福澤諭吉が横浜の友人から手に入れた英語の簿記の本を翻訳し、近代国家をめざす
日本に初めて複式簿記を紹介した。
140年経った今、諭吉の「実学のすすめ」は
現代にも十分通じる内容であり、ここにその凡例を意訳をした次第である。


本文は縦書きである。、ここでは横書きとし、特に数字等は読みにくいがそのまま表記した。

 帳合之法 巻一

   凡例

一、この帳合之法の原書は一八七一年アメリカ商業学校の先生、ブ ライアントとスタラットンの
 二人が書いた学校用 「ブックキーピ
ング」 という本である。 「ブックキーピング」 とは帳合
 (注@)
のことである。
    (注@) 「帳合」 という言葉は、現在ではほとんど使われないが、広辞苑には次のようにある。
          @現金または商品の勘定と帳簿面とを照合して、計算の正否を取調べること。
          A帳面に記入すること。
          B損益を計算すること。

一、帳合には略式と本式(注A)の二通りの様式がある。初編の二 冊にはまず略式のみを
 翻訳し、本式もその翻訳が半分程度進んで
いるので、近日中にこれを第二編として出版する
 ことができる。

    (注A) 略式と本式
          「本式ノ名ハ略式の反対ニテ本式ニハ一箇条ノ取引ヲ二重ニモ三重ニモ台帳へ記ス」
          (第二編本式総論)とある。略式は今日の単式簿記、本式は複式簿記を意味する。

一、本書の訳例を示す前に、序として私がこの本を翻訳した趣意を示せば左のとおりである。
  第一に、昔から日本においては、学者は必ず貧乏であり、金持 し、金持ちは自ら卑下して
 商売に学問はいらないと訳の分からな
ちは必ず無学である。従って、学者の議論は崇高で、
 天下をも治
める勢いであるが、自分の借金は払おうとしない。金持ちは金を 沢山持っており、
 また、これを瓶に入れて地面に埋めておくだけ
で、世の経済活動を勉強して商売を大きくす
 る方法を知らない。
何故かと思うに、学者は偉ぶって商売なんてものは品位の高い者が仕
 事としてやることではないと言ういことを言っている。


  学ぶべきことを学ばないで悪い慣わしに陥っている。いずれも 皆商売を軽蔑して、これを
 学問と思わないのは罪なことである。
今このような学者も金持ちもこの「帳合之法」を学
 べば、西洋実
学がいかに大切かを知ることとなるだろう。学者も自らの愚か さを知り、金持
 ちも自分自身の賎しくないことを悟って、双方と
もこの実学を勉強すれば学者も金持ちとなり、
 金持ちも学者とな
って世の経済活動が更に良くなり、国力が増進することとなろう。 訳者が
 深く願うところである。


  第二に、巷で世の中の諸々のことについて不都合だ不都合だと 言って苦情を言うことは
 たやすいことであるが、その不都合なこ
とを克服することははなはだ難しいことである。あ
 ちこちの大商
家の帳簿の付け方(注B)を見るにつけ、いずれも大変混乱していて、一
 商家の棚卸しに店中総掛かりで行ってもニケ月掛けても
なお解らないことが多い。帳簿の
 付け方がきちんとしていない証
拠であるが、今日に至るまでこれを改めた者がいると言うこ
 とを
開いたことがない。
    (注B) ここでは 「帳合」 を 「帳簿の付け方」 と訳した。

  これは一商人の不都合というより、世の中全体の不都合と言う べきことである。今この翻
 訳書は西洋の帳簿の付け方の初歩を示
したものであるので、もとよりこれをもって諸々の
 商取引 (注C)
の帳簿の付け方を一変して全て合理的にすることはできないかも しれない
 が、まず、この本から「学問としての帳簿の付け方」(注
D)を知り、その後、第二編の
 本式【注A複式簿記】を学びその
神髄を知れば、官民すべての会計を合理的にするこ
 とができる。
そうなれば、この冊子も微力ではあるがないよりは増しであると 思う。
    (注C) ここでは 「商売」 を 「商取引」 と訳す。
     (注D) 「帳合学」 を 「簿記学」 と訳さず、敢えて、「学問としての帳簿の付け方」 と訳す。

  第三に、前述したように青から日本では学問と商売(注E)とはお互いに縁がなく、学
 者は知識が多ければ多いほど威張ってい
て、無学な百姓町人は軽蔑されてお互いに近付
 こうとはしない。

    (注E) 「家業」 をここでは 「商売」 と訳した。

  あるいは、稀に物好きな百姓町人がいると、少しばかりの本を 読んで学者のまねをして、
 無用の漢文や詩歌に耽るばかりで、物
の数もできず、金勘定も忘れて商売の為にならず、
 必ず身を滅ば
す結果となる。従って、百姓町人は学者を見て、表向きにはこれを尊敬し、
 物知り先生などと口には出すが、内心はその職業を嫌
い、学者を見て貧乏神のようにあえ
 て近づこうとしない。そして、
子供には決して読書をしないように言う。
  今日では西洋学間の道もだんだんと開かれ、いろいろな所に学 校ができてきたが、農工
 商に携わる者は学者という職業に懲り
て、学問それ自体に厭気が差して、また例の学問
 のことかと言っ
て、その学問の虚実を問わずに、学問と聞くだけでまずこれを避 けようとす
 る。正に進歩的な西洋学間もこのために妨げられるこ
とが多いとは何としたことであろうか。
 結局、数百年来和漢の学
者先生方が空理空論(注F)に溺れて実学を大事にせず民を
 愚弄
した罪ということであろう。実に嘆かわしいことである。
    (注F) 「虚文空論」 を 「空理空論」 と訳した。
 

  このようなことから、今この「帳合之法」をいろいろな学校で 生徒の教科書として使い、
 一般の子弟(注G)がそこで習ったこ
とを家に帰って親兄弟に話せば、彼らも初めて西
 洋学間の本当の
ことを知ることとなり、安心してその子供を学問の道に進ませる者が徐々
 に多くなってくることであろう。

    (注G) 「平民」 を敢えて 「一般の子弟」 と訳した。

  そういう訳で、この冊子は「帳合之法」を教えることだけでな く、一般に学問の本来の内
 容を示して、広く世の中の人々に読書
の道を開こうということである。和漢古今の空理空論
 を並べた学
者風情が人を馬鹿にした罪は深いが、この本が農工商の世界に知 識を与える
 という功徳を施すことができるなら、私が翻訳の労を
取ったことが大変大きな意味をもつこと
 になろう。


   第四に、「帳合」もー種の学問であることは本書を見てすでに明 白なことである。従って、
 商売も学問であり、工業も学問である。
又、一方から言えば世の捷に従って身体を使ってそ
 の報酬を得る
のが商売であるから、役人が政(まつりごと)をして月給を得る のも商売で
 ある。昔の武士が軍役 【軍事、警察など】 を勤めて給
料を得るのも又商売である。しかし
 ながら、世間の人は皆武士役
人の商売は貴く思い、物を売買し、物を造る商売は賎しく思う
 の
は何故であろうか。結局、商売を貴い学問と思わない心得違いなのである。その心得違い
 の甚だしい者は自分の利害を考えない者
が多いということである。

  試しに一例をあげて説明すればよく理解できるだろう。物を売 買し、製造することも商売で
 ある。武家奉公も商売である。まず、
十万石の大名の家を一商社とすれば、一年間の利益
 は米四万石で
ある。一石三両の相場にすれば、代金は十二万両であり、この内 四分の一、
 即ち三万両は社長である殿様のものとなり、残りの利
益は正味九万両である。この商売で
 は上は家老から下は足軽小者
に至るまでおよそ千二百人働いているとすると、九万両を平
 均し
て千二百軒の家に分配すれば一年に七十五両である。良い武家に は雇っている奉公
 人も多いので、一家の人数 が平均六人とすれ
ば一人当り一年十二両五貫文、一月一両
 四百十六文、一日三百四
十七文である。
 

  廃藩以前の諸藩士の利益はおおよそこの割合であつた。今この 武家商売を止めて以前
 から請け負っていた軍役は常備の兵隊に譲
り、自らは物を製造したり、物を販売したり、物
 を運ぶ商売を始
めれば、その利益は必ず以前の二倍になるだろう。一人の収入で はなく、
 一家六人の内三人が老人や子供、病人であつても、後の
三人が働くことができれば各々
 六百九十四文稼げば、尚依然とし
てもとの藩士の収入と異なることはない。商売の道は困
 難である
といっても丈夫な身体であれば一日に六百九十四文の収入を得る ことができない
 わけではない。人力車を引いて十町の道のりを往
来すれば、半時【現在の一時間】の間に
 得られる収入である。ま
してや、最近では士族の収入も随分減り、平均十石から二十石で、
 多いものでも三十石は出ない。この利益を六人の家族に配分して も、人力車の収入に遠く
 及ばない。加えて、今の士族にはもう軍
役の勤めもなく、働くことなく報酬を得ようとするの
 は男の恥ず
べきことである。しかし、尚この米 【報酬】 に執着して、独立し た生活をしよう
 とする者のいないのは果たしてどういうことなの
であろうか。それが人の心の愚かさである
 ということは実に不思
議なことであるが、基本的には、今までの学問 (学者) は、数千
 年先の収入を考えるばかりで、当面の利害損失を顧みないという ことである。つまり、みだ
 りに商業、工業を軽蔑してこれを学問
と思ってこなかつた罪である。今この 「帳合之法」 
 を翻訳したの
は、私が人々に学問の道を進め、商業、工業に向かつて独立の志 を起こさ
 せようとすることが本意である。


一、書中すべて金額は何千何百何十とは書かずに一から九までの数 字を使い、その数字
 の位を見て金額を知ることができるのは、あ
たかもそろばんの桁を見ているようだ。
  左にその一例を示す。
     一二三、四五〇、○○○  は  十二万三千四百五十円
      一二、三四五、○○○  は  一万二千三百四十五円
       一、二三四、五〇〇  は  千二百三十四円五十銭
          一二三、四五〇  は     百二十三円四十五銭
           一二、三四五  は    十二円三十四銭五厘 

  右のように、同じ数字であつてもその位によって十倍ごとに「、」 の記す位置が違う。多くの
 数字が重なつている時には三文字ごと
に 「、」 を打ち、育と千、十万と百万の位を分け、本
 文には円の位
と銭の位を明らかにするために横に線を引いた。(注H)
    (注H) 「横に線を引いた」 とあるが、原典の帳簿の様式では 「円の位」「銭の位」 として横に線を
           引いて区分している。

  或いは、品物の単価何円何銭という時に線を使わずに、例えば、 ●一二、七五セ★と記入
 した場合は、単価十二円七十五銭のこと
である。
        ●印は「くにがまえ」の真ん中に一本の縦線のある紀号
          ★印は数字の2に似ている記号

  この数字の使い方は初心者には解りにくいようであるが決して そうではない。私も最初は紛
 らわしく思い、時々位を誤ることも
あつたが、五〜六枚翻訳する内にすぐに慣れて、日本流に
 記入す
るよりも遥かに便利に思えるので誰でも四〜五日すれば容易に解 るようになる。

一、本書は半紙の大きさであるから、ただ諸帳簿の雛形を示すだけ である。これを実際に使う
 場合は縦八行ないしは十行、横四〜五
十段の大型の罫版を彫刻して、美濃紙または酉の内
 (注I)くらい
の大紙に朱色または藍色で極薄く印刷して帳面として綴る。
    (注I)原書には 「西の内」 とある。「西の内紙」 の略で、日本紙 (和紙)の一種。茨城県諸富野村
         西野内で生産され、明治以降選挙投票用紙に使われていた。当時は美濃紙とともに日本紙の代
         表的な存在であつたが、投票用紙に使用されなくなつた大正十一年をさかえに生産が激減し、
         現在では歴史的な存在となつた。    (平凡社世界大百科事典から要約)

   日記帳でも大帳(注J)でも実際に取引を記入する際には、本 書の雛形の墨の線の例に
 従って薄い朱色の罫線の上に一回一回墨
で線を引くようにするべきである。
    (注J) 「大福帳」 (注K) のこと

  西洋の 「帳合之法」 は皆このようにしている。従って、西洋の 帳場には必ず罫線を引く道
 具を備えている。日本の店で厚さ一尺
余り【約三十センチ】もある大福帳 (注K)に、子供が
 書く清書の
ように大きな字で記帳することとは大いに趣を異にしている。
    (注K)江戸時代から明治・大正のころまで一般に用いられた帳簿の一種。当時の帳簿はおおよそ、大
         福帳・買帳・売帳・金銀出入帳・判取帳・注文帳・荷物渡帳の七種に大別された。大福帳は売買
         両帳及び金銀出入帳を総括するもので大帳とも呼ばれた。今日の得意先元帳がこれにあたる。
                                    (平凡社世界大百科事典から要約)

一、本書は原本の直訳であるが、外国人の姓名を直訳しては日本人 には聞き慣れないので、
 混乱を生じてしまうことがあるので仮に
日本の普通の町人の名前を使って何屋何屋と記した。

一、売買品の名称も日本人に聞き慣れない稀な物は他の品と入れ替 えたので、あるいは値段
 など不適当なことがあるかもしれない。
また、尺と記入したのは原本の 「ヤアルド」 【ヤード】
 の字を訳し
たものである。一ヤアルドは我が国の曲尺 (注L) でいう三尺に 当たる。よって、
 本書中に一尺とあるのは実は三尺のことである。

     (注L) 「まがりじやく」 「まがりがね」 「かねじやく」工匠が方形を作るに用いる物差し。鋼または
          真簸でできていて長い方が一尺五寸、短い方が七寸五分の目盛りが付いている。
                                    (広辞苑から要約)

一、原書にある 「シングル・エンタリ」のことを本書では略式と訳 し、「ドゥプル・エンタリ」 を本
 式と訳したが、この訳は本来の
意味に叶うものではない。「シングル・エンタリ」 とは一重
 (注M)
に記入するという意味。「ドゥプル・エンタリ」 とは二重(注M)に記入するという意味
 である。

 

  第二編の総論でも触れるが、「ドゥプル・エンタリ」 は同じ金額 の貸借を大帳へ二重にも三
 重にも控え、互いに平均する方法であ
るからこのように名付けたのである。よって、この二つ
 の方法を
「一重扣ノ式」、「二重扣ノ式」 (注M)などと翻訳すれば原書の意味に合うかもし
 れないが、口調が悪いので日常使うのに不便な
ので、無理を承知で略式、本式と訳した。
     (注M) 「一重扣ノ式」 (いちじゆうこうのしき)・「二重扣ノ式」 は、
           現在の単式簿記・複式簿記のことである。

                            明治六年二月十日訳者記



 あとがき〜意訳にあたつて

 私が本校に 「帳合之法」のあることを知ったのは、平成十二年四 月豊橋商業高校に着任
してしばらくしてからであつた。それは本
校同窓会博物館のガラスケースの中に保管されてい
た。私はそれを
見て、本校の職員、生徒あるいは来校者に気軽に見ていただきたいということ
と、大変貴重な資料でありセキュリティの面から校長室
へ移すことを決めた。以来、機会ある
ごとに本校がこの貴重な書物
を所有していることを公言し、数多くの方々に見ていただいている。

 また、豊橋市美術博物館の学芸員の方に調べていただいた結果、「木版による印刷である
から、多分百部から二百部の発行であろう。そ
の中で、初版本が四巻全巻揃っていることは
珍しいことである。福
澤諭吉研究の貴重な資料である。保存状態も良く、大切にして下さい。」
とのコメントをいただいた。


 本書のことは、私が大学一年生の時、簿記を勉強する中で、福沢 諭吉が複式簿記をアメリ
カから日本に初めて紹介した本であるとい
うことで知っていた。しかし、それ以上のことは知る
由もなかつた。
ところが、私が本校に着任し、その原本が自分の眼の前にあり、手 にとつて見
ることができることを知って少なからず興奮を覚えた。

 こうした歴史的に有名な書物は、ややもすると、その題名や著者は知られていてもその内容
まで知ることは、意識的に、また、意欲
的に接しないとなかなかできないことである。私自身が
そうであ
たように、商業教育、簿記教育に携わる諸兄も本書の存在は知っていても、直接読
む機会を得た人は少ないと思われる。

 私が意訳するということ事態まことに潜越であり、また、無謀な こととは解っている。私は簿
記史の研究者でもなければ、福澤諭吉
について深い知識を持っている訳でもない。また、明
治時代の言葉
を正確に訳すことに自信があるわけでもない。ただ、簿記教育に長 年携わつて
きた者として、その内容を現代語に訳しておくことも多
少の価値があるのではないかという思
いで、「意訳」としてここに残
す次第である。

***

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。これは誰もが知っている福沢諭
吉の「学問のすゝめ」の冒頭に書かれてい
る一文である。この本は、明治五年二月から
同九年十一月までの間
に十七編に亘って書かれた彼の代表作品である。
 その初編には次のように書かれている。
    賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由つて出来るもの なり。・・・ただ学問を
  勤めて物事をよく知る者は貴人となり盲
人となり、無学なる者は貧人となり下人となる
  なり。・・・実な
き学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学 なり。
  例えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の
仕方、算盤の稽古、天秤の
  取扱い等を心得、なおまた進んで学
ぶべき箇条は甚だ多し。
 更に、二編にも次の件(くだり)がある。
   経書史類の奥義には達したれども、商売の法を心得て正しく取引をなすこと能わざ
  る者は、これを帳合の学問に拙き人と言
うべし。・・・帳合も学問なり、時勢を察するも
  また学問なり。


 日本が近代国家へ生まれ変わるためには学問が大事である。そしてその学問とは、日常生
活に密着した実務や習い事などであると諭
吉は説いている。今日の日本の教育理念にも通ず
る考え方であり、
また、長年商業教育に携わってきた者として大変に勇気づけられる言葉であ
る。

 「帳合之法」初編が明治六年六月に発行され、四巻全巻が出そろ ったのが明治七年六月と
いうことを考えれば、諭吉翁の頭の中では、
「学問のすゝめ」 で書いたことを「実学のすゝめ」
として、具体的
にこの「帳合之法」を世に出したと見ることもできる。その意味では、私は「帳合
之法」は「学問のすゝめ」の続編、あるいは姉妹編
であると考えている。

 十九世紀のドイツの詩人ゲーテは、複式簿記を「人類の創造した 最高のものの一つである」
と言っている。また、明治時代の熱血詩
人与謝野鉄幹は「簿記の輩とる若人にまことの男の子
君をみる」と
詠っている。

 三十五年間にわたり簿記教育に携わつてきた私としては、人類の創造した最高傑作を生徒
に教え、また、百三十数年前に、我が国の
近代国家を夢見た若きリーダーによって書かれた
「帳合之法」の原
本をわが手にして読むことのできたことは至上の喜びである。

 ***

 日本語訳初版本の大きさはA5版ですので、この意訳本も同じ大 きさとしました。字の大きさは
原本と同じくらいのものとし、文中
の(注)、段落、( )、「 」、【 】等は適宜挿入し、読みやすいよ
うに私が構成いたしました。

 最後に、この度私が本書を意訳するにあたり、友人の歴史学者、 東京女子大学水藤真教授に
大変お世話になりました。心から御礼を
申し上げます。

   平成十六年十月十八日 還暦