいと思っていたのではないか。パリの地下鉄と同じ
手口の、全く荒っぽいスリ、暴漢であった。
結局、何の被害もなく降りることができたが、少しの間、興奮が覚めやらなかった。
9月1日(木)
7:45 中部国際空港着
8:45 空港の温泉〜いい湯だな!
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【後日談】
帰国後しばらくして、私はマレーシア航空の名古屋支社に出掛けた。こういう者です。と言って私は
【国際ボランテイア】の名刺を出した。すると、N課長さんが対応してくれた。最初、何者?という怪訝な
表情であった。それも頷ける。妙な名刺を出したのだから。
「実は、行きの機内食の軽食のおにぎりがあまりにひどかったので、そのことについて来ました。」と言うと、
「有り難うございます。」と言って大変丁寧な応対をしてくれた。
実は、私が機内でスチュワデスにクレームを付けたとき、彼女は《厚生労働省の指導で冷蔵庫に入れて
おかなくてはいけませんのでどうしようもありません》という回答をしていたのだ。私の言っていることが全く
解っていないという感じであった。
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「機内食については、月ごとの計画がありまして、すぐに変えることはできませんが、水野様からのお申
し出を貴重なご意見として責任をもって確実に伝えます。」ということであった。