大邱(テグ)
その1 慶州===沙也可の里(友鹿洞)===大邱 東大邱ホテル
豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮にあっては壬辰ノ倭乱)のとき、兵三千を
ひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏した。かれはのち武功をかさねて
王寵をこうむり、武官ながら二品という大臣相当の官位にまでのぼり、
土地をたまわってその族党や家臣が一村をなし・・・・
主人公の名は沙也可という。・・・・
『宇都宮高麗帰陣物語』という長たらしい名前の文書のなかに、清正
の家来で阿蘇宮越後守という者が曲事あって高麗へ走り申候、という
のがある。 【街道をゆく2・韓のくに紀行 司馬遼太郎】
==沙也可の里(友鹿洞)==
大邱市から南の山里へバスは狭い道をくねくね回りながら1時間程で友鹿
洞に着いた。私たちは早速、忠節館という沙也可の遺品・遺物を展示した
韓日文化交流会館に通され、沙也可の話を聞いた。
「日本名沙也可の韓国名は金忠善、号名慕夏堂(モハンダン)といいます。
司馬遼太郎の
『街道をゆく』で既にご存じのように・・・・・・」
「戦後私たちは身の縮む思いでこの村に過ごしておりましたが、最近はそん
な事はありません。むしろ、勇敢な日本人の子孫、韓国人として評価されて
います。」
説明を受けているその時は、正直言って、私は『司馬遼太郎』のその本を読
んでいなかったし、沙也可の名前も知らなかった。しかし、説明を聞いている
内に大変な人がいたんだという事がわかり、司馬遼太郎を是非読んでみよう
と言う気になった。
慕夏堂は日本に生まれ、幼い頃から野蛮を拒み人倫を尊んだ。1592年4月、
豊臣秀吉が不当にも朝鮮侵略に30万大軍を出兵した際、彼は加藤清正の
右先鋒将として渡海したが、釜山に上陸するや、反旗を高く掲げ、礼と義の国
朝鮮に帰化するという大勇を敢行した。
【大韓民国 大邱広域市 パンフレットより】
司馬遼太郎の見方と違うところがあるが、どちらが正しいということでもある
まい。
***
沙也可、金忠善将軍を祭っている『鹿洞書院』を後にして、私たちは、もと来た
道を戻り、大邱市内の『大邱観光情報センター』を訪ねた。大邱近郊の観光用の
短い映画を見、係りの方からは最近の当地方の産業について説明を受けた。
韓国がいかに観光に力を入れているか、また、国力を付けるために国民が一致
して努力をしている様子を熱っぽく話された。
その2 大邱市内
大邱には『薬令市』といって、漢方薬の市場がある。朝9時にホテルを出た。
バスから見る町は、昨夜の喧騒と比べ閑散としていた。『薬令市』は街の中
心地にあり、私たちは、バスを降りて少し歩いた。
さすがに、漢方薬の店が多い。朝早い
ので店はほとんど開いていない。10時
開店なのか?
市(いち)も閑散としていた。ただ、
広い市場には、薬草の類が所狭し
と麻の袋に入れて並べられていた。
係りの方の説明を聞きながら、大
邱が大変な薬草の集散地であること
がよくわかった。小生、女房の父親
に『高麗人参茶』を購入した。
大邱は韓国で、ソウル、釜山に次ぐ人口200万人の大都会である。道路も
広く、自動車も多くて何となく名古屋に似ている。朝の大邱をバスで次の
訪問地、世界遺産の『海印寺』へ向かった。