【帳合之法】を訪ねる

 《5 慶應大学再々訪》追加掲載(下段) NEW

1 諭吉翁との出会い
    平成12年4月、愛知県立豊橋商業高等学校に着任してしばらく経った頃、ある
   先生から福沢諭吉訳の「帳合之法」原本全四巻が本校にあるということを聞かさ
   れた。この本が日本で初めて複式簿記を紹介した本であるということは簿記教育
   を志した者として知っていたが、まさか自分が勤めることになった学校が所有して
   いるとは思いもよらぬ事であった。簿記史上貴重な本を目の当たりにして少なか
   らぬ興奮を覚えた。それから5年、「学問のすすめ」や「福翁自伝」その他福沢諭
   吉の関係書物をを読むにつれ、彼の考え方や人柄に共感を覚えた。そして、平成
   16年の夏、私が定年退職を迎えるのを機会に、「帳合之法」の凡例を現代意訳し
   てまとめてみた。140年経った現在でも十分に通用する、実学を重んじる教育観
   にふれ、商業教育に携わってきた者として勇気と自信をもらった思いであった。


        
        豊橋商業高校所有の「帳合之法」全四巻と第1巻1,2ページ目

2 慶応義塾大学訪問

旧図書館前に座り、今の私達を見守る諭吉翁

  慶応義塾大学三田学舎の旧図書館の階段を3階まで上がると入り口の扉があっ
 た。そこには、「大学以外の方は紹介状がないと入れません。」とあった。『どうしよ
 うか、入れてもらえるであろうか。ここまで来たからにはともかく行ってみよう』と思
 い、扉を開けてみた。若い女性の司書の方がいた。「あの〜。私は各々然々でして
 ・・・・」と名乗って、「帳合之法」の原本を見せていただくことを依頼した。すると、「分
 かりました。目的もはっきりしていますし、ご覧になりたい本の番号も分かっています
 ので、閲覧券を発行しましょう。」と言って、100円で入館券を発行してくれた。
  書庫に自分で行き、確認したところによれば、旧図書館所有の「帳合之法」は2組
 あり、豊橋商業高校のものと全く変わらないものであった。一組は保存状態が極め
 て悪く、ハードカバーの箱に保管されていた。もう一組はむしろ本校のものより良い
 状態であった。
 ***
  親切な司書の方の勧めでメデイアセンターに行ってみた。レファレンスのカウンター
 に行くと、「旧図書館から電話で既に連絡を受けています。」と言って、私の話は通じ
 ていた。そして、本当に親切にも「帳合之法」に関する資料を一緒になって探してくれ
 た。「確かに自筆本もあるようですが、これは予約がないと見ることが出来ません。
 マイクロフィルムならすぐにでも見ることができますが、どうされますか?」
  そして、これ又親切にもマイクロフィルムが見ることのできる部屋まで案内してくれ
 て、今度はそこの係の方に対応をお願いしてくれた。突然の訪問にも関わらず、大変
 親切に対応していただけたことに感激をした次第である。慶応義塾大学の懐の深さ
 を知る思いであった。

   
        
 「帳合之法」自筆本マイクロフィルム1頁(表紙)  2頁:「以信為本」の文字、「竹堂」とある              

   マイクロフィルムを見てびっくり!!! 表紙には「福沢諭吉先生」とある。誰かが
  表紙を付けたに違いないと思った。そして、2ページ目。「以信為本」とあるではない
  か???? 何で本校の校訓がここにあるのだ。何がどうなっているのか分からな
  い。考えられることは、福沢諭吉と本校にこの言葉を授与したと言われている松方
  正義公爵がどこかで繋がっているかもしれないということである。
   早速福沢研究センターに事情を説明し、尋ねてみた。すると、丁寧な返事を返して
  くれた。
   1 福沢諭吉と松方正義は同年代であり、書簡のやり取りがあったことは事実であ
     る。書簡集もある。
   2 「以信為本」の字の左下の「竹堂」は慶応義塾の学長を務めたことのある鎌田
     栄吉の号である。

  これを聞いてさらに分からなくなった。第3の人(鎌田栄吉)が出てきてしまったのだ?

 3 調べる楽しさ、判る楽しさ
   折を見てもう一度慶応のメデイアセンターに行き、今度はマイクロフィルムではな
  く、自筆本を見たいものだと思った。その目的は、本文と「以信為本」が書いてある
  2ページ目の紙質が違うのではないかということを自分の目で確かめたいというこ
  とである。そのことをメデイアセンターに言うと、「一般の方に自筆本を見せるわけ
  にはいかないが、こちらで複数の人間で確認してみます。」とのことであった。そし
  てしばらくすると連絡があり、「やはりその通りで、紙質が違いました。紙の大きさも
  少し大きく、後から差し込んだようです。」
  ***
  【推測】
    表紙に「福沢諭吉先生」とあるのもおかしな話である。鎌田栄吉氏は明治32年
   から大正11年まで慶応義塾の塾長をしている。この時期に鎌田氏の判断で自ら
   書いて挿入したのではないか。
    それにしても、「以信為本」は、松方正義氏が考えた言葉ではなかったらしい。
  ***
  (1) 姫路市にあるS化学会社の社是==〉「以信為宝」:メールで尋ねると早
     速返事が来た。
     「中国の屋根瓦に『以信為宝』という瓦当文字(がとうもじ)があり、それを先代
     社長が社是に引用しました。人生の歩みはまず人に好かれる努力から始まる。
     人に好かれ、人に頼られる人間になれ。頼りにされる人間になれば自然に味
     方が増え、同士が増えてくる。人から信頼されることが人生成功の秘訣と教え
     られました。」
  (2) 「丹後の国風土記」逸文に「天女いひしく、凡て天人の志は、信をもちて本と
     なす
。」(日本古典文学全集(小学館)謡曲集1)
  (3) 「以信為本」も「以信為宝」も現在の中国で、商取引をするときによく使われる
     言葉である。「以誠為本」という言葉もある。
  (4) 「以信為本」は「論語」か「史記」に出てくるのかもしれない? 
  ***
    鎌田栄吉氏が「帳合之法」に挿入した「以信為本」と松方正義公爵が同じ言葉を
   本校に授与したことは、偶然の一致として考えた方が自然である。

  ***
  
 豊橋商業高校の校訓は「以信為本」である。この言葉は、明治41年、時の元勲松
  方正義公爵から「以信為宝」と書かれた額を授与されたのだが、「宝」は学校教育に
  馴染まないということから、「宝」を「本」としていただいたと伝えられている。当時これ
  を校訓としていたが、戦後、県立商業高校としては校訓がなかった。しかし、学校教
  育には教育の根幹をなす、その学校の理念が大事であると考え、私が豊橋商業高
  校に着任した平成12年に「豊商将来構想検討委員会」を設置し、検討の結果平成
  14年4月9日、この言葉を校訓として設定した。


        
     松方正義公爵から直接いただいた額(豊橋商業高校所蔵)

       
           私の書いた「以信為本」
      〜本校文化祭出品&H17卒業アルバム掲載〜

 4 慶應義塾大学再訪




福澤研究センターのNさんを訪ねた。
突然の訪問で、少しの時間しか話すことはできなかったが、
2月にお世話になったお礼と
小生の「帳合之法」凡例意訳をお渡しし、
今後のご指導もお願いして、
センターをあとにした。

  旧図書館1階ホールには、諭吉の功績を讃え、
彼の多くの著名な著作物の原本をはじめ、
関連した資料が数多く展示してある。
***
校内は夏休みで学生はほとんど居ず、
閑散としていた。
     
三田演説館:諭吉は学生達に熱き想いをここで語った。閉まっていて中を見ることは出来なかった。



神田神保町で念願の石河幹明著の「福澤諭吉傳」を購入。
左はその箱、上は我が家の本棚に納まった諭吉関連の本
  【付録】
    福澤諭吉は、幕末期より啓蒙思想家として情熱的に西洋文明の紹介に努めた。それは学問や思想ばかりでなく、人々の
    衣食住などにも及んでおり、3度の西欧体験をベースに『西洋衣食住』という絵入りの実用書まで出版している。そして明
    治以後、福澤先生は科学的裏付けをもって肉食をPRするなど、食の近代化にも大きな役割を果たした。          
                                                        (慶應義塾「塾」2005.NO.247) 

5 慶應義塾大学再々訪 NEW

今回の訪問は、《現代語訳》発刊にあたり、
メデイアセンターに献本するため
「簿記史」ご専門のT教授ともお会いし、
小1時間話をする。
有意義な大学訪問であった。
校内には福澤諭吉先生の屋敷跡が《福澤記念園》となっており、
石碑には《福澤諭吉終焉之地》とあった。