シェイクスピア:歴史劇の研究

九州大学大学院言語文化研究院教授
徳見 道夫

目次


序章

シェイクスピア歴史劇への道
  1997年4月より10ヶ月間、イギリスのケンブリッジ大学セント・エドモンド・カレッジに留学して、 シェイクスピアの研究をしたことがある。その留学中に、ストラットフォード・アポン・エイボンと ロンドンで『ヘンリー五世』の芝居を見たのが、歴史劇研究に入るきっかけとなった。第4章の注3 と第6章に詳しく書いているが、この演劇を直に舞台上で見ることから歴史劇の魅力を知った。その後、 日本に帰国し、様々な仕事の合間に、歴史劇の論文をこつこつと書きためてきた。参考論文を入れて、 11本になったので、そろそろ著書の形で世に問う時期になったと考えていた。 それでは、この本の元となった各論文の初出を次にあげておく。
  第1章の「シェイクスピアの第1四部作―政治力学を見据えて―」は、『英語英文学論叢』(九州大学英語 英文学研究会)第58集、平成20年2月発行からのものである。ここでは、シェイクスピアの第1四部作の テーマは、各個人ではなく、政治の闘争自体がシェイクスピアの興味の中心であったことを論じた。
  第2章の「『ヘンリー六世』三部作における女性の登場人物について―家父長制への揺さぶりと再建―」は、 『英語英文学論叢』第61集, 平成23年2月発行からのものであり、歴史劇における登場人物に焦点を合わせ、 悲劇や喜劇の女性登場人物との差異を述べた。
  第3章の「第2四部作における「サリカ法」の持つ意味」は、『英語英文学論叢』第50集、平成12年2月 発行からのものであり、サリカ法がどのように歴史劇と関連し、どのような影響を持っていたかを論 じたものである。
  第4章の「統一と差異 ―『ヘンリー五世』における言語の機能」は、『英語英文学論叢』第49集、 平成11年2月からのものである。『ヘンリー五世』には様々な言語が登場するが、その理由を検証 したものである。
  第5章の「二つのホリンシェッド『年代記』とシェイクスピアの第2四部作」は、『英語英文学論叢』 第52集、平成14年2月発行からのものであり、シェイクスピアが歴史劇を作る際、もっとも影響を受けた ホリンシェッドの『年代記』に焦点を合わせた論考である。
  第6章の「メディアとテキスト—シェイクスピアの『ヘンリー五世』の場合」は、『言語文化論究特別号』 (九州大学大学院言語文化研究院)、平成11年10月発行からのもので、オリビエとブラナーの映画を取り上げて 論評したもの。
  第7章の『ヘンリー五世』における裏切りの場面」は、『英語英文学論叢』第53集、平成15年3月発行 からのものである。いわゆる「裏切りの場面」と言われている場面と王権継承問題との関連性について論じた ものである。
  第8章の「歴史劇と文化変容論―『ヘンリー五世』を中心に―」は、『言語文化論究』第18号、 平成15年発行からのもので、文化変容論をシェイクスピアの歴史劇研究に応用したものである。
  第9章の 「『エドワード三世』と『ヘンリー五世』―『エドワード三世』の作者の推測―」は、『言語文化論究』 第27号、平成23年10月発行からのものであり、最近ではシェイクスピアの作品であるとされる『エドワー ド三世』の作者を、『ヘンリー五世』との関連から推測した論文。
  第10章の「『エドワード三世』の作者について―歴史劇における三つの親子関係からの推測―」は、 『言語科学』(九州大学大学院言語文化研究院言語研究会) 第46号、平成23年2月発行からのもの。 『エドワード三世』、『ヘンリー四世』、『ヘンリー五世』、『ヘンリー六世』に登場する親子関係を軸に、 『エドワード三世』の作者を推測するという大胆な論文である。
  参考論文の”The Salic Law in Henry V”は、Shakespeare Studies vol. 37 (The Shakespeare Society of Japan、1999年度版)、2000年発行からのもであり、シェイクスピア協会から依頼 されて書いた。第3章の論考で第2四部作から見たサリカ法を『ヘンリー五世』に特化して論じた 英文論文である。



第1章

シェイクスピアの第1四部作

―政治力学を見据えて―


I

  シェイクスピアの第1四部作である『ヘンリー六世』( Henry VI ) の 第1部、第2部、第3部と『リチャード三世』( Richard III ) は、登 場人物たちの激しく変遷する人生と政治の冷酷な非情さを詳細に描いた作品 と言える。『ヘンリー六世』第1部では、トールボット(Talbot) 親子の騎士 道を象徴した死やジャンヌ・ダルク (Joan de Pucelle) の魔女性と彼女の処 刑が強い印象を観客に与えており、『ヘンリー六世』第2部では、グロスター (Gloucester) の政治的没落と彼の没落を狙うウィンチェスター主教( Bishop of Winchester, and afterwards Cardinal ) やサフォーク ( Earl of Suffolk ) の陰謀が中心に描かれている。『ヘンリー六世』第3部では、ヨーク ( Duke of York ) がマーガレット (Margaret, Queen to King Henry ) やクリフォード ( Lord Clifford ) から「なぶり殺し」にされる場面が観客の同情を引くよう に描かれている。このように『ヘンリー六世』の作品群は、登場人物の政治にお ける変化の激しい人生を鮮明に描写しているのが大きな特徴である。
第1四部作は第2四部作 (Richard II, The First Part of Henry IV, The Second Part of Henry IV, Henry V ) より作品の質が劣ると以前から批評家の間で評価 されているが、その原因はシェイクスピアの作家としての力量も原因であるが、彼の 作品への視点の違いも一因だと思われる。彼はイギリスの歴史を当時の観客に呈示して、 登場人物たちの起伏に富んだ人生を冷静に描きたかったように思える。エドマンド・ホール (Edmund Hall) やラファエル・ホリンシェッド ( Raphael Holinshed ) のような歴史家 が描いた複雑なイングランドの歴史を、これほど簡潔に呈示できる力量はさすがと言わ ざるを得ないし、ロバート・グリーン ( Robert Green ) がシェイクスピアの『ヘンリー 六世』第1部を見て、Talbotの描写に嫉妬を感じるのも当然だと思われる。(1) ケンブリッジ版の『ヘンリー六世』第1部の注釈者 Michael Hataway の次の評論は 納得できるものである。



"It is a young man’s play—not because it is crude, but because it is ambitious, not because of the unsatifactoriness of its form, but because of the diversity of its forms. "(2)
「『ヘンリー六世』第1部は若者が作った演劇である。粗雑だからではなく、 野心的であるからであり、形式が不満足なものだからではなく、形式が多様 であるからである。」



なお、本章では、authorshipの問題 ( 作品の原作者は誰かという詮索 ) については触れない。それは明快に解決できる問題ではないからである。 この点に興味のある方は、Richard Dutton and Jean E. Howard (eds.), A Companion to Shakespeare’s Works: The Histories (Blackwell, 2003) (3) の中にあるDavid Bevingtonの論文を参照してもらいた い。また本論文集の第八章と第九章は、『エドワード三世』のauthorship問題 に正面から取り組んでいる。
  さて、『ヘンリー六世』第1部、第2部、第3部は、題名が示すとおり、 ヘンリー六世を中心にあらすじは展開している。彼の人間的弱さ、政 治的洞察力の不足、臣下に対する指導力の欠如、および宗教への異常 な傾倒などが、イングランドの有力貴族の横暴な振る舞いの原因を作 り出している。彼の性格は、国内の政治状況を混乱に陥れたばかりか、 家庭的には妻のマーガレット ( Margaret ) に実権を与える一因となっ ている。ヘンリー六世が持っている性格は、普通の人間であれば美点と して賞賛されるものもあるが、国家の最高権力者である王の立場として は、美点がかえって弱点となってくる。第1四部作のあらすじは、このよ うな性格を持つヘンリー六世を中心に回っているが、そのテーマは、彼 個人というよりは権力を志向する人間群像であると思われる。彼らが引 き起こす政治的駆け引きが、この作品群の中心的テーマを構成している と考えて間違いないであろう。シェイクスピアは、エドマンド・ホール やラファエル・ホリンシェッドなどの書いた材源を読んで、あるいはク リストファー・マーロー (Christopher Marlowe) などの先輩作家に刺激 されて、権力闘争に関係する人間たちや、彼らが織り成す行為へ興味を掻 きたてられたと推察される。彼は第1四部作の中で、個々の人物にもある程 度の興味を持っているが、むしろ人物と人物との政治的関係性にもっと興味 があり、これが第1四部作の主要なテーマだと思われる。後にも触れるが、 これより後の作品、例えば、『ハムレット』 (Hamlet) や『オセロー』 (Othello) などは、個人の悲劇が中心となっている。もちろん、これら の作品でも他の登場人物との関係は重要になるが、個人が主体となり集団は背 景に押しやられているような印象を観客は持つのである。


II

  本章では、第1四部作で集団を形成する多くの登場人物たちの中から、 ヨークに焦点をあてて論じてみたいと思う。その理由は、彼と他の登場 人物や政治との関係が、『ヘンリー六世』作品群の政治性をもっとも明 らかにしていると思われるからである。もう一つの理由としては、ヨーク は第1部から登場して第3部で殺されるように、『ヘンリー六世』の作品群 の大半に登場しているからでもある。因みにマーガレットはそれ以上に第1 四部作に登場しており、論じるに足る面白い人物であるが、彼女への考察は 第2章でしたいと考えている。
  さて、『ヘンリー六世』第3部1幕1場では、ヨークはほとんど王権を握るとこ ろまでいく。しかし、武装した兵士を宮殿に入れたウオーリックに向かって、 ヘンリーは、


   My lord of Warwick, hear me but one word:
   Let me for this my life-time reign as (a) king.(I.i.170-171) (4)
   「ウオーリック卿、一言だけ聞いてくれ。
   私が生きている間は、王にしておいてくれ。」


と要求すると、ヨークは、


   Confirm the crown to me and to mine heirs,
   And thou shalt reign in quiet while thou liv'st.(174-175)
   「私と子孫に王冠を譲ると確約されるならば、
   あなた一代、平和に君臨することを認めよう。」


と、簡単に認めている。そのすぐ後の1幕2場で、息子であり後年のリチャード三 世から、「王との約束を守る必要はなく、すぐ王権を手中に収めるべきだ」とい う提案を受けて、ヨークはすぐ行動を起こそうとするが、「時すでに遅し」で あった (I.ii.21-33)。リチャードのこの助言は、まさにマキアベリ的な発想で あるが、ヨークはヘンリー六世との約束を反故にしてまで王権を獲ろうとは思わ なかった。この点が、ヨークの政治的詰めの甘さというべきもので、ヘンリー六 世やグロスターとあい通じるものがあると思われる。『ヘンリー六世』第3部の アーデン版の編者達は、ヨークがヘンリーの要求を聞いたのは、政治的配慮のた めだと論じているが (a keen awareness of political reality, p.197)、シェイ クスピアがそのように描いていないことには重要な意味がある。結局は、このよ うなヨークの逡巡に乗じて、マーガレットやクリフォード、ノーサンバランド ( Northumberland )は、ヨークを殺害することが可能になる。成功するために は非情であるべき政治世界に、倫理道徳を持ち込む政治家は敗れざるを得ない、 というマキアベリ的な世界がまさに出現するわけであるが、さらに重要なことは、 ヨークの息子への情愛を踏みにじるマーガレットの残虐な行為をシェイクスピアが 描くことによって、権力闘争における人間の深い悲劇性を表現していることである。 このあとの物語を見ていくと、マーガレットも息子であるエドワードを殺されるとい う大きな苦痛を味わうことになり、政治に関わる人間の連鎖的な悲劇が描かれている ように思われる。憎悪がさらに大きな憎悪を呼ぶ政治力学の非情さを、観客は明確に 認識するように要求される。
  この点をもう少し詳しく見ていくと、『ヘンリー六世』第3部1幕4場で、ヨークの子 ラットランド ( Rutland ) が惨殺され、その血を吸ったハンカチでヨークの汗を拭 かせる場面は、権力闘争の残酷性を顕わにしている。この場面で注目すべきことは、 マーガレットの味方であるはずのノーサンバランドが、ヨークの心情に同情して涙を 流すことであるが、この描写は明らかにマーガレットの冷酷さを強調するものである。 『ヘンリー六世』第1部4幕4場では、トールボットとその息子が戦闘の場面で死ぬ描写 があるが、このときは息子であるジョンの自発的な死であるから、観客はそれほど衝撃 を感じない。むしろ消えていく騎士道の最後の輝きとしての彼らの死に感動さへ覚える であろう。しかし、まだ幼いヨークの息子ラットランドの残酷な殺害は、観客の目の前 で行われることによって、トールボット親子の悲劇より、はるかに大きな動揺を観客に 与えることになる。歴史的事実としては、ラットランドが殺害されたのは17歳のときで あるが、シェイクスピアがこの作品でラットランドを幼い子供のように描写していると いう事実は、シェイクスピアの意図を明らかにしている。
  このように第1四部作の中では多くの政治的悲劇が生まれており、これらの悲劇は最終的 にリチャード三世が行う殺戮へとつながっていく。トールボットと彼の息子ジョンの騎士 道的な死、グロスターの殺害、ヨークと彼の幼い息子の殺害は、同じ次元ではないが、 リチャード三世が行う残酷な殺戮への伏線となっている。第1四部作の中で、政治権力闘 争と残酷な殺害が次々と起こり、最後にヘンリー七世が象徴する「和解」へとなだれ込ん でいくというストーリーが、第1四部作の基本的な構成であることは間違いない。ヘンリー 六世にとっては祖父に当たるヘンリー四世が、正統な王であるリチャード二世を廃位して、 王位についたという「歴史的負い目」に対して、イングランドは多くの生け贄を払ったとい う考え方は、第1四部作に確実に存在しているように思われる。ヨークの叔父であるモーティマ ー ( Mortimer )もそのことを語るし( Part 1, II. v )、ヨーク自身も支援者であるソールズ ベリー ( Salisbury ) やウオーリック ( Warwick ) にその件を話している(Part 2, II, ii)。


III

シェイクスピアの意図が上記の点にもあったことは、後のヘンリー七世になる リッチモンド ( Richmond ) に対して、ヘンリー六世が予言している場面からも明 らかである。


      If secret powers
   Suggest but truth to my divining thoughts,
   This pretty lad will prove our country’s bliss.
   His looks are full of peaceful majesty,
   His head by nature fram’d to wear a crown,
   His hand to wield a sceptre, and himself
   Likely in time to bless a regal throne. (Part3, IV.vi.68-74)
   「神秘な力に教えられた私の予感に真実を告げたとしたら、
   このかわいい少年はわが国の至福となるだろう。
   顔は平和な威厳に満ちており、
   頭は生まれながら王冠を戴くように、
   手は王笏を握るように、そして身体は
   王座を飾るにふさわしく作られている。」


E. M. W. Tillyardは歴史的な名著、『シェイクスピアの歴史劇』Shakespeare’s History Playsの中で、この点に関して、次のように述べている。


"In other words, the troubles of a country are God’s punishment for its sins. His [the third citizen] mixed sentiments are prophetic: God both punished the land and caused all to be well through the Earl of Richmond. Shakespeare is perfectly clear in making Richmond the emissary of God." (5)
「 別言すれば、国の災難は罪に対する神の罰である。三番目の市民の入り混じ った感情は、予言的なもので、神はその国を罰して、同時にリッチモンド卿を 通じて平和へと導いていったのである。シェイクスピアはリッチモンドを神の 使者としていることは完全に明白である。」


ヘンリー七世を「神の使者」 ( the emissary of God ) として描くことによって、 イングランドにおけるすべての罪障は消滅したとTillyardは考えたかったようである が、作品を見るかぎり、彼が考えたほど、第1四部作は予定調和である「和解」へと 傾斜しておらず、複雑な印象が交錯する作品群となっているように思える。シェイク スピアの作品は一つの視点から解釈を許さないものであることは、これまでの批評家 に指摘されたとおりであるし、新歴史主義批評の洗礼を受けた我々の共通認識でもある。 一つの思いに集約することができない複雑な印象を観客の脳裏に残しながら第1四部作 は終わるが、この「複雑さ」は決して作品の価値を損なうものではなく、むしろ作品の 価値を高めていると思える。少しニュアンスは違うが、『ヘンリー六世』第3部の“chaos” 「混乱」が、この作品を豊かなものにしていると、Jean E. HowardとPhyllis Rackinは論 じている。


"But while chaos is the word probably used most often in conjunction with this particular play, that chaos allows interesting and anomalous figures to emerge and social boundaries and roles to be tested and contested, including those of gender." (6)
「しかし、「混乱」という言葉は、この劇に関連してたぶんもっとも多く使用され ているが、その「混乱」は興味深く奇異な登場人物を出現させ、ジェンダーも含めて、 社会的枠組みや役割を吟味し論じさせたりしている。」


作品の中の “chaos” を作者が意図的に生みだしたものかどうか即断できない が、作品の欠点と見える部分を積極的に評価するHowardとRackinの議論は傾聴に 値すると思われる。批評家に不評である第1四部作の「混乱」は、シェイクスピア の作品の演劇的ストラタジーとして再評価してもよいのではないかと考えられる。 ただし、シェイクスピアの作品はすべてよしとする「偶像崇拝」に陥ることは避け なければいけない。


IV

  さて、ヨークの死の前に、『ヘンリー六世』第2部で、私たちはグロスターの 死に出会う。彼の死はウィンチェスターやサフォークの政治的陰謀の犠牲者と して描かれているが、結局はウィンチェスターの扇動に周囲の人々が乗り、政 治的利害も同じであったから、グロスターの殺害が実施されることになる。さ らに彼の死を悲劇的にしているものは、彼が一般大衆から“the good Duke of Gloucester”(Part 2, I.1.156)と呼ばれており、誠実に国務を遂行しようと していることを我々は知っているからである。しかし、ついに政敵であるウィ ンチェスターとの闘争に敗れてしまう。敗れるのは当然で、彼は政治力学・政 治の非情性に鈍感になっていた様子が見えるからだ。妻のエレナー( Eleanor ) がマン島に流されるとき、彼は次のように語り、政治的配慮の欠如を露呈して いる。


    Ah, Nell, forbear ! Thou aimest all awry.
    I must offend before I be attained.
    And had I twenty times so many foes,
    And each of them had twenty times their power,
    All these could not procure me any scathe
    So long as I am loyal, true, and crimeless. (II. iv. 58-63)
    「ネルよ、怒りを静めなさい。あなたはすべて悪くとる。
    私が罪人にされる前に、罪も犯さねばならぬ。
    たとえこの私にいまの何十倍もの敵があり、
    その一人一人が何十倍もの力を持っていようとも、
    私が忠誠をつくし、罪を犯さず、潔白であるかぎり、
    私を傷つけることはできないであろう。」


エレナーの追放が、己の政治権力喪失の前兆であるという意識を持たないグロスターは、 政治的に無知・鈍感であるという非難を免れない。しかしながら、本論の視点から言えば、 それ以上に重要なことは、個々の状況は異なっているとはいえ、グロスターとヨークの死 が重なり合って観客に見えることである。ヨークとグロスターの悲劇を重ね合わせること によって、シェイクスピアは政治に関わる人間悲劇の普遍性という概念を導入することに なる。一人だけの悲劇であれば普遍性を持つことはないが、二人を重ね合わせることに よって、より複雑な人生模様を演出することが可能になる。トールボット、グロスター、 ヨークの悲劇は「政治に翻弄される人間群像」という重層的なテーマを奏でているように 思える。
  彼らの最後をウィンチェスターとサフォークの死と比べてみると、先に述べたことが さらに明らかになる。トールボットの英雄的な死、グロスターの痛々しい最期、己の 野心が招いたヨークの死を見ると、観客は言いようのない感情を味わうことになるが、 ウィンチェスターとサフォークの死にはあまり同情心は湧かない。それは第一に作者 の人物描写がそのようにしていると言える。ウィンチェスターとサフォークの死も政 治に翻弄される人物の非業な最後と言えるが、作者の視点はグロスターとヨークの死 をよりクローズアップしている。二番目の理由は、観客はグロスターとヨークを舞台 上で長い間見ていることによって、感情移入が十分にできているからである。グロス ターとヨークの独白を観客はよく聞いており、彼らへの同情心を起こす準備ができて いる。たしかに、ヨークはグロスターの没落を見て助けようともせず、ジャック・ケ イドを使ってイングランド国内を混乱に陥れようとするが、彼はリチャード三世ほど 残酷になれなかった人物であることは明らかである。特に、彼の息子ラットランドが、 幼いのに殺害された事実は、観客の同情心をつかむことになる。
  このようにヨークとグロスターの死は、観客にとって重なり合って見えることは 重要な事実である。前にも述べたことであるが、『ハムレット』や『オセロー』 のような作品は、一人の人物に焦点をあてて個人の悲劇を描写しているが、歴史劇では 多くの登場人物の悲劇を輻輳的に描くことによって、一つのテーマに重層感を与えている。 『リチャード二世』 ( Richard II ) や『ヘンリー五世』( Henry V ) のような第2四部作 では、一つ一つの作品が、どちらかと言えば独立した形になっているが、第1四部作では、 全体の作品群の印象を考慮に入れた構成を作者はとっているように思える。
  しかし、シェイクスピアの目は「権力闘争に翻弄される人間群像」という視点で留まっ ていない。たしかに、政治的鈍感が個人の悲劇・政治的没落を生む原因となるが、着実 に政治的な行動をするリチャード三世も、王権を長い間保持していくことはできない。 彼の王位在位期間はたったの2年間である。彼は権力闘争の世界では翻弄される人間群に は入っておらず、翻弄されるよりは他人を翻弄・操作することにより、己の政治権力を 確実なものにしたいと思っている。そのため、彼は王位獲得のために邪魔になる人物を 一人ずつ殺していくが、彼のような政治的行動も、結局はより大きな「政治的思惑」の 中で敗れていかざるを得ない。政治的非情さと人間の脆弱性を見据えていたシェイクス ピアの目は、リチャード三世の生き方も「政治に翻弄される人間群像」の中に含め、政 治という巨大な歯車にからまった人間の宿命と見ている。作者が第1四部作の最後に『リ チャード三世』を配置している事実は、政治的駆け引きの巧妙さだけでは、権力を持続し て掌握することは困難であることを示していると思われる。彼はこの作品群を描いている とき、「時代の勢い」とも言うべき存在を実感していたに違いない。抽象的な言い方にな るが、「時代の勢い」とは国民の利益の一致する方向であり、未来に夢を見せる政治形態 が実現するという予感である。それは国内の争いを止め、国力の充実、産業の発達、商業 の世界的展開を可能にする政治形態でもある。シェイクスピアは、ヘンリー七世がそのよ うなコンセプトをすべて備えているようには描いていないが、少なくとも、そのような雰 囲気を身に付けているように描写している。そのように論じる証拠として、リッチモンドが あまり舞台上に登場していないことがあげられる。この「舞台上からの不在」こそが、彼に 対するイメージをふくらませ、イングランドの将来に希望を抱かせる働きをしているように 思われる。ヨークやグロスターのように、舞台上に多くの時間登場していれば、観客の同情 心を買うことになるが、それと同時に欠点も見えてくることになる。ヘンリー七世の不在を 利用して、シェイクスピアはイングランドの将来に希望を与えていることになる。第1四部作 が書かれた時代は、まさにエリザベス女王のもとに、イングランドの最盛期を迎えようとして いる時期でもある。シェイクスピアは彼が暮らしている現実世界と材源が表す過去の政治力学 を冷静に見据えていたからこそ、このような第1四部作を作り上げることができたと言える。 アーデン版『ヘンリー六世』第3部の注釈者たちは、シェイクスピアと材源の関係を、


"He did not merely read; he thoroughly studied and understood what he read."(7)
「シェイクスピアは単に材源を読んだのではなかった。徹底的に研究して理解したのだ。」


と論じているが、本章では、「シェイクスピアは目の前に存在する現実も徹底的に 研究して理解したのだ」と述べて、この章を終わりたいと思う。


(注)

1. Robert Greene, Greene’s Groatsworth of Wit, Bought with a Million Million of Repentence (1592 facs. edn, 1969), p. 212.
Robert GreeneはTalbotの描写を次のように述べている。
"How would it have joyed brave Tolbot (the terror of the French) to thinke that after he had lyne two hundred yeares in his Tombe, hee should triumphe againe on the Stage, and have his bones newe embalmed witht the tears of ten thousand spectators at least (at several times), who, in the Tragedian that represents his person, imagine they behold him fresh bleeding."
「墓の中で200年横たわった後に、舞台上でもう一度勝利をあげて、(数回にわたり) 数万人の観客の涙で新たに防腐処置を施されると考えたら、勇敢なトールボット(フ ランスの恐怖の的)はなんと喜ぶことであろう。彼は、彼の役を演じる悲劇役者の中に、 新たに出血する彼を観客が見ることを想像するのである。」


2. Michael Hattaway (ed.), The First Part of King Henry VI (Cambridge University Press, 1990), p.7.

3. Richard Dutton and Jean E. Howard (eds.), A Companion to Shakespeare’s Works: The Histories (Blackwell, 2003).

4. この論文集のシェイクスピアからの引用はすべて、G. Blakemore and J. J. M. Tobin (eds.), The Riverside Shakespeare, 2nd Edition (Houghton Mifflin, 1997) からの ものである。

5. E. M. W. Tillyard, Shakespeare's History Plays (The Penguin Book, 1944), p.162.

6. Jean E. Howard and Phyllis Rackin, Engendering a Nation: A Feminist Account of Shakespeare's English Histories ( Routledge, 1997 ), p.83.

7. John D. Cox and Eric Rasmussen (eds.), King Hnery VI, part 1 (Thomson Learning, 2001), p. 1.


第2章

『ヘンリー六世』3部作における女性の登場人物について

―家父長制への揺さぶりと再建―


I


  『ヘンリー六世』3部作には、それぞれ特徴のある女性たちが登場する。ジャン ヌ( Joan Puzel or Pucelle―小田島雄志訳では「乙女ジャンヌ」、松岡和子訳 では「乙女」、小津次郎・喜志哲雄訳では「少女ジャンヌ」)、マーガレット ( Margaret of Anjou―ヘンリー四世の王妃 )、エリナー ( Eleanor Cobham― グロスターの妻 )、エリザベス( Elizabeth Grey―後のエドワード四世の王妃 ) である。歴史劇では王権がテーマとなり、そのために戦争や覇権争いが主な出来 事になるので、活躍する登場人物はどうしても男性が中心になるが、ジャンヌと マーガレットは戦争や覇権争いにも参加して男勝りの活躍をする。 (1) マクベス夫人 ( Lady Macbeth )は戦争に参加してまで、夫のマクベス を助けようとはしないし、『ハムレット』の世界では、オフィーリア ( Ophelia ) や ガートルード ( Gertrude ) は非業の死を遂げる受身的な役割しか果たしていない。 (2) 悲劇の登場人物であるマクベス夫人やオフィーリアと比較してみると、 歴史劇に登場するジャンヌやマーガレットの特異性が浮かび上がってくるであろう。 またエリナーとエリザベスはそれほど重要な登場人物ではないが、歴史劇ならではの 役割を果たしている。それは歴史の流れを観客に認識させる働きを持つことである。 特にエリザベスは、ヘンリー七世やヘンリー八世の時代との繋がりを考えてみると、 重要な働きをしていることがわかる。これらの理由から、悲劇や喜劇とは違った角度 から、歴史劇における女性の登場人物を評価する必要があると考えられる。本章では、 歴史劇、特に『ヘンリー六世』三部作における女性登場人物の考察を中心に論を進める ことにしたい。



II



  ジャンヌはフランス軍を助けて、百年戦争を終結させる糸口となるオルレアン 解放という目覚ましい働きをする (このため彼女は “the maid of Orleans” と呼ばれる)。歴史上では、彼女はコンピエーニュの戦い ( Compiegne, 1430年) で捕虜になり、宗教裁判で異端者として有罪となってルーアンで処刑される ( Rouen, 1431年)。『ヘンリー六世』第1部の中では、ヨーク (前章で触れたYork ―『ヘンリー六世』第3部でマーガレットから惨殺される)とウォリック ( Warwick ―キング・メーカー) の尋問によって、処刑が簡単に決まるが (第1部5幕3場)、歴 史上では大がかりな異端審問が実施された。このような歴史的事実は別にして、シ ェイクスピアの劇で明らかなことは、ジャンヌは悪魔の手先として表現されている ことである。これは数百年後に書かれたバーナード・ショー ( Bernard Shaw ) の 『聖ジョン』 ( Saint John―1923年 ) のアプローチとはかなり違うが、(3) シェイクスピアの時代では、ジャンヌは悪魔の手先と一般的には考えられていた。 ジャンヌは敵国フランスを窮状から救った英雄であるから、イングランド軍側にとっては、 当然な反応であったと考えられる。彼女が聖人と認定されたのは、20世紀に入った1920年 のことである。
  作品の中でシェイクスピアはジャンヌをどのように描いているのであろうか。彼女は 『ヘンリー六世』第1部5幕3場で、実の父親を真っ向から否定する。「自分は高貴な 生まれなので、このような卑しい羊飼いの子ではない」と、次のように言い張るの である。



    Decrepit miser, base ignoble wretch !
    I am descended of a gentler blood.
    Thou art no father, nor no friend of mine. (V.iv.7-9)
    「老いぼれの哀れな奴、卑しい下劣な奴。
    私はもっと高貴な生まれだから、
    お前は私の父でもないし、友達でもない。」



父親を否定する彼女の行為は、当時の観客にかなり悪印象を与えたことであ ろう。ジャンヌと家父長制との関係は後でも論じるが、彼女の行為は家父長制 システムに抵触するものである。その後、「自分は身ごもっているので処刑は できない ( I am with child, ye bloody homicides:/ Murder not then the fruit within my womb,/ Although ye hale me to a violent death. V.iii.62-4 ) とヨークやウォリックに主張して、刑死を逃れようとする。この策略も観客には 「潔くない」という印象を与えるであろう。『ヘンリー六世』第1部4幕4場で描か れるトールボットの潔い死の受容とは雲泥の差がある。トールボット親子の悲しい 運命の受容とジャンヌの未練たらしい最後は、シェイクスピアがどちらに好意を持っ ているかを明確にしていると思われる。(4) トールボットとジャンヌは、 歴史上では同時代に活躍することはあり得ないが、シェイクスピアは彼らを同時代の 人物として描くことによって、ジャンヌの悪魔性や政治性を際立たせている。トール ボットの最期の台詞は、当時の多くの観客の涙を誘ったことであろう。息子ジョン ( John ) の死骸を抱いて、最後まで武人としての威厳を失わないトールボットは、 ヘンリー六世の宮廷で繰り広げられる政治の汚れた世界、あるいはジャンヌが象徴する 女性性や悪魔性とは無縁のものである。



    Poor boy, he smiles, methinks, as who should say,
    ‘Had death been French, then death had died today’.
    Come, come, and lay him in his father’s arms;
    My spirit can no longer bear these harms,
    Soldiers, adieu. I have what I would have,
    Now my old arms are young John Talbot’s grave. (IV.vi.27-32)
    「哀れな少年、微笑んでいるようだ。あたかも、「死がフランス人であれば、
    それは本日死んでいる」と言っているかのように。
    さあ、さあ、彼を父親の腕に寝かせてくれ。
    私の魂はこのような苦しみに耐えられない。
    兵士たちよ、さようなら。私は欲しいものを手に入れる。
    今は、年老いた私の腕が、若いジョン・トルボットの墓だ。」



トールボットとは対照的に、ジャンヌの悪魔性の描写は、ウォリックとヨークの 尋問前にすでにあった。それは五幕二場で、ジャンヌは悪霊たちに自分を助ける ことを要求するが、悪霊たちは彼女の要望を聞き届けようとはしない。とうとう 彼女は、「じゃあ、私の魂をとりなさい」と魂を売り渡そうとさえする。



    Then take my soul—my body, soul, and all—
    Before that England give the French the foil. (V.i(i).22-23)
    「それなら、イングランドがフランス人を負かす前に、
    私の魂、いや、魂も肉体もすべて取ってくれ。」



上記の台詞から、彼女の守護霊は、歴史上の異端裁判で彼女が主張していた聖カトリーヌ (Catherina de Alexandria) や聖マルグリット(Margaret of Antioch)ではないことが明ら かになる(テキストでは、ジャンヌは自分の守護霊を聖母マリアと主張している―I.ii.84-6)。 百年戦争の結果、フランスはヘンリー五世から奪われた領土のほとんどを取り返すが、悪魔に 魂を売ったジャンヌの助けを借りたという事実から、悪魔の国という印象をイギリスの観客に 与えることになる(テキストではフランス=女性性という図式が頻繁に現れるが、本章ではフラ ンス=悪魔性を中心に論じることにする)。
  シェイクスピアが『ヘンリー六世』3部作を創作している時代は、愛国主義の時代であるから、 他国を悪く描くことは許容範囲内であるが、ことさらシェイクスピアがそのように描くのは、 当時のスペインとの葛藤が記憶にあるからであろう。スペインの無敵艦隊(The Invincible Armada)と海戦をして勝ったのは、この劇が作られたほんの3年前である(この劇の制作年代を 1591年と仮定するが、もちろん異説がある)。1588年、スペインのフェリペ二世 (Felipe II) が、フランダースからの陸軍とともに、無敵艦隊をイングランドに送った。その目的はイング ランドにローマカトリック教会への信仰を復興させることと、イングランド人による海賊行為 を抑制するためであった。イングランドにとって幸いなことに、フランシス・ドレイク(Francis Drake) などの超人的な働きによって辛うじて勝利を得たが、この戦争は他国との力関係が重要で あることを、当時の国民の肝に銘じさせたことであろう。(5) 誤解されやすいことは、 この後イングランドが制海権を握ったと勘違いすることである。アルマーダ海戦( the Battle of Armada ) のあと、スペインは海上を依然として制覇しており、イングランドの脅威となっていたの である。このような時期に『ヘンリー六世』3部作は書かれているという事実はかなり重要なことで ある。
  スペインとアルマーダの海戦を経験したイングランド人観客は、『ヘンリー六世第一部』 の舞台上で、ジャンヌという異質の敵と向かい合うことになる。彼らはジャンヌを悪魔の 手先と解釈して安心感を得るが(事象が解釈できると安心感が生まれる)、ジャンヌが具現 している「悪」は、さらに家父長制システムへの反逆を内包していた。アーデン・シェイ クスピアの『ヘンリー六世』第1部の注をしているEdward Burnsは、次のような含蓄のある 解釈をジャンヌについてしている。



"The female sorcerer [Joan Puzel] represents a different idea of historical continuity from that represented by the purposive, forward-moving male warrior or the aged patriarch—she has access to a knowledge of past, present and future, and to a powerful language in which to activate that knowledge, scrambling or r eworking the pattern of action in a way that her opponents see as a kind of cheating." (6)
「女性妖術師 (John Puzel) は歴史的連続性については、目的があり前に進んでいく男性兵士、 あるいは年老いた家父長制が表現する信念とは異なったものを表現している。彼女は、過去、 現在、未来の知識や力を持つ言葉に手に入れ、その言葉を活性化するため、彼女の敵たちが「欺瞞」 と呼ぶようなやり方で、行為の傾向をかき混ぜ再構築する。」



ジャンヌが象徴する歴史的認識は、男性が体現する家父長制とは相容れないものを 含んでいる。そのためトールボットの最期と彼女の最期がまったく異なったもので あることは当然の結果であろう。ジャンヌは男性社会に対して、女性的視点を持ち 込もうとした異端者(彼女自身は意識していないが)として位置づけられており、歴史 的には、フランス社会からも最後には浮き上がっているので、ジャンヌの女性性はイ ングランドおよびフランスの家父長制社会から疎んじられたことになる。


III


  ジャンヌと同じように、マーガレットも凄まじい一生を送る。彼女は『ヘンリー六世』 第1部の5幕2場で、サフォーク(Suffolk)の捕虜となるが、サフォークは彼女をヘンリ ー六世の妃にしようと考える。彼の計画が明らかになる台詞が次にある。



    Yet so my fancy may be satisfied,
    And peace established between these realms. (V. ii. 112-113)
    「だが、そうすると私の思いも満足し、
    イングランドとフランスの平和も確立する。」



上記の台詞から、サフォークがマーガレットを国王の妃にすることは、マーガレットを 手元に置いておく手段と同時にイングランドとフランスとの争いの終結という、二股を かける心境であることが分かる。
  サフォークの思惑によって、マーガレットはイングランドに王妃として乗り込み、や がてエリナーと対決するようになる。エリナーの夫であるグロスターは、政治的能力がなく、 過去や身分ばかりに拘泥しているから、マーガレット、サフォーク、ウィンチェスターの グループの罠にかかり、エリナーは追放、彼自身は暗殺をされる。政治の世界では非情で なければ、闘争に敗れる運命にあることを、シェイクスピアは明確にしているようである。 だがグロスターと妻エリナーを破滅に追いやったマーガレットたちも、大きな歴史の歯車に 抵抗できず、彼らもグロスター夫婦と同じような運命を辿る。前章で詳細に論じたように、 『ヘンリー六世』3部作の主人公は、個々の登場人物ではなく非情に邁進する非人間的な「歴史」 とそれに巻き込まれる人間群であろう。(7)
  マーガレットがシェイクスピアの描く他の女性と違う点は、前にも記したように、自ら戦争 に参加することである。ヘンリー六世はヨークの脅しに負けて、自分が死んだ後はヨークを 王にすると誓言したので(第3部1幕1場)、怒ったマーガレットはヨーク追討の兵を挙げて彼を 追い詰める。『ヘンリー六世』第3部1幕4場では、彼女は残酷な女性として描かれており、ヨーク の息子ラットランド(Rutland)の血を吸ったハンカチで、ヨークの汗を拭かせる所行は、男以上の 残酷性を秘めている。一緒にいたノーサンバランド(Northumberland)でさえも、ヨークの姿を見 て涙ぐみそうになり、マーガレットから叱責される始末である。



    Had he been slaughter-man to all my kin,
    I should not, for my life, but weep with him,
    To see how inly sorrow gripes his soul. (I.iv.169-171) (8)
    「私の親類縁者をすべて殺害されたなら、絶対に
    泣くことはないが、彼の心の苦痛が魂をどのように
    苛まされているかを見ると、彼と一緒に泣かざるを得ない。」



さらにマーガレットは『ヘンリー六世』第3部の後半で、ウォリックと組んでフランスから 軍隊とともにイングランドに戻り、退位させられていたヘンリー六世を王位に復位させる。 このような彼女の男勝りの行為から、彼女がアマゾネスと比較されるのは無理のないことで ある(“an Amazonian trull” Part 1, I.iv.114)。言うまでもないことであるが、ギリシャ 神話のアマゾネスは家父長制と対立する説話である。
  マーガレットは『ヘンリー六世』3部作のあとに位置する『リチャード三世』にも登場して、 エドワード四世の寡婦であるエリザベスが、リチャード三世からひどい仕打ちを受けること を予言する。



    Poor painted queen, vain flourish of my fortune:
    Why strew’st thou sugar on that bottled spider,
    Whose deadly web ensnareth thee about?
    Fool, fool; thou whet’st a knife to kill thyself.
    The day will come that thou shalt wish for me
    To help thee curse this poisonous bunch-backed toad. (I.iv.241-6)
    「哀れな絵に描いた女王、我が運命の虚ろな繁栄。
    その瓶に入った蜘蛛のなぜ砂糖を与えるのだ。
    死をもたらす蜘蛛の巣がお前を罠にかけようとしているのに。
    愚か者め、お前は自分を殺すナイフを研いでいるのだ。
    この有毒な背こぶのついたヒキガエルを呪うのに、
    私の助けを借りようとする日が来るであろう。」



『ヘンリー四世』第1部から『リチャード三世』まで、マーガレットは第1四部作の ほとんどに登場する人物であり、シェイクスピアの歴史劇に大きな影を落としている。
  ジャンヌはマーガレットのような残酷性は持っておらず、彼女の戦略の一つは仲間 割れをイングランド軍に起こすことであった。ジャンヌはイングランドの味方であっ たバーガンディ(Burgundy)を、イギリス側からフランス側に寝返りをさせることによっ て、フランス軍の危地を救おうとする。言わば、マーガレットの戦法は正攻法であるが、 ジャンヌのやり方は知恵を使った作戦が主となる(これは悪魔性にも関係してくる)。両者 とも指揮官として戦争に参加するが、戦争の方法はそれぞれ違う。軍隊を自由に扱えるマー ガレットと陣借りをして戦わざるを得ないジャンヌとの違いと言えそうであるが、さらに 身分の違いもある。マーガレットは貧乏王の娘とは言え、王位から生まれた身分高い人物で あるが、一方ジャンヌは神の啓示を受けたとは言いながら、実質は羊飼いの子供である(彼女 自身は否定するが)。戦法の違いはどうしようもない。ジャンヌが歴史的に見れば、フランス の主流から浮き上がった存在になったのは、この身分の差も大きな原因であったに違いない。 バーガンディ説得の後に、ジャンヌは“Done like a Frenchman; turn and turn again” (III.iv.83) という台詞を吐くが、これはイングランド側の視点からバーガンディの寝返りを 見た感想であろう(フランス=女性性というイメージ)。



IV



  ジャンヌやマーガレットと比較すると、エリナーとエリザベス・ウッドヴィル (エドワード四世の王妃をエリザベス・ウッドヴィル、彼女の娘をエリザベス・ オブ・ヨークと表記する) は、作品中であまり大きな役割を果たすことはない。 エリナーは「高慢」が原因で(マーガレットはエリナーを“As that proud dame, the Lord Protector’s wife” Part II, I.iii.77と形容する)、マーガレット一 派から罠にはめられるが、その点から言えば、シェイクスピアが描いた他の女性 登場人物と変わらない。違うところがあるとすれば、彼女も歴史の大きな歯車の 中で翻弄されたという点である。考えてみれば、マーガレットがイギリス国王の妃 として乗り込んできた時から、エリナーには勝ち目はなかった。夫のグロスターが 政治的な流れを読んで、エリナーを保護・監督しておけば、彼女の事態はかなり好 転していたと思われるが、夫の「政治的な詰めの甘さ」が大きな不幸の原因となった。 前章で見たように、グロスターの政治的信条は、王に忠誠を尽くし、嘘をつかず、 罪を犯さなければ、身を滅ぼすことはない、というものであるが、このような政治的 信条はリチャード三世の苛酷な政治手法とは比較にならないほど初心なものである。 『ヘンリー六世』という権力闘争の世界では、グロスターはいつか排除されるべき人 物であった。
  シェイクスピアがエリナーを描いた目的は、彼女もジャンヌと同じように、悪魔と 手を結ぼうとしたことにあり、彼女の行為がジャンヌの悪魔性を浮き彫りにする効 果を持たせるためである。『ヘンリー六世』第1部で、ジャンヌはすでに処刑され ているが、『ヘンリー六世』第2部において、エリナーが悪魔と交渉を持つことに よって、ジャンヌの記憶が観客の脳裏によみがえる。さらに悪鬼のようなマーガ レット(第2部ではまだ悪鬼までになっていないが)の出自がフランスであることか ら、悪魔の国=フランスという図式が再度劇中で強調される。
  悪魔の国フランスからの軍隊によって、ウォリックとマーガレットはヘンリー六世 をもう一度王位に就かせるが(第3部2幕2場)、それがエドワード四世によって覆され るのは、イングランド国民にとっては当然のこととなる。ジャンヌの悪魔性、エリナ ーの悪魔との交渉、マーガレットのフランス(=悪魔)の出自、これら三つの事象が一緒 になって、リチャード三世死後の世界で出現するヘンリー七世の世界を、逆照射すると いう役割を果たす。逆照射とは、悪魔性が消滅し、正義の行われる政治が実現するとい う意味である。その時、エリザベス親子は重要な役割を果たす。エリザベス・ウッド ヴィルという『ヘンリー六世』3部作において最後の重要な役割を果たす女性登場人物は、 リチャード三世の暴虐な治世の果てに、ヘンリー七世、ヘンリー八世、エリザベス一世 の御代が続くことを暗示する重要な役割を与えられている。ジャンヌやマーガレットが 現実世界で活躍することとは反対に、エリザベス・ウッドヴィルは未来の世界を照射する 働きを与えられているのである。この点をもう少し詳しく論じてみよう。
  オックスフォード・シェイクスピアの『ヘンリー六世』第3部の注釈をしているRandall Martinは、次のように論じて、エリザベス・ウッドヴィルと未来との関係性を否定している。



"This story of the country’s fall and recovery was understood by many Elizabethans as God’s plan for his chosen nation, with the Wars of the Roses representing divine punishment being meted out for the original deposition of rightful heir and king, Richard II. But if the play is performed on its own, this wider historical narrative recedes, since apart from Henry’s prophesy in 4.6, Part Three does not support it. Given that Shakespeare did not originally conceive of all these plays as a grand cycle, the play becomes more what it probably was for contemporary spectators: a play about the dangers of political instability, the miseries of civil war, and the compensations of sporadic individual valour." (9)
「国の没落と復興というこの物語は、多くのエリザベス朝の人々から、神から選ばれた 国民に対する神の計画と理解されていた。バラ戦争は、リチャード二世おいう正当な王 位後継者であり王を王位から追放したことに似合う罪を表現している。しかし、もしこ の劇が単独で演じられたとしたら、このような広い歴史的な説諭は遠ざかる。何故なら、 4幕6場のヘンリーの予言を除いては、第3部はこの説諭を支持していないからである。 シェイクスピアが大きなサイクルとして、これらすべての劇をもともと考えていなかった ら、この劇は同時代の観劇者にはもっとその劇にふさわしいものになる。すなわち、この 劇は、政治的不安定の危険、内戦の惨めさ、時々現れる個人の勇気に対する報いの劇となる。」



シェイクスピアが『ヘンリー六世』3部作構想を最初から持っていたかどうかは定 かではない。この疑問はこれからも検討が続けられることであろう。しかしながら、 Randall Martinが上記の文章で主張するほど、たとえ『ヘンリー六世』第3部を単独で 上演しても(if the play is performed on its own)、ヘンリー六世の予言の衝撃が観客 の心に響かないとは考えにくい。ヘンリー六世の予言で、多くの観客はヘンリー七世(と ヘンリー八世およびエリザベス一世)の治世を思い浮かべていたと思われる。その予言の 衝撃を確信できなければ、シェイクスピアはヘンリー六世にわざわざ劇中で予言を語らせ ることはないであろう。エリザベスという偉大な女王(エリザベス一世)の名前を持つ登場 人物を、シェイクスピアが描いた事実は、彼の壮大な歴史劇の制作意図を感じさせるもの となっている。さらにエリザベス・ウッドヴィルの娘も同名のエリザベスであり、彼女は ヘンリー七世の妻となり、紅バラ(ランカスター家)と白バラ(ヨーク家)を結び付ける働き をする。『ヘンリー六世』第3部にあるヘンリー六世の予言の言葉をもう一度聞いてみよう。



            If secret powers
    Suggest but truth to my divining thoughts,
    This pretty lad will prove our country’s bliss.
    His looks are full of peaceful majesty,
    His head by nature framed to wear a crown,
    His hand to wield a scepter, and himself
    Likely in time to bless a regal throne. (IV.vi.69-74) (10)
    「神秘な力に教えられた私の予感に真実を告げたとしたら、
    このかわいい少年はわが国の至福となるだろう。
    顔は平和な威厳に満ちており、
    頭は生まれながら王冠を戴くように、
    手は王笏を握るように、そして身体は
    王座を飾るにふさわしく作られている。」



この予言の言葉は、ヘンリー七世、ヘンリー八世を通じて、エドワード四世の妻エリザベ ス・ウッドヴィルとその娘エリザベス・オブ・ヨークから連なっていくエリザベス一世の 治世をも予言しているように思われる。すなわち、エドワード四世と王妃エリザベスの子 供であるエリザベス・オブ・ヨークは、エリザベス一世の祖母にあたるので、エリザベス・ ウッドヴィル(エドワード四世の妻)→エリザベス・オブ・ヨーク(エドワード四世とエリザ ベスの娘)→エリザベス一世という血の連続は、バラ戦争で乱れたイングランドを立て直す 大きな働きをしているのである。バラ戦争終結のために、エリザベス親子の存在自体が果 たす象徴的役割は大きい。またジャンヌやマーガレットから揺さぶりを受けた家父長制も、 エリザベス・ウッドヴィルの夫への従順性のため、もとの盤石な地盤を取り戻している。 ジャンヌやマーガレットによって、基盤を失いかけた家父長制が、エリザベス・ウッドヴィル という登場人物のために、再び力を取り戻す様子をシェイクスピアは巧妙に描いていると言える。 (13)エドワード四世から求愛の言葉を聞いたエリザベス・ウッドヴィルは、毅然として 次のように答える。



    And that is more than I will yield unto.
    I know I am too mean to be your queen
    And yet too good to be your concubine. (III.ii.96-98)
    「そしてそれは私が従おうとする以上のものです。
    陛下の女王になるには身分が低いことも、
    陛下の愛人になるには立派な身分であることも、知っております。」



上記の彼女の言葉は、イングランドの家父長制が何らの傷も残さず復活したことを示すもの である。夫グロスターとのやり取りから、エリナーも家父長制に揺さぶりをかけているよう に思えるが、エリザベス・ウッドヴィルはエドワード四世に対して、そのような兆候をまっ たく見せない。ジェンダー学をシェイクスピア研究に持ち込んだCoppélia Kahnもエリザベス・ ウッドヴィルだけには悪魔性を認めていない。(11) 悪魔性も持たず、家父長制へ の献身を象徴するエリザベス王妃は、娘のエリザベス・オブ・ヨークとともに、イングランド の未来を示唆する存在であることは間違いない。


(注)

1. Phyllis Rackinは、ジャンヌとマーガレットを『ヘンリー六世』3部作の中で、“the best warriors”と評している。Phyllis Rackin, “English history plays,” in Stanley Wells and Lena Cowen Orlin (eds.), Shakespeare: An Oxford Guide (Oxford U. P., 2003), p. 198.
"But the Henry VI plays depict the reign of ‘an effeminate prince’ (Henry VI Part One, 1.1.35), where the best warriors are often women. Talbot is unable to defeat Joan in single combat (Henry VI Part One, 1.7), and Queen Margaret is always a better soldier than her husband."
「しかし、『ヘンリー六世』3部作は、「女性化した王」の治世を描いている(『ヘンリー六世』 第1部、1幕1場35行)。そこでは最上の兵士はしばしば女性たちである。トールボットは一騎打ち ではジャンヌを倒せないし(『ヘンリー六世』第1部、1幕7場)、また女王マーガレットはいつも 彼女の夫より巧みな兵士である。」

2. 受身的な役割しか果たしていないからと言って、重要な働きをしていないとは断定で きない。例えば、『冬物語』ではハーマイオニー(Hermione)は終始受身的であるが,その 従容とした忍耐がレオンティーズ(Leontes)の悔恨を引き出していく。

3. Bernard Shawの『聖ジョン』については、Jean Chothia, Saint Joan (Methuen Drama, 2008)のIntroductionを参考のこと。

4. ジャンヌが火刑で死んだのは1431年、トールボットが死んだのは1453年である。シェイ クスピアは失われつつある「理想の中世騎士像」を創造するために、劇中に登場するトール ボットを作り上げ、ジャンヌと対比させたのである。ジャンヌとトールボ ットとの対照については、次のJean E. HowardとPhyllis Rackinの説を参照のこと。
"…and the gendered opposition between Joan and Talbot defines the meaning of the conflict between France and England. A chivalric hero who fights according to the knightly code, “English Talbot” represents the chivalric ideal that constituted an object of nostalgic longing for Shakespeare’s Elizabethan audience. A youthful peasant whose forces resort to craft, subterfuge, and modern weapons, Joan embodies a demonized and feminine modernity threatening to the traditional patriarchal order."
「ジャンヌとトールボットの性的対立は、フランスとイングランドの葛藤の意味を定義している。 騎士道精神に則り戦う騎士道的英雄である、イングランドのトールボットは、エリザベス朝時代 のシェイクスピアの観客にとって郷愁を誘うあこがれの対象を作り出す騎士道の理想を表す。策略 やごまかし、現代的武器に頼る若い農民(ジャンヌのこと)は、伝統的家父長制秩序のとって破壊的 な悪魔のような女性的現代を体現している。」 Jean E. Howard and Phyllis Rackin, Engendering a Nation—A feminist account of Shakespeare’s English histories (Routledge, 1997), p.54.
  なお、ジャンヌが発揮する力の曖昧性については、バーガンディの次の台詞が明らかにしている。

    Either she hath bewitched me with her words,
    Or nature makes me suddenly relent. (III.iii.58-9)
    「ジャンヌが彼女の言葉で私に魔法をかけたのか
    あるいは自然に私の身体から急に力が抜けたのか。」


5. 『ヘンリー六世』第1部とスペインとのアルマーダ海戦との関係については、John Cox が論じている。J. D. Cox, Shakespeare and the Dramaturgy of Power (Princeton U. P., 1989) pp. 83-87を参照。

6. Edward Burns, op. cit., p.38.

7. なお、『ヘンリー六世』三部作と『リチャード三世』(第二四部作)の政治的混乱につい ては、拙論「シェイクスピアの第1四部作―政治力学を見据えて―」『英語英文学論叢』第58集、 九州大学英語英文学研究会、2008年、pp.1-10を参照のこと。

8. John D. Cox と Eric Rasmussenもマーガレットについて、次のように述べている。
"Moreover, Margaret’s strength may well be a compensation for her husband’s weakness, rather than a cause or symbolic symptom of political chaos."
「さらに、マーガレットの力は、政治的混沌の原因や象徴的な症状というより、彼女の 夫の弱さの代償である。」John D. Cox and Eric Rasmussen, op. cit., pp. 147-148.   ヘンリー六世の精神的弱さを補強して、マーガレットは心身ともに強くならざるを得なかった、 というのが彼らの説である。マーガレットとサフォークの深い関係も見逃すべ きではないので、次にマーガレットがサフォークの死をあまりにも深く嘆くので、ヘン リー六世がマーガレットに嫌味を言う台詞を引用しておこう。

    How now, madam?
    Still lamenting and mourning for Suffolk’s death?
    I fear me, love, if that I had been dead
    Thou wouldest not have mourned so much for me. (IV.iv.20-23)
    「どうした、奥様。
    まだサフォークの死を嘆き苦しんでいるのか。
    愛する人よ、私が死んでも、あなたは
    それほど悲しんでくれるとは思えない。」

なお、マーガレットとサフォークの不倫関係は、シェイクスピアの創造である。 Gwyn Williams, “Suffolk and Margaret: A Study of Some Sections of Shakespeare’s Henry VI,” Shakespeare Quarterly Vol.25, No.3 (Folger Shakespeare Library, 1974), pp. 310-322を参照のこと。

9. Randall Martin, Henry VI, Part Three (Oxford U. P., 2001), p. 51.

10. 『リチャード三世』5幕3場で、ヘンリー六世の亡霊がリッチモンド(Richmond、 後のヘンリー七世)を慰めて、次のように語るが、リッチモンドは予言通りボズワース(Battle of Bosworth)の戦いで勝利してヘンリー七世となる。

    Virtuous and holy, be thou conqueror !
    Harry, that prophesied thou shoudst be King,
    Doth comfort thee in thy sleep. Live and flourish! (V.iii.129-131)
    「有徳で神聖な王よ、勝利者となれ。
    そなたが王になると予言したハリーが
    眠っているそなたを慰める。生きて栄えよ。」

11. "In Part 1, as David Bevington has shown, all the female characters―Joan of Aire, the Countess of Auvergne, and Margaret of Anjou―seek mastery over men and all have some access to supernatural power. Men are not depicted as drawn naturally to women; they must be enchanted or hoodwinked into an attachment. (In Part 2, Gloucester’s Duchess Eleanor consorts with witches to gain the throne; only Lady Elizabeth Grey in Part 3 has no associations with the demonic, but nonetheless, Edward’s marriage with her cracks open the Yorkist alliance.)"
「『ヘンリー六世』第1部では、ジャンヌ・ダルク、オーヴェルニュ伯爵夫人、アンジューの マーガレットという全ての女性登場人物は、男性を支配することを求め、すべて超自然の力に 接近している。男性は、女性に自然に引きつけられることはない。彼らは魔法にかけられ、目隠し をされて献身させられる。(『ヘンリー六世』第2部では、グロスターのエリナー伯爵夫人が王権 を得るために魔女と交わり、第3部では、エリザベス夫人は悪魔性とは関係を持つことはないが、 しかしエドワードが彼女と結婚することで、ヨーク派との同盟が明らかになる)」 Coppélia Kahn, Man's Estate: Masculine Identity in Shakespeare (California U. P., 1981), p. 55.



第3章

第2四部作における「サリカ法」の持つ意味


I

  A. R. Humphreysは、『ヘンリー五世』1幕2場のカンタベリー(Canterbury) によるサリカ法 (Salic Law) の説明を、シェクスピアの全作品の中で「比類ないほど退屈な台詞」と評して いるが、(1) 確かにカンタベリーの説明は長くて退屈なものである。そのためか、 この場面は滑稽に演じられるか、あるいはまったく無視される傾向にある。1944年のLaurence Olivierの映画『ヘンリー五世』では、カンタベリーの台詞は滑稽に演じられていたし、1997年 Royal Shakespeare Companyが上演した『ヘンリー五世』は、ほとんどサリカ法の場面は演じら れなかった。「ほとんど」と書いたのは、コーラス役を演じた役者がカンタベリー役もこなし、 サリカ法について滑稽に、しかもほんの一部に触れた程度にすぎなかったからである。因みに、 Olivierがサリカ法の場面を滑稽に描いたのは、1937年のOld Vicで上演された『ヘンリー五世』の 影響からであるが、この傾向は十八世紀から続いているようである。1989年のKenneth Branaghの 『ヘンリー五世』では、この場面はかなりきちんと演じられており、Peter Donaldsonが指摘して いるように、(2) BranaghはNorman RabkinからStephen Greenblattまでの批評も参考 にして映画を作っている。カンタベリーがエクスエター(Exeter) の指示を受けて、ヘンリー五世 にサリカ法の説明をしていることを暗示した場面は面白い演出であった。
  論文を書く際、ある作品の一つの事象を過度に重要視し、作品全体の解釈に歪みを生じさせな いことは重要であるが、上演や映画作成の際、これほど無視されてきたサリカ法の場面の復権を 試みることは意義あることだと考えられる。しかもアーデン版『ヘンリー五世』の編者T. W. Craikも、ニュー・ケンブリッジ版の編者Andrew Gurrも、オックスフォード版の編者Gary Taylor も、またシェイクスピアの資料集を編纂したGeoffrey Bulloughも、すべてサリカ法の場面が持つ 重要性を説いているにも拘わらず、上演や映画で無視されているのは少し異常な事態と考えられる。
  ニュー・ケンブリッジ版の編者Andrew Gurrは、サリカ法を長子相続制度崩壊危機のコンテキス トの中で説明し、合わせて1579年に出版されたJohn Stubbsのパンフレットが、イギリス人民の 関心をサリカ法へ集中させたと指摘しており、(3) オックスフォード版の編者Gary Taylorは、当時の観客と我々の感受性が異なるため、現在ではサリカ法の説明が軽視されること、 また『ヘンリー五世』の上演に際して緩急をつける演劇的効果のために、Canterburyのサリカ法は 重要であると論じている。(4) アーデン版編者のT. W. CraikもTaylorと同じように、 演劇的効果の観点からサリカ法の持つ重要性を述べている。(5) またGeoffrey Bullough はシェイクスピアが教会を批判的に表現することには慎重であったから、この場面を滑稽に演じるべ きではないとオリヴィエの映画を批判している。(6) これらテキスト編者やBulloughの指 摘は、それぞれ傾聴に値するものであるが、この発表ではサリカ法の持つ意義を別の観点から論じてみ たい。その時、第2四部作全体を見渡す視点も必要となるであろう。


II


  サリカ法の持つ大きな意味は、王位継承から女性を排除することであり、 それは1幕2場でカンタベリーが語る ”No woman shall succeed in Salic Land”(I.ii.39) という台詞がよく表わしている。ヘンリー五世が主張す るフランス王位継承権が否定されるのは、サリカ法があるためであり、 その法は女性を王位継承の血統保持者と認めていないのである。カンタベ リーはその法の主張に真っ向から反論することはなく、裏面からフランス の主張を覆そうとする。すなわち、その法が当てはまるのはフランスでは なく、彼の言葉を借りれば ”the land Salic is in Germany” (I.ii.44) であるから、フランスではサリカ法の力は及ばず、ヘンリー五世はフランス の王位継承権があると主張する。このような女性排除という観点から見れば、 ヘンリー五世およびこの作品は、サリカ法の象徴する女性排除とは反対の方向、 すなわち女性性と男性性との融合に進んでいることは明らかである。というのは、 『ヘンリー五世』の最後で、ヘンリー五世はフランス王妃キャサリン(Katherine) に求婚し結婚することが決定するが、この行為によって、フランスの持つ女性性 をイングランドに包摂し、彼の権力を安泰なものにしようとするからである。む しろヘンリー五世の計画はキャサリンとの結婚で完成すると言える。Jean Howardと Phyllis Rackinの指摘を待つまでもなく、(7)『ヘンリー五世』の作品の 中で、フランス国家が王女キャサリンの肉体を通して女性化されているのは明白なこ とである。サリカ法が女性性を排除しているのに対して、作品自体は女性性を包摂す る流れになっているが、ここで確認しておきたいことは、ヘンリー五世の女性包摂は、 彼の支配する権力構造が、家父長制度と同じように、権力の継承を安泰にするために、 女性を必要とするからである。彼がハーフリュー(Harfleur)城前で行う女性への恫喝的 演説や、その直後にキャサリンが侍女アリス(Alice)から英語を学ぶ場面が置かれている 事実が、そのことを端的に示している。
  1994年の論文でKatherine Eggertは、上に述べた論点とは反対の立場をとり、『ヘ ンリー五世』のアクション、言語、イメージ全ては、イギリスやイギリス人から女性的 なものを排除する傾向にあると主張している。(8) 彼女の論理的根拠は、エ ドワード三世の母親がフランス人であることやキャサリンがヘンリー五世の死後再婚して エリザベス女王の先祖になることなどに作品の中で言及されないことであるが、フランス が王女キャサリンの肉体を通して女性化され、そのフランスをヘンリー五世が従属させ て、女性性をイングランドに組み込む演劇全体のアクションを見れば、ヘンリー五世や作 品全体が女性排除を狙っているとは考えにくい。むしろ『ヘンリー五世』という作品は、 女性を政治権力やそれと結び付いた家父長制に都合のいいように変形し包摂しているので ある。そのため、家父長制にとって都合の悪い女性や女性の行為は意図的に語られないだけ である。
  『ヘンリー五世』だけでなく、第2四部作という大きな流れも、サリカ法の持つ女性排除 の方向ではなく、女性性の包摂に向かっていると思われる。『ヘンリー四世』第1部における ホッツパー(Hotspur)の女性蔑視は、モーティマー(Mortimer)の妻に対する過度の愛情と対照 的に描かれているが、女性蔑視のホッツパーがシュルーズベリの戦いで、ヘンリー五世に敗 れるのは象徴的である。ホッツパーの女性蔑視が、後にフランスの持つ女性的イメージをイン グランドに取り込もうとするヘンリー五世に敗れるという描写は、第2四部作のテーマの方向 性を暗示しているようである。『ヘンリー五世』の作品中では、ホッツパーの精神的後継者と みられる登場人物はフランス貴族であり、彼らはホッツパーと同じように馬の自慢に憂き身を やつし、女性蔑視の言葉を吐く。そのフランス軍がヘンリー五世の指揮するイングランド軍に 敗れるのは、第2四部作がサリカ法の表現する女性排除ではなく、権力内部に女性を組み込もう とするヘンリー五世の政治権力の勝利を、象徴的に表わしているように思われる。しかもシェイ クスピアは、ヘンリー五世の個人的な戦略ではなく、神の力によってアジンコートの戦いに勝利 したように描いているので、なおさらその印象が強くなる。


III


  サリカ法が持つもう一つの重要なイメージは、法を恣意的に解釈する 可能性である。フランスのサリカ法解釈も『サリアン・フランク族の法律』 という1991年に出版されたサリカ法に関する本を読めば、如何に偏向してい るかが明白になる。サリカ法でも女性の土地所有権は認められており、むし ろある面では女性のほうが土地所有権に関しては有利である。(9) カンタベリーも教会にかけられようとしている税金を逃れるという 個人的な利害のために、サリカ法を都合の好いように解釈して、ヘンリー五 世をフランス遠征へ駆り立てようとする。そのため、さもすばらしい発見で もあるかのように、フランスではサリカ法は当てはまらないとヘンリー五世 に進言する。たとえ、ヘンリー五世がカンタベリーに「公平に、また神の御 心に照らして」(I.ii.10)、サリカ法を解釈するように命じようとも、カンタ ベリーの心中に私利私欲が存在しておれば、彼の法解釈には中立性・絶対性 はないことが暴露される。ましてやカンタベリーは神の忠実な僕と言うより、 権謀術数に長けた政治家であることは、1幕1場の彼とイーリー(Ely)との話し 合いの中で観客に明白になる。カンタベリーのサリカ法についての演説を聞く 前に、ヘンリー五世がカンタベリーに向かって”For we will hear, note, and believe in heart/ That what you speak is in your conscience washed/ As pure as sin with baptism”(I.ii.30-32)と言う台詞は、観客に皮肉な反応を 引き起こさざるを得ない。
  カンタベリーのサリカ法に対する解釈を基にして、ヘンリー五世は政治 方針を決めるが、この事実は彼の持つ政治権力の脆弱性を表わしている。 そもそも、リチャード二世を廃位させた時から、ヘンリー五世親子にとっ て王の地位は安泰ではなかった。それは『リチャード二世』の中で度々あ らわれる神のイメージを、正当な王であるリチャード二世を廃位させるこ とによって、彼らが失ったからである。中世的雰囲気と詩的な言語で作ら れた『リチャード二世』から、猥雑で粗野なフォルスタッフ(Falstaff)と 彼の仲間が活躍する『ヘンリー四世』第1部、第2部への移行が、そのこと を暗示しているように思われる。また、『ヘンリー四世』第1部でシュルー ズベリの戦いが終わった後に、神への言及がまったくないことも、神のイ メージ喪失を象徴的に表わしている。ヘンリー四世は、シュルーズベリの 戦いの前に、たった一行 ”And God befriend us as our cause is just!” (V.i.120)と神に祈るが、アジンコートの戦い前夜のヘンリー五世の祈りと は比較にならないほど簡単なものである。そのためか、ヘンリー四世の治世 では、内乱につぐ内乱であったが、それは正当な王を廃嫡すれば、神からの 恩寵が受けられないという当時の歴史解釈からは当然のことであろう。ヘン リー四世がエルサレムに始終言及するのは、たとえ政治的な配慮が働いてい たとしても、彼がそのことに気付いていたからである。そこでヘンリー五世親 子にとって、フランスやカンタベリーのサリカ法解釈に象徴される「法解釈の 恣意性」が重要な命題となってくる。神から法へ—リチャード二世の死後の世界 では、法が重要な意義を持ってくるのはこのためである。第二・四部作に見え隠 れする命題は、ロマンス劇に見られるような血統による王位継承ではなく、法解 釈による権力の正当性擁護の命題である。
  Phyllis Rackinも、「リチャード二世の廃位は、神への罪として解釈され、 そのため、この罪が血で最終的に償われ、国がヘンリー・チューダーによって 救済されるまでは、国全体が苦しまなければならなかった」(10) という当時の伝統的な歴史的解釈に触れているが、このような観点から見れば、 ヘンリー五世が宗教家であるカンタベリーにサリカ法の解釈を依頼した事実は 重大な意味を持ってくる。ヘンリー五世は神への罪をこれ以上重ねたくなかっ たからである。少なくとも、家臣達には、そのようなポーズを見せる必要があっ た。この時、ヘンリー五世は二重の意味で宗教を利用していると考えられる。一 つは、ヘンリー四世から続いているリチャード二世の怨念を解くため、もう一つ はフランス遠征に宗教的な支えと宗教界からの資金的援助を得るために、カンタ ベリーにサリカ法の解釈を命じたと考えられる。Peter Saccioも指摘しているよ うに、(11) シェイクスピアはサリカ法の場面を書く際、正確にホリ シェッドを模倣しており、そのため歴史的事実に反した記述をしている。『ヘン リー五世』の作品の中でカンタベリーにあたる人物(Chichelle)は、歴史的にはサ リカ法に関する演説をしていない。ホリンシェッドは事実誤認をしているのであ るが、もしシェイクスピアがこの歴史的事実を知っており、なおかつホリンシェッ ドに依拠したならば、シェイクスピアの意図は明白となろう。彼は法と宗教との接 点をカンタベリーという登場人物に見出したのである。良心と政治的駆け引きのた めに、カンタベリーの持つ宗教的背景をヘンリー五世が利用したとシェイクスピアは描い ている。
  第2四部作が法の重視に傾いていることは、『ヘンリー四世』第1部、第2部 で明確になる。フォルスタッフが『ヘンリー四世』第1部の1幕2場で、王子であったヘンリー に対して”I prithee, sweet wag, shall there be gallows standing in England when thou art king?”(I.ii.58-60)と聞く場面があるが、その質問 に対してヘンリーは肯定的な答えをする。シェイクスピアが種本として用 いた1598年の『ヘンリー五世の著名な勝利』The Famous Victories of Henry the Fifthの中では、ヘンリーは「そんなものはない」(12) と答えるが、 この違いはシェイクスピアの描くヘンリーは、法の重要性を認識しているこ とを暗示している。また『ヘンリー四世』第2部の5幕3場で、ヘンリーが王になった ことを聞いて、フォルスタッフは ”the laws of England are at my commandment. Blessed are they that have been my friends, and woe to my Lord Chief Justice” (V.iii.112-113)と叫んでいるが、この台詞の前に、ヘンリー五世と大法官は感動的な 和解をすましており、追放される運命にあるのは、むしろフォルスタッフのほうであっ た。ヘンリー四世は、自分が死ねば不正な手段で手に入れた王冠への呪詛は、彼ととも に墓に入るとヘンリー五世に主張するが、彼が考えているほど罪は簡単に消えるもので はない。そのため法はヘンリー五世にとって王権擁護の重要な後ろ盾となるのであるが、 彼と大法官の和解は、象徴的にその事実を示していると思われる。


IV


  Andrew Gurrはエルサレムへの十字軍遠征あるいは巡礼が、この四部作の基本的 なモチーフと規定しているが、(13) このモチーフとサリカ法が象徴する 法の恣意的解釈という概念は、四部作では対立しつつ進行して行き、最後には融合し ていくようである。十字軍に出征したいというヘンリー四世の夢はむなしく消えて、 彼は「エルサレムの間」で息を引き取るが、彼の十字軍遠征あるいは巡礼の夢は、神 によって正当化され得ない王権への悲しみが滲んでいるようである。 ヘンリー四世の 願いであったエルサレム遠征および巡礼のモチーフは、アジンコートの戦い前夜のHenry による神への祈りへと結び付いて行く。彼の祈りは、兵士の闘争心を高めることと、ヘン リー四世のリチャード二世廃位の罪を今日だけは忘れて欲しいという二つのテーマを持つ が、彼の言葉が持つ率直さや真剣さは、神がリチャード二世廃位の罪を許し、イギリス軍 に圧倒的勝利を与えることを観客に納得させる。観客はアジンコートの戦いでヘンリー五 世が奇跡のような勝利を収めることをあらかじめ知っているから、このような感想を持つ ようになるのである。すなわち、アジンコートの圧倒的勝利という歴史的事実を通してヘ ンリー五世の神への祈りを聞けば、彼の願いは神に聞き遂げられたことが納得できる。 『ヘンリー五世』のエピローグで、イングランドがヘンリー五世の死後すぐフランスを失い、国 内に内乱が勃発するのは、神罰ではなく幼い王が国を治めたからと述べられているが、シ ェイクスピアにとってリチャード二世廃位の罪はこの時点で一応消滅したことになる。こ こからヘンリー五世親子が味わった神との分離が修復されて行き、サリカ法の恣意的解釈に 象徴される法への過度の依存から解放されることになる。オリヴィエの映画ではこの場面は 省略されているが、四部作の大きなテーマから考えれば、この場面ほど重要な個所は他にな いと思われる。サリカ法の解釈をカンタベリー大司教が行うという事実は、宗教家である彼が、 宗教とは対立しつつ進行するサリカ法のテーマを述べることによって、これらのテーマが最 終的には一つになり、ヘンリー五世の治世に大きな力を与えることを暗示していると思われる。
  Annabel PattersonはReading Holinshed’s Chroniclesという本の中で、「ヘンリ ー五世の評判は、国際的には、果敢な軍事的政策と、国内的には、国家統一のために、教会と 国家との強い提携を含んでいた」と論じ、ヘンリー五世の治世では法と宗教との協力関係が重要 な政策であったことを指摘しているが、(14) 教会との宥和策は『ヘンリー五世』の作品の中では、 バードルフ(Bardolph)の処刑も暗示していると思われる。バードルフは教会から詰まらないもの (pax—a tablet depicting the crucifixion, kissed by the communicants)を盗んで処刑される が、Henryが教会と法を大切にし、昔の仲間をあえて処刑していることは、彼の政治が神と法の融 合の内に進められていることの象徴的な事象になっている。ただここで注意しておきたいことは、 ヘンリー五世の良心が求める宗教と政治的に利用する宗教とは峻別する必要があることである。 ヘンリー五世がリチャード二世廃位に伴う罪に関して神との和解を求めていることは疑い得ない事 実であるが、彼は宗教を政治的にも大いに利用しており、前にも述べたように、ヘンリー五世がサ リカ法の解釈をカンタベリーにさせることは、彼が宗教の力を政治的に積極的に利用していること を表わしているのである。 アジンコートの戦いの前におけるヘンリー五世の神への祈りは、彼の良心から 思わず滲み出たものであるが、政治的にはむしろ宗教の持つ力を利用している。シェイクスピアは 『ヘンリー五世』という作品の中で、イングランドの歴史にとっては、たとえ一時的な現象にせよ、 宗教と法を最大限に利用してフランスをも含めた強力な王権国家を創造したヘンリー五世を描いて いるのである。そのためにも、彼はカンタベリーのサリカ法の解説を、例え冗長で退屈であろうと も、作品の中に挿入する必要があったのである。



(注)

1.A. R. Humphreys (ed.), Henry V, New Penguin Shakespeare (Harmondsworth, 1968), p.26.

2. Peter S. Donaldson, “Taking on Shakespeare: Kenneth Branagh's Henry V,” Shakespeare Quarterly 42(1991), 61.

3. Andrew Gurr (ed.), King Henry V, New Cambridge Shakespeare (Cambridge U. P., 1992), pp.19-20.

4. Gary Taylor (ed.), Henry V, Oxford Shakespeare (Oxford U. P., 1982), pp.36-7.

5. T. W. Craik, King Henry V, Arden Shakespeare (Routledge, 1995), p.42.

6. Geoffrey Bullough (ed.), Narrative and Dramatic Sources of Shakespeare, vol. IV (Routledge and Kegan Paul, 1962), p.356.

7. Jean E. Howard and Phyllis Rackin, Engendering a Nation—a feminist account of Shakespeare’s English histories (Routledge, 1997), p.207.
"In the person of the princess, the entire French nation will assume the role of a married woman, the feme covert whose identity was legally subsumed in that of her husband and whose property became his possession."
「王女という人間の中に、フランス全体が結婚した女性の役割をとることになる。既婚の 女性の主体性は夫の中に法律的には吸収され、彼女の所有物は夫のものとなった。」

8. Katherine Eggert, “Nostalgia and the not yet Late Queen: Refusing Female Rule in Henry V,” English Literary History, 61(1994), 528.
"The high stakes of this realignment of theatrical gender become encoded throughout Henry V, as the play’s action, language, and imagery are equally bent on purging England and the English of all that is feminine."
「演劇内部の性のこのような再編成への興味は、演劇の筋、言語、イメージが同じよ うにイングランドとイングランド人から全ての女性性を排除するにつれて、『ヘンリ ー五世』の至る所に埋め込まれている。」

9. Katherine Fischer Drew (translation and introduction), The Laws of the Salian Franks (University of Pennsylvania Press, 1991), pp.44-5.
"So there is here a slight preference for the female line in the inheritance of family property. …but at least it is clear that a woman could inherit land."
「そこで、ここには、家族の所有物の相続に女性の血統への若干の優先権がある。 しかし、少なくとも、明らかに、女性は土地を相続できたことは明らかである。」

10.Phyllis Rackin, Stages of History—Shakespeare’s English Chronicles (Routledge, 1990), p.118.
"Richard’s deposition was interpreted in terms of first causes as a transgression against God for which the entire country would have to suffer until the crime was finally expiated in blood and the land redeemed by Henry Tudor." (本文の日本語訳を参照のこと)

11. Peter Saccio, Shakespeare's English Kings: History, Chronicles, and Drama (Oxford U. P., 1977), p.79.
"Shakespeare's fist act, however, which shows these things occurring, is based with great fidelity upon misinformation in Holinshed…. Archbishop Chichelle almost certainly never made the speech on the Salic law that is assigned to him. He was probably not present at the parliament upon which the scene is based…."
「しかしながら、これらの出来事を提示しているシェイクスピアの『ヘンリー六世』 第1部は、まったく忠実にホリンシェッドの誤解に基づいている。チシェル大司教 は、彼が話したとされるサリカ法についての話しをしていないことはほとんど確か である。この場面があったとき、彼は議会には出席していなかった。」

12.   …but I tel you sirs, when I am King, we will have
  no such things, but my lads, if the old king my father were
  dead, we would be all kings. (Famous Victories of Henry the Fifth,   (455-457)
  「いいですか、皆さん、私が王になったときは、
  そんなものはすべて廃止します。我が父である老王が亡くなったとき、
  我々はすべて王になるのだ。」

  These lines are quoted from Geoffrey Bullough's Narrative and Dramatic Sources of Shakespeare, vol. IV.

13. Andrew Gurr (ed.), King Henry V, p.13.
"The Jerusalem theme rides through all four of the plays in the second tetralogy. The choice between going to Jerusalem as militant Christian crusader or peaceful Christian pilgrim is there throughout."
「エルサレムへ行くというテーマが、第2四部作の全ての劇に存在している。戦闘的なキリス ト教徒十字軍戦士として行くか、平和的なキリスト教徒巡礼として行く かという選択が常に存在する。」

14. Annabel Patterson, Reading Holinshed's Chronicles (The University of Chicago Press, 1994), p.131.
"That reputation involved internationally a commitment to an aggressive military foreign policy and domestically a strong alignment between church and state in the interests of national unity."
「その名声は、国際的には、侵略的な軍事外交政策へ拘わること、内政的には、国も統一 のために、教会と国家を強く連携させることを含んでいた。」


第4章

統一と差異

―『ヘンリー五世』における言語の機能―


I



  『ヘンリー五世』の中には、多種多様な言語(英語)が存在する。ピス トル(Pistol) やニム(Nym)、バードルフ(Bardolph) が話すロンドン下町の 言葉、特に居酒屋の女主人であったが、この劇の前半でピストルと結婚する クイックリー(Quickly) のmalapropism(言語の滑稽な誤用)、またフルーエレ ン(Fluellen、ウェールズ人)、マクモリス(Macmorris、アイルランド人)、 ジェイミー(Jamy、スコットランド人) の話す英語方言、フランス王妃キャ サリン(Katherine) が侍女アリス(Alice) に習う片言の英語などがある。(1) この劇は一見すれば、イングランドの国威を揚げるために作られたかのように 見えるのに、何故シェイクスピアは、これほど多様な言語を呈示したのであろうか。 士気を高めるために、この劇を原案にした映画を作り成功を収めたが、彼はEarl of Cambridge、Lord Scroop、Sir Thomas Greyの貴族の叛乱と、それに対するヘンリー 五世の鮮やかな処置の場面や、Harfleur城の前でのヘンリー五世の残酷とも言える演 説等を省いて、ヘンリー五世を理想の王として描いている。(2) 彼の目的は明らかで、 ヘンリー五世を完全な王として描くことによって、イギリス国民が「選ばれた民」であ ると観客に認識させたかったのであろう。特に、ナチスとの戦闘で苦労していたイギリ ス国民にとって、この映画は勇気を与えてくれる作品であったことは間違いない。だが、 全てのシェイクスピア劇に当てはまることであるが、この劇も演出によって、かなり異 なったメッセージを持つ演劇になることを忘れてはならない。(3) 表面上は、愛国的な 劇に見えるが、詳細に見ていくと、そこには様々な意味上のベクトル(しかも反対方向を 向いている)が読み取れる。そのベクトルの意味を決定する時に、大きな影響を与えてく るものの一つが、この劇における言語の多様性である。この章では『ヘンリー五世』の 多様な言語に注目して、権力と言語との複雑な関係を少しでも明らかにしていきたいと 思う。
  『ヘンリー五世』は第2四部作の最後に位置する作品であるが、この四部 作には言語に対する意識が最初からかなり濃厚である。例えば『リチャー ド二世』の中で、王から追放されるトマス・モーブレイ(Thomas Mowbray, Duke of Norfolk) が、母国語である英語への熱い思いを語る場面がそうで ある。



    The language I have learnt these forty years,
    My native English, now I must forgo,
    And now my tongue's use is to me no more
    Than an unstringed viol or a harp,
    Or like a cunning instrument cas'd up—
    Or being open, put into his hands
    That knows no touch to tune the harmony. (I.iii.159-65)
    「この40年間学んできた言葉、母語である英語を
    私は、今、捨てなければならない。
    そして、私の話す言葉は、調子の狂ったバイオリンや
    ハープよりもしっくり来ない。
    あるいはケースにしまわれた精巧な楽器のように、
    あるいはケールから出されて、ハーモニーを奏でる
    方法を知らない人の手で弾かれるよりも。」



異邦人となり他国を放浪する運命に陥ったモーブレイは、追放の意味を使い慣れた言語 からの隔離と解釈しているが、これは追放の刑の厳しさに対する的確な認識であろう。 『リチャード二世』においては、この劇の性質上、多様な言語は現われないが、言語に 対する鋭敏な感覚は随所に見られる。例えば、後の国王ヘンリー四世になるヘンリー・ ボリンブルック(Henry Bullingbrook) が、自分の刑期を簡単に短縮するリチャード二世 の言葉を聞いた時、



    How long a time lies in one little word!
    Four lagging winters and four wanton springs
    End in a word: such is the breath of kings. (I.iii.213-5)
    「一つの言葉に何と長い時間が籠められているのであろう。
    4年の長い冬と4年の奔放な春が
    一つの言葉で終わる。それが王の言葉だ。」



と語り、王の言葉が持つ絶大な権力に驚く。『リチャード二世』の後半では、王の言語 と権力との間には、大きな乖離が見られるが、前半では彼の言葉は千鈞の重みを持つ。 Terry Eagletonはリチャード二世の言語について次のように論じて、後者の言語の持つ 特徴をよく捉えている。



"As a 'poet king,' Richard trusts to the sway of the signifier: only by translating unpleasant political realities into decorative verbal fictions can he engage with them." (4)
「「詩人の王」として、リチャードは言葉の持つ力を信頼している。不愉快な政治的現 実を装飾的な言語創作に変換することで、彼は政治的現実を操作することができる。」



『ヘンリー四世』第1部では、ウェールズ人の女性と結婚したエドマンド・モーティマー (Edmund Mortimer) が、言語を超えた愛情に満ちた交流を彼の妻と行い、観客の心を激し く打つ。この場面では、お互いに異なった言語を話すという障害を超越する姿が呈示され ているが、(5) モーティマーが敗者の軍に属していることは極めて暗示的で ある。



    I understand thy kisses, and thou mine,
    And that’s a feeling disputation,
    But I will never be a truant, love,
    Till I have learn’d thy language, for thy tongue
    Makes Welsh as sweet as ditties highly penned,
    Sung by a fair queen in a summer’s bow’r,
    With ravishing division, to her lute. (III.i.202-8)
    「私はあなたのキスを理解し、あなたも私のキスを理解している。
    それは感情と感情との話し合いだ。
    しかし、私はあなたの言葉を学ぶにまで、
    怠けはしない、愛しい人よ。何故なら、あなたの言葉は
    ウェールズ語を、高貴に書かれ、夏の四阿で
    リュートに合わせて、きれいな女王に歌われた詩のように
    甘美なものにしている。」



権力者の言語から遠ざかり、ウェールズ語を学びたいとするモーティマーは滅び ざるを得ない。そう言えば、同じ3幕1場で、ホッツパーが、”I had rather be a kitten and cry mew/ Than one of these same metre ballet-mongers.”(III.i.127-8) とオウエン・グレンダワー(Owen Glendower) の英語自慢に対して語る台詞は、モーティ マーの状況と軌を一にしていると思われる。言語への軽視は、権力からの距離を拡大する。
  この四部作では、言語の多様性が徐々に増加する図式が伺えるようである。 『リチャード二世』では、王とその貴族の言語が中心で、方言などの多彩な言語 が入る余地はあまりないが、『ヘンリー四世』第一部、第二部では、ロンドンの 下町言葉やウェールズ語の存在が大きくクローズアップされてくる。四部作最後 の作品である『ヘンリー五世』では、様々な言語が登場し、とうとうフランス語 までも含まれてくるのである(この劇におけるフランス語の果たす役割は、IIIで 詳しく論じるつもりである)。ヘンリー五世はホッツパーと違って、この多様な言 語の世界を泳ぎ回り、自分の世界を拡大する手段とする。フォルスタッフとその一 党との交わり、同じウェールズ出身のフルーエレンとの心の交流、キャサリンとフ ランス語で語り合おうと努力する姿勢などがその事実を示している。ホッツパーが 言語を否定する態度を示すのに対して、ヘンリー五世は多様な言語に柔軟な態度を 表明している。このような彼の態度が、アジンコート(Agincourt) の戦い直前の演 説となって結実しているように思える。彼の言葉は全てのイギリス軍兵士を鼓舞し、 勇敢に戦闘に向かう勇気の源となる。フランス軍では個性溢れる貴族しか登場しない のに、イギリス軍は身分を問わず登場させるシェイクスピアの意図は、言語によるイ ギリス統一の幻想を観客に植え付けようとする姿勢が窺えるようである。



II



  ヘンリー五世がフランスの王位継承権を獲得するため、フランスへ遠征に行った時、 彼の軍隊の中には、アイルランド人、スコットランド人、ウェールズ人がいた。歴 史劇は史実を忠実に表現すべきという主張を展開するつもりは毛頭ないが、これは 史実とまったく合わないように思われる。何故なら、当時スコットランドとは交戦 状態で、『ヘンリー五世』の中でも、王がフランスへ遠征するとスコットランドから 攻めてこないか、という懸念が描かれているからである。



    We must not only arm t'invade the French,
    But lay down our proportions to defend
    Against the Scot, who will make road upon us
    With all advantages. (I.ii.136-9)
    「我々はフランスを侵入するために武装するばかりでなく、
    スコットランド人にも軍隊を組んで置かなければならぬ。
    彼らは、有利と判断すると、すぐに
    我々を攻撃しにくるであろう。」



シェイクスピアが種本に使ったとされるThe Famous Victories of Henry the fifth: containing the Honourable Battle of Agincourt (以下The Famous Victoriesと略記) の中で、カンタベリー大司教はヘンリー五世にフランス遠征をする前に、スコットラン ドを攻めるように勧めているくらいである。(6) ヘンリー五世の軍隊の中に、 アイルランド人、スコットランド人、ウェールズ人を含めているシェイクスピアの創作 意図は明白で、彼らを一緒にフランスで戦わせることで、国内の統一というイメージを 観客に植え付けたかったのであろう。この劇には、様々なベクトルが存在するが、シェイ クスピアの目指した主要モチーフは、イングランド国内統一のイメージを当時の観客に与 えることであろう。 Jonathan DollimoreとAlan Sinfieldが協同で作成した論文”History nd Ideology: the instance of Henry V”の中でもこの問題が扱われており、次のように この劇におけるシェイクスピアのモチーフを的確に論じている。



"But much more was at stake in the persistent Irish challenge to the power of the Elizabethan state, and it should be related to the most strenuous challenge to the English unity in Henry V: Like Philip Edwards, we see the attempt to conquer France and the union in peace at the end of the play as a representation of the attempt to conquer Ireland and the hope-for unity of Britain (Edwards 1979, pp.74-86). The play offers a displaced, imaginary resolution of one of the state's most intractable problems."(7)
「しかし、エリザベス朝国家権力に対するしつこいアイルランドの挑戦には、もっと重要な 問題がかかわっていた。それは、『ヘンリー五世』の中のイングランドの統一に対するもっ とも強固な挑戦と関係していた。フィリップ・エドワーズと同じように、劇の最後に、フラン ス征服と平和的な統一の試みを、アイルランド征服とブリテンの望まれてた統一の試みと我々 は見ている(エドワーズの論文、74ページから86ページを参照)。この劇は、国家のもっとも扱 いにくい問題の一つの置き換えて想像された解決法を提供している。」



エッセクス伯(Essex) がアイルランド遠征に失敗した当時の出来事を考えて みれば、上記の論はさらに説得力が増してくるように思われる。
  アジンコートでフランス軍を攻撃する時、ヘンリー五世は「兄弟愛」 という美名を用い、お互いの差異など問題にならず、イギリス国民の結束 は当然であるかのように兵士に語り掛ける。だが一旦戦争が終わると、そ のイメージは消えて、言語による微妙な差別が始まる。ヘンリー五世は 「行動の王」という固定観念が観客や読者にはあるが、この劇を見る限り、 彼は言葉によるパフォーマンスが多いように思われる(前にも述べたように、 この点がヘンリー五世とホッツパーとの大きな違いであろう)。ハーフリュー (Harfleur) 城前の演説や、アジンコートの戦い前夜の兵士達との会話、あるい はアジンコートの戦いの直前の言葉では、彼のキー・ワードは「兄弟愛」と「名 誉」であった。



    We few, we happy few, we band of brothers;
    For he to-day that sheds his blood with me
    Shall be my brother…. (IV.iii.60-2)
    「我々は少ないが、幸せな少数だ、しかも兄弟同然だ。
    何故なら、私と一緒に本日血を流す人は、
    私の兄弟となるからだ。」



すなわち、言語(とそれが示唆する様々な人種)から派生する差異を消却すること によって、ヘンリー五世がアジンコートの戦いで圧倒的な勝利を得る、という描 き方をシェイクスピアはしている。その証拠に、この作品の原作では、Henryの 戦争における創意工夫などを詳細に述べている(例えば、弓を持った兵士を潜伏 させていたこと、フランス軍の騎兵からイギリス兵士を守るための尖った棒、 イギリス兵の数がフランス軍よりはるかに少ないため森林の間の狭い土地を戦 場に選んだことなど)が、シェイクスピアの作品では、そのような事実には一切 触れていない。(8) シェイクスピアは言語の多様性を超克して、「祖国愛」へと 兵士の心が昇華していく過程を観客に鮮やかに認識して欲しいと思っていたので あろう。Henryの戦場における創意工夫は、その目的にそぐわないために削除された、 というのが真相と思われる。
  だがアジンコートの戦いの後では、また言語の多様性を仄めかす場面が現われてくる。 例えば、フルーエレンとピストルとの「ねぎ争い」は、ロンドンの下町言葉がウェール ズ語より反逆されて、より権力から遠ざけられる様子を象徴的に描いたものであろう。 ガワー (Gower) が舞台から退場する前ピストルに語る台詞



         You thought,
    because he could not speak English in the native garb,
    he could not therefore handle an English cudgel.
    You find it otherwise, and henceforth let a Welsh correction
    teach you a good English condition. Fare ye well. (V.i.75-9)
                              (斜字体は筆者)
    「大尉がイングランド人のように
    英語を話すことが出来ないので、イングランド人のように
    棍棒を振り回すことができないとお前は思った。見当違いだったな。
    今度はあのウェールズ人の棍棒に懲りて、立派なイングランド人の
    根性を持ちなさい。さようなら。」



は、この間の事情を明らかにしているようである。フォルスタッフが 生存していた時、 ロンドンの下町言葉は、ハル王子(Prince Hal) との交流のため、より権力へと近づい ていたと思われる。 だがヘンリー五世が王位に就くと、先ずフォルスタッフが切り捨て られ、『ヘンリー五世』では、バードルフが些細な罪で処刑され、最後にフルーエレン から徹底的に馬鹿にされるピストルの状況は、ロンドンの下町言葉が完全に権力から払拭 されたことを象徴的に示している。



III



  『ヘンリー五世』の大きな特徴の一つはフランス語の多用であるが、フランス語 (あるいはフランス語が象徴するもの)を権力の中に取り込むことによって、ヘンリ ー五世の政権は、より確固たる基礎を築くことになる。キャサリンの英語学習が、 ハーフリューの戦いの直後に置かれていることは注目すべき事実であろう。この時 点からイギリスは、フランスを本格的に侵食し始め、最後の場面でヘンリー五世と キャサリンとの婚約によって、フランス征服は完了することになる。この時、フラン スという国はキャサリンの肉体と同化され、征服される対象として考えられている。 (9) 何故なら、彼女が侍女から英語を習っている時、卑猥な言葉が出てきて(“Le foot, et le count?”(III.iv.52))、男性による女性の肉体的征服が暗示されるからである。 この事実は、ヘンリー五世のハーフリュー城前での演説(“If not—why, in a moment look to see/ The blind and bloody soldier with foul hand/ [Defile] the locks of your shrill-shriking daughters ….”(III.iii.33-5))の内容が、象徴的にキャサリン の英語学習の中に表現されている事を暗示している。男性的なイングランドは、女性性 を象徴するフランスを統合することによって、より高い次元の国家へと昇華していく。
  男性性と女性性が統合するイメージは、サリカ法の取り扱いの中にも見られる。この法律は 女性の決闘を王位継承者から外すことが主な目的であるが、フランスはこれを利用して、 ヘンリー五世(と代々のイギリス王)をフランスの王位継承者として認めない。Holinshed では、カンタベリー大司教が「教会法」(教会の土地を王のものにするという法案)という 法律の成立を妨げるという目的のために、ヘンリー五世にフランス王位継承権があること を鏤々と述べるが、シェイクスピアの作品では、ヘンリー五世がサリカ法を「公平に、ま た神の御心に照らして」”justly and religiously” (I.ii.10) 調査して報告するよう大 司教に依頼している。この時点では、理想的な王を描こうとするシェイクスピアにとって、 これは当然の変更であろう。前にも触れたLawrence Olivierの映画では、この場面は滑稽に 描かれており、1997年のRoyal Shakespeare Companyによる『ヘンリー五世』の上演では省略 されていた。Geoffrey Bulloughもこの場面の重要性を明確に論じているが、(10) カンタベリ ーがサリカ法について解説する1幕2場は、女性性と男性性との統合的イメージという観点から は必要欠くべからざるものである。サリカ法とは、象徴的に女性との決別を示しているが、 『ヘンリー五世』の作品は、それとは反対に女性との結合を象徴的に示す作品であると考え られる。何故なら、女性を排除するサリカ法に反対して、ヘンリー五世はフランス国の王位 継承権を主張し、キャサリンと結婚することによって、フランスの象徴する女性イメージを彼 とイングランドの中に取り込んでしまうからである。
  『ヘンリー五世』におけるフランス語多用のもう一つの目的は、国内の矛盾・葛藤を他国 (この場合はフランス) に向けさせ、イギリス国内の言語の多様性に象徴される差異から 目を逸らし、イングランドの統一的イメージを作るのに積極的な働きをさせることである。 すなわち、英語の多様性をこの劇で呈示したシェイクスピアは、フランス語を多用するこ とによって、その差異を打ち消そうとしているのである。そのような傾向は、アジンコート の戦いで最高点に達し、戦後また差異の世界に舞い戻ることは前に述べた通りである。それ ゆえフランスの征服は、イングランド統一の絶対必要条件となる。ヘンリー五世がこの劇の 二幕二場で、「フランスの王にならなければ、イギリスの王になれない」(“No king of England, if not king of France!”(II.ii.193))(11)といった言葉は、このような状況を 背景にして考えれば、もっと深い意味を獲得してくるように思われる。



IV



  フランス語の多用は、イギリス国内の差異に対して、一時的に目を背けさせる効果 を持つことが確認できたが、それは結局”stranger” (異邦人) の問題と密接に結び付 いているように思われる。フランス人はイギリス国民にとって異邦人であることは自明 の理であるが、フランス人とイギリス人との違いは顕著なので、その差異は簡単に認識 可能である。ところが、ここで重要となるのは、同じ国民同士でも相手を異邦人と感じ ることがあることである。スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、イン グランドに住む人達には異邦人となるが、同じイングランド人の中でも異邦人を作る傾 向がある。程度の差こそあれ、お互いを異邦人とすることによって、仲間同士の結束を 高めることができ、異邦人のイメージは人民の統合に利用されやすいことは歴史が証明 していることである。フランス人という異邦人のイメージを設定することによって(その フランス人と戦うことによって、さらにそのイメージは強烈なものとなる)、ヘンリー五 世はイギリス軍兵士の結束を訴えてアジンコートの戦いで圧勝する。異邦人の前では、イ ギリス人同士の差異など吹っ飛んでしまい、ヘンリー五世の言うように、すべて同じ兄弟 ということになる。『ヘンリー四世』ではウェールズを異邦の国とし、それを征服するこ とによって権力を安定し拡大することになった。 『ヘンリー四世』第2部で、ヘンリー四 世は息子に”to busy giddy minds/ With foreign quarrels” (IV.v.213-4)と訓戒を与え ているほどである。『ヘンリー五世』では国内の統一のため、フランスという異邦の国を 相手にして国内の安定を図る。このように見てくると、権力の構築には、「異邦人」とい うイメージが、不可欠なものであることが理解できる。その「異邦」性の指標となってい るのが、これまで論じてきた言語による差異である。現在の連邦王国でも、言語の差異(方 言)があり、それが厳然たる出身・差別の指標となっているが、『ヘンリー五世』で多様な 言語を描いたシェイクスピアは、言語による異邦人の差別(あるいは異邦人というイメージ のでっち上げ)を通して、権力が作られることを明確に見通している。colonialismの観点か ら『ヘンリー五世』を解釈するDavid J. Bakerは、権力と異邦性との関連を、簡潔に”Difference is of power’s own making”と喝破している。(12)
  フランスという異邦の国が、ヘンリー五世とキャサリンとの結婚によって、イングランドの 権力の中に取り込められてしまうが、これは異邦人が親密なるものに逆転した例である。常に 新しい血を導入しないと権力は濁りかつ停滞してしまうので、キャサリンを妻に迎えるという ヘンリー五世の判断は正しかったと言えるし、フランスを真に征服するためには、彼女との結 婚が不可欠なものであったことも事実である。もちろん長い目で見ると、これが『ヘンリー六世』 3部作の大きな騒動の源になっていることは否定できないが、それはまた別の次元の話である (『ヘンリー五世』のエピローグでは、君主が幼かったために、フランスを失い、内乱が勃発した と述べている)。『ヘンリー五世』の世界では、異邦人のイメージを同化し、ロンドン下町方言を 追放したこと、あるいはフルーエレンという愛すべき登場人物を介してウェールズ語(『ヘンリー 四世』の世界での異邦人の言語)を復権させたことは重要な事項であり、いわば異邦人と同胞の逆転 現象を通して、ヘンリー五世の権力はより強化されるわけである。言語の差異によってピストル達を 切り捨てたヘンリー五世は、より強固なフランスとウェールズという異邦性を内部に取り入れること によって、自己の権力を安定させることに成功したと言える。



(注)

1.Andrew Gurrもこの事実を認めている。Andrew Gurr(ed.), King Henry V—The New Cambridge Shakespeare(Cambridge U. P., 1992), p.36を参照。さらに、注目すべきことは、シェイクスピアが劇中 でフランス語を多様していることである。

2.Jean E. Howard and Phillis Rackin, Engendering a Nation—a feminist account of shakespeare's english histories(Routledge, 1997), p.7. Lawrence Olivierの 映画とは対照的に、Kenneth Branaghの映画では、Henryはあまり理想化されていない。そ れはBranaghの映画の中での戦争の描き方にも表われており、Jean E. HowardとPhillis Rackin (p.7) は、上記の著書の中で、その理由をベトナム戦争やアイルランド紛争の影響 からである、と指摘している。
"After television had graphically revealed the horrors of war in Vietnam and in the back streets of Belfast and Beirut, Olivier’s prettified representation of battle would no longer do. "
「テレビがベトナムやベルファーストとベイルートの裏通りで起こった戦闘の恐 怖を写実的に描いたあとは、オリビエのきれいに表現した戦闘は、もはや人の心に 響かない。」

3.筆者が在外研究員としてイギリスへ留学した1997年に、Royal Shakespeare Companyは 『ヘンリー五世』をレパートリーに取り上げていたが、時代背景を第二次大戦中に設定したり (そのため、Henryは常に銃を持ち、Harfleur城前の演説ではスピーカーを用いていた)、 1幕1場のCanterburyとElyの場面を省略したりして、現代的な解釈に基づく演出がされていた。 主演はMichael Sheenであったが、好感の持てる熱演であった。Harfleur城前での演説の時、 彼の弟が演説を止めようとしたが、彼が断固として続けた演出は、今でも鮮烈な印象として残 っている。このような演出一つで劇の雰囲気はかなり異なってくる。

4.Terry Eagleton, William Shakespeare(Basil Blackwell, 1986), p.10.

5.Jean E. HowardとPhillis Rackinは、この点に関して、次のように論じている(p.172)。
"The incomprehensible speech that masks the lady's meaning is doubly the language of the Other—the language of England’s enemies and also the language of women and of love."
「この夫人の意味を曖昧にする理解不能な言葉は、二重に他者の言語であり、イングランドの 敵の言語であり、女性と愛の言語でもある。」
またMichael Neillは彼の論文”Broken English and Broken Irish: Nation, Language, and the Optic of Power in Shakespeare's Histories,” SQ 45(1994), 17で次 のように論じている。
"…in Glendower’s court Mortimer surrenders both his Englishness and his martial masculinity in a scene of degeneration that renders inevitable his effacement from the subsequent action of the play."
「グレンダワーの宮廷では、モーティマーは退廃の場面で、イングランド人らし さと軍事的男らしさを失っていく。このため、劇の粗筋から彼は消えることにな る。」

6. Geoffrey Bullough(ed.), Narrative and Dramatic Sources of Shakespeare vol.4(Routledge and Kegan Paul, 1962), p.352を参照。

7. Jonathan Dollimore & Alan Sinfield, “History and Ideology: the instance of Henry V", in Alternative Shakespeares (Methuen, 1985), p.225を参照。

8. またシェイクスピアは、Holinshedが明らかにしているCambridgeの叛乱の目的も一切 無視している。 CambridgeはEdmund Mortimer(Holinshedでは”his brother in law Edmund earle of March”と記載)を王にして、その後、自分自身と家族が権力を握ろう と目論んでいた。Geoffrey Bullough, op. cit., p.386を参照。

9. Karen NewmanはKatherineの英語学習について、著書Fashioning Femininity and English Renaissance(Chicago U.P., 1991), p.102の中で、次のように述べている。
"In Henry’s speech, the power of the English army is figured as aggressive violence against the weak, and particularly as sexual violence against women. In the dialogue between Katherine and Alice that follows, the “English” also conquer the woman’s body. The bawdy of the lesson, the Princess’s helpless rehearsal of gross terms, as Steven Mullaney calls it, confines woman discursively to the sexual sphere."
「ヘンリー五世の演説には、イングランド軍隊の力は、弱い者への攻撃的な暴力 として、特に、女性に対する性的暴力として表現されている。この後に続くキャ サリンとアリスの対話では、「イングランド的なもの」はまた女性の肉体を征服 する。スティーブン・マレーニーが名付けているように、英語レッスンの卑猥さ、 淫らな言語を王女がどうしようもなく繰り返すことは、女性を性的範囲内に論証 的に閉じ込めることである。」

10. Geoffrey Bullough, op. cit., p.356. 1977年にグローブ座で上演された 『ヘンリー五世』は、この場面を忠実に上演していた。T. W. Craikも彼の編著である King Henry V—The Arden Shakespeare (Routledge, 1995), p.42で、この場面 は重要であると考えており、次のように述べている。
"It hardly needs saying that his speech about the Salic law is to be taken as seriously by a theatre audience as it is by the stage one, and that the King’s subsequent line, ‘May I with right and conscience make this claim?,’ is not expressing bewilderment or suspicion but reinforcing the 'conjuration' that he laid upon Canterbury to unfold the case justly and religiously."
「カンタベリー大司教のサリカ法についての話しは、舞台の観客と同じように、 映画の観客によって真剣に取られること、またヘンリー五世がそのあとに「正義 と良心を持ってこの主張ができるか」という質問は、当惑や疑いを表しているの ではなく、彼がカンタベリーにこの状況を正しく宗教に則って話すように命じた ことを強調していることは、言うまでもないことである。」

11.T. W. Craikによれば、このHenryの台詞は、The Famous Victoriesから 影響を受けているようである。 T. W. Craik(ed.), op. cit., p.180を参照。

12. David J. Baker, “”Wildehirissheman”: Colonialist Representation in Shakespeare's Henry V,” English Literary Renaissance 22(1992), 51. またKaren Newmanの次の論は、カルチャーと異邦性との関連を明確に論じたもので 傾聴に値すると思われる。Karen Newman, op. cit., p.99.
"English culture defined itself in opposition to exotic others represented as monstrous but also in opposition to its near neighbors on which it had expansionist aims, the Welsh, the Irish, the Scots. As Mullaney observes, “learning strange tongues or collecting strange things, rehearsing the words and ways of marginal or alien cultures, upholding idleness for a while—these are the activities of a culture in the process of extending its boundaries and reformulating itself."
「イングランドのカルチャーは、奇怪なものとして描写される異国の他者と対立 して規定されるばかりではなく、イングランドが領土拡大を狙っているウェール ズ人、アイルランド人、スコットランド人という近隣者たちと対立して規定され る。マレーニーが言っているように、異国の言語を学んだり、奇妙なものを収集 したり、周辺的あるいは外国のカルチャーの言語や方法を練習したり、しばらく の間怠惰を弁護したりすることは、イングランドの領域を拡大したり、それ自体 を再構築したりするカルチャーの活動である。」



第5章

二つのホリンシェッド『年代記』とシェイクスピアの第2四部作


I



  シェイクスピアの第2四部作は『リチャード二世』から始まり『ヘンリー五世』で 終わるが、『リチャード二世』から『ヘンリー四世』第1部・第2部、『ヘンリー五 世』へと続く過程で、これらの作品の質や雰囲気の違いには目を見張るものがある。 最初の作品である『リチャード二世』は、主人公であるリチャード二世という性格 的に弱く、王権の維持に不得手な王を中心に物語は進んでいき、彼の悲劇的な死で 劇は終わり、それ以外にはあまり観客や読者の注意を引く事件は起こらない。しかし、 第2四部作の最後の作品である『ヘンリー五世』の中には、何と多くの視点が織り込 まれていることであろうか。フランス語という言葉を多用してイギリス人の独自性を 強調したり、またイングランドはもとより、ウェールズ、スコットランド、アイルラ ンドの兵士を登場させ、各国の兵士の考えや人間模様を作品に持ち込んで、重層的で 複雑な視点を観客に提供している。この劇は主人公ヘンリー五世について語りながら、 彼の人物評価は様々な視点から為されているので、解釈によってはヘンリー五世が冷酷 な王と映ることもあるし、またある時にはイングランドの救世主として演じられること もある。だが、『ヘンリー五世』は『ヘンリ-四世』の後に作られたので、観客や読者 はそんなに奇異な感じを受けないかもしれないが、『リチャード二世』と『ヘンリー四 世』との演劇としての質的差異はあまりにも大きいので、シェイクスピアの作品の変化 に驚く観客は存在したであろう。『リチャード二世』の直線的な筋とは異なり、『ヘン リー四世』ではハル王子の放蕩生活と父王であるヘンリー四世の政治的苦闘が同時進行 で描かれ、一方が他方を照射する形を取っている。ハルの放蕩生活には真実と虚偽の姿 が混在しているが、ヘンリー四世の政治も大きな弱点を抱えている。前者の偽りはハル がいつかは放蕩の仲間を見捨てようと決意しているところであり、後者の大きな苦悩と なる政治的弱点は、正当な王であったリチャード二世を廃位させて彼が王位を奪ったこと である。そのためすべての彼の政治的行為は自己の政権を如何に正当化するかに集中せざ るを得ない。このように、『ヘンリー四世』において一つの視点・焦点で歴史やその中で 動く登場人物を描写しないシェイクスピアの方法は、前作の『リチャード二世』よりはるか に深い歴史観を観客に提出していると思われる。『リチャード二世』では、全ての焦点が主 人公リチャード二世に収斂し焦点が散乱することはない。後のヘンリー四世であるボリンブ ルックに一時的に視点は移ろうと、それはリチャード二世との比較からであり、あくまでも 焦点の中心はリチャード二世である。この点では、先に書かれたシェイクスピアの『リチャー ド三世』とよく似ており、シェイクスピアは『リチャード二世』および『リチャード三世』を 書いていた時点では、歴史の因果関係より人物描写に魅力を感じていたと思われる。そのため、 これらの作品は悲劇として鑑賞することも可能であると思われる。
  本章では、シェイクスピアの第2四部作における『リチャード二世』と『ヘンリー四世』との 大きな違いは何故生じたのであろうか、という問題を中心に論じて行きたいと思う。そもそも、こ のような質問自体が無駄なものかもしれない。何故なら、シェイクスピアは『リチャード二世』 から『ヘンリー五世』までを四部作として意識せず、偶然に歴史的に連続したイングランドの 王を描いただけかもしれないからである。例えば、Gary Taylorも次のように論じている。



"Such inconsistencies bother us less if we respond to Henry IV, Part 1 and its successors not as fragments of a ‘tetralogy’ but as whole, individual plays, written over the course of several years and never in Shakespeare’s lifetime performed—so as we know—as a cycle. "(1)
「そのような矛盾は、我々が『ヘンリー六世』第1部とその後の作品を4部作の断片とし てみないで、数年間にわたって書かれた全体として個々の作品であると思えば、我々を それほど悩ますことはない。実際、4部作は、シェイクスピアが生きている間、同一テーマ の作品として上演されたことはないし、そのことは我々も知っている。」



また、『ヘンリー四世』第1部の編者であるHerbert WeilとJudith Weilは、シェイク スピアが所属していた劇団の経済的事情が、シェイクスピアに意図的に4部作を書かせな かったであろうと推測している。(2) だが、シェイクスピアがフォルスタッ フを『ヘンリー五世』の中でも登場させると『ヘンリー四世』のエピローグで語っている という事実は、たとえ漠然とした形でも、シェイクスピアは第2四部作にある程度の繋がり を持たせたいと思っていたのではないかと推測できる。(3) その時間的連続性 が作品の質的には、『リチャード二世』と『ヘンリー四世』との間で完全に遮断されている ように感じるのは、論者一人ではないと思われる。その原因の一つには、ホリンシェッドの 『年代記』、特に第2版『年代記』の影響が存在するのではないか、ということが本章の趣旨 である。



II



  周知のように、ホリンシェッドの『年代記』は、1577年版と1587年版がある。Annabel Pattersonは1994年に出版したReading Holinshed’s Chronicles (The University of Chicago Press, 1994)の中で、二つの版の違いを詳細に論じているが、要点を言えば、 1577年版が限定された視点からのみ歴史的資料を提供しているのに反して、1587年版は より多くの人間が執筆担当し、一人一人が多くの資料を引用し、"multivocality"(多 義性・曖昧性)を表現しているということである。Annabel Pattersonのホリンシェッド 『年代記』に関する次の評言は、その事実を端的に示していると思われる。



"…Holinshed's Chronicles can be reconceived, not as the successor to Hall's Union, but rather as a counterstatement: the evidence of diversity that historical inquiry discovers must not, at whatever cost to the historian, give way to the principles of unity and order." (4)
「ホリンシェッドの『年代記』は、ホールの『統一』の後継者ではなく、むしろ反駁とし て考えることができる。歴史の探究が発見する多様性の証拠は、歴史家がどのようなコスト を受けようと、統一と秩序という原則に譲歩すべきではない。」



歴史的資料に自ら語らせるという1587年版の『年代記』は、シェイクスピアが 『リチャード二世』から『ヘンリー四世』へと大きな質的変化をした事実と密 接な関係があるのではないだろうか。Andrew Gurrは、シェイクスピアの『リチ ャード二世』は1587年版のホリンシェッドの『年代記』、作者不詳のThomas of Woodstock、Lord Bernersが翻訳したThe Chronicle of Froissart、1595年に印刷 されたSamuel DanielのThe First Fowre Bookes of The Civil Wars Between the Two Noble Houses of Lancaster and York、エドワード・ホールのThe Union of the two noble and illustre families of Lancastre & Yorke等から影響を受けて いると論じている。(5) 彼は『リチャード二世』の材源として、クリストファー・ マーローの『エドワード二世』を挙げていないが、Geoffrey Bulloughは『エドワー ド二世』からの影響がかなりあったと論じている。(6) おそらく作品の 雰囲気という面において、シェイクスピアの『リチャード二世』はマーローの『エド ワード二世』にもっとも近いと思われる。両作品とも、弱い王とその没落を扱って おり、王位を離れた後のリチャードとエドワードは観客から大きな同情を買うよう に描写されているからである。シェイクスピアは『リチャード二世』を書くとき、 ホリンシェッドを参考にしているが、おそらくそれは表面的な事実関係のみで、作 品の質に影響を与えるほどホリンシェッドからの借用はないように思える。作品の 年代等は大体ホリンシェッドの『年代記』によっているが、作品の雰囲気は先行の 劇、マーローの『エドワード二世』からより大きな影響を受けているように思える。 また、ホリンシェッドの『年代記』とホールの歴史書は、リチャード二世の取り扱い に大きな違いがあり、前者はリチャード二世の廃位において議会の役割が大きかった ことを述べ、後者であるホールの歴史書は廃位の問題を個人的な資質の所為であると 描写している。この点では、シェイクスピアはホリンシェッドよりはホールの歴史書 に近いと考えられるが、シェイクスピアの意図は、議会という劇の雰囲気にあまり関 係のない要因を絡ませず、リチャード二世の廃位は純粋に彼の個人的資質および彼と ボリンブルックとの争いの結果と描きたかったのではないかと思われる。
  しかし、シェイクスピアが『ヘンリー四世』に取り掛かったとき、彼の脳裏には ホリンシェッドの『年代記』が存在し、その歴史書が示す独自の歴史観に捕えられて いたようである。中産階級のシンジケートである『年代記』作者グループは、様々な 人物達によって構成されており、彼らはいろいろな歴史的資料を第2版『年代記』に投 入し、雑多な統一のない歴史書を作り出している。Pattersonが上手く表現している "multivocality"(多義性・曖昧性)という言葉が、1587年版の『年代記』の特徴を一 番的確に表現しているように思える。論者は以前サー・フィリップ・シドニーの『ニュ ー・アーケイディア』とシェイクスピアの『リア王』との関係を論じた論文で、シェイ クスピアは『リア王』を書くとき、『リア王』に関係するエピソードだけでなく、シド ニーの『ニュー・アーケイディア』全編の書き方・雰囲気から影響を受けたことを証明 しようとしたことがあるが、(7) シェイクスピアは『ヘンリー四世』以降の 第2四部作を書くとき、『年代記』の中にある関係のある歴史的記述からのみ影響を受け たのではなく、『年代記』全体の書き方そのものから大きな影響を受けていると思われる。 それゆえ、シェイクスピア作品のテキストの最後にしばしば掲載されている関連のある 『年代記』を無造作にあげていることは、読者に誤った観念を与えることになる。Geoffrey BulloughのNarrative and Dramatic Sources of Shakespeareも、この点から考えると用心 して読まないと、むしろシェイクスピア理解から読者を遠ざけることになると思われる。 シェイクスピアの読者は『年代記』の中の関連ある記述ばかりを読むのでなく、『年代記』 全体の歴史的理念を学び取り、それがどのようにシェイクスピアに影響を与えたかを考察 する必要がある、というのがPattersonの著書の重大なメッセージであるように思われる。



III



  さて、1959年に書かれたWilliam E. Millerの論文(8) や1987年のElizabeth Story Donnoの論文(9)、Pattersonの著書(10) などか らも明らかなように、第2版『年代記』の中心的編集者はAbraham Flemingとい う人物であった。第2版『年代記』の編集人はJohn Hookerではないかと考えら れた時期もあったようであるが、現在はFlemingであるとほぼ一致している。 John Hookerはただ『年代記』に収録する資料を数多く提供していたようである。 Flemingはケンブリッジ大学のピーターハウスに在学中から、いろいろな出版社 とコネを持っており、そのような経験が第2版『年代記』の作家グループに推薦 された原因だと考えられている。彼自身は大した文才はなかったが、彼の存在が 第2版『年代記』の多義性・複雑性を増大させたことは間違いないようである。 1577年の第1版『年代記』では、ホリンシェッドは宗教界の歴史と世俗の歴史を 峻別していたが、Flemingは意図的にその区別を曖昧にしていった。そのため、 第2版『年代記』では宗教界の騒乱と社会的反乱にも強調を置くようになり、 ますます『年代記』の持つ多義性・曖昧性・複雑性が増大するようになっていった。 1992年のCyndia Susan Cleggの論文もその事実を明確にしているように思われる。 (11)
  また、第2版『年代記』が多義性・曖昧性を持つようになった原因は、作者グル ープがほとんど中産階級の出身でありながら、様々な社会的・宗教的背景を持っ ていたことも挙げられる。例えば、1577年にDescription of Englandを書いた William Harrisonと第2版『年代記』の主幹編集人であったAbraham Flemingは、 両者とも熱心なプロテスタントであったが、異なった宗教的信念のため、お互い が政治的に異なった方向へと向かっていくことになる。またJohn Stowは作家グ ループの中でただ一人平民出身であったが、1568年にはエリザベス女王を非難す るローマ・カトリックの宣伝文を持っていた罪で枢密院から取調べを受けたこと もあったし、1569年には彼の家の捜索で、当時の政府にとって危険な書物が発見 されたこともあった。また、アイルランド史の最初の部分を書いたRichard Stanyhurst は1580年11月26日、枢密院のsecretaryであるRobert Bealeに尋問され、反逆罪の罪に 問われていたGerald Fitzgeraldをスペインに連れて行こうとした罪で投獄されている。 アイルランド史を引き継いで書いたJohn Hookerはイギリスの植民地主義者として、 Stanyhurstとは反対の立場を取っている。また、第1版ホリンシェッドの『年代記』の スコットランド史では、最も重要視された書物はJohn Majorの歴史書であったが、その 後を継いでスコットランド史の1571年から1586年までを書いたFrancis Thynneは、それ では視点が限定されすぎると考えて、John Leslie(1527-96)のラテン語で書かれたスコッ トランド史De Origine, Moribus, et Rebus Gestis Scotorum(1578)やGeorge Buchananのスコットランド史であるRerum Scoticarum historia (1582)も参考に して歴史的視野の拡大に努めている。このように複雑な構成員を持った第2版『年代記』の 作者シンジケートは、それぞれ独自の視点を持っており、彼らが作り出す歴史書は必然的に 多義性・曖昧性を豊富に含んだものにならざるを得なかったようである。
  もう一つ、ホリンシェッドの歴史書に大きな特徴を与えているものは目撃証言である。これ は第1版と第2版『年代記』に通じて言えることであるが、ある事件が起こったとき、その近 くにいた人物から得た目撃証言を『年代記』は豊富に載せている。そのため『年代記』の中 には民衆の目から見た歴史と、政治権力が捏造しようとする歴史が混在している結果となった。 すなわち、このような目撃証言は当時の権力者が民衆に押し付けていた、あるいは押し付けよう としていた公式的な歴史観に痛烈な疑問を投げかける働きをしている。作品『ヘンリー四世』 の中でフォルスタッフが世間的な通念としての「名誉」について言及する場面は、(12) ホリンシェッドの『年代記』に掲載されている豊富な目撃証言と通低するものを持っているよう に思われる。フォルスタッフの「名誉観」は表向きの考え方を痛烈に非難する毒を持っており、 ホッツパーはもとより、ヘンリー四世やハル王子が営々と築きあげようとしていた価値観を一瞬 のうちに破壊するものとなっている。このためハル王子がヘンリー五世になる時、フォルスタッフ は追放されなければならなかったようである。Jean Howardはフォルスタッフを公衆の面前で追放す る行為は、ハル王子が正義としての王権を演じていると評しているが、(13) フォルス タッフを追放しないとヘンリー五世の政権は内部から崩壊することは明らかであろう。
  目撃証言の有無という点では、ホリンシェッドの『年代記』とホールが書いた歴史書とは根本 的に異なっているように思える。ホールの歴史書はヘンリー八世の政治権力・機構を正当化す るために書かれたものと現在では大体評価が定まっているが、彼は歴史には統一や秩序が必要 であるとして雑多なものを歴史書に織り込むことは好まない。このアプローチは、シェイクス ピアの歴史劇をチューダー神話のみで説明しようとした一世代前の批評家のアプローチと似て いて非常に興味深いと思われる。雑多なものの中にその時代の特徴を見出す方法は、様々な批 評理論、特に新歴史主義を経験した私達には馴染み深いもので、第2版『年代記』の歴史記述は 現代のシェイクスピア批評と通低するものがあると思われる。F.J.Levyは、1967年に出版 されたTudor Historical Thoughtの中で、ホリンシェッドの『年代記』をまとまりがなく、全 ての資料を挿入しようとしており、分析的手法がまったくないと非難しているが、(14) 彼の批判そのものが『年代記』の大きな長所となっているのである。



IV



  1577年に出版された第1版の『年代記』でホリンシェッドが目指し、10年後に 出版された第2版の『年代記』で主幹編集人であったAbraham Flemingが、拡大・ 増幅した歴史の多義性・曖昧性、すなわち"multivocality"、は、シェイクスピ アの歴史劇、特に『ヘンリー四世』以降の劇に大きな影響を与えたと思われる。 もちろん、この理論は推論にすぎず確固たる根拠はない。シェイクスピアは自己の 芸術世界を構築するために、多種多様な材源を自由に使用していることは周知の事 実であるからである。しかし、シェイクスピアが『ヘンリー四世』を書いていると き、ホリンシェッドの第2版『年代記』の主張、すなわち歴史の多義性・曖昧性、あ るいは公式的な歴史観への痛烈な疑問等が、シェイクスピアの脳裏に浮かんだことは 可能性として存在すると思われる。数多くの人が10年間もかけた『年代記』の改訂作 業に、シェイクスピアほどの人物がまったく注目もせず影響も受けなかったと考える ことは難しいのではないであろうか。特に、作品『ヘンリー四世』と『ヘンリー五世』 の表現する歴史観が『リチャード二世』のそれとは異なり、多義性・曖昧性が豊富に存 在していることを考え合わせると、シェイクスピアが第2版『年代記』から受けた影響 の甚大さが明白になると思われる。彼が『リア王』を書くとき、シドニーの『ニュー・ アーケイディア』の全編の雰囲気を参考にしたと推測できるように、彼は『ヘンリー四 世』以降の第2四部作を書くとき、第2版『年代記』全体の主張から大きな影響を受けて いたことは、ほぼ間違いないと思われる。シェイクスピアの作品と第2版『年代記』との 個々の照応関係を、一々調査することも大事な作業であるが、当時の歴史作家グループの 歴史に対する考え方そのものが、シェイクスピアの作品に大きな影響を与えたのではない かという視点もシェイクスピア研究には重要なことだと思われる。



(注)

1. Gary Taylor, “The Fortunes of Oldcastle,” Shakespeare Survey, 38(1985), p. 87.

2.Herbert Weil and Judith Weil (eds.), The First Part of King Henry IV (Cambridge U. P., 1997), pp.20-21.
"Yet, as the partisan responses of the Cobhams and the general theatre closing of 1597...make clear, theatrical fortunes remained precarious. It is safer to surmise that any design imposed by Shakespeare upon the endless disorders of fifteenth-century history would have been retrospective, emerging as he wrote, rather than as part of a consistent plan. "
「しかし、コブハム家の党派心の強い反応と1597年に劇場全部が閉鎖したことは、 劇場の運命はまだ危険であることを明白にしている。15世紀歴史の無限に続く混 乱にシェイクスピアが与えた構想は、確固とした計画の一部というよりは、彼が作 品を書いているときに出現した懐古的なものであったと推察したほうがより安全 であろう。」

3. G. Blakemore Evans (ed.), The Riverside Shakespeare, second edition (Houghton Mifflin Company, 1997).
    One word more, I beseech you. If you be not too much cloy'd with fat meat, our
    humble author will continue the story, with Sir John in it, and make you
    merry with fair Katherine of France, where (for any thing I know) Falstaff
    shall die of a sweat, unless already ‘a be kill’d with your hard opinions….
    (Henry IV, Part II, Epilogue 26-31)
    「最後にもう一言。もし皆様がまだたっぷりした脂肉に飽きて
    おいででなければ、我々の作者はサー・ジョンのいる物語を
    さらに続けて、きれいなフランス王女キャサリンも登場させて、
    皆様のご機嫌をうかがいたいと言っております。もっとも
    その前に皆様の悪評で殺されなければの話しですが。」

4. Annabel Patterson, Reading Holinshed's Chronicles (The University of Chicago Press, 1994), p.15.

5. Andrew Gurr (ed.), King Richard II (Cambridge U. P., 1984), pp.10-11.
"His primary source was the second edition (1587) of Raphael Holinshed’s Chronicles of England, Scotland and Ireland, which covers the period of the play in about 24 double-column folio pages. He also made use of the anonymous play Woodstock for the first two acts dealing with Richard’s injustices, and almost certainly consulted Berners’s translation of Froissart’s Chronicle, besides Daniel’s The Civil Wars. It is possible that he also looked at Edward Halle’s The union of the two noble and illustre families of Lancastre & Yorke, which begins its account of the Wars of the Roses with the quarrel between Mowbray and Bullingbrook as does Shakespeare, and he may have consulted any or all of three French chronicles in manuscript, to which Holinshed refers in his marginal notes. "
「シェイクスピアの主な資料は、ラファエル・ホリンシェッドの『イングランド、 スコットランド、アイルランドの年代記』第2版であり、それはおよそ24ページ の二つの縦の欄をもつ二折版におよぶ。彼はまたリチャードの不正を扱う最初の 二幕に対しては作者不明の『ウッドストック』を利用しており、ダニエルの『内 戦』とともに、バーナードが翻訳したフロワサールの『年代記』も調べたことは ほとんど確かである。彼はまたエドワード・ホールの『ランカスターとヨークと いう二つの高貴で有名な家族の和解』も見た可能性がある、その本は、シェイク スピアと同じく、モーブレイとボリンブリックの喧嘩からバラ戦争の説明を始め ている。また彼はホリンシェッドが欄外に触れているフランスの年代記のいくつ かあるいは全てを参照したかもしれない。」

6. Geoffrey Bullough (ed.), Narrative and Dramatic Sources of Shakespeare (Routledge and Kegan Paul, 1960), p.356.
"There can be little doubt that Shakespeare was indebted to Marlowe’s example and to Edward II itself in Richard II. Both are plays about the same dynasty, and the reign of Richard II repeats themes apparent in the earlier one. Edward II was the unworthy successor of the conquering Edward I. So Richard II was the unworthy successor of his grandfather Edward III (Edward II's son)."
「シェイクスピアが『リチャード二世』を書くとき、マーローの例と『エドワード 二世』自体に依拠したことに疑いはほとんどない。両方の劇は、同じ王朝を扱ってお り、リチャード二世の治世は、エドワード二世に現れたテーマを繰り返している。 エドワード二世は、勝利を納めたエドワード一世にはふさわしくない後継者であり、 リチャード二世も祖父のエドワード三世(エドワード二世の息子)にはふさわしく ない後継者であった。」

7.徳見道夫、「『リア王』の材源について」、『英語英文学論叢』第38集、九州大学 言語文化部発行、昭和63年、pp. 31-41を参照。

8. William E. Miller, “Abraham Fleming: Editor of Shakespeare's Holinshed,” Texas Studies in Literature and Language, 1(1959), p.100.
"Abraham Fleming’s literary works, his reputation for learning, his experience with the printing trade, his known connections with the members of the publishing syndicate, his identifiable contributions to various parts of the Chronicles, his known editorial function in connection with the castrations, and the suggestive testimony of contemporaries make it highly likely that Fleming was the “editor,”that is the learned corrector,”of the entire second edition of Holinshed's Chronicles."
「アブラハム・フレミングの文芸作品、彼が修めた学問の評判、印刷業について の経験、印刷企業組織メンバーとの知れ渡っているつながり、『年代記』の様々 な部分における証明可能な彼の貢献、削除訂正に関する彼の知られた編集機能、 同時代人の暗示的な証拠などが、フレミングがホリンシェッド『年代記』第2版 の編集人であり、学識を持った修正者であることをかなり示唆している。」

9. Elizabeth Story Donno, “Some Aspects of Shakespeare's Holinshed,” Huntington Library Quarterly, 50(1987), p.231.
"The very competent antiquary Abraham Fleming, a Cambridge man, functioned as the primary editor, having “sweated mightily,” as it is put in the acknowledgements of contributors, with his many textual additions striking a patriotic and moral note and his extensive indices."
「ケンブリッジ大学の出身であり、非常に有能な古物研究家であるアブラハム・ フレミングは、中心的な編集者として働いていた。寄稿家たちの謝辞に言われて いるように、彼は大いに汗をかき、愛国的かつ道徳的調子をもつ多くのテキスト を加え、長大な索引を作った。」

10.Annabel Patterson, p.10.
"The use of the editorial "we”here, while it may retain some aspect of collaboration, clearly identifies Fleming as the first person editorial, and Hooker as the "reporter”who has “delivered”his manuscript for appropriate disposition. "
「協働作業という面を残しているが、ここで編集人のweを使うことは、明らか にフレミングを筆頭編集人と見ているし、フッカーを適切な配置で原稿を渡すレ ポーターと見ている。」

11. Cyndia Susan Clegg, “Which Holinshed? Holinshed's Chronicles at the Huntington Library,” Huntington Library Quarterly, 55(1992), p.563.
"Apparently it was Fleming’s fervent Protestantism and patriotism and not Holinshed’s alone that so strongly color the 1587 Chronicles. While Fleming's hand may be seen throughout this edition, Francis Thynne and John Stow made significant contributions in the sections on Scotland and recent English history respectively, and John Hooker was responsible for the Irish history."
「明らかに、1587年版の『年代記』を強く特色づけているのは、ホリンシェッド のだけでなく、フレミングの熱心なプロテスタント主義や愛国主義であった。フ レミングの手が、この版の至る所に見られるが、フランシス・タインやジョン・ ストウはスコットランドとイングランドの近現代史にそれぞれ重要な貢献をし ていたし、ジョン・フッカーはアイルランドの歴史に責任を持っていた。」
  また次のSara C. Dodson, “Abraham Fleming, Writer and Editor,” University of Texas Studies in English, 34(1955), pp.54-5.も参照のこと。
"He [Abraham Fleming] was an extreme Protestant, a Calvinist in the main, with strong feelings against the Romanists. The doctrines that he sets forth with greatest emphasis are those of the sinfulness of man, the certainty of punishment in hell for the unbeliever, salvation by faith, the sanctifying work of the Holy Spirit in the redeemed, and eternal life in heaven for the righteous, together with resurrection from death and a division between the righteous and the wicked on the day of judgment."
「アブラハム・フレミングは極端なプロテスタントで、概してカルバン派の信者 あり、カトリック教徒へは強い反感を持っていた。最大に重要視して彼が述べる 教義は、人間の罪深さ、キリスト教を信じない人には地獄での罰が確かなこと、 信仰による救済、信仰を取り戻した人々に対する聖書の浄化する働き、正しい人 には天国での永遠なる生命、キリストの復活、最後の審判に日に正しい人と邪悪 な人を峻別することである。」

12."Yea, but how if honor prick me off when I come on? how then? Can honor set to a leg? No. Or an arm? No. Or take away the grief of a wound? No. Honor hath no skill in surgery then? No. What is honor? A word. What is in that word honor? What is honor? Air." (Henry IV, Part 1, V.i.130-5)

13. Jean E. Howard, The Stage and Social Struggle in Early Modern England (London: Routledge, 1994), p.144.
"The banishment of Falstaff performed in the public streets before a crowd of onlookers, rather than in private, is one of the first signs of his histrionic skills in action. In that episode, Hal performs kingship as an embodiment of justice."
「こっそりとではなく、大勢の見物人がいる公衆の道で、フォルスタッフを追放 したことは、演劇めいた技術の最初の兆候である。ハルは正義の体現として王 権を行使しているのである。」

14. Annabel Patterson, p.4.
"Thus F. J. Levy’s Tudor Historical Thought published in 1967, disapproved of the Chronicles as baggy and undisciplined, erratic in their coverage, overzealous in their inclusion of the full texts of primary documents, and lacking the analytical and structural skills of the Continental historians."
「かくして、1967年に出版されたエフ・ジェイ・リービィの『チューダー朝の歴 史思潮』は、『年代記』をだぶだぶで統一が取れておらず、取材範囲は逸脱してお り、第一次資料の全テキストを含めることに異常に熱心で、大陸の歴史家の持つ 分析的・構造的な技術を持っていないと非難した。」



第6章

メディアとテキスト—シェイクスピアの『ヘンリー五世』の場合




  シェイクスピアの『へンリー五世』は、今世紀に2度映画化された。ローレンス・ オリヴィエ(Laurence Olivier、1944年)(1)とケネス・ブラナー (Kenneth Branagh、1989年)(2) が製作した映画である。この章の 目的は、それらの映画作品を比較しつつ、テキストが映画化あるいは舞台化され る時、どのような変容を被るかを検討することである。この問題を多角的に論じ るために、上記の映画2作品と1997年に王立シェイクスピア劇団(Roya1 Shakespeare Company) が舞台化した『ヘンリー五世』(3)、また同じ年の春に、テム ズ川河畔に建設されたグロ ーブ座(the Globe)において上演された『へンリー五世』 (4)も併せて検討することになろう。
  オリヴィエの映画は変わった手法が取られている。カメラはまず、グローブ座の 舞台で上演されている俳優やセットを写し出し、徐々に現実に切り替え、最後はまた 舞台上の演技で映画が終わる。すなわち、虚構と現実との境界を故意に曖昧にしつつ、 結局、この映画は虚構であることを観客に認識させる手法を取っている。この手法は、 シェイクスピアのテキストでは、コーラス(Chorus) が果たしており、まず劇の冒頭で コーラスが舞台上に現われ、これから起る出来事を説明する。そして演技や舞台装置の 不足を観客の想像力で補うことを要求する。



    0 pardon, since a crooked figure may
    Attest in little place a million,
    And let us,ciphers to this great account,
    On your imaginary forces work.(Prologue,15-8)(5)
    「おお、許してほしい。腰の曲がった人物が、
    狭い場所で百万の軍勢を表現しているので、
    この偉大な物語にとって取るに足らぬ私達が
    あなた達の想像力に働きかけることを。」



エリザベス朝の舞台は、中央の屋根の部分が空いているから、太陽が燦燦と照っている わけで、俳優は台詞一つで暗い夜の状況を作り出さなければならない。おそらく下手な 役者では、その技量がなく、観客は虚実不離の隙間に入り込むことはできなかったであ ろう。現在では、照明などの技術が発達しているので、このような問題はあまりないが、 エリザベス朝の舞台では、時間や季節感などすべて台詞で表現していたことは覚えておく 必要がある。役者の技量とともに、観客の想像力も必要な所以である。ところが、映画 では夜の場面は暗い情景を描くことで、簡単にその雰囲気を作り上げることができる。 観客は容易に役者や状況に感情移入できる。舞台では観客の想像力に訴えかける必要が あるが、映画では簡単にそれができることが、映画の強みの一つと考えられるであろう。 ただ、そのために映画を作る際、台詞を疎かにし映像にばかり頼ると逆に映画の弱点とも なることは注意しなければならない。因みに、オリヴィエの映画では原作の台詞が半分以下 になっている(この点に関しては注1を参照)。
  テキストは、一旦作者の手から離れると、舞台監督あるいは映画監督の手に 委ねられ、作者の意図からますます離れていくことは、過去の舞台化や映画 化が示していることである。シェイクスピア生存中の舞台は、おそらく彼も舞台 作りに参加していたであろうから、後代の舞台や映画とは違うことが想像される が(1998年度のアカデミー大賞を取った映画『恋に落ちたシェイクスピア』(Shakespeare in Love)は、この間の事情を興味深く描いている)、ある意味では、テキストは映画 監督や舞台監督にとっては、単なる素材でしかなく、テキストの解釈や飾り付けは、 彼あるいは彼女の想像力に大きく依存していると言える。我々がシェイクスピアの演劇 を作品と呼ばず、テキストと呼ぶとき、その自由は確保されていると考えられる。(6) 1997年にロンドンで見た2つの『リア王』(オールド・ヴィックとナショナル・シアター) では、一つは原作に忠実な上演をし、一つは大胆な変更をしていたが、これは舞台監督の 自由であり、腕の見せ所でもあろう。実際、両作品を見た筆者は、それぞれ感動したこと を覚えている。オリヴィエの『ヘンリー五世』に関して言えば、彼はシェイクスピアのテキ ストを忠実に再現しているとは言い難い。何故なら、後で見るように、かなり重要な場面を 省略しているからである。彼は第二次大戦中の英国国民に過去の栄光を見せることによって、 愛国心を鼓舞しアジンコートの戦いの勝利を絵巻物のように観客に示したと言える。オリヴィ エは『演技について』という著書の中で次のように述べている。



  我々は謙虚な芸術家と技術者のあつまりだった。ヒットラーがわが同胞を殺戮 していたときだけに、歴史的使命にもえて敢然と戦時下の物資不足やいろいろ な問題を克服しようとしていた。冒頭のエリザベス朝のロンドンの模型のシーン にしても、煙突から立ち上る煙やテムズ川の潮の流れをゆっくり映すテクニカラー 高速撮影カメラはなかった。馬も「王国」より貴重であった。しかしわれわれは難問 を歓迎し,自分達の創意工夫をたのしんだ。シェイクスピアの華麗な国威宣揚主義の すぐ下にかくされた熱意、人間性、英知、英国魂によって、私たちは鼓舞された。 (7)



II



  『ヘンリー五世』のテキストは、1599年頃作成とされているが、それはエ セックス伯(the Earl of Essex)が、アイルランドへ遠征する事実を匂わせ る台詞があることからも分かる。次の引用文は、この作品の年代を決定する時、 常に引き合いに出されるものである。



            But now behold,
    In the quick forge and working-house of thought,
    How London doth pour out her citizens.
    The Mayor and all his brethren in best sort,
    Like to the senators of th’antique Rome,
    With the plebeians swarming at their heels,
    Go forth and fetch their conqu’ring Caesar in;
    As, by a lower but as loving likelihood,
    Were now the General of our gracious Empress,
    As in good time he may, from Ireland coming,
    Bringing rebellion broached on his sword,
    How many would the peaceful city quit
    To welcome him! (V. Chorus. 22—8)(8)
            「しかし、今見よ。
    「想像力」という迅速な炉と鍛冶場の中で
    ロンドンの町が市民達をどのように吐き出しているかを。
    市長と全ての市会議員達が一張羅を着て
    群れをなし後ろから押し寄せる平民と一緒の
    古代ローマの元老院達のように
    征服王シーザーを迎えるのを。
    規模は小さいが、同じような好意で
    我らが優美な女帝の将軍が
    反逆者を剣に突き刺して
    幸先よくアイルランドから帰国する時
    何人の人々が彼を歓迎するために
    この平和な町を離れるであろうか。」



「我らが優美な女帝の将軍」(the general of our gracious empress)は、明らかに エセックス伯を表わし、当時の観客にとってこの台詞がアイルランドへ楓爽と遠征 に行くエセックス伯のイメージと重なり合うのである。シェイクスピアがエセック ス伯の希望的将来を暗示することによって(結局は、エセックス伯のアイルランド遠 征は惨憺たる結果に終わるが)、彼は当時のイギリス人民を鼓舞していることは間違 いないであろう。さらに重要なことは、 当時のイングランドでは、国家というイメ ージが明確になりつつあったということである。スペインの無敵艦隊を1588年にイギ リス軍が打ち破り、国威が大いに揚がっていたこの時期の作品群には、イギリス国民 の誇りが随所に見られる。それから約10年を経て創作された『ヘンリー五世』という 作品には、国威昂揚のイメージと対立するような台詞や場面を持ちながらも、全体的 に見れば、イギリス国民の意気軒昂とした雰囲気に合致していると思われる。オリヴィ エが第二次大戦の最中、映画を作る時、『ヘンリー五世』を素材として選択した理由 は明白である。前にも触れたように、ナチスの空襲に苦しんでいたイギリス人民に、 過去の栄光を見せることによって、国威を発揚しようとしたものである。この点では、 オリヴィエの意図とシェイクスピアのそれは、時代が異なろうと互いに相似形をなすも のである。たとえシェイクスピアの作品が、オリヴィエの映画ほどイギリス国家礼賛だ けでないにしても。
  ところが、ブラナーの『へンリー五世』では、Jean E.HowardとPhillis Rackin が指摘しているように(9)、人類がベトナム戦争やアイルランド紛争を経験した後である から、戦争の描き方がオリヴィエよりもリアルになっている。オリヴィエは様式美を重ん じる映像で戦闘場面を描いているが、ブラナーは兵士や馬がぶつかり合う映像をスロー モーションで映し出し、その上、アジンコートの戦いの直後、傷ついた兵士達や戦闘で 死んだ兵士達の間を、フランス軍によって殺された少年の遺体をヘンリー自身が抱えあげ て運ぶ場面は、戦争の真の恐怖・残酷さを観客に余すところなく伝えている。舞台では決 して使用できないクローズ・アップやスローモーションの技法をふんだんに用いて、ブラ ナーは彼が考える戦争の悲惨さを明確に観客に伝えようとしているのである。
   ここで、シェイクスピアのテキストで描かれる戦闘場面を検討してみよう。 戦闘場面 はテキストの中ではほとんど無いに等しい。一攫千金を夢見てフランスに来たピストル (Pistol)が演じる戦争ごっこが、舞台上で繰り広げられるだけである。へンリーの戦闘 における卓越した技能や家臣の戦場での武勲などは、役者の台詞を通して観客に伝えら れる。戦闘らしい戦闘は舞台上では起らないと言っていい。それは、小論の冒頭で見た ように、コーラスが観客の想像力に訴えている内容からも分かる。しかし、それでも十分 に戦闘場面が観客の脳裏に伝わってくるのは、言葉で伝達する手段が巧妙であるからであ る。それともう一つ指摘できることは、ピストルの卑怯さを舞台上で描くことによって、 舞台裏で戦うヘンリーや家来達の勇猛さを一層明確に暗示する手法を、シェイクスピアが 取っていることである。それは『ヘンリー四世』でハル(Hal)の騎士道精神が、フォルス タッフ(Falstaff)の臆病・二枚舌などの行為でより輝く様子とよく似ている。さらに、 シェイクスピアは、フランスの貴族達を時代遅れの戦士(馬や武具の善し悪しだけを気に 掛けるような態度―『ヘンリー四世』ではホッツパー(Hotspur)がそれにあたる)として 描くことによって、イギリス軍に実用的な戦闘集団というイメージを与えている。戦闘場 面を観客に伝える絶妙な言葉使いと登場人物間の対照の妙を用いて、シェイクスピアは舞 台上で戦闘場面を描くことなく、主人公達の勇敢さを描いている。映画では執拗に戦闘場 面を描いているが、舞台ではそれが可能ではなく、また必要でもないのである。映画があ れほどの金と物を使っても、舞台から受ける感動と大した違いがないのは、そもそも映画 と舞台は表現方法が違うからである。(10) 以上の論述から、映画ではシェイクスピアのテ キストはかなりの変容を受けるが、舞台ではそうでもない、と一応言えることができると 思われる。そして映画は舞台ではできない、一つの重大な(作者にとって)メッセージを観客 に選択的に伝えることも可能であることを、ここで確認しておこう(オリヴィエの場合、国威 高揚、ブラナーの場合、戦争の悲惨)。



III



  前節で映画と舞台とを比較した時、舞台はテキストをかなり忠実に再現していると 一応結論づけておいた。だが、舞台化にもテキストのデフォルメが舞台監督によっ てなされることがある。1997年グローブ座で演じられた『ヘンリー五世』は、テキ ストを重視する演出であったが、王立シェイクスピア劇団の『ヘ ンリー五世』は、 テキストに大幅な変容を与えていた。まず、時代設定を第一次大戦頃にもってきて、 戦う相手はフランス軍ではなく、ドイツ軍のようであった。 「ようであった」とい う表現を使ったのは、ヘンリーの敵は明らかにフランスであったが、最初に舞台上に 映し出されていた映像は、第一次大戦でドイツ軍と戦う英国兵士であったからである。 (舞台上で映像が使われることは、最近ではよくあることである。筆者が見た1997年 王立シェイクスピア劇団の『ハムレット』は、父と息子との精神的な絆を強調するた めに、 ハムレットが小さい頃、二人が仲良く遊んでいる映像を舞台のカーテンに写し ていた。)おまけに、ヘンリーは銃を肩からいつも提げており、エリザベス朝の雰囲気 を匂わせるものは何もなかった。だがこれは単なる表面上の変化と言うべきであろう。 筆者が気になったことは、この舞台では「サリカ法」(the Salic law)をカンタべリー (Archbishop of Canterbury) がヘンリーに説明する場面(一幕二場) が、ほとんど省略 してあったことであった。しかも、コーラスとカンタベリーが同じ役者(Norman Rodway) であったため、観客にサリカ法について語っている印象をまったく与えていなかった。 サリカ法については、拙論「統一と差異――『へンリー五世』における言語の機能」の 中で軽く触れたが(11)、テキストの変容という観点から、ここでもう少し論 じてみたい。サリカ法は、フランスがヘンリーのフランスにおける王位雑承権を認めない ための重大な戦略であるが、この法は一言でいえば、女性の血統を王位継承権から外すと いうことで、当時の女性蔑視の視点を多分に含んでいると考えられる。しかし、劇中の へンリーの行動を見れば、彼の持つ男性性とフランスおよびキヤサリン(Princess Katherine) の持つ女性性の結合を象徴しているので、このサリカ法が提示する観念は、劇が示すテーマ から打ち消されるべきアンティ・テーゼとも言うべきものである。(12) それゆえ、 この場面を舞台上で演じないということは、男性性と女性性との結合という劇の重要なテーマ を曖昧にするということである。オリヴィエの映画では、この場面が滑稽に描かれ、 その他の 舞台上でも台詞が長いせいか熱心に演じられることはないが、劇のテーマをより鮮明にするため には、どうしても欠かすことのできない場面である。拙論を補強するために、アーデン・シェイ クスピア版『ヘンリー五世』の編者であるT. W. Craikの文章を次に引用しておこう。



"It hardly needs saying that his speech about the Salic law is to be taken as seriously by a theatre audience as it is by the stage one,and that the King’s subsequent line,‘May I with right and conscience make this claim?, ’is not expressing bewilderment or suspicion but reinforcing the‘conjuration’ that he laid upon Canterbury to unfo1d the case‘justly and religiously.’" (14)
「舞台上の聴衆(ヘンリーや彼を取り巻く貴族達をさす)と同じように、劇場の聴衆 もサリカ法についてのカンタベリーの言葉を真剣に取るべきであることや、王の次 の台詞「フランス王位への主張は、正当に良心をもってできるのか」は、当惑や疑惑 を表しているのではなく、彼がカンタベリーにこの件を正当に神の御心に照らして開 陳するように求めた誓願を強調しているものだということは、今更言う必要もないこ とである。」



王立シェイクスピア劇団の『へンリー五世』は、主人公へンリーの雄々しさと勇気 を描くために、余分な枝葉は省いたのかもしれないが、シェイクスピアの意図して いた男性性と女性性との結合を通して、ヘンリーがより大きく成 長するという軌跡 を曖昧にしているように思われる。実は、シェイクスピアの第二・四部作(『リチヤー ド二世』、 『へンリー四世』第一部、『ヘンリー四世』第二部、『へンリー五世』) のテー マとサリカ法とは密接な関係があるが、それは筆者の次の論文テーマとなるで あろう。



IV



  1977年イギリスで演じられた二つの『ヘンリー五世』はそれぞれの特徴を持ち、 同じメディアでも観客に与えるイメージはかなり違うものであると確認できた。次に、 オリヴィエとブラナーの映画の違いを検討して、映画というメディアがテキストとど のような関係を持っているか考察してみよう。オリヴィエがシェイクスピアのテキスト から省いた場面で、ブラナーが復活させたものが数カ所ある。次に列挙してみよう。



1. ヘンリーが三人の貴族(Earl of Cambridge、Lord Scroop of Masham、Sir Thomas Grey)を 陰謀と反逆の罪で裁く場面。(テキストでは2幕2場)

2. ヘンリーのハーフルーの統治者(Governor of Harfleur)への脅し。(3幕3場)

3. アジンコートの戦いの前夜、ヘンリーと兵士達が戦争の罪についての問答をする場面。(4幕1場)

4. 兵士との問答の直後、ヘンリーが神に祈る場面。(4幕1場)



オリヴィエが映画から省いた場面には、一つの共通性がある。それは、ヘンリーを理想 の王として描くのに邪魔になる場面ばかりだということである。三人の貴族(それもLord Scroopは、以前ヘンリーの親友であった)を裁く場面では、ヘンリーがトリックを用いて 彼らの偽善性を暴き、彼のマキアベリ的な側面を垣間見せている。ハーフルー統治者への 脅しは、ヘンリーの残酷な面を露呈しているし、兵士との話し合いでは、国家と個人との 関係という重要な問題が含まれており、ヘンリーが神に祈る場面は、主人公ヘンリーの弱 々しさを観客に印象付ける。オリヴィエにとって、このような場面を映画に入れることは、 彼が考えた(また観客に与えようとした)ヘンリーのイメージと合致しなかったのであろう。 また前にも触れたように、国威高揚のための映画では不要と判断したのであろう。ただ、 シェイクスピアの意図は、ヘンリーをより人間的に描くことによって、アジンコートでの 勝利が偏に神の賜物であることを強調することであったと思われる。彼が『リチャード二世』 を作るとき、ヘンリーがアジンコート前夜に神に真剣に祈る場面は念頭に明滅していたかも しれない。
  一方、ブラナーはオリヴィエが省略した場面を復活させることによって、彼自身の ヘンリー像を作り出していった。オリヴィエの描く牧歌的で理想的な王ではなく、政治 的駆け引きにも熟練したマキアベリ的な王としてヘンリーを描くことができた。ヘンリ ー像の違いは、両監督の解釈の違いと言ってしまえばそれまでだが、時代的な背景も無 視できないように思われる。一方は第二次大戦の最中、一方はアイルランド紛争やベト ナム戦争を体験した後の1989年の作品であるので、同じような作品が完成するはずはな い。それぞれの主張と特徴を持つ映画作品が生まれて当然のことである。ただ、テキスト で描かれているヘンリーはオリヴィエが描くほど理想的な王ではなく、人間的な弱みを持 ち、また政治的駆け引きにも長けた王として描かれており、シェイクスピアは王の内面的 な葛藤まで踏み込んで描写している。ブラナーの『ヘンリー五世』は戦争の悲惨にあまり にも力点を置きすぎている嫌いはあるが、テキストの持つヘンリーをオリヴィエより正確に 描写していると思われる。



(注)

1.第二次大戦中の1944年に撮られたこの映画は、アメリカでは1946年に公開され、その年 のアカデミー特別賞をオリヴィエは獲得している。その受賞理由は、”his outstanding achievement as actor, producer and director in bringing Henry V to the screen”(『ヘンリー五世』を映画に作成する時の俳優、プロジューサー、監督としての 卓越した業績)というものであった。ローレンス・オリヴィエは1907年に生まれ、1989年に 死亡(奇しくもこの年にブラナーの映画が完成する)。1962年から1973年まで、イギリス国立 劇場(British National Theatre)の舞台監督も務めたが、彼は20世紀最大の役者と称賛され た。オリヴィエの映画の一つの特徴は、アジンコートの戦いの場面を盛り上げるために台詞 を犠牲にして、台詞がシェイクスピアのテキストの半分にも満たないことである。この件に ついては、Andrew Gurr(ed.), King Henry V (Cambridge U. P., 1992), p.52を参照 の事。

2.ケネス・ブラナーは1960年に、北アイルランドのベルファースト(Belfast)で生まれる。 9才の時、イギリスへ移住し、王立演劇学校(Royal Academy of Dramatic Art)で学ぶ。王 立シェイクスピア劇団に入る前は、West End劇場やテレビで成功を収める。 王立シェイク スピア劇団では、リア王やヘンリー五世を演じて成功するが、劇団に不満を感じてルネサン ス劇団(Renaissance Theatre Company)を創設する。『ヘンリー五世』をリリースした時は、 29才であった。他に『ヘンリー五世』は、1979年にBBCで放映するために、デーヴィッド・ ジャイルズ(David Giles)によって映画化されたこともある。

3.舞台監督はロン・ダニエル(Ron Daniel)、主演はマイケル・シーン(Michael Sheen)。まだ 若い役者であったが、好感の持てる熱演であった。ヘンリーがハーフルー城の前で脅迫めいた演説 をしていた時、彼の弟が止めようとしたが、それを振り切って断固として続けたヘンリー の姿は、今でも鮮烈な印象を残している。この劇に関しては、Robert Smallwood, "Shakespeare Performances in England," Shakespeare Survey 51(1998),236—9を参照の事。 筆者は この劇のパンフレットをイギリスで購入して持っていたが、帰国時の慌しさにまぎれて紛失した。 王立シェイクスピア劇団にメールで事情を話したところ、親切にもパンフレットを送って頂いた。 ここに記して感謝の気持ちを表したい。なお1994年王立シェイクスピア劇団の『ヘンリー五世』 の舞台監督はマシュー・ウォーカス(Matthew Warchus)、主演男優はイアイン・グレン(Iain Glen) であったが、ハーフルーの統治者を女性が演じ、ヘンリーの台詞と彼女の肉体が直接反応して劇的 効果をあげたようである。この点に関しては、Peter Holland, “Shakespeare Performances in England, 1993—1994,”Shakespeare Survey 48(1995), 210を参照の事。

4. 舞台監督はリチャード・オリヴィエ(Richard Olivier)、主演はマーク・ライランス (Mark Rylance)。1997年の6月14日が初演。Timeのバリー・ヒレンブランド(Barry Hillenbrand)は、”Seeing Shakespeare at the Globe is not like seeing it anywhere else in the world”「グローブ座でシェイクスピアの演劇を見ることは、 世界中の他の場所で見るのとは異なる」、The Sunday Timesのジョン・ピーター (John Peter)は ”This is a rousing, powerful production”「この劇は刺激的で 力強い上演である」とそれぞれ評している。この劇の特徴は、エリザベス朝時代同様、 全ての役者は男優であったことである。筆者はこの劇を舞台で見ているが、演劇の説明 は、グローブ座の発行しているOpening Season: Shakespeare's Globe Theatre(27 May—21 September 1997) のプログラムを参照した。

5.a crooked figureは数字の「ゼロ」をも表し、「例えもっとも低い数字でも百万 を示すこともできる」という意味もある。accountは(1) a sum in figures と(2) a great historyの意味があり、imaginary forcesも(1) powers of imaginationと (2) fictional armiesという二つの意味を内包している。正確な日本語への翻訳は、 ほとんど不可能に近いであろう。

6.川口喬一・岡本靖正(編)、『最新文学批評用語辞典』(研究社出版、1998年)の 「テキスト」の項目を参照。因みに、この本は単なる辞典ではなく、編者達の熱意 と教養に溢れており、読んでも楽しめる最近には珍しい辞典である。

7.倉橋健、甲斐萬里江(訳)、『演技について—ローレンス・オリヴィエ』(早川書房、 1989年)、254—5頁。

8.“In the quick forge and working-house of thought”は、「想像力は素早く思う ところに行けるし、生き生きとした情景を描くことができる」ことから出てくる表現 である。

9.Jean E. Howard and Phyllis Rackin, Engendering a Nation: a feminist account of Shakespeare’s English histories (Routledge, 1997), p.7.
"Branagh's is a grittier depiction of war. After television had graphically revealed the horrors of war in Vietnam and in the back streets of Belfast and Beirut, Olivier's prettified representation of battle would no longer do. Consequently, in Branagh's film Henry's army wallows in mud and blood during much of the action. Branagh's focus is the depiction of male bonds and male heroism under conditions of extreme hardship."
「ブラナーの映画は、戦争に関してオリヴィエよりざらつくような描写をしている。 テレビがベトナム戦争やベルファーストやベイルートの裏通りの惨事を映像で映し出 した後では、オリヴィエの絵のような戦闘描写は、最早十分ではないであろう。その 結果、ブラナーの映画では、ヘンリーの軍隊は、戦闘のほとんどの間、泥と血の中で のたうちまわる。ブラナーが焦点を与えているものは、極度の苦難の下での男同士の 絆や武勇を描くことである。」
なお、オリヴィエの映画とブラナーの映画を比較検討した論文には、Peter S. Donaldson, “Taking on Shakespeare: Kenneth Branagh's Henry V”, Shakespeare Quarterly 42(1991), no.1, 60—70がある。

10. 筆者が1977年度在外研究員としてイギリスへ留学しシェイクスピアの演劇をスト ラットフォード・アポン・エイボンやロンドンで実際に見た経験から言えば、生身の 役者が演じる舞台作品のほうがより魅力があると思った。特に、同じ劇団による同じ 題目の演劇を何度も見た時、1回、1回の公演がそれぞれ違い、役者の体の状態や観客 層の反応の仕方で演劇もかなり変容を強いられることを知って興味深く思った。この ときの観劇記を「シェイクスピアの町ストラットフォード・アポン・エイボン」九州 大学言語文化部『言文フォーラム』第19号(1999年)、26—29頁に書いた。

11.第4章を参照の事。

12. Jean E. Howard and Phyllis Rackin, op. cit., p.207を参照の事。 ここで二人の著者は、キャサリンの肉体の中でフランス全体が既婚女性の立場に 置かれていると論じている。
"In the person of the princess, the entire French nation will assume the role of a married woman, the feme covert whose identity was legally subsumed in that of her husband and whose property became his possession."
「王女個人の中で、フランス国家全体が既婚女性の役割を担うようになる。既婚女性の 主体は法律的に夫の主体に包含され、彼女の資産は夫のものとなる。」

13. T. W. Craik (ed.), King Henry V (Routledge, 1995), p. 42.



第7章

『ヘンリー五世』における裏切りの場面

I



  シェイクスピアは『ヘンリー五世』の中のいわゆる「裏切りの場面」を、ヘンリー五世が フランス遠征に出かける直前に描いている。人心の統一を図る必要性やヘンリーの決断力や策略 の豊富さを描くという思惑が、シェイクスピアの脳裏には存在していたであろうが、ケンブリッ ジという登場人物が暗示するイングランド国内の王位継承問題にはほとんど触れていない。ケン ブリッジの正式な名前は、Richard, Earl of Cambridgeで、ヨーク公爵の息子である。彼は1414 年にケンブリッジ公爵を相続しているが、エドワード二世の二番目の息子であるLionel, Duke of Clarenceの曾孫であるアン・モーティマー(Anne Mortimer)と結婚することによって、彼の息子 にイングランドの王位継承権を付与しているのである。それゆえ、彼の裏切りは単なる裏切りで はなく、国内の王位継承問題が微妙に絡んでいるのである。Phyllis Rackinはヨーク家の王位継 承権は、女性から継承される血統に根拠を置いていたと論じ、『ヘンリー五世』の中に見え隠れ する王位継承権の問題を次のように説明している。



"Nonetheless, although the Yorkist claim is never expressed in Henry V, it hovers at the edge of consciousness, lending a suppressed irony to Henry's reliance on female inheritance to justify his claims to France. For the Yorkists, unlike Henry, trace their claim to the English throne through the female line." (1)
「しかしながら、ヨーク家の主張は『ヘンリー五世』の中ではけっして表現されていないが、 それは意識の周辺で見え隠れし、ヘンリーがフランス王位継承権を正当化するのに女性の血統 に依存していることを暗に皮肉っている。ヘンリーとは異なり、ヨーク派の人々は、女性の血筋 からイギリスの王位継承権に遡っているのである。」



ヨーク家の直系が主張する王位継承権は、陰に陽にヘンリーの王権に対して揺さぶりをか けているのである。ヘンリー七世の時代には、ランバート・シムネル(Lambert Simnel, 1475?—1535?) やパーキン・ウォーベック(Perkin Warbeck, 1474—99)などが、反乱を企て ている。
  『ヘンリー五世』の最初の場面で、フランスとイングランドという国家間の王位継承問題を、 カンタベリー大司教はヘンリーや重臣たちの前で論じているが、「裏切りの場面」やその他の 場面では、国内の王位継承問題には蓋をしているように思われる。むしろ、国内の継承問題を 曖昧化し焦点をずらすために、ヘンリーはフランス外征を打ち出し、その意図を劇作家シェイ クピアも密かに応援しているという印象を受ける。Gary Taylorは、エリザベス女王もヘンリー 五世と同じように、外征によって国の平和を保っていたと論じ、次のように述べている。



"England’s reigning monarch had, for a generation, maintained the peace largely by fighting wars abroad: Elizabeth's military expeditions to Ireland, France, and the Low Countries, her naval harassments of Spanish fleets and ports, were all justified and widely supported as actions necessary to preserve the peace and securing of England itself, by preventing her encirclement and invasion by Catholic enemies." (2)
「一世代の間、イングランドを統治する君主は、主に外国で争いを引き起こすことで、平和を 維持していた。エリザベスのアイルランド、フランス、北海沿岸の低地国家への軍事遠征、ス ペインの艦隊や港に対する海からの攻撃は、カトリックの敵たちがイングランドを囲い込み侵 入することを防ぎ、平和と安全を確保するためであるとすべて正当化され、広く支持されていた。」



ヘンリー五世にとって国内の王位継承問題が、一番頭の痛い問題であったことは容易に 推察できる。古今東西を問わず、権力の維持には、王位継承に近い人間(この場合ケンブ リッジ)を抹殺する必要がある。このような国内の不満・不安や厄介な継承問題を他の目 標にすりかえるためにフランス外征をヘンリー五世は行い、この劇の最後にはフランス 王妃キャサリンとの婚約にこぎつけるのは、彼の政治的策略である。
  さらに深く探ってみると、国内の王位継承問題を隠すことによって、本当に隠すのか、 あるいは隠すことによってかえって事態を明確にしようとするのか、という問題も浮か び上がってくるが、シェイクスピアの意図は前者であろう。ヘンリーの王としての成長 に焦点を合わせることによって、王位継承問題を隠蔽する方向をシェイクピアは選んだ ことになるが、作品の統一的観点から考えてみれば、国内の王位継承問題を重要なテー マとして作品に持ち込んだら、焦点が拡散してヘンリー五世の王としての成長を効果的 に描くことができないという懸念も、彼の頭の中にはあったであろう。Bulloughも次の ように指摘しているように、



"Shakespeare picks his way through Holinshed’s numerous details, limiting himself mainly to the French business, omitting most happenings in England and ignoring the conflict with the Lollards and the execution of Sir John Oldcastle." (3)
「シェイクスピアはホリンシェッドの数多くの詳細な部分を参照したが、主にフラン スとの出来事に限定し、イングランドで起こったほとんどの事件を無視し、ロラード 派との軋轢やサー・ジョン・オールドカースルの処刑は省略している。」



シェイクスピアは上に論じたことと同じような理由で、ロラード派とSir John Oldcastleの 処刑を『ヘンリー五世』の中に描いていない。
  この章では、『ヘンリー五世』に描かれている「裏切りの場面」に焦点を合わせて、 国内の王位継承問題をシェイクスピアはどのように扱っているかを、様々な観点から明確に したいと思う。



II



  『ヘンリー五世』の2幕2場は、ヘンリー五世の側近(それもかなり近い)に裏切り 者が存在し、その事実を彼が黙認しているという台詞のやり取りから始まる。ヘ ンリー五世の大胆さと裏切り者の卑劣さが同時に浮き彫りにされる場面であると 言える。ヘンリー五世が登場してから、ある酔っ払いが犯した不敬罪の処罰をど のようにするかについて話し合われるが、彼は酔っ払いを軽く説諭して解放しよ うとする。その時、ケンブリッジ、スクループ、グレイの陰謀の仲間たちは、「 酒に酔ってヘンリー五世の悪口を言った人間に慈悲など施すな」と主張する。何 故シェイクスピアはこのような台詞を裏切り者たちに言わせるのであろうか。これ はケンブリッジ達の持つ狭量さやヘンリー五世への表面的な迎合を示しているが、 それと同時に、ヘンリー五世の策略性を際立たせている(ここで思い出すのは、シェイ クスピアはヘンリー五世がフランス軍と戦う場面においては策略性を省いて描き、神 の摂理でイングランドは戦いに勝ったように描写していることである)。Christopher Pyeも指摘しているように、この場面では、反逆者を処刑することによって、イング ランドの政体は無傷に生き延びるようにヘンリー五世は仕組んでいるのである。



The political community can affirm or maintain its intactness without betraying its inadequacies only in so far as the transgression can be seen to draw the law down upon his own head. (4)
「政治的共同体は、逸脱がその罪を被るかぎりは、その不十分さを暴露することなく、 完全無欠を保障し維持することができる。」



おそらく、シェイクスピアは単純でお人よしの国王を描くのではなく、一筋縄では いかないヘンリー五世像を、この作品で構築したいと思っているのであろう。この ことは、ハーフルー城の前で行われたヘンリーの演説の中にも明白に示されている。 残酷な言葉を吐くヘンリーは、お人よしで何の策略も持たない王ではなく、もちろん 実行に移すことはないが、己の目的のためには手段を選ばない冷酷な面を見せている。 リチャード二世が王としての資質を欠き、ボリンブルック(後のヘンリー四世でヘンリー 五世の父)の策略にまんまと乗って王権を失った状況に対して、ヘンリー五世は己の才覚 で王権を維持する能力を持っている。シェイクスピアの理想とする国王像が暗示される 場面であるが、アーデン版『ヘンリー五世』の注釈を書いたJ. H. Walterは、ヘンリー五 世とリチャード二世が対照的であったと、次のように指摘している。



"It is also not without significance that the Henry of Henry V is a complete and balanced contrast in character and appearance with Richard II in the first play of the tetralogy." (5)
「また、『ヘンリー五世』のヘンリーが、三部作の最初の劇のリチャード 二世と、性格においても容貌においても、完全に均衡の取れた対照的人物で あることは、意味のないことではない。」



  「裏切りの場面」を描くことによって、己の置かれた立場を冷静に分析する ヘンリー五世像をシェイクピアは鮮やかに描写している。そしてケンブリッジ 達を卑小な存在として観客に提示することで、ヘンリー五世の王としての素質 を際立たせているのである。Andrew Gurrは『ヘンリー五世』の愛国主義は疑問 を持たれていたと、次のように主張しているが、



"That mood changed after Elizabeth's death, and some people may already have been sceptical about the jingoism of the writers and preachers by 1599. In some significant respects Henry V offers on its surface the patriotic triumphalism of a Chorus who glories Henry’s conquests, while through the story itself runs a strong hint of scepticism about the terms and the nature of his victories." (6)
「その気分はエリザベスが死んだ後に変化した。そして人々の中には、1599年まで には、作家や説教師たちが唱える感情的な愛国主義に懐疑的であった。いくつかの 重要な点で、『ヘンリー五世』は表面的にはヘンリーの征服を賞賛するコーラスの 愛国的勝利主義を提供しているが、この作品の中には、ヘンリーの勝利の表現や質 についての懐疑が強く暗示されている。」



ヘンリーの行動から放射される愛国主義的思考は、多くの反対分子を含みながらも、 最終的には観客を愛国精神へと誘っていく。その証拠に、この作品が上演や映画化 されるのは、イギリス国民が疲弊の窮状へ陥ったときである。Andrew Gurrも指摘す るように、この作品には愛国主義への疑念が散見されるが、それ以上に圧倒的な勢い で愛国主義が賞賛されるのである。Catherine Belseyも、ヘンリーの行う戦争に疑問 を呈していると、次のように論じているが、



Without necessarily committing ourselves to a specific authorial position, what we can surely argue is that Henry V is notoriously deeply marked by disruptions and uncertainties, and most obviously uncertainties about the legitimacy of the fictional war it portrays. (7)
「必然的に、ある権威の立場に関係付けることなしに、我々がたしかに論じ ることができるのは、『ヘンリー五世』は混乱や不確定、特に作品が描く虚構 の戦争の正当性についての不確定に、色濃く特徴付けられていることである。」



そのような愛国主義への疑問や反論は、ヘンリー五世が成し遂げる圧倒的 な勝利の前には雲散霧消してしまう。



III



  視点を変えて次のような疑問を考えてみたい。何故ヘンリー五世はケンブリッジ 達に口頭ではなく書類で罪状を示したのであろうか。もちろん、演劇的効果を 狙ったこともあったであろうが、当時の社会的・文化的コンテキストとも密接 な関係を持っているように思われる。国家にとってこのような重大な罪である 反逆罪を処罰するのに、単なる口頭ではなく、文書の形にする必要があったと 思われる。シェイクスピアが描くヘンリー五世は、儀式性および演劇性が、国を 治めるには重要であることを十分に認識していたし、ヘンリー五世の行動に演劇 性がたぶんに混じっているのはそのためであろう。次にあげる事例は、ヘンリー 五世が政治には演劇性が必要であることを十分に認識していることを示すもので ある。それは、ヘンリー五世は自分が放っているスパイを使ってケンブリッジ達 の陰謀を察知したのに、神の恩恵として周囲のものに伝えているのである。Steven Marxは、その間の事情を次のように述べている。



"Though it is his intelligence system that has discovered the plot against him, Henry construes his rescue as miraculous evidence of God’s special protection and parlays that evidence into a morale-raising prediction of future success in battle…." (8)
「彼に対する反逆が発見されたのはスパイ制度であるにもかかわらず、ヘンリーは自 分が助かったのは、神の特別な保護の奇跡的な証拠であると解釈し、その証拠を戦闘 における将来の成功という士気を高める予言に活用する。」



上記の事例は、Jean E. HowardがWalter Cohenを引用しながら指摘しているように、シ ェイクスピアの描く歴史劇は、政治権力の中央集権化が望ましいと考えていることを示 していると思われる。彼女は論点を明確にしながら、次のように述べている。



"In fact, as Walter Cohen has argued, Shakespeare’s histories as a group perform part of their work of cultural modernization by depicting as desirable the centralizing of political power in the hands of a single powerful monarch, and so downplaying the power of the feudal lords (Cohen 1985: 218-84)." (9)
「ウォルター・コーヘンが論じているように、連作としてのシェイクスピアの歴史劇 は、一人の強力な君主の手中に政治権力を集中させることが望ましいことを描くこと によって、また封建領主の力を控えめに語ることによって、文化的な近代化の仕事の 一部を遂行している。」



明らかに、ヘンリー五世は近代国家に登場する中央集権的な王として描かれており、 この作品が描かれた当時のエリザベス女王や彼女の政治的手法を賞賛する意図があっ たのかもしれない。そのためには、裏切り者の処刑宣告の場面では、単なる口頭では なく文書の形で、ケンブリッジ達に罪状を認識させる方法が必要であったのである。 ヘンリー五世をだしにしてシェイクスピアはエリザベス女王への視点も考慮に入れて いるしたたかな劇作家である。エセックス伯に接近し過ぎるという政治的失策はあった ものの、すべての咎を見事に免れている事実は、上記のことを明らかに示しているもの であろう。



IV



  さて、周知のように、四つ折版ではスクループの名前は出ていない。これは 検閲のためかどうかは推測の範囲を出ていないが、上に挙げたオックスフォード 版テキストの編者であるGary Taylorは、この点について次のように述べている。



"Some of the lines missing from the Qurto text of I.2 also look like victims of censorship, and Q’s consistent identification of Scrope as ‘Masham’ might result from the censor’s deference to the living Lord Scrope." (10)
「四つ折版の一幕二場から数行が抜け落ちているのは、検閲の犠牲のように思える。 また、四つ折版がScropeをMashamとを一貫して同一化しているのは、検閲官が現 在生存しているスクループ卿に敬意を払った結果かもしれない。」



Gary Taylorはスクループの名前が削除されたのは、検閲の結果であると明確に述 べているが、これが検閲の結果かどうかは、上に述べたように、推測の域を出な い。しかしシェイクスピアや劇場関係者がこれほど上演の際に気を使っている事 実は、エリザベス朝末期の時代でさえも、ヘンリー五世の王位継承問題は微妙な 影を落としていることを物語っている。エリザベス女王の後継者もまだ確定しな いこの時期では、国内の王位継承問題を明確に演劇の形で示すことは不可能であ ろう。Katherine Eggertは、シェイクスピアが『ヘンリー五世』の作品内部で、 エリザベスを排除することに成功したと論じているが、女王の言葉にならない影響 力を当時のイングランド社会内部で完全に消去することは困難であったと考えたほ うが事実に即した推測であろうと考えられる。Eggertの主張を聞いてみよう。



"Even if the play does not erase all memory of the first tetralogy’s female rule, it does succeed in erasing Elizabeth, first by shaping England as an entirely male dominant body with France as its female victim, then by eliminating Katherine of France as Elizabeth’s female forebear." (11)
「『ヘンリー五世』は最初の三部作の女性統治の記憶をすべて削除していないに しても、エリザベスを消去することには成功している。まず、フランスを女性的 犠牲者としてイングランドを完全に男性支配の形態に形作ることによって、それ からエリザベスの女性の先祖としてのフランス王妃キャサリンを排除することに よって成功している。」



エリザベス女王の影響力は、作品内部でも外部でも完全に消去されることはなく、 エリザベス女王という無言の圧力が、イングランドに存在する限りは、『ヘンリー 五世』や他の劇作品の中で、国内の王位継承問題をあからさまに論じることは困難 であったことは容易に想像できる。反逆者であるケンブッリジたちの処分を、フラ ンス遠征に行く前に決定して、その後はまったく触れないシェイクスピアの態度は、 冷静に時代状況を判断した結果であろうと思われる。Debora Kuller Shugerの次の 指摘は、Elizabeth治世の最後の10年間を政治神学的に見たものである。



"As has often been noted, in the last decade of Elisabeth’s reign, political theology, especially—but not exclusively—among the higher clergy, began moving in the direction of divine-right absolutism. " (12)
「しばしば言及されていることであるが、エリザベス統治の最後の十年間は、高位の 僧侶たちの間で、特に(だが、排除的でもなく)、王権神授説の絶対主義の方向へ動き始 めていた。」



王の絶対主義的イメージが濃厚になり始めていたこの時期、シェイクスピアが『 ヘンリー五世』のような戯曲を書くことは、非常に意味深長なことであると思わ れる。それは時代の趨勢を冷静に判断するシェイクスピアの慧眼とも言える能力を 明白にしているのである。



(注)

1. Phyllis Rackin, Stages of History—Shakespeare's English Chronicles (Routledge, 1990), p.186.

2. Gary Taylor (ed.), Henry V (Oxford U. P., 1982), p.9.

3. Geoffrey Bullough (ed.), Narrative and Dramatic Sources of Shakespeare, vol.4 (Routledge and Kegan Paul, 1962), p.355.

4. Christopher Pye, The Regal Phantasm—Shakespeare and the Politics of Spectacle (Routledge, 1990), p.125.

5. J. H. Walter (ed.), King Henry V (Methuen, 1954), p.xxix.

6. Andrew Gurr (ed.), King Henry V (Cambridge U. P., 1992), p.2.

7. Catherine Belsey, “The Illusion of Empire: Elizabethan Expansionism and Shakespeare's Second Tetralogy,” Literature and History 1(1990), p.19.

8. Steven Marx, “Holy War in Henry V”, Shakespeare Survey 48 (1995), p.93.

9. Jean E. Howard, The Stage and Social Struggle in Early Modern England (Routledge, 1994), p.152.

10. Gary Taylor, op. cit., p.16.

11. Katherine Eggert, "Nostalgia and the not yet late Queen: Refusing Female Rule in Henry V,” ELH 61(1994), p.542.

12. Debora Kuller Shuger, Habits of Thought in the English Renaissance—Religion, Politics, & the Dominant Culture (California U. P., 1990), p.141.



第8章

歴史劇と文化変容論

―『ヘンリー五世』を中心に―


I


  近年、異文化接触による文化変容に関する論文が多く出されている。 特に、アジア地域研究において、その文化変容が詳細に取り沙汰され ているが、ヨーロッパでの文化変容に関する論考は意外に少ないよう に思われる。ヨーロッパでも文化変容の例は枚挙に暇がないほどであり、 それはシェイクスピアの『テンペスト』(The Tempset ) を見れば 一目瞭然であろう。アロンゾ(Alonso) やアントニオ (Antonio) たちが、 キャリバン (Caliban) という半人半獣の登場人物に出くわす驚異、あるい は新世界との遭遇を匂わすような島への漂流―これらの事象はヨーロッパ 文明が異文化接触により、自国固有の文化変容を余儀なくされる瞬間であ る。この章では、文化変容論を援用して、シェイクスピアの作品、とりわ け一見文化変容とは関係ないと考えられている歴史劇を、新しい視点から 解釈しようとするものである。ただし、筆者は文化人類学者ではなく、 英文学者であるので、文化変容を文化人類学的に厳密な意味ではなく、 もっと緩やかな意味を持つ術語と解釈していることをお断りしておく。
  シェイクスピアは歴史劇と呼ばれる一連のイングランドの歴史を題材と して演劇を書いていた時期があった。彼が利用した書物は主にラファエル・ ホリンシェッド (Raphael Holinshed) やホール (Edward Hall) の歴史書や 先行の演劇であるが、彼はそれらの材源を利用しながら、彼独自の視点で歴 史劇を書いているので、彼が演劇を書く行為は、彼独自の歴史解釈―大きく 言えば、歴史・文化にある衝撃を与えるものであると言える。彼の作品が 上演された後に、ある事象や人物に大きな社会的な意味付けの変化が起きる ことがあるが、これは演劇と社会との出会いにより、その社会の文化の変容 を作り出したと言えるであろう。もっとも分かりやすい例として、シェイク スピアの人口に膾炙している『ベニスの商人』 (The Merchant of Venice) を見てみよう。シャイロック(Shylock) という特異な登場人物は、ユダヤ人 で金貸しを商売として、彼を罵倒する憎いアントニオの肉と(その結果として) 命を奪い取ろうとする。この作品が発表された後、ユダヤ人のイメージが固定 化あるいは強化されたことは、容易に想像することができる。すべてのユダヤ 人は「強欲で人でなしだ」という現実とはまったくかけ離れたイメージが、シ ェイクスピアの作品の影響により、イングランド社会に固定化されることになる。 異教徒であるユダヤ人とイングランドの人々、特にロンドンの人々との接触の中 から生まれたイメージであろうが、シェイクスピアが『ベニスの商人』を書くこと により、ユダヤ人はキリスト教社会から排除されるべき負のイメージとして固定化・ 強化されることになる。ここには、自国文化への自信に溢れており、シェイクスピア が晩年描いた『テンペスト』とは様相がかなり異なっている。シャイロックの娘ジェ シカ (Jessica) が、ユダヤ教からキリスト教に改宗する成り行きは、この劇の性格を 明確に表現しているように思われる。
  このように固定化されたイメージは、個々人の特徴は問題とせず、全体としての ユダヤ人の曖昧な共通性を浮き彫りにしている点では、近年の戦争における情報戦にも 通じるものである。異文化接触の中でもっとも悲惨な例は戦争であるが、敵を人間では なく野獣のようなものだとするイメージの植付けは、太平洋戦争中に日本軍が流す報道 にも見られたものである。異文化の人々を人間と認めず、野獣のような存在と解釈した としたら、そこには異文化接触は悲惨なものとなり、負の方向への文化変容が生まれて くる。『ベニスの商人』でシェイクスピアが行った文化変容は、ユダヤ人への偏見を助長 するという意味において、負の方向へのものだと言えるであろう。この劇以降のユダヤ人 のイメージは、イギリス社会において、固定化されたものとなっていった。『ベニスの商人』 が翻訳され、多くの国で上演されると、そのイメージは全世界に広まり、多くの人々の固定 観念となっていった。クリストファー・マーローも『マルタ島のユダヤ人』(The Jew Of Malta) を書いているが、シェイクスピアの作品ほどはイメージを固定化する力はなかったようである。



II



  文化変容とは、ある文化の固有性が揺さぶられることと定義すれば、 シェイクスピアが史実・文化の変容を作り出している例は、『ヘンリ ー五世』の中にも見られる。彼の歴史劇はすべて文化の変容―作品の 発表以降ある文化的思考の絶対性に揺らぎが加えられること―を与え ているが、特に『ヘンリー五世』の例が明白なように思われる。シェイ クスピアは『ヘンリー五世』を書くとき、ホリンシェッドや先行の演劇 の記述を参考にしつつ、ある程度これまでの歴史観を変更している。例 えば、史実のヘンリーはフランスとの戦いにおいて、綿密な計画を立て て勝利を勝ち取ったにもかかわらず、シェイクスピアは神の恩寵によって イングランドがフランスに勝利したように描いている。



       O God, thy arm was here;
    And not to us, but to thy arm alone,
    Ascribe we all! When, without stratagem,
    But in plain shock and even play of battle,
    Was ever known so great and little loss,
    On one part and on th’other? Take it, God,
    For it is none but thine !
             (IV. Viii. 106-111)
    「おお、神よ、この勝利はあなたのものです。
    我々ではなく、すべてのことは、あなたの
    お力です。奇襲戦法ではなく、
    堂々と戦った戦闘で、
    これほど多くの勝利と少ない損害が、
    あったでしょうか。この勝利は、あなただけのもの、
    それ以外にはありません。」



このような表現は、結果として当時の国王 (エリザベス一世) の神格化、および 王室の絶対性を強調するものである。作家が作品を書くとき、彼あるいは彼女は 自由に題材を取捨選択し組み立てることができ、それまでの文化的思考に大きな 変容を迫ることができる。前述した『ベニスの商人』のシャイロックがその例で ある。しかし、E. M. W. Tillyardは、『ヘンリー五世』に関する言及で、ヘンリー 五世個人に関する伝説や史実が、シェイクスピアに自由に作劇をさせなかったと、 次のように論じている。



"Tillyard considers that the weight of historical and legendary tradition hampered Shakespeare too greatly; that the inconsistencies of Henry’s miraculously changed character, the picture of the ideal king and the good mixer were “impossible of worthy fulfillment”. (1)
「ティリヤードは、歴史的・伝説的な伝統の重みが、シェイクスピアにあまり にも厳しく制限したし、ヘンリーの奇跡的に変化した性格の矛盾や理想的な王と 善良な社交家の描は、価値のある成就は不可能であると、考えている。」



確かに、史実や伝説はある程度固定しており、作家の自由な創造を抑えることは 認めざるを得ない。だが、作家、特にシェイクスピアのような融通無碍な作家は、 題材を巧妙に選択することにより、また強調の度合いを微妙に変化させることに より、新しい人物像や事象の解釈を観客に提供し、それまでの固定化された人物像 や歴史的事実にある「揺らぎ」を与える。その「揺らぎ」がその作家の独創性と言 われるものであるし、文化変容にも通じるものである。換言すれば、文化変容を生 じさせないような演劇はありきたりで、観客にとって面白くないものとなる。
  シェイクスピアが先行の劇や歴史書という題材を自由に取捨選択して、文化や 歴史に揺らぎを作り出している実例を挙げてみよう。『ヘンリー五世』の材源 と言われている『ヘンリー五世の著名な勝利――アジンコートにおける名誉ある 戦いを含む』(The Famous Victories of Henry the fifth: Containing the Honourable Battel of Agin-court、1598年)(2)の中には、ケンブリ ッジ、スクループ、グレイ達の貴族の裏切りが暴露される場面は描かれていない が、シェイクスピアは『ヘンリー五世』の中で、ヘンリーがフランス遠征に行く 直前に、この事件を導入している。この事件はシェイクスピアが以前に書いた 『ヘンリー四世』との関連により、この作品に入れざるを得ないし、フランス 遠征に出かける直前のイングランド兵士の人心の統一を描くために、どうしても シェイクピアには必要なものであったと思われる。この事件の導入により、ヘンリ ーの人物像に、これまでとは違った印象を観客に与えることになる。ここでもヘン リーは裏切りの暴露を神の恩寵であると公言し、次のように述べているが、



    We doubt not of a fair and lucky war,
    Since God so graciously hath brought to light
    This dangerous treason lurking in our way
    To hinder our beginnings. (II.ii.184-187)
    「この遠征が上手くいき幸運であることを疑わない。
     何故なら、神が幸先を邪魔にする、
    行く手に潜む危険な裏切りを
     明るみに出して下さったからです。」



彼の言葉はフランスへの遠征が神から認められた行為であることを民衆に伝える働きをする。
  上記の例は、シェイクスピアがある事件を作品に導入した一例であるが、ロラード派と ジョン・オールドカースル卿 (Sir John Oldcastle) の処刑については、彼は『ヘンリ ー五世』の中では描いておらず、作品世界から排除している。もしシェイクスピアがこれ らの事件を作品に導入すれば、彼が目指したヘンリー像の統一的イメージが壊れたのであ ろう。特に、ジョン・オールドカースル卿の処刑を作品内で描けば、当時の民衆の反発は 明らかである。何故なら、イングランドがヘンリー八世以来、ローマ・カトリック教会の 圧迫から逃れ、プロテスタントの国となってから、ロラード派の殉教者であるジョン・オ ールドカースル卿の評価が上がっているからである。この宗教的な変化は、シェイクスピ アにとっては重要であり、ローマ・カトリックからイギリス国教会への移行は、様々な社 会的・文化的変容をイングランドの世界に引き起こしたにちがいない。ジョン・オールド カースル卿の処刑ではなく、フォルスタッフの病死を劇の最初で描いたのは、この宗教的 変化があったからである。このように、シェイクスピアは社会的変化や文化的変化に合わ せて、史実や事件等を自由に取捨選択して作品を描いていることが分かる。
  確かに、Tilllyardが言うように、歴史的事実(これも歴史家の解釈が多分に入ってい るが)の桎梏が劇作家に重くのしかかることは事実であるが、その桎梏を巧くすり抜けて、 文化の固定化に揺らぎや衝撃を与えることは、劇作家にとって容易なことであった。Gary Taylorも、注釈書『ヘンリー五世』の中で、シェイクスピアがフランス女王の性格を材源と 違うものにすることにより、平和、愛、文化を描くことができたと論じ、次のように述べている。



"…while the transformation of Isabel from the dissolute and treacherous figure of history into the moderate, gracious, dignified queen of 5.2 helps to summon up the social world of peace, love, and civilization which the play has until then excluded." (3)
「一方、5幕2場において、自堕落なあてにならない歴史上の人物から穏当で優雅な威厳 のある女王に変えたことは、これまでこの劇が排除してきた平和、愛、文明という社交 的な世界を呼び出す助けになっっている。」



ただ、シェイクスピアは『ヘンリー五世』の中で、フランス人捕虜の殺害命令だけは 省略していない。『ヘンリー五世』の前に上演された劇の中では、その場面は描かれ ていないのに、シェイクスピアはその史実に固執している。彼はヘンリー像を一筋縄 ではいかない複雑な像として観客に提出したかったのであろう。
  シェイクスピアが史実を微妙に変化させている事例は、他の作品にも見られる。 例えば、『ヘンリー四世』の中で、ヘンリー四世は治世1年目でエルサレム遠征を計画し、 リチャード二世殺害の贖罪を考えているのに、ホリンシェッドの『年代記』では、ヘンリー 四世は死の一年前にその遠征を計画していることになっている。シェイクスピアがこのよう に史実を変化させたのは、観客の同情をヘンリー四世に引きつけようとしたものであろうが 、主な変更の理由は、ヘンリー四世の贖罪というテーマを、この作品で大きく取り上げた かったからであろう。ここでもシェイクスピアの作劇態度が、かなり自由であったことが明確 になる。劇作家は、題材の選択、強調の仕方によって、作品のテーマを自由に浮き上がらせる ことが可能である。さらに、シェイクスピアの自由度を示すものとして、彼はホリンシェッドの 『年代記』からヘンリー四世とパーシー家との争いを取り入れ、伝統演劇からはハル王子の放蕩 生活を描いており、先行する演劇や歴史劇から自由にアイデアを取り入れていることが明らかで ある。『ヘンリー四世』の注釈者であるHerbert Weil と Judith Weilは、その点を指摘して、 次のように論じている。



"Two of these are especially influential: one, Holinshed’s Chronicles (1587) for the King’s struggle with the Percys, leading to the battle of Shrewsbury; and the other, popular dramatic traditions for the behaviour of the prodigal Prince and his riotous companions. " (4)
「この内の二つは特に影響力を持つものである。一つは、シュルーズベリーの戦いま で行き着く王とパーシー家の争いでは、ホリンシェッドの『年代記』(1587年)、もう一 つは、放蕩の王子と彼の放埒な仲間たちの行動を描く民衆の演劇的伝統である。」



劇作家の自由な作劇態度が文化の変容を迫るものであることは、以上の論述で明確 になったと思われる。演劇活動、広く言えば、文化創造活動は、それまでの固定化 していたイメージを再び流動化させ、文化的変容へと結び付けていくのである。シ ェイクスピアと彼を取り巻く文書や劇との出会い、シェイクスピアとユダヤ人など の異文化接触等により、シェイクスピアは自国の文化に揺らぎを与え、その文化に 変容を迫るものである。繰り返しになるが、文化変容―庶民の常識の揺らぎ―を起 こさない演劇は凡庸な演劇であろう。



III



  これまでシェイクスピアの作品が、どのようにして自由に文化・歴史の変容を 行っていたかを考察してきた。この節では、シェイクスピアが参考にした歴史 書自体が、いかに歴史や文化の変容を行ってきたか、あるいは行わざるを得な かったかを考察してみたい。まず、エリザベス朝時代で有名な歴史書は、これ までにも取り上げたホリンシェッドの『年代記』とエドマンド・ホールの歴史 書であるが、まずこの両者からして取り上げる人物や事件について微妙に対立 していることは興味ある事実である。まず、リチャード二世の描写についてで あるが、ホールはリチャード二世の廃位を同情して描いているが、ホリンシェッド はその哀愁をきっぱりと排除している。ホールはリチャード二世への個人的な同 情という立場で描いているが、ホリンシェッドはリチャード二世の廃位に関して は、当時の議会の介入が重要な役割を果たしていると描いており、歴史書として はホリンシェッドの記述が信用できると思われる。ホリンシェッドの歴史書は、 シンジケートとも呼ぶべき集団が書いており、そのためホールより客観的である ことから、このような差異が生じたものと思われる。
  だが、いつもホリンシェッドが歴史的事実に近いかというとそうでもない。 ホールは1414年から1415年にかけて行われたコンスタンス会議(Council of Constance―教皇庁の大分裂に終止符を打った会議)を、ヘンリー五世の温和 な統治の証拠として考えているのに、ホリンシェッドはまったくコンスタンス 会議を無視している。ホールとホリンシェッドの歴史書の価値はどうであれ、 歴史書自体がこのような矛盾を露呈しているので、シェイクスピアのような作家は、 歴史における「真実」が、実は非常に曖昧なものであることを見抜いたことであろう。 Annabel Pattersonは、ホリンシェッドの『年代記』はホールの歴史書の後継者では なく反論であると、次のように論じている。



"…Holinshed’s Chronicles can be reconceived, not as the successor to Hall’s Union, but rather as a counterstatement: the evidence of diversity that historical inquiry discovers must not, at whatever cost to the historian, give way to the principles of unity and order." (5)
(第5章2節の翻訳を参照のこと)



ホリンシェッドもホールも同じ歴史書を書いたのであるが、ある人物や事象 に対してまったく異なった記述をする事実は、歴史の記述も個人の恣意的な 意向が反映されていることを明白にしているが、歴史書を書くこと自体が、 文化の変容を迫るものであると言える。歴史書はそれまでの文化的遺産である 歴史を固定化することであるが、その固定化こそが歴史記述に関わる人物によ る文化変容に他ならない。後世の歴史家も歴史書を書くことによって自分自身 の歴史をつくり、その社会の文化を変容していくことになる。
  同じジャンルの歴史書でも、人物や事件についての解釈が違うが、歴史書 と演劇もまったく解釈が異なっていることもある。例えば、ホリンシェッド とジョン・ベール(John Bale、1495-1563、イングランドのプロテスタント 牧師・著作家・劇作家; 多くの宗教劇・宗教論争書を書いた) は、ジョン王に 対してまったく異なった描写をしている。ジョン・ベールは、最初の歴史劇 と言われるKynge Johanで、ジョン王を勇敢な英雄として描いているのに、ホ リンシェッドは逆に専制君主として描いており、その結果、マグナ・カルタ (Magna Carta、1215年6月15日)のような事件が引き起こされたと、その因果 関係を明白にしている。演劇は観客の歓心を得るためのものであり、歴史書 が歴史の「客観的」な記述であるとすれば、上記のような違いがあるのは当然 と考えられるが、同じ人物をまったく性格が正反対の人物のように描かれること は、歴史の解釈が個人の恣意的な解釈に大いに影響を受けることの証左であろう。
  面白いことに、同じホリンシェッドの歴史書でも、第1版と第2版の編集方針 が違うのである。「ホリンシェッドの歴史書」という名称であるが、ホリン シェッドは第1版の編集に主に関わったのであり、第2版はエイブラハム・フ レミング (Abraham Fleming) が、中心となって編集や修正を行った。フレミ ングの修正は、この歴史書の"multivocality"を増加している、とAnnabel Patterson は指摘している。(6) すなわち、ある事象をいろいろな視点から眺めることが できるように、第二版のホリンシェッド『年代記』は構成されているのである。 換言すれば、歴史に対する視点の複線化と表現できよう。



IV



  このような様々な先行歴史書の多様な解釈を目の当たりにして、シェイクス ピアは歴史的事実の解釈の自由性をすぐに見破ったことであろう。彼は、 『ベニスの商人』を書き、それまで曖昧に存在したユダヤ人への嫌悪感を 極限にまで高め、当時の人々の認識を一変させ、また歴史書や先行劇から 自由に歴史や文化を変容して『ヘンリー四世』や『ヘンリー五世』を書き、 『テンペスト』の中では、異文化接触による文化の変容を描いているのである。 『テンペスト』の中では、それまでの異文化接触とは根本的に違うものである から、その変容はより深刻なものになり、シェイクスピアは魔術へ逃避せざる を得なかったのかもしれない。



(注)

1.J. H. Walter (ed.), King Henry V (Methuen, 1954), p.xiv.

2.この作品は筆者が翻訳をしているので、次を参照してほしい。『ヘンリー五世 の著名な勝利―アジンコートにおける名誉ある戦いを含む』 (上) 『言語科学』 第35号 平成12年2月および『ヘンリー五世の著名な勝利―アジンコートにおける 名誉ある戦いを含む』 (下)『英語英文学論叢』第51集、平成13年1月。

3.Gary Taylor (ed.), Henry V (Oxford U. P., 1982), p.32.

4.Herbert Weil and Judith Weil (eds.), The First Part of King Henry IV (Cambridge U. P., 1997), pp.18-9.

5. Annabel Patterson, Reading Holinshed's Chronicles (University of Chicago Press, 1994), p.15.

6. Annabel Patterson, op. cit., p.9.
フレミングがホリンシェッドの死後中心的な編集者になったことは、Elizabeth Story Donnoも認め、次のように論じている。
"The very competent antiquary Abraham Fleming, a Cambridge man, functioned as the primary editor, having “sweated mightily,” as it is put in the acknowledgements of contributors, with his many textual additions striking a patriotic and moral note and his extensive indices. "(231) (第5章の注9を 参照のこと)
Elizabeth Story Donno, “Some Aspects of Shakespeare's Holinshed,” Huntington Library Quarterly, 50(1987).



第9章

『エドワード三世』と『ヘンリー五世』

―『エドワード三世』の作者の推測―


I



  『エドワード三世』と『ヘンリー五世』が、テーマや作品構成に関して類似していることは、 多くの批評家が指摘しているところである。例えば、M. C. Bradbrookは『エドワード三世』 がシェイクスピア作品の『ヘンリー五世』と『尺には尺を』と類似していると仄めかし、次の ように論じている。



"A totally different set of Shakespearean connections is provided in both parts [Sonnets 93 and 94] by thematic likenesses to two plays which Shakespeare had not yet written―Henry V and Measure for Measure, both of which are subsequent to the publication of Edward III." (1)
「まったく異なったシェイクスピアの関係の組み合わせが、ソネット93番と94番の中で、 シェイクスピアがまだ書いていない二つの劇とテーマの同一性で与えられている。それは 『ヘンリー五世』と『尺には尺を』であるが、両作品とも『エドワード三世』出版に続く ものである。」



上記のM. C. Bradbrookよりもはっきりと、Richard Proudfootは『エドワード三世』と 『ヘンリー五世』および『尺には尺を』との類似性を指摘しており、Kenneth Muirの論 がもっとも印象に残ると述べている。



"It is most apparent in the two plays whose actions most resemble the elements of Edward III, namely Henry V and Measure for Measure. The degree of similarity has been fully demonstrated, most impressively by Kenneth Muir." (2)
「二つの劇の粗筋が『エドワード三世』の要素ともっとも似ていることは明らかである。 すなわち、『ヘンリー五世』と『尺には尺を』である。類似性の程度は、もっとも印象 的には、ケネス・ミュアによて、十分に説明されている。」



因みに、M. C. Bradbrookは『エドワード三世』をシェイクスピアの作品とみなしていない。 最近では多くの批評家が『エドワード三世』をシェイクスピアの作品であると認める方向に 傾きつつあるが、(3) M. C. Bradbrookの著書The Living Monument―Shakespeare and the Theatre of his Time が出版された1976年当時は、彼女の見解が普通だったのであろう。M. C. Bradbrookの著書が出版された年の9年後にあたる1985年には、Richard Proudfootが上掲 の論文で、『エドワード三世』はシェイクスピアの作品であり、しかも単独で書いたことを 積極的に論じている。
  Proudfootの論文から13年後の1998年に、The New Cambridge Shakespeareシリーズの1つ として『エドワード三世』が出版されたが、そのケンブリッジ版『エドワード三世』の編 者であるGiorgio Melchioriは、『エドワード三世』とシェイクスピアの歴史劇第2四部作 (『リチャード二世』、『ヘンリー四世』第1部、第2部、『ヘンリー五世』)との類似点を、 次のように列挙している。



"In fact it [ Edward III ] prefigures all three Henry plays: its first two acts correspond to Prince Hal's dissipation and reformation in 1 Henry IV; the lesson imparted to the Black Prince at Crecy and his knighting in Act 3 parallel the lesson to Prince Hal at his father's death-bed and his coronation in 2 Henry IV; and the obvious analogies between Acts 4 and 5 and the famous victories celebrated in Henry V are emphasised by the acts of magnanimity and reunion at the conclusion of the plays: Edward, finally reunited with Queen Philippa, pardons at her request the burghers of Calais; Henry atones for the ruin caused to France by marrying Princess Katherine." (4)
「実際に、『エドワード三世』は三つすべてのヘンリー劇の先駆けとなっている。その最初 の二幕は、『ヘンリー四世』第1部のハル王子の放蕩と悔い改めの対応している。クレーシー で黒大使に与える説教や戴冠式は、『ヘンリー四世』第2部に対応している。四幕と五幕の間 の明らかな類似と『ヘンリー五世』で賛美されている有名な勝利は、これらの劇の結論で、 壮大さと再統一の行為で強調されている。フィリッパ女王と終に再会したエドワードは、彼女 の要望に応えて、カレーの市民を許す。ヘンリーはキャサリン王女と結婚することにより、フ ランスに与えた荒廃の償いをしている。」



Giorgio Melchioriの論点を簡単にまとめれば、『エドワード三世』の1幕と2幕は、ハル王子 が放蕩の末に改心することに匹敵し、黒太子のクレシー(Crecy―1346年イングランドがフラン スに大勝した地)での試練と騎士爵位の授与は、ハル王子が父王ヘンリー四世の死に直面し、 王位を継承する時期と重なる。また両作品の主人公はフランスで圧倒的な勝利を得る。さらに エドワードは王妃フィリッパ(Philippa)の嘆願を容れて反抗していたカレーの市民を許し、ハル はフランスへ与えた甚大な被害を償うために、フランス王女キャサリン(Katherine)と結婚する。 M. C. Bradbrookの論旨と異なる点は、Giorgio Melchioriが『エドワード三世』と『ヘンリー五世』 を含めた第2四部作との類似点を指摘していることである。彼の考え方では、ヘンリー五世と対応 する人物はエドワード三世と王子黒太子の両人となる。比較する視点は異なっていても、様々な批 評家が『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との類似点を指摘していることは興味深い。本章では、 M. C. BradbrookやRichard Proudfoot、Giorgio Melchioriの指摘をもとに、『エドワード三世』と 『ヘンリー五世』の両作品を比較・検討することによって、『エドワード三世』の作品としての質の 評価をしてみたい。さらにその評価を基にして、『エドワード三世』の作者にも言及することとする。 (5)



II



  M. C. BradbrookやGiorgio Melchioriが指摘しているように、『エドワード三世』と『ヘンリ ー五世』との類似点は多い。まず、両作品ともイングランドの血統が持つフランス王位継承権 問題から始まる。『エドワード三世』では、フランスからの亡命者アルトワ(Count of Artois) が、エドワード三世に正統なフランス王位継承権があることを説明する。この亡命者であるアル トワについては、次のようなホリンシェッド歴史書の説明がある(Raphael Holinshedが中心に 編纂した歴史書、1580年にHolinshedは死亡するが、1587年に出版された第2版は、彼の後継者が 中心になって編纂したもの、詳しくは、第5章を参照のこと)。



"This yeare [1337] was the warre proclamed betwixt England and France, cheefelie by the procurement of the lord Robert Dartois, a Frenchman, as then banished out of France, vpon occasion of a claime by him made vnto the earledome of Artois. This lord Robert after he was banished France, fled ouer vnto King Edward, who gladlie receiued him and made him earle of Richmond. " (6)
「1337年は、主に、フランス人であるロバート・アルトワ卿の斡旋でイングランドとフランス の間で、戦争が宣言された年であった。彼は、当時、アルトワ伯爵領に対して彼がしていた要求 のために、フランスから追放されていた。このロバート卿は、フランスを追放された後に、エド ワード王のもとに行ったが、王は彼を快く受け入れ、リッチモンド卿にした。」



“cheefelie by the procurement of the lord Robert Dartois”という表現から明らかなよ うに、ホリンシェッドの歴史書では、アルトワの言葉を聞いてエドワード三世がフランスに宣 戦布告をしたと記述されているが、もちろんそれだけで宣戦布告をするはずはなく、エドワー ド三世にも様々な計算があったはずである(Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, edited by H.C.G. Matthew and Brian HarrisonのEdward IIIの項を 参照)。それはともかく、『エドワード三世』の作者は、上記のホリンシェッド歴史書の記述を 参考にしていることは明らかであるが、この記述は、Jean Froissart(1337-1410、フランスの年 代記作者)ではなく、Polydore Virgil(1470-1555、イタリアの歴史家)などの歴史書に従っている。 『エドワード三世』の作者が、劇冒頭場面ではホリンシェッドの簡潔な描写を参考にしていること は興味深い。『エドワード三世』のアルトワの言葉を信じるならば、イングランド王家が持つフ ランス王位継承権を彼がエドワード三世に詳しく説明する理由は、祖国フランスへの愛のためで あることになる (Perhaps it will be thought a heinous thing,/ That I, a Frenchman, should discover this,/ But heaven I call to record of my vows,/ It is not hate, nor any private wrong, / But love unto my country and the right/ Provokes my tongue thus lavish in report. ―I.i.30-35) 。次に引用するエドワード三世の言葉は、彼がアルトワの説明を全面的に受け入れてい る様子を示している。



    This counsel, Artois, like to fructful showers,
    Hath added growth unto my dignity,
    And, by the fiery vigor of thy words,
    Hot courage is engend’red in my breast…. (I.i.42-45)
    アルトワ、この忠告は、恵みの雨のように、
     我が威厳を大きくさせるものだ。
    お前の言葉の火のような活力で、
    熱い勇気が我が胸に湧いてくる。



しかし「祖国フランスへの愛のため」というアルトワの発言は、フランスから大使と してやってきたロレーヌ侯爵 (Duke of Lorraine) を激怒させ、アルトワを “Regenerate traitor”(I.i.105)と罵倒するまでとなる。Oxford English Dictionaryでは、“regenerate” を “degenerate, renegade”と注釈して、この箇所を引用しているが、アルトワが過去の 仲間と決別してまで、エドワード三世が持つフランス王位継承権を言い立てる劇的効果に 注目したい。この劇的効果を得るために、『エドワード三世』の作者は、Froissartの詳細 な描写ではなく、Holinshedの簡潔な説明を利用したことは明らかである。
  一方、『ヘンリー五世』の場合は、カンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury)がヘンリー 五世にフランス王位継承権があることを告げる。カンタベリー大司教の目的は明白で、宗教界へ の課税を軽くするためである。そのことは1幕1場のイーリー司教(Bishop of Ely)とカンタベリー 大司教との話し合いで明らかになる。その中でイーリー司教はカンタベリー大司教に“But, my good lord,/ How now for mitigation of this bill/ Urg’d by the commons?” (I.i.69-71) と不安げに尋ねている。(7) アルトワはフランスからの亡命者であり、カンタベリー大司教はイ ングランド宗教界の人間で、しかも高い地位を占めている。常識的に考えれば、亡命者である アルトワより、宗教界の重鎮であるカンタベリー大司教のほうがより大きな信頼性があると思わ れるが、フランス人であるアルトワがイングランド人であるエドワード三世に、フランス王位継 承権のことを話すのも、逆の意味で迫真性がある。ただ、『ヘンリー五世』のほうが、サリカ法 の扱いについて詳しい描写があり、『エドワード三世』のフランス王位継承権の扱いは、フランス 遠征の法的裏付けのみを欲しているという印象を受ける。ヘンリー五世が、イングランドの人心を まとめるために、フランスへの戦争に駆り立てられたことも、両作品の冒頭場面の差異となって表 れているのかもしれない。
  次に、ソールズベリー伯爵夫人(Countess of Salisbury)のエピソードとハル王子の放蕩と改心 という類似点を考えてみよう。The New Cambridge Shakespeareシリーズの『エドワード三世』の 注釈者であるMelchioriは、エドワード三世のソールズベリー伯爵夫人への情欲とハル王子の放蕩を、 『エドワード三世』と第2四部作の類似点として扱っている。確かに、それら二つの出来事は最初に 主人公の人格陶冶および政治的手腕の向上に繋がっていくからである。エドワード三世は伯爵夫人 比較すべき対象であるが、本稿では、エドワード三世の伯爵夫人への欲情には、『ヘンリー五世』に おける三人の貴族の反乱に対するヘンリー五世の態度を比較される対象として扱う。両事件とも、 への恋を断念することによって王として成長するし、ヘンリー五世も貴族の反乱という危機に直面 することで、王としての器を大きくしていく。しかし、両者の違いは、ヘンリー五世のほうがエド ワード三世より狡猾であり、貴族たちに罠を仕掛けているという印象がある。ヘンリー五世はワイン の飲み過ぎで王の悪口を言った家臣を許そうとするが、反乱貴族であるケンブリッジ(Cambridge)、 スクループ(Scroop)、グレイ(Grey)は、「王はもっと厳しくあるべきだ」(“That’s mercy, but too much security”―II.ii.44)と反論する。その後ヘンリーは彼らの不穏な動き(Southamptonで のヘンリー殺害計画)を指摘して、彼らが罪の言い訳をできないような状況を作り上げていき、結局は 彼らを処刑する。さらにシェイクスピアは、反乱する貴族の一人であるケンブリッジが、王位継承に 近い血筋を持つ人物であることを明確に書いていない。ただ、王権に対する反逆者として片付けてい るだけである。ケンブリッジが王位の血に近いとするならば(エドワード三世の第5子Edmund of Langley, 1st Duke of Yorkの子孫)、彼らの反乱にも正当性が生まれてくるのである。シェイクスピアは『ヘンリー 五世』の中で、イングランドの王位継承問題に触れることを避けたのであろう。その問題に深入りすれば、 ヘンリー五世による王権強化のストーリーが十分に語れないことになる。そう言えば、シェイクスピアは 『ヘンリー五世』でSir John Oldcastleが中心となって引き起こすロラード事件への言及も避けている。 この事件はヘンリー五世の治世では、相当大きな政治的影響力を持った事件であるが、シェイクスピアが 描こうとする『ヘンリー五世』という作品に入れるには、あまりにも重大過ぎる事件であったと言える。
  それに比べると、エドワード三世のソールズベリー伯爵夫人への行為は、政治的に考えれば青臭いとも 言える。しかも自分の思いを秘書であるロドウィック(Lodowick)を使って伝えようとする場面は、本人の 思いが真剣であればあるほど、滑稽じみてくるのは否めない。しかし、国王が人の道に外れた行為をする と、地位が高いだけに、他の政治的事象に及ぶ影響は大きくなる。それは、彼が黒太子や家臣ダービー (Derby)、オードリー(Audley)に対して、フランス遠征について好い加減な指示を与えることから明らか になる(2幕2場)。ソールズベリー伯爵夫人のことをきっぱりとあきらめた時点から、エドワード三世は 国王としてふさわしい行動を取り始める。



    Warwick, I make thee Warden of the North:―
    Thou, Prince of Wales, and Audley, straight to sea;
    Scour to Newhaven; some there stay for me;―
    Myself, Artois, and Derby will through Flanders
    To greet our friends there, and to crave their aid.
    This night will scarce suffice me to discover
    My folly’s siege against a faithful lover;
    For, ere the sun shall [gild] the eastern sky,
    We’ll wake him with our martial harmony. (II.ii.202-210)
    「ウォリック、お前を北方方面の総督に命じる。
    ウェールズ皇太子とオードリーはすぐ海に行って、
    ニューヘイブンへ急ぐのだ。そこの何人かは私といなさい。
    私とアルトワ、それにダービーはフランダースを抜け、
    我が同胞と会い、彼らの援軍を依頼しよう。
    今夜は忠実な恋人を私の愚かさが攻めた
    話しをするのに十分な時間がないだろう。
    と言うのは、太陽が東の空を染める前に、
    我々が太陽を軍歌で起こすからだ。」



エドワード三世は、それまでとまるで人が変わったように、てきぱきと家臣や黒太子に 指示を出し、自らも戦争へ赴く準備をする。
  さらに複眼的な視点という観点からこのエピソードを考えれば、『ヘンリー五世』 では、家臣たちが王の反逆者たちへの取り扱いについて噂をするが(2幕2場の冒頭)、 『エドワード三世』では、そのような複眼的視点を導入することはない。直線的に、エドワード 三世が恋のために変貌する様子を描写するだけである。ソールズベリー伯爵夫人のエピソードに関与する 登場人物は、エドワード三世、ソールズベリー伯爵夫人、ウォリック(Warwick―伯爵 夫人の父親)、ロドウィックの4人だけである。一方、ヘンリー五世が反逆を企む貴族 たちを泳がせていることは、多くの人物が知っていることになっている。したがって 『エドワード三世』の中では、王の恋は密室の中の出来事であるが(結果的には、公的 にも影響が出る)、『ヘンリー五世』では、公の出来事として扱われる。『エドワード 三世』のソールズベリー伯爵夫人のエピソードと同じような内容が、『ヘンリー六世』 第3部で描かれるエドワード四世によるエリザベス(Lady Elizabeth Grey)への求愛場面 にある。Kenneth Muirは、『エドワード三世』のエピソードのほうがはるかに文学的に 優れていると評価しているが、(8) 複眼的視点という面から見れば、『ヘン リー六世』第3部の描写のほうが、よりシェイクスピアらしい表現であると考えられる。 エドワード四世がエリザベスに求愛しているとき、エドワードの弟であるグロスター (Gloucester、後のリチャード三世)とクラレンス(Clarence、グロスターの兄で後にグロ スターから殺害される)が同席しており、兄王の求愛に鋭い批評を加えている(『ヘンリー 六世』第3部の3幕2場を参照のこと)。このようにある事象に対する思いを様々な登場人物の 視点から語らせることによって、シェイクスピアはその問題をより多角的・重層的に見るこ とを観客に強制する。さらにシェイクスピアが『ヘンリー五世』の中にコーラスを登場させ たことは、複眼的視点をいっそう進めたものと言えるであろう。コーラスとは様々な視点を 取り得る特殊な登場人物であり、ある面では作者そのものの視点を表現することもある。その 点、『エドワード三世』は単純で直線的な描写であると言える。もし『エドワード三世』が シェイクスピアの作品であるとするならば、直線的な描写は、シェイクスピアの劇作家として の経歴の初期に、『エドワード三世』が書かれたことが理由と考えられる。
  『エドワード三世』と『ヘンリー五世』の類似点は、フランスでの戦争にも現れる。エド ワード三世はフランスで勝利し、息子である黒太子はフランス王を生け捕りにするという 快挙を成し遂げる。またヘンリー五世はアジンコートの戦いでフランス軍に圧勝する。し かし、これらは表面的な類似性であって、少し内容を検討してみれば、質的に大きく違う ことが明らかになる。それはアジンコートの戦いの前に、ヘンリー五世が王権について苦 悩する場面があるからである。ここでヘンリー五世は「王権とは何か」という抽象的な意味 を問い続けることになる(“And what have kings that privates have not too,/ Save ceremony, save general ceremony?”―IV.i.238-239) 。このような王権への厳しい問いかけが、 『ヘンリー五世』の中にはあるが、『エドワード三世』には、王権は当然の権利だという発想 がある。少なくともエドワード三世の胸中には、王権への疑いはない。父エドワード二世から 苦労して受け継いだイングランド王位を守るという激しい思いがあるだけである。そのため 『エドワード三世』では、表面的には王権への問いかけは表れてこない。ただエドワード三世 とソールズベリー伯爵夫人とのやり取りの中や、エドワード三世の戦場での黒太子への仕打ち などに、王権を担う人物への問いかけが垣間見えるだけである。伯爵夫人は “In violating marriage’ sacred law/ You break a greater honour than yourself.”(I. ii.260-261)と 王に語り、王権は神の律法より低いと決めつける。また黒太子が危機に陥ったとき、エドワー ド三世は、“Audley, content; I will not have a man,/ On pain of death, sent forth to succour him.”(III.iv.33-34)と叱りつけ、黒太子の王(将来の)としての技量を見極めようと する。このような視点から見れば、ヘンリー五世の王権への問いかけは多分に形而上的であり、 エドワード三世の王権への思いは、より具体的であり、現実的なものと言えるであろう。
  Giorgia Melchioriも指摘しているが、エドワード三世が劇の最後に示す降伏したカレー 市民への寛容な態度は、ヘンリー五世がフランス王女キャサリンと結婚したことに通じる。 しかし、両者の行為は自国の安泰のことを考えたことであって、心からの慈愛から出た行為 ではないであろう。エドワード三世は妻フィリッパの助言を受けて反抗していた市民を許す し、ヘンリー五世はフランスへの王位継承権をより堅固にするためにフランス王女キャサリ ンと結婚するのである。またエドワード三世の「許す行為」とヘンリー五世の「結婚」は、 決して同じ行為ではない。許す行為は上からの目線であり、結婚は同等の立場の結びつきに なる。それはヘンリー五世とフランス王女キャサリンの対話を見れば明らかになる。ヘンリー 五世が母国語ではないフランス語で求愛する場面は(5幕2場)、自己を一段と低めた気持ちで (あるいはキャサリンと同等の立場に立って)王女と向かい合っていることを示す。ただ、ヘン リー五世とキャサリンの結婚については『ヘンリー五世』のエピローグで不吉な予言が行なわ れ、この幸せな状態が永く続かないことを匂わせている。このような劇の終わり方は、『エド ワード三世』とはかなり趣を異にするものである。(9)
以上見てきたように、これまで様々な批評家が『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との類似 性を指摘してきたが、それは表面的なものであり、一歩作品内部に踏み込むと二つの世界は大きく 異なっていることが明らかになってきた。



III



  前節で『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との類似点について検討してきた が、その類似点は表面的なもので、少し深く掘り下げると両作品の違いが明らかに なった。本節では両作品の間にある相違点(王権への思い、家臣との交わり、死への 瞑想)を検討してみよう。第II節でも触れたように、『ヘンリー五世』の中には執拗 なほどに王権への拘りがあるが、『エドワード三世』には王権に対する疑念はまった くない。エドワード三世と黒太子は、王としてふさわしい人物であるかどうかが焦点 となっている。彼らの行為の描写に、王権への疑念が垣間見えるが、少なくとも登場 人物が王権への疑いを口に出して問いかけることはない。それは政治的な状況の違い からかもしれない。ヘンリー五世の父ヘンリー四世は、リチャード二世を廃して王位 に就く。この事件の裏には、王権は奪い取ることができるという事実があり、奪い取 れる王権とは一体どのような意味があるかと、ヘンリー五世は自問する。そのためヘ ンリー五世は王権を正当化するために外征し、フランス王位継承権を主張しなければ ならないのである。「フランス王にならなければ、イングランド王ではない」“No king of England, if not king of France!”(II.ii.193) という台詞は、この間の事情を 明白に物語っているものである。王権への疑念は、そのような苦しい政治的状況に立た されたヘンリー五世にとって、当然の疑問だったかもしれない。一方、エドワード三世 には王権を死守するという気概が見える。それは王権を得た苦しい経緯がエドワード 三世にはあるからであろう。父王エドワード二世の妻イザベラ(Isabella、その所行から she-wolf of Franceとも呼ばれている)は、愛人のモーティマー(Roger Mortimer)とともに、 国王に反旗を翻し、息子であるエドワード三世に王位を与えるが、彼らの専横ぶりに怒った エドワード三世は、彼らを追放して親政を実施するに至る。ヘンリー五世の場合は父王 ヘンリー四世がリチャード二世を廃位するが、エドワード二世の廃位には直接エドワード 三世も関わっているのである。このようにヘンリー五世とエドワード三世の王に至る道が それぞれ違うので、王権に対する思いも違うのは当然なことである。
  さらに両作品の大きな相違点は、ヘンリー五世とは異なり、エドワード三世には家臣 との接触があまりないことである。ヘンリー五世はアジンコートの戦いの前に、家臣 を“brother”と呼び、かなり親密な関係を保とうとしている。彼の有名な演説 “We few, we happy few, we band of brothers;/ For he to-day that sheds his blood with me/ Shall be my brother…” (IV.iii.60-62) は、彼が家臣との垣根を取り 払おうとする努力の表れである。アジンコートの戦いの後に、死者の数を計算するとき、 貴族は名前を呼んでいるが、平の兵士は数だけになろうが、(10) ヘンリー五世は家臣 とのつながりを大事にする王である。その裏には、彼の父ヘンリー四世が王権を手に 入れた経緯が常に絡んでいる。それに引き替え、エドワード三世は孤高の政治家なの かもしれない。『エドワード三世』の作者は、王と家臣という関係を捨象して、劇の中心 テーマだけを書いているが、エドワード三世には、ヘンリー五世に語りかけるウェールズ 出身のフルーエリン(Fluellen)のような兵士がいない。政治的には何も悩むことなく、 自分で何事も決めていく人物として描かれている。本稿の冒頭に言及したBradbrookは、 この劇が大きな劇場ではなく、個人の家で上演されたから、多くの兵士を登場させなかっ たと論じているが、(11) その事実は王自身の性格と作品の質にも関与しているであろう。 フランスでの戦いで黒太子が窮地に陥ったときに、援軍を差し向けずに、 エドワード三世は “We have more sons/ Than one to comfort our declining age.” (III.v.23-24)と平然と 言い放つのである。
  『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との相違点は、『エドワード三世』には黒太子の 死への瞑想が織り込まれているが、『ヘンリー五世』にはそれがないことである。間接的 には、『ヘンリー五世』の中にも死への思いはあるが、登場人物が口に出して話すことは ない。「死への瞑想」という面から考えれば、『エドワード三世』は『ハムレット』のほう へ内容的には通じているのかもしれない。しかし、黒太子が死を覚悟したときに話す言葉、



    I will not give a penny for a life,
    Nor half a halfpenny to shun grim death,
    Since for to live is but to seek to die,
    nd dying but beginning of new life.
    Let come the hour when He that rules it will,
    To live or die I hold indifferent. (IV.iv.157-162)
    「生命に1ペニーも払うことはしないし、
    おぞましい死を避けるためにさらに何もしない、
    何故なら、生きることは死を求めることで、
    死とは新しい生命の始まりだからだ。
    時を統べる神が望むその時間が来ればよい、
    生きようが死のうが、構わない。」



は当時の死に対する一般的な感想を語ったものである。ハムレットの死への思いは、父王の 亡霊から触発されて自然と湧き起こるものであるが(死への思いは『ハムレット』全編にあふ れている)、黒太子の死への思いは、死を前にした武人の感想であり決意である。ハムレット の死への思いは形而上的であり、黒太子の死の瞑想は、具体的かつ現実的なものである。
  これまで『エドワード三世』と『ヘンリー五世』の作品を比較・検討してきた。それは多 くの批評家が、両作品の共通性や類似性を指摘しているので、その論旨を再検証するため であった。結論としては、確かに両作品にはかなりの類似性が存在するが、仔細に検討し てみると、類似性より質的・表現的な差異が目立った。その事実からすぐに両作品は別の 作者とは決めつけることはできないし、反対に作品の構成やテーマの類似性から作者が同 じかどうかを論じることも難しい。何故なら、劇作家は構成においても言語使用において も、作品ごとに変化する可能性が大きいからである。そのような観点から、本稿の筆者は、 『エドワード三世』の作品としての質の高さと『ヘンリー五世』との類似性や差異の考察 から、この作品がシェイクスピアの作品である(その可能性が高い)という立場に立つ。別言 すれば、両作品の類似性ではなく、質的差異の存在がむしろ『エドワード三世』がシェイク スピアの作品であることを証明しているのではないかと考えている。それは、シェイクスピ アという作家は、扱うテーマが同じであっても、テーマに切り込んでいく手法が作品によって 異なるからである。したがって、『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との差異は、シェイ クスピアが『エドワード三世』の作者という論を否定するのではなく、むしろその論を肯定し ていると逆説的に考えられる。これまでの批評家たちは、『エドワード三世』とシェイクスピ アの他の作品との類似性を指摘して、『エドワード三世』はシェイクスピアの作品であると論 じてきたが、本稿では質的差異がむしろシェイクスピア説の理論的根拠と見なしているのである。 その質的差異は、シェイクスピアの作家としての成長を物語っているのであり、初期の作品である 『ヘンリー六世』と経験を積んだシェイクスピアが書いた『ヘンリー五世』を比較して見れば、 それは明らかになる。当然のことであるが、ある作品をシェイクスピアの作品であると100%断定 することはできない。しかしながら、状況証拠の積み重ねで、その可能性が高いことを指摘する ことはできる。次節では、「シェイクスピア作者説」のこれまでの批評を概観し、その後、本稿 のこれまでの考察(『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との比較検討)をもとに、「『エドワード 三世』はシェイクスピアが作者である可能性が高い」という理論的根拠として、6つの項目を挙げてみたい。



IV



  まず『エドワード三世』の作者についての批評動向を歴史的に概観しておこう。E. K. Chambersは1930年に出版したWilliam Shakespeare: A Study of Facts and Problemsの 第1巻で、“Its literary quality is higher than that of the bulk of the play, and it makes a comparatively free use, about 12 per cent., of feminine endings.” (12) と語り、ソールズベリー伯爵夫人の場面(その他に4幕4場)は、シェイクス ピアが書いたものであると認めているが、シェイクスピア作者単独説を採っていない。それ から30年後の1960年に、Kenneth Muirが、Shakespeare as Collaboratorの中で、『エドワード 三世』の中にはシェイクスピアの筆致に匹敵する部分もあるが、シェイクスピア単独の作品では ないと論じている。(13) その批評的傾向をM. C. Bradbrookも引き継いでいることになる。前述 したように、その後Richard Proudfootが1985年に『エドワード三世』のシェイクスピア単独説を 唱える。彼は作品の前半部分と後半部分は比喩的に呼応していることを主張の根拠として挙げている。 (14) さらに1987年に、Gary TaylorとStanley Wellsは、“…if we had attempted a thorough investigation of candidates for inclusion in the early dramatic canon, it would have begun with Edward III. ” (15)と語り、『エドワード三世』がシェイクスピアの作品である 可能性がかなり高いことを認めている。1991年には、M. W. A. Smithが『リチャード二世』よりも 『エドワード三世』のほうが、シェイクスピアの作品の可能性が強いと論じている。 (16) これは『リチャード二世』がシェイクスピアの作品と認定されているので、当然『エドワード三世』も シェイクスピアの作品である可能性が高いことを示しているが、このような批評の流れに押されて、 1997年出版の第2版『リバーサイド・シェイクピア』には、『エドワード三世』が作品集の中に入って いる。この事実は、『リバーサイド・シェイクスピア』の編者たちは、『エドワード三世』の作者は シェイクスピアであると、ほぼ認めていることの証拠となる。『リバーサイド・シェイクスピア』の 中の『エドワード三世』の解説をしているJ. J. M. Tobin (この全集の編者の一人でもある) は、シェイ クスピアは以前に存在していた作品を改作して『エドワード三世』を作ったと主張する。



"The time spent on this revision, however, was enough to create a play more interesting than almost any historical drama written by Shakespeare's contemporaries and short only of his own mature histories in brilliance. " (17)
「しかしながら、この改作に費やされた時間は、シェイクスピアの同時代の作家たちが書いた どんな歴史劇より面白い劇を作り出すのに十分であったが、シェイクスピア自身の円熟した 歴史劇を作るには短いものであった。」。



第1節でも触れた1998年のケンブリッジ版『エドワード三世』の編著者であるMelchioriは、 慎重を期してシェイクスピア単独説を取っていない。彼は “Edward III belongs to the same period and probably involves Shakespeare at least as collaborator.”と論じ、 『エドワード三世』の中に、他作家の手が入っていることを認めて、複数作者説を採って いるのである。(18)
  以上がこれまでの批評の概観であるが、最後に『エドワード三世』と『ヘンリー五世』 の類似点や相違点の考察を基礎にして、「シェイクスピア作者説」の理論的根拠を6つ あげておきたい。

1. エドワード三世は、シェイクスピア歴史劇(第1四部作、第2四部作および『ヘンリー八世』)の起点 とも言える人物
エドワード三世はリチャード二世からヘンリー八世までの歴史劇の始まりとも言うべき人物で、彼以降 のイングランド国王は、少なからず彼の治世に影響を受けている。例えば、フランスとの百年戦争は彼 が始めたものであり、バラ戦争の発端は、彼の子供が多かったためである。これほど歴史劇に関係する 人物を、シェイクスピアが作品で描かなかったとは考えにくい。



2. 作品全体の統一性
シェイクスピアの作者単独説を採らない批評家たちの理由は、『エドワード三世』が前半の恋愛のテーマと 後半の戦争というテーマで、作品が二分されているからであったが、Richard Proudfoot (1985年) の検証 で、作品には明確な統一性があることが判明した。 (19)



3. 『エドワード三世』が文学的に優れていること
『エドワード三世』は『ペリクリーズ』や『ヘンリー六世』のような作品より優れていると指摘する批評家 もいる。(20) Karl P. Wentersdorfは、『エドワード三世』の文体は『ヘンリー五世』よりはる かに劣っていると論じているが、 (21) 『エドワード三世』と『ヘンリー五世』の文体の違いは、創作年代 の違いにその原因があると考えられる。しかしながら、ソールズベリー伯爵夫人への求愛場面などは、シェイ クスピアの筆致を彷彿とさせるものである。



4. 他のシェイクスピア作品との照合性
『エドワード三世』はシェイクスピアの他の作品からの照合が多い。Brian Walshは“backward gaze” という視点から、“Henry IV, Part 1 looks back on Richard II, 2 Henry IV looks back on both, and Henry V looks back on all those plays…” (22)と論じて、第2四部作 における劇と劇との関 連性を強調している。確かに、第2四部作の劇と劇との間には、お互いの相互言及が されている。この 事実は、シェイクスピアが『ヘンリー四世』を描くときには、『ヘンリー五世』の構想 が頭の中にあった ことを示すものである。それゆえ『ヘンリー五世』は第2四部作の最後の作品としてきちん と収まっている という印象を受ける。『エドワード三世』には他の作品への言及はほとんどなく、独立した 作品だという 印象を読者に与える。しかし、『ヘンリー五世』の中には、エドワード三世への言及やこれま で考察した 表面的な類似性が多く見られる。そもそも『エドワード三世』の中に、次に続くバラ戦争 (『ヘンリー六世』 で詳しく描かれている)の原因があるし、またヘンリー五世のフランス遠征も、フランス 王位継承権問題の観点 から見れば、『エドワード三世』が淵源である。『エドワード三世』の前には何の 歴史劇も書いていないので、 シェイクスピアは他の劇に言及しようもないが、シェイクスピアの他の歴史劇 には、Brian Walshが提唱する 『エドワード三世』への “backward gaze”が存在する。



5. 人民の視点の欠如
Richard Helgersonは2003年の論文“Shakespeare and Contemporary Dramatists”の中で、 シェイクスピアの歴史劇と他の作家の歴史劇を比較して、次のように論じている。

"Shakespeare’s King John makes us think more than he makes us feel. But for all its uniqueness, King John resembles Shakespeare’s other history plays in focusing its attention and its dramatic energy on the getting, keeping, and losing of political power." (23)
「シェイクスピアの『ジョン王』は、我々に感じさせるよりは、考えさせるように仕向 けている。しかし、その作品のユニークさにも拘わらず、『ジョン王』は、政治的権力 を獲得し、維持し、喪失していくことに注意と劇的エネルギーを集中する点においては、 シェイクスピアの他の作品と似ている。

Helgersonは、シェイクスピアの歴史劇には、人民の視点が存在しないことを指摘しているが、 『エドワード三世』にも確かに人民の視点がなく、作者の興味はただ王権の盛衰(the getting, keeping, and losing of political power)のみである。この視点から考えれば、『エドワード 三世』は、シェイクスピアの歴史劇が持つ特質と非常によく似ている。Helgersonは王権と市民権 にも触れており、



“Where Shakespeare focuses his dramatic attention on what might be called the problematic of early modern kingship, his contemporaries are more interested in the problematic of subjecthood. Where, that is, Shakespeare is most concerned with the getting and keeping of power, the others ask rather how subjects are to weigh their duty to the king against other fundamental commitments, including the commitment to religious truth, to yeomanly good fellowship, to the public welfare, to home and marriage, to the city and its liberties." (24)
「シェイクスピアは劇的注目を近代初期の王権の問題に集中しているが、彼と同時代 の作家たちは、臣下の問題に興味を持っている。すなわち、シェイクスピアは権力の 獲得と維持に関心を持っているが、他の作家たちは、宗教の真理、自由民の良き仲間 意識、公的福利、家庭や結婚、町やその自由という他の基本的な関わりを背景にして、 臣下は王への義務をどのように計量していくかを尋ねているのである。」



と論じて、シェイクスピアの作品には、王権への興味が充満しているが、他の劇作家はむしろ 市民権とは何かという問題に関心があったと指摘している。『エドワード三世』には市民権という 視点はない。



6. 『ヘンリー五世』と『エドワード三世』が同じ歴史的誤謬を犯していること
Stanley WellsとGary Taylorが述べているように、『ヘンリー五世』は『エドワード三世』と 同じような歴史認識の過ちを犯している。これは『ヘンリー五世』の作者が、『エドワード三世』 の作者であったことを伺わせるものである。

"Shakespeare certainly, at the very best, knew the play, for his reference to King David of Scotland in Henry V (1.2.160-2/293-5) follows Edward III in a unique historical error." (25)
「確かに、シェイクスピアは少なくともその劇を知っていた。というのは、『ヘンリー五世』 (1幕2場160行から162行まで、また293行から295行までの箇所)の中のスコットランドのデイビッド王に対する 言及は、独自の歴史的過誤をしている『エドワード三世』に倣っているからである。」

もっとも、Kenneth Muirが「シェイクスピアが『エドワード三世』の芝居を見たり読んだりして、 それをまねにしたに過ぎない」 (26) と論じていることも忘れてはならない。
最後に、『エドワード三世』をシェイクスピアの作品と認めることができれば、第1四部作との 豊富な関連性も表れ、これからのシェイクスピア歴史劇研究に活気が出てくるであろうし、 『エドワード三世』が第1四部作の先駆けと確定することができれば、シェイクスピア歴史劇の 知のパラダイムが劇的に変化する可能性もある。それゆえ、この問題はさらに詳しく論じる必要 があると考えられる。



(注)

1. M. C. Bradbrook, The Living Monument―Shakespeare and the Theatre of his Time (Cambridge U. P., 1976), p. 230.
Bradbrookは同じ著書で、『エドワード三世』は"private production” (個人の家で上演される作品) (p. 231) であったことを明言している。

2. Richard Proudfoot, “The Reign of King Edward III (1596) and Shakespeare,” Proceeding of the British Academy, 71 (1985), p. 182.

3. 河合祥一郎訳『エドワード三世』(白水社、2004年)の169頁以降を参照のこと。なお本稿の筆者はすでに 『エドワード三世』の作者についての論文を書いている。「『エドワード三世』の作者について―歴史劇に おける三つの親子関係からの推測―」『言語科学』(九州大学大学院言語文化研究院言語研究会)46号、平成23年、 pp. 47-59を参照のこと。

4. Giorgio Melchiori (ed.), King Edward III (Cambridge U. P., 1990), pp. 39-40.

5. 『エドワード三世』がロンドンの書籍商組合登記簿(Stationers’ Register)に登録された のは、1595年12月1日であるから、この作品は少なくともそれ以前に書かれたことは 間違いない。従って、『エドワード三世』がシェイクスピアの作品であることを証 明したいのであれば、『エドワード三世』と同年か同じ頃に書かれたと推定される『へ ンリー六世』や『リチャード三世』というシェイクスピア初期の作品と比較したほうが より合理的であろう。しかしながら、本論文で『エドワード三世』と『ヘンリー五世』 を比較・検討する目的は、多くの批評家が認めているように、テーマが近いからであり、 もし『エドワード三世』が『ヘンリー五世』と同じように、作品の完成度が高ければ、 それだけシェイクスピアが作者である可能性が高いと言うことができる。もちろん、作 品の質だけで作者の判定はできないが、あまりにも質の低い作品をシェイクスピアが書 いたとは考えにくい。

6. Vernon F. Snow (ed.), Holinshed’s Chronicles: England, Scotland and Ireland, Vol. 2 (AMS Press, 1802), p. 605. Richard Proudfootもエドワード王と黒太子の描写は、FroissartよりもHolinshed に近いと指摘している。Richard Proudfoot, op. cit., p. 169を参照のこと。

7. 『ヘンリー五世』におけるサリカ法については、拙論 “The Salic Law in Henry V,” Shakespeare Studies, vol. 37 (The Shakespeare Society of Japan, 2000), pp. 45-61を参照のこと。
またNorman Rabkinは、“Rabbits, Ducks, and Henry V,” Shakespeare Quarterly Vol. 28 (George Washington University, 1977), p. 290の中で、次のように論じている。
“The Archbishop's speech to the King follows immediately on his announcement to the Bishop of Ely that he plans to propose the war as a means of alleviating a financial crisis in the Church.”
「王に対する大司教の話は、彼が教会の経済的危機を軽減するための方法として戦 争を提案するとイーリー司教に宣言した直後にされている。」
  ところで、『ヘンリー五世』のカンタベリー大司教はヘンリーのフランス王位継承権をエ ドワード三世の母親イザベラから来ることを明確にしない。Holinshedも無視しているが、 Edward Hallの歴史書と『ヘンリー五世の著名な勝利』(The Famous Victories of Henry V) は、はっきりとイザベラのことに触れている。

8. Kenneth Muir, Shakespeare as Collaborator (Methuen, 1960), pp. 35-36は、両場面に ついて、次のようなコメントをしている。
"It resembles in some ways the scene in 3 Henry VI in which Edward IV’s advances to Lady Grey are repelled so that he is constrained to offer marriage, but it is altogether more serious and mature in its treatment of the theme."
「その場面 (エドワード三世が伯爵夫人に言い寄る場面) は、『ヘンリー六世』第3部 にある場面と似ている。そこでは、エドワード四世がグレイ夫人に求愛するが拒絶さ れ、どうしても求婚せざるを得なくなる。しかし、テーマの取り扱いに関しては、エ ドワード三世の場面のほうが、もっとまじめで成熟している。」
面白いことに、BradbrookはMuirとは正反対の評価をしている。M. C. Bradbrook, op. cit., p. 231を参照。

9. J. L. Simmonsは、この結婚について、次のようなコメントをしている。
"Similarly, at the end of Shakespeare’s second tetralogy, the anticipated nuptials between Henry V and Catherine of France create the happy generic plenitude associated with both comic and epic closure; but, as throughout Henry V, the ideal is resisted in the process of its representation: the proposed union is clouded by the Epilogue's reminder about the imminent death of the heroic king and the certain failure of his and Katherine’s transformative child…. (pp. 441-442) "
「同じように、シェイクスピアの第2四部作の最後に、ヘンリー五世とフランスのキャサリンと の待望の結婚が、喜劇と史劇の最後に関連する幸せな全体の豊穣を作り出している。しかし、 『ヘンリー五世』の至る所にあるように、理想はその実現の過程で阻害され、提案されている イングランドとフランスの統合は、英雄的な王がすぐ死ぬということやヘンリー五世とキャサリ ンの変化させる力を持つ子供の失敗というエピローグの注意で、危ういものとなってくる。」
J. L. Simmons, “Masculine Negotiations in Shakespeare's History Plays: Hal, Hotspur, and the Foolish Mortimer,” Shakespeare Quarterly, Vol. 44 (George Washington University, 1993).

10. Phyllis Rackin, “English History Plays,” in Stanley Wells and Lena Cowen Orlin (eds.), An Oxford Guide: Shakespeare (O. U. P., 2003), p. 209.

11. M. C. Bradbrook, op. cit., p. 231.

12. E. K. Chambers, William Shakespeare, Vol. 1 (Oxford U. P., 1930), p. 516. また David Kathmanは18世紀から『エドワード三世』のシェイクスピア説は存在していた と指摘している。
David Kathman, “The Question of Authorship,” in Stanley Wells and Lena Cowen Orlin (eds.), An Oxford Guide: Shakespeare (O. U. P., 2003), p. 630を参 照のこと。
なおE. M. W. Tillyardは、E. K. Chambersの著書出版から14年後の1944年に『エドワード三世』の 作者を次のような人物であると推測している。
"We may guess that the author was an intellectual, probably young, a university man, in the Southampton circle, intimate with Shakespeare and deeply under his influence, writing in his idiom."
「(『エドワード三世』の) 作者は、サザンプトン・サークルに属する、知的で、たぶん若い男で あると推測する。彼はシェイクスピアと親しく、彼の言葉で芝居を書くほど、深く影響を受けている。」
E. M. W. Tillyard, Shakespeare’s History Plays (Penguin Books, 1944), p. 128.

13. Kenneth Muir, op. cit., pp. 10-55.

14. Richard Proudfoot, op. cit., p. 178.

15. Stanley Wells and Gary Taylor, William Shakespeare: A Textual Companion (Oxford U. P., 1987), p. 137.

16. M. W. A. Smith, “The Authorship of The Raigne of King Edward the Third,” in Literary and Linguistic Computing, Vol. 6, No. 3 (Oxford University Press, 1991), p. 171.

17. G. Blakemore and J. J. M. Tobin (eds.), op. cit., p. 1734.

18. George Melchiori (ed.), op. cit., p. 14.

19. Richard Proudfoot, op. cit., p. 168.

20. Stanley Wells と Gary Taylorは、William Shakespeare: A Textual Companion (Oxford U. P., 1987), p. 137で、Kenneth Muirの説を引いて、次のように論じている。
"Muir's comparison (1960) of the Countess scenes with Edward IV's wooing of Lady Elizabeth Gray (in Duke of York) also suggests that Edward III is more mature, and therefore later, achievement."
「1960年にミュアが伯爵夫人の場面とヨーク侯爵としてのエドワード四世のエリザ ベス・グレイ夫人への求愛場面を比較したことも、『エドワード四世』のほうがより 成熟しており、それゆえ、後期の作品であることを示している。」

21. Karl P. Wentersdorf, “The Date of Edward III,” Shakespeare Quarterly , Vol. 16 (George Washington University, 1965), p. 227. なおWentersdorfは、『エドワード三 世』と『ヘンリー六世』1部の類似性を指摘している(p. 231)。

22. Brian Walsh, Shakespeare, the Queen’s Men, and the Elizabethan Performance of History (Cambridge U. P., 2009), p. 178.

23. Richard Helgerson, “Shakespeare and Contemporary Dramatists,” in Richard Dutton and Jean E. Howard (eds.), A Companion to Shakespeare’s Works: The Histories (Blackwell Publishing Ltd., 2003), p. 31.

24. Richard Helgerson, op. cit., p. 43.

25. Stanley Wells and Gary Taylor, op. cit., p. 136.

26. Kenneth Muir, op. cit., p. 26.




第10章

『エドワード三世』の作者について

―歴史劇における三つの親子関係からの推測―




  シェイクスピアの歴史劇には、様々な親子関係が存在する。『ヘンリー四世』の王と 息子ハリー(フォルスタッフはハルと呼んでいるが、ヘンリー四世はハリーと呼んでい るので、本論文でもハリーと呼ぶことにする)、ノーサンバランド伯とホットスパー、 『ヘンリー六世第1部』のトールボット親子、ヘンリー六世と王子、『エドワード三世』 のエドワード三世と王子黒太子などである。(1) 本論文では、トールボット 親子、ヘンリー四世とハリー、エドワード三世とその息子黒太子という、三つの異なる 親子関係の描写研究を通して、『エドワード三世』がシェイクスピアの作品であること が証明できるかどうかを論じたい。(2)
  歴史劇以外のジャンルの作品では、親子関係の描写は舞台上で詳細に描写されることはない。 例えば、悲劇に分類される『ハムレット』では、先王である父親は亡霊として登場し、ハム レットの行為に関与するのは、彼が母親ガートルードを苦しめている時だけである(3幕4場)。 ロマンス劇の『シンベリン』では、シンベリンの息子たちであるグイディーリアスとアーヴィ ラガスは、幼い時に誘拐されウェールズで育てられる。彼らの親の役割は、他の登場人物(べラー リアス、変名してモーガンと名乗る)が果たすことになる。同じくロマンス劇の『テンペスト』 では、親と娘は魔法使いと清純な娘で、その間に教えや伝統の授受は見受けられない。むしろ 父親であるプロスペローは、娘ミランダが幼いころは、彼女(と本人)の出生を隠している。また ナポリ王のアロンゾーとその息子ファーディナンドの親子関係も、それほど濃密に描かれていない。 歴史劇の親子関係だけは、他のジャンルの劇より、舞台上で詳しく描かれている。それは家系の継続 (王であれば王権の継承)が、特に重要だからである。
  『ヘンリー六世』第1部に登場するトールボット親子は、フランスの戦場で二人とも死ぬことに なるが、お互いに相手が生き延びることだけを願う。戦況が厳しい状況で、父親は息子に「こ の戦場を逃れて、私が戦死したら復讐をしてほしい」(4幕5場)と諭すが、息子のジョンは武人 としての名誉を重んじて、戦場から逃亡しようとせず、むしろ将官として高名な父親を生かそ うとする。お互いを思う気持ちは純粋なもので、おそらくこの劇を見たエリザベス朝時代の多 くの観客の涙を誘ったことであろう。トールボット親子の場合は、息子が先に死んで、親がその 後を追うのであるが、武人としてのトールボット親子にとって、「如何に死ぬか」が重要な問題 となってくる。卑怯な死に方さえしなければ、死は甘受される。この親子は、死についての感想 はほとんど述べないが、トールボットは息子ジョンの死体を抱いて、次のような感動的な台詞を 語る。



    Thou antic death, which laugh’st us here to scorn,
    Anon from thy insulting tyranny,
    Coupled in bonds of perpetuity,
    Two Talbots, winged, through the lither sky
    In thy despite shall scape mortality. (IV.vii.18-22)
    「道化師(3)の死に神め、我々を軽蔑して笑っているな。
    すぐにお前の無礼な暴虐から逃れて
    永遠の絆に結ばれて、トールボット親子は、
    羽根を得て、従順な天空を通り
    お前をものともせず、不死の世界に行くであろう。」



この台詞には、武人らしく、死についての瞑想はなく、死に対する挑戦のみがある。死そのもの についての思いは、トールボットらしくないと判断して、シェイクスピアは表現しなかったので あろう。「潔さ」という価値判断だけが、トールボット親子には重要であった。ヘンリー四世の 親子関係に存在するような政治的駆け引き、あるいはエドワード三世の息子黒太子に対する厳しい 試練などには、まったく言及されていない描き方が、トールボット親子の描写では特徴的なこと である。トールボットの息子ジョンの死骸を見て、バーガンディの語る台詞「間違いなく立派な 武将になったであろう」(Doubtless he would have made a noble knight.―IV.vii.44) は、オル レアンの私生児(デュノワ伯爵ジャン)とは違うバーガンディの品性と共に、ジョンの騎士としての 価値をも語っている。



II



  『ヘンリー四世』に登場するヘンリー四世と王子ハリーの親子関係は、イングランド王とその 後継者であるので、より複雑な感情が混ざり合っている。第I節で論じたように、トールボット 親子は武人であるから、政治的な配慮をすることはないが、ヘンリー四世親子には、王権とい う重圧があるため、その関係はどことなくぎこちなく、心から打ち解けることはあまりない。 (4) 劇冒頭で、ヘンリー四世はホットスパーのような息子がほしいと願い、ホット スパーの父親であるノーサンバランド伯をうらやましいと思っている。何故なら、武人の鏡とし て世間で評判のホットスパーのほうが、放蕩息子のハリーよりも王位に相応しいと、彼は思って いるからである。



     Yea, there thou mak’st me sad, and mak’st me sin
    In envy that my Lord Northumberland
    Should be the father to so blest a son―
    A son who is the theme of honour’s tongue,
    Amongst a grove the very straightest plant,
    Who is sweet Fortune’s minion and her pride,
    Whilst I, by looking on the praise of him,
    See riot and dishonour stain the brow
    Of my young Harry. (I.i.78-86)
    「実に、そこで私は憂鬱になり、嫉妬の罪を犯す、
    ノーサバランド伯がホットスパーという
    恵まれた息子の父親であることに。
    名誉ある人々の口の端にのぼり、
    さながら、木立の中で、まっすぐに伸びた木、
    芳しい運命の寵児であり誇りの息子。
    それにひきかえ、彼の称賛を見ながら、
    放埓と不名誉が、わが息子ハリーの
    額を汚しているのを、私は見ている。」



これはヘンリー四世が持っている王子ハリーに対する評価であるが、王子の片面しか見ていない ことがすぐ明らかになる。観客は激しやすく女性蔑視でもあるホットスパーを、王位後継者として 相応しくないことを見抜いている。『ヘンリー四世』第1部1幕3場でホットスパーは、王の言葉に 激昂して、父ノーサンバランドや伯父ウスターが宥めても、容易にその怒りを収めることができな い。また、彼の妻であるパーシー夫人に対する態度は、男尊女卑をそのまま絵に書いたようなもの である(二幕三場)。さらに、あまりにも名誉ばかり追求するので、フォルスタッフから「名誉とは 何だ、言葉だ」(What is honour? A word.―V.i.132)と間接的に非難される。フォルスタッフのこ の台詞は、名誉ばかりを重視するホットスパーに向けられた嘲りとも考えられる。彼が王位に就く には、もっと柔軟で用意周到な思考が必要であろう。
  一方、ハリーは王位に相応しい人物として、シェイクスピアは描いている。劇が始まると 早々に、シェイクスピアは伏線を敷いて、ハリーに自分の将来像を次のように観客に語ら せる。



       So when this loose behavior I throw off
    And pay the debt I never promised,
    By how much better than my word I am,
    By so much shall I falsify men's hopes,
    And like bright metal on a sullen ground,
    My reformation, glitt’ring o'er my fault,
    Shall show more goodly and attract more eyes
    Than that which hath no foil to set it off.
    I’ll so offend, to make offence a skill,
    Redeeming time when men think least I will. (I.ii.208-217)
    「だから、この放埓な行いをやめ、
    返すと全く約束していない借金を払えば、
    私はどれほど言葉以上の好漢となり、
    どれほど人々の期待を良い意味で裏切るであろう。
     暗い地の上にある輝く王冠のように、
    罪の上に輝く私の改心は、
    より立派に、より多くの人々の目を引くであろう、
    引き立たせる「引き立て役」がないよりは。
    戦略として、罪を犯していこう。
    まったく期待されないときに名誉を挽回しよう。」



王子ハリーは、イングランドの国民がもっとも期待しないときに、放蕩息子の衣を脱ぎ捨てる と宣言する。王子は仲間意識を政治的な目的に利用しているとRichard Helgersonも認めて、 次のように論じている。



"Shakespeare’s Prince Hal also claps hands and at least pretends to be friends with Falstaff and his thieving crew, but for Hal, unlike his counterpart in The Famous Victories, this is always a pretence. He uses the appearance of good fellowship for his own politic ends." (5)
「シェイクスピアのハル王子も拍手をして、フォルスタッフや泥棒仲間と友達である振りを少 なくともする。しかし『有名な勝利』の中の同じ人物とは違って、ハルにとって、これはいつも 「みせかけ」である。彼は政治的目的のために友情という「ふり」を利用する。」



リチャード二世を廃位して(1399年)、王位についたヘンリー四世は、王権の維持や息子ハリーの ために、苦労するように運命づけられているのかもしれない。リチャード二世は、ポンティフラク ト城に送られ、原因不明の死を遂げているが、ヘンリー四世の示唆によるものであることは想像に 難くないであろう。
  ヘンリー四世の親子関係は、『ヘンリー四世』第2部で、王が死ぬときにもっとも濃厚に描写 される。ハリーはヘンリー四世が死んだと思って王冠を手にするが、そのような軽率な行為を する王子に向かって、ヘンリー四世は、父親として、また王として、最期の説教をする。それ は国内の政治的安定のために、外征を実施することをハリーに勧めた内容である。



    … So thou the garland wear’st successively.
    Yet though thou stand’st more sure than I could do,
    Thou art not firm enough, since griefs are green,
    And all [my] friends, which thou must make thy friends,
    Have but their stings and teeth newly ta’en out;
    By whose fell working I was first advanc’d,
    And by whose power I well might lodge a fear
    To be again displaced; which to avoid,
    I cut them off, and had a purpose now
    To lead out many to the Holy Land,
    Lest rest and lying still might make them look
    Too near unto my state. Therefore, my Harry,
    Be it thy course to busy giddy minds
    With foreign quarrels, that action, hence borne out,
    May waste the memory of the former days. (IV.ii.201-215)
    「だからお前は正統な王として王冠をかぶる。
    しかし、私より強固な基盤に立つことになるが、
    十分ではない、悲しみがまだ癒えていないからだ。
    お前も味方につける必要がある私のすべての味方は、
    毒牙や歯は抜かれたばかりだ。
    彼らの獰猛な働きで、私ははじめ王位を得た、
    そして、同じ力で、もう一度廃位されるという
    怖れを抱いたのだ。それを避けるために、
    臣下の首をはね、時には聖地へ多くの臣下を
    引き連れていこうという計画を練った、
    安息と静かにすることが、彼らに
    私の地位をおびやかすことがないように。ハリーよ、
    落ち着きのない心を外征でいっぱいにすることを
    これからの方針とするがよい。その行為は、異国でされるので、
    昔の記憶は消滅するかもしれない。」



イングランド国内で、不平不満を抱いている貴族・豪族の目を内政から逸らすには、外征 が一番よいと、死んでいく父親ヘンリー四世は、息子のハリーに忠告する。第III節で論じ るエドワード三世が始めた100年戦争(1337年~1453年)を、もう一度蒸し返すことを勧めて いるのである。ヘンリー五世となったハリー王子は、父親の勧めを忠実に実行して、フラ ンスの王位継承権を要求する。その経緯は、シェイクスピアの作品『ヘンリー五世』の中 に詳しく描かれている。
  ヘンリー四世の親子関係には、第I節で論じたトールボット親子にはない政治的駆け引 きの視点が導入されている。また息子ハリーの王としての資質を獲得する過程が描写さ れており(『エドワード三世』も王エドワードが真の王としての資質を獲得する物語と 解釈することができる)、ヘンリー四世の世界を様々な角度から描くことに成功している。 老練な作家としてのシェイクスピアの視点が、『ヘンリー四世』の背後には存在する。 因みに、『ヘンリー四世』は第2四部作、『ヘンリー六世』は第1四部作に属しているので、 それぞれ別の時期に創作されたものである。テーマの統一性、語句の選択の適切性、人物 描写の描き方等に、大きな差があることは否めない。



III



  『エドワード三世』で描かれる親子関係は、第I節と第II節で論じた二組の親子とは趣を 異にする。エドワード三世は、フランスとの戦いの中で、王子の技量を試すような行動 をとる。ライオンが千尋の谷に子供を落として、その度量を試しているかのようである。 三幕五場で王子が敵に取り囲まれ窮地に立たされたとき、オードリーが助けに行こうとす ると、エドワード三世は「オードリー、落ち着け。一兵たりとも、王子を助けに行っては ならぬ、行けば死刑だ」(Audley, content. I will not have a man, / On pain of death, sent forth to succor him.―III.iv.45-46)と命令し、王子を救出に行こうとしない。黒太 子を助けに行かない理由を、エドワード三世は次のように説明する。



    Let Edward be deliver’d by our hands,
    And still in danger he’ll expect the like;
    But if himself, himself redeem from thence,
    He will have vanquish’d, cheerful, death and fear,
    And ever after dread their force no more
    Than if they were but babes or captive slaves. (III.v.48-53)
    「息子エドワードを我々の手で救えば、 
    これからも危険に陥ると、同じことを期待するだろう。
    だが、もし自分で自分を窮地から救えば、
    気持ちよく、死と恐怖を克服するであろう。
    そして、この後、敵を赤ん坊か奴隷のように思い、
    恐れることはないであろう。」



  エドワード三世の王としての立場は、黒太子が将来のイングランド王として相応しい かどうか、また現在の状況がどのように息子の将来に影響を与えるか、を冷静に判断 しようとしている。決して、自己の感情に溺れることはない。
  第I節で論じたトールボット親子の場合、二人とも死んでいく武人であるから、将来 のことをあまり考えないし、また考える余裕もない。ただお互いの身を心配しあい、 死への瞑想・思いも吐露することはなかった。第II節で論じた『ヘンリー四世』2部 作では、リチャード二世殺害のために、イングランド国内の政冶が不安定になった経 験から、父親であるヘンリー四世は、貴族たちの不満を逸らすために、ハリーにフラ ンスへの遠征を勧める。ヘンリー四世は、王子が将来不安なく政治を行うための技術 を伝授していると言える。彼自身は、聖地への憧れが強く(これは半ば本気、半ば政治 的な配慮であろう)、死への不安が常に付きまとっていた。「だが、その部屋に運んで くれ、私はそこで死のう。そのエルサレムという部屋で、ハリーは死ぬのだ。」(But bear me to that chamber, there I’ll die: / In that Jerusalem shall Harry die. ―IV.ii.366-367)と語り、彼は聖地ではなく、エルサレムと名付けられた部屋で死んで いく。数々の内紛のために、希望する十字軍による聖地遠征ができず、エルサレムと名 付けられた部屋で最後を迎えるヘンリー四世に、観客は大きな同情を抱いたことであろ う。上記のヘンリー四世やトールボットとは異なって、エドワード三世は、王として冷 静に、何の感情も交えずに(もちろん親としての愛情は持っていることは当然であるが)、 王子を観察している点で、王位に就いている人物として相応しいと言える。三つの親子 関係はすべて環境や政治的背景が違っているので、一概に言えないが、エドワード三世 の親子が、もっとも王家(あるいは身分の高い家系)に相応しい印象を観客に与える。
  さらに王子である黒太子は、死への決意と思いを披歴する。『ハムレット』の主人公は作 品中で死の瞑想をしているが、(6) 歴史劇である『エドワード三世』の中にも、 死の瞑想が描かれている。『ヘンリー五世』の中で、ハリー(この時はヘンリー五世)は、 アジンコートの戦いの前に、死を強く意識して父親の罪(正統な王であるリチャード二世 廃位)を赦すように神に祈るが、(7) 黒太子ほど死への覚悟を語ることはない。 黒太子は死への思いを、次のように語る。



    I will not give a penny for a life,
    Nor half a halfpenny to shun grim death,
    Since for to live is but to seek to die,
    And dying but beginning of new life.
    Let come the hour when He that rules it will,
    To live or die I hold indifferent. (IV.iv.157-162)
    「生命に1ペニーも払うことはしないし、
    おぞましい死を避けるためにさらに何もしない、
    何故なら、生きることは死を求めることで、
    死とは新しい生命の始まりだからだ。
    時を統べる神が望むその時間が来ればよい、
    生きようが死のうが、構わない。」



ハムレットの死への覚悟を示すような台詞を黒太子は語るが、この場面はシェイクスピアの 筆致を彷彿させるものがある。エドワード三世と黒太子との間に存在する緊張関係を、これ ほど明確に描写する技能は、作家としての能力を十分に表現していると評価することができる。 このことからすぐに、シェイクスピアが『エドワード三世』の作者とは断定できないが、その 可能性はかなり高いと断じざるを得ない。



IV



  当然、劇中の親子関係は、日常生活の親子関係とは異なっている。前者の親子関係がはる かに緊張を伴っていることは当然である。トールボット親子は、緊張が極度に高まった戦 場で、お互いの気持ちをさらけ出す。ヘンリー四世とハリーは、王権をめぐって内面的な 争いを繰り広げる。王が死ぬ前に王冠を奪うハリーの行動は、王権の危険性・危うさを表 現している。エドワード三世も息子の勇気を戦場で試している。このような親子関係は、 日常生活では見られるものではない。緊張する状況で展開される親子関係は、正直な気持 ちを表現することが多いことは、人間の日常的経験として納得できる。その緊張関係とい う点では、エドワード三世親子のそれがもっとも強くて直線的であると思われる。
  第III節で論じたように、上記三つの親子関係のうち、エドワード三世の親子関係こそ、 王としての親の態度に相応しい。王子は将来王位を継ぐ人間であるから、普通の資質を 持った人物では王権執行が円滑にできないので、厳しい政治状況の中でも、落ち着いた 行動が取れる人物こそ、王位継承者には適任である。黒太子はエドワード三世の課した 試験・試練を、見事通過したことになる。その親子の緊張関係は、ヘンリー四世と息子 ハリーの親子関係よりも強烈であり、しかもトールボット親子のように、戦場における 厳しさも表現されている。エドワード三世親子の描写は、『ヘンリー四世』や『ヘンリー 六世』で描かれる世界と勝るとも劣らない。
  最近では、『エドワード三世』は、ほとんどシェイクスピアの作品であると考えられている。 その事情を反映して、『エドワード三世』は、1997年出版の『リバーサイド・シェイクスピ ア全集第二版』(Houghton Mifflin出版)の中に所収されているし、1998年にはケンブリッジ・ シェイクスピアの一冊として、『エドワード三世』が出版されている(注はGiorgio Melchiori)。 これら二つの出版物から、すぐにこの作品をシェイクスピアの作品と考えるのは、早計かもしれ ないが、上記三つの親子関係の描写を並べて考えてみると、『エドワード三世』の親子関係が、 親子の心理的争い、王子への試験、死への瞑想などを含んでおり、より重層的な構造となってい るので、シェイクスピアの作品と認めることは、かなり可能性があると思われる。 (8)
  ただ一つ、シェイクスピアが『エドワード三世』の作者ではない理由として挙げられる理由は、 この作品に存在する「明快さ」である。『ヘンリー六世』3部作には、入り組んだあらすじと 荒削りな人物描写がある。この作品には、シェイクスピア単独説ではなく、合作説が常に付き まとっているが、百年戦争の複雑な経緯を上手く表現する技量は、シェイクスピアの筆力を明 らかに感じさせる。『ヘンリー四世』2部作では、フォルスタッフという怪人を登場させ、作品 のテーマに複雑さを与えている。『ヘンリー五世』では、アジンコートの戦いの前に、ヘンリー 五世(前のハリー王子)が王権についての複雑な思いを語り、明快な答えを出していない。読者や 観客は、理解しがたい混乱する世界に放り込まれ、その解決は観客・読者に任される。『エドワ ード三世』には、そのような晦渋性がないという事実が、他の三作と決定的に違うところである。 本論文では、三つの親子関係を通して、『エドワード三世』の作品の質を考え、この作品がシェ イクスピアによって書かれた可能性が高いことを証明してきた。最後に「明快さ」の存在が問題 として残るが、これは河合祥一郎氏の「印象批評によって反論しているにすぎないからだ」とい う非難に当てはまるであろう。(9) シェイクスピア批評の歴史では、「印象批評ほど、 当てにならないものはない」ということが定説になっているからである。しかしながら、本論文 では歴史劇における三つの親子の描写を通して、『エドワード三世』がシェイクスピアの作品に 近いという結論を導いたが、さらなる研究が必要であることを表明して、この論文を終わること にしたい。



(注)

1. 河合祥一郎氏によれば、『エドワード三世』はシェイクスピアの作品であると、ほとんど認め られているようである。河合祥一郎訳『エドワード三世』(白水社、2004年)、169頁以降を参照の こと。本章では、歴史劇に描かれる三つの親子関係に焦点を当てて、この作品がシェイクスピアの 作品かどうかを、検証することが目的である。しかしながら、外的証拠ではなく、内的証拠で、あ る作品をある作家のものであると証明することはかなり難しい。本章でも100パーセントの可能性を 提示することは困難で、若干の可能性を提示することができるだけである。

2. 父と子の関係は文化的構築物であると、すでにL. A. Montroseが指摘している。
"Although biological maternity was readily apparent, biological paternity was a cultural construct for which ocular proof was unattainable. More specifically, the evidence for unique biological paternity, for the physical link between a patriarchal man and child, has always been exiguous."
「生物学的な母親性はすぐに明らかであるが、生物学的な父親性は文化的構築物であり、その視覚 上の証拠は得られなかった。もっと具体的に言えば、家父長制の父と子の肉体的繋がりにとって、 独自の生物学的父親性の証拠はいつも乏しかった。」
Louis Adrian Montrose, “Shaping Fantasies: Figurations of Gender and Power in Elizabethan Culture”, in Stephen Greenblatt (ed.), Representing the English Renaissance (California U.P., 1988), pp. 42-43.

3. anticを「道化師」と訳したのは、Edward Burns (ed.), King Henry VI Part 1 (The Arden Shakespeare, 2000)の注を参考にしたからである。因みに、松岡和子氏は、この 部分を「無様な死に神め」と訳している。
松岡和子訳『ヘンリー六世―全三部』(筑摩書房、2009 年)を参照のこと。

4. 王子は王権を奪う存在であることはDavid M. Bergeronも認めている。
"Presumably James understood the paradox of this royal child whose ultimate function was to replace his; …. "
「多分、ジェイムズは、この王子のパラドックス(王子の究極的な機能は自分の王位を 奪うこと)を理解していた。」
David M. Bergeron, Royal Family, Royal Lovers—King James of England and Scotland (Missouri U. P., 1991), p. 93.

5. Richard Helgerson, “Shakespeare and Contemporary Dramatists,” in Richard Dutton and Jean E. Howard (eds.), A Companion to Shakespeare's Works: The Histories (Blackwell Publishing Ltd., 2003), p. 33.
「シェイクスピアのハル王子も拍手をして、少なくともフォルスタッフや彼の泥棒仲間と 友達のふりをする。しかし、『著名な勝利』に登場するヘンリー王子とは違って、ハルに とってこれはいつも見せ掛けである。ハルは己の政治目的のために良き仲間というふりを 利用する。」

6. ハムレットは次のような死の瞑想を行っている。

            To die, to sleep―
    To sleep, perchance to dream―ay, there’s the rub,
    For in that sleep of death what dreams may come,
    When we have shuffled off this mortal coil,
    Must give us pause; there’s the respect
    That make calamity of so long life: …. (Hamlet, III.i.63-68)
    「死ぬことは眠ることだ、
    眠れば、たぶん夢を見る、そこが問題だ、
    この世を脱ぎ捨てたとき、
    死の眠りで、どのような夢を見るか、
    それが死への希求に水をさす、人に長い人生の
    苦痛を耐えさせるのは、その点だ。」

7. ヘンリー五世は、アジンコートの戦い前夜に、父の犯した罪(リチャード二世を廃位し て王位に就いたこと)を忘れてくれるように、神に祈る。

             Not to-day, O Lord,
    O, not to-day, think not upon the fault
    My father made in compassing the crown!
    I Richard II’s body have interred new,
    And on it have bestowed more contrite tears,
    Than from it issued forced drops of blood. (Henry V, IV.i.292-297)
    「神よ、今日だけは
    父が王冠を得る際に犯した罪を、
    今日だけは考えないで下さい。
    私は、リチャード二世の遺骸を埋葬し直し
    その上に、身体から無理やり流した血以上に
    後悔の涙を注ぎました。」

8. 『エドワード三世』が恋の物語と戦争の話に分割されるので、一人の作家の手になる ものではないと結論づけられているが、王エドワードが、

    Our God be praised! ― Now, John of France, I hope
    Thou knowest King Edward for no wantonness,
    No love-sick cockney, nor his soldiers jades, ―
    But which way is the fearful king escap’d? (III.iv.112-125)
    神は讃えるべきかな。さて、フランス王ジョンよ、私は願う、
    お前が、エドワード王が気まぐれでもなく、恋わずらいの
    軟弱男でもなく、彼の兵士がやせ馬でもないと知っている、と。
    しかし、臆病な王は、どちらに逃げたのだ。」

と語る部分は、前半の恋と後半の戦争の話を結びつけているとも考えられる。何故なら 、“love-sick cockney”という表現は、前半のエドワード王がソールズベリー伯爵夫人 に恋をしている状況に言及している可能性があるからである。もしこの表現は一般的な エドワードを表現していると考えれば、前半と後半とを結びつけるキー・ワードにはなり 得ないことは明らかである。残念なことに、筆者はどちらとも決することはできないと考 えているが、『エドワード三世』の注釈者であるGiorgio Melchioriは、“with a further allusion to the Countess of Salisbury episode”(p.133)と注をして、前半のエドワード 三世のことを示唆していると指摘している。Giorgio Melchiori (ed.), King Edward III (Cambridge U. P., 1998).
  なお、『エドワード三世』と『ヘンリー五世』との類似点は多い。両作品の類似点と相 違点を点検して、さらに深く『エドワード三世』の作品の質を探り、この作品がシェイ クスピアのものかどうか判断することは興味深いテーマである。このテーマは本書の第 八章で論じている。

9. 河合祥一郎訳『エドワード三世』179頁を参照のこと。
Jonathan Hopeは、助動詞doや関係代名詞を分析して、『エドワード三世』がシェイクスピアの 作品であることを証明しようとしているが、面白い試みであると思う。特に面白い点は、「助 動詞doをシェイクスピアよりフレッチャーのほうが規則的に使用している。それはフレッチャ ーがシェイクスピアより若くて、階級的にも上位であるし、教育も高いし、シェイクスピアよ りも都会に住んでいたからである」と結論づけている個所である。さらに詳しく説明は、Jonathan Hope, The Authorship of Shakespeare’s Plays: A Socio-linguistic Study (Cambridge, U. P., 1994), pp. 11-12を参照のこと。
またコンピュータと統計の技法を駆使して、作品の作者を割り出す手法を用いているM. W. A. Smithは、『エドワード三世』について、次のような結論を導き出している。
"From the results obtained in this paper, stylometric evidence that Edward III is Shakespearian in its entirety is undoubtedly stronger than the equivalent evidence for the authentic Richard II. Thus, if Edward III is accepted as Shakespearian, a further inference is that all of the play dates from about the time of 2 Henry VI and Richard III, that is, around 1590, rather than closer to the year of its first printing."
「この論文で得た結論から、『エドワード三世』はすべてシェイクスピアの作品であるという統計的文体分析の証拠は、シェイクスピアの作品と認められている『リチャード二世』の同じような証拠より、疑いもなく強い。かくして、『エドワード三世』がシェイクスピアの作品と受け入れられれば、その劇の成立年は、最初の出版の時期(1594年)に近いと言うよりは、むしろ『ヘンリー六世第二部』と『リチャード三世』が書かれた頃、すなわち、1590年ころの作品であると、さらに推察される。」
M. W. A. Smith, “The Authorship of Raigne of King Edward the Third, in Literary and Linguistic Computing, Vol. 6, No. 3 (Oxford University Press, 1991), p. 171.



参考論文
The Salic Law in Henry V



1


  It is widely known that there are two major sources for Shakespeare's Henry V (1599): Raphael Holinshed's Chronicles of England, Scotland and Ireland (1577; revised and enlarged after its author's death in 1587) and an anonymous play, The Famous Victories of Henry the Fifth (1598). When comparing Holinshed’s Chronicles with the play, it is immediately noticeable that there are marked disparities between their descriptions of Canterbury's speech on Henry V's right to the French throne. The Famous Victories of Henry the Fifth describes the king asking Canterbury “Now, my good Lord Archbishop of Canterbury, what say you to our embassage into France?”(IX.51—2), (1) immediately after he dissolves his friendship with his old friends, Oldcastle, Ned, and Tom. Canterbury replies to Henry’s question and asserts that the king's “right to the French crown of France came by your great-grandmother, Isabel, wife to King Edward the third, and sister to Charles, the French King”(IX.53—5). It is very important to notice that he does not mention the Salic law at all in this play. The matter of the transmission of a claim to the French crown through women seems to have little significance. Namely, it is an undeniable fact to Canterbury in the play that Henry naturally has a right to the crown of France. But when we glance over the depiction of Canterbury's speech on the Salic law in Holinshed’s Chronicles, the archbishop minutely tells the king how unreasonable and groundless the law is:



Herein did he much inueie against the surmised and false fained law Salike, which the Frenchmen alledge euer against the kings of England in barre of their iust title to the crowne of France. (Vol.III, p.65) (2)



From a comparison between Holinshed's Chronicles and The Famous Victories of Henry the Fifth, we realize that Shakespeare almost completely follows the former version of Canterbury's speech on the Salic law.
  We should heed the fact, however, that Shakespeare goes to all the trouble of putting the scene into Henry V of Canterbury and Ely discussing “that self bill”(I.i.1) (3) which is to impose heavy tax on the religious world, and to the abrupt transformation of Henry's character. It is true that Ned refers to Henry's sudden change in character in The Famous Victories of Henry the Fifth, saying “But who would have thought that the King have changed his countenance so?”(IX.22—3). But the playwright makes no mention of Canterbury’s intention to divert Henry's attention from the tax on the church to military aggression in France. Holinshed's Chronicles makes it clear that Canterbury desires to divert Henry's attention to the invasion of France:



This bill was much noted, and more feared among the religious sort, whom suerlie it touched verie neere, and therefore to find remedie against it, they determined to assaie all waies to put by and ouerthrow this bill: wherein they thought best to trie if they might mooue the kings mood with some sharp inuention, that he should not regard the importunate petitions of the commons. (Vol.III, p.65)



It is marvelous that Shakespeare should be able to make such a colourful scene of Canterbury and Ely discussing a parliament bill from the above-mentioned, rather meagre, episode in Holinshed's Chronicles. By inserting this original scene into his play, Shakespeare succeeds in making deliberately ambiguous the cause of Henry's invasion of France. The audience cannot but wonder whether the king will be able to obtain the crown of France “rightly and justly”(I.ii.10) or not, because Canterbury conveys the impression that he has put a wrong construction on the Salic law to force Henry to invade France. It can be said that Shakespeare's modification of his sources gives his play profundity and ambiguity that Holinshed's Chronicles and The Famous Victories of Henry the Fifth lack. Although he follows the former almost word by word in Canterbury's lines, Shakespeare makes the scene more complicated and ambiguous than in his two sources by placing the Canterbury and Ely scene just before that involving the Salic law. This leads us to think that he prefers to put forward the matter of the Salic law, especially that of the succession to the crown through women, in order to make his play more interesting to his contemporary audience. Relevant here, of course, is that the aging Elizabeth I, a woman, must soon be succeeded. But by whom? As Andrew Gurr comments in his edition of Henry V, (4) the Salic law was a focus of people's attention at the time when the play was put on the stage because Elizabeth had hinted that she would marry the French Prince, the Duc d’Alencon. Therefore, Canterbury's speech on the Salic law may have forced the audience to face realities outside the theatre—the change of a monarch who has ruled England for a long time, and the perilous situation that might result.



2



  The Salic law prescribes that descendents from a king's daughter cannot have a right to the succession. That is, according to the law, women should be entirely excluded from the royal succession. French nobles used this ancient law to refuse successive English kings’ requests for the French crown. But the action of Shakespeare's Henry V seems to proceed in the opposite direction from the spirit of the law, for Henry makes use of a woman and femininity to rule his country and gain mastery over France. He asks for the hand of Katherine, a French Princess, at the end of the play because his project to wage war against France and gain its crown is accomplished by marrying her, who is a feminized symbol of France. Karen Newman makes a superb comment on this point in her book, Fashioning Femininity and English Renaissance Drama (1991):



In Henry V, Henry systematically denies Katherine's difference—her French maidenhood—and fashions her instead into an English wife. (5)



Shakespeare also utilizes Katherine’s femininity to show that French territories have been transformed into English possessions at the end of the play. Henry's betrothal to a French Princess seems to be emblematic of his acquisition of the crown of France. It is interesting to see that an actress in the Royal Shakespeare Company's 1994 production of Henry V acted the governor of Harfleur, this casting representing the idea that French territories can be regarded as feminine. Peter Holland holds that:



  Other effects were similarly well-judged: having a female Governor of Harfleur feminized the city and provided a direct response to the horrendous threat of rape and murder that Henry had offered, his language and her body in direct connection and opposition. (6)



Jean Howard and Phyllis Rackin argue in their book that the spiritual descendent of Hotspur, who symbolizes contempt for women (not misogyny but discrimination against women), in Henry V is not Henry but Dolphin, who thinks of women as if they were horses in the play. (7) Hotspur seems to have more sympathy towards women than the Dolphin, for we understand from Hotspur’s conversation with Lady Percy in III.i of 1 Henry IV that he loves his wife in his own way even if he cannot express it in words. One of the reasons why we think of this is that in Henry IV there are many women characters while in Henry V there are few women characters who attract our attention except Katherine and Nell Quickly.
  Katherine Eggert states that Shakespeare makes an attempt to erase all femininity from England, transferring it to France in his Henry V. Contrary to my position, she also maintains that “the play seems highly devoted to affirming a kind of the Salic law of its own….” (8) But when the play is examined as a whole, it can be found that Henry aggressively includes Katherine in his political system to bear his successors and unite two countries into one. In fact Katherine will become Elizabeth's ancestor and this fact manifestly indicates that the play does not eliminate all femininity from England though the spirit of the Salic law aims to exclude all women from the succession. Behind the ostensible action of the play, Shakespeare has it for his object to unite femininity and masculinity for Henry to rule his country efficiently. Shakespeare seems to exclude all feminine aspects from England, but when we look at Henry’s acts more carefully, it becomes clear that the king regards femininity as an indispensable part of his political system and that he wishes to use it to his purpose. We cannot deny the fact that Shakespeare has a scene in which Henry earnestly asks Katherine to marry him. That scene appears to be romantic but Henry’s desire to use femininity in order to rule his country always underlies his proposal of marriage. We can agree with Katherine Eggert only in her argument that “I contend that Henry wishes to appropriate feminine authority without associating himself with what is feminine about it.” (9)
  When the Salic law is put in the broader perspective of the second tetralogy, it is understandable that its whole construction suggests the inclusion of femininity, not the other way round. In 1 Henry IV, Hotspur often expresses contemptuous disdain for women and it is symbolical that he is doomed to be defeated by Henry who will include feminine images of France into England when he fights with France. As stated above, Hotspur has less contempt for women than his words express in the play. But because of his overestimation of male prowess he must die at the hands of “Hal—the seeming wastrel whose temperance, courage, and icy self-control will fit him for the crown that he was born to wear….” (10)
  In Henry V, the French nobles despise women and compare them to horses as seen above. We cannot help regarding it also as symbolical that French army should be comprehensively beaten by Henry and his loyal subjects. That represents the triumph of Henry’s strategy of appropriating feminine images into the succession. Gary Taylor aptly comments on this point in his edition of Henry V:



Elizabeth's own claim to the English throne, as well as the claim of her probable (and eventual) successor, James VI of Scotland, depended upon the legitimacy of female succession; in particular, as contemporary polemicists had not failed to point out, if Henry V's claim to France was valid, so too was James VI's claim to England. (11)



Shakespeare had learned from his experience of Richard II when lines dealing with the king's disposition were cut, and became more wary when representing those in power in Henry V. He has to support Canterbury's speech on the Salic law and confirm the claim of Elizabeth and James VI (later, James I) to the English throne. The Tudor historian Edward Hall also uses several pages in his book, The Union of the Two Noble and Illustre Families of Lancaster & York (1548; revised and enlarged, 1550), to refute the law. (12). We do not know whether he wants to avoid getting into trouble because of his book or not, but it is probable that it would have put a playwright into trouble if he had asserted in his play that the Salic law was well-grounded.



3



  The Salic law has another symbolical meaning in the play: it represents ideas of arbitrary and strained interpretation of the law. We might say that French and Canterbury's interpretation of the Salic law are prejudiced because both take advantage of the law to achieve their purposes. The French court craves to refuse the English kings’ demand for the crown of France by adapting the Salic law to the succession of English kings to the French kingship. And Canterbury in Henry V is also eager to divert Henry's attention from a parliament bill that would impose a heavy tax on the church to the invasion of France by willfully interpreting the law. Although Henry commands Canterbury to interpret the law:



    My learned lord, we pray you to proceed,
    And justly and religiously unfold
    Why the law Salique, that they have in France
    Or should, or should not, bar us in our claim…” (I.ii.9-12)



it becomes evident that Canterbury's interpretation of the law is, like the French, one-sided, because he has his own interests at heart when he interprets the law before the king. Joel B. Altman regards Canterbury's speech “as fashioned, wrested, and bowed” (13) and he seems to agree with my view that Henry's words “That what you speak is in your conscience washed / As pure as sin with baptism”(I.ii.30-2) sound very ironical to an audience.
  As in Edmund Hall’s account, (14) Henry determines to invade France after he hears Canterbury’s speech on the Salic law. This attitude of Henry V hints that his authority as a king is very weak because his nobles and subjects all know that his father usurped the throne of Richard II. Although Shakespeare does not describe it 'clearly, the rebellion of three nobles in England unmistakably shows that Henry's political basis is fragile. Therefore, Henry needs an arbitrary interpretation of laws to consolidate his position as a king. Richard II expresses his notion of an anointed king when he says:



    For well we know no hand of blood and bone
    Can gripe the sacred handle of our sceptre,
    Unless he do profane, steal, or usurp.
            (Richard II, III.iii.79—81)



And Henry IV confesses to his son, Henry V, that:



           God knows, my son,
    By what by-paths and indirect crook’d ways
    I met his crown, and I myself know well
    How troublesome it sate upon my head.
             (2 Henry IV, IV.v.183—6)



Instead of the concept of an anointed king to which Richard holds fast, Henry IV and Henry V have to rely on an arbitrary interpretation of the law. Henry's decision to invade France after Canterbury's interpretation of the Salic law in the play is a good indication of his dangerous situation in the political world of England.
  A reading of the second tetralogy shows that the law is a very important theme in the four plays. In 1 Henry IV, Falstaff says to Henry “Do not thou, when thou art king, hang a thief”(I.ii.62) and Henry severely answers, “No, thou shalt”(I.ii.63). Even when he leads a loose life, Henry regards the law as an important tool of a king. At this point we should recall that Bardolph has to be executed for stealing an object of no value from a church in Henry V. In The Famous Victories of Henry the Fifth, Henry lightly gives a reply to a similar question of his friend, Ned, and says “Then, Ned, I'll turn all these prisons into fence-schools, and I will endue thee with them, with lands to maintain them withal”(V.20—1). It is very difficult for us to conclude that the hero in this play regards the law as an important instrument for a king.
In 2 Henry IV, Falstaff shouts in joy when he hears of Henry IV's death:



    Let us take any man's horses, the laws of England are at my commandment.
    Blessed are they that have been my friends, and woe to my Lord Chief Justice.
            (V.iii.112—3)



It is a pity that Falstaff should not know the fact that Henry and the Lord Chief Justice of England were already reconciled with each other and it is Falstaff's fate to be banished from Henry's presence at the end of the play. Shakespeare depicts the scene of Henry's becoming reconciled with the Lord Chief Justice to symbolize that Henry has decided to look upon the law as a vital tool of his reign.



4



  Canterbury's speech on the Salic law has another symbolical meaning: in its fusion of religion and law. Religion is as important an idea as law in the second tetralogy. Andrew Gurr also argues that:



The Jerusalem theme rides through all four of the plays in the second tetralogy… (15)



The fact that Canterbury makes an address on the Salic law at the outset of the play symbolically shows that two concepts of religion and law will be united in the play and that this combination will become an important element of Henry’s rule. Annabel Patterson makes a relevant comment on this point in her book, Reading Holinshed's Chronicles (1994):



That reputation involved internationally a commitment to an aggressive military foreign policy and domestically a strong alignment between church and state in the interests of national unity. (16)



Henry IV often speaks of going to Jerusalem as a pilgrim or crusader in 1 and 2 Henry IV. Although his wish is not realized in his lifetime, it is directly connected to Henry V’s prayer to God just before he fights the battle at Agincourt. His solemnity of prayer forces us to feel that God will forgive his father’s sin of usurpation before the battle begins. He prays to God that the morale of his soldiers would be raised in spite of the fact that their number is much smaller than that of their enemy and that his father’s sin of usurping the throne of Richard II would also be forgiven during the warfare. God seems to comply with Henry's two requests, for we know that he wins a brilliant victory at the field of Agincourt. That knowledge makes us recognize that God, within the terms of the play, surely pardons Henry IV's sin of usurpation.
  It is the reason why Henry attributes his victory at the field of Agincourt to God, not to his own strategy. In The Famous Victories of Henry the Fifth, the playwright describes Henry telling his stratagem in detail to his subjects:



Then I will that every archer provide him a stake of a tree, and sharp it at both ends; and, at the first encounter of the horsemen, to pitch their stakes down into the ground before them, that they may gore themselves upon them; and then, to recoil back, and shoot wholly altogether, and so discomfit them. (XIV, 20—25)



  We should admit, however, that many Tudor historians reasoned that God continued to be angry about Henry IV’s foul acquisition of the English crown until Henry VII came to the throne in 1484. Phyllis Rackin also takes this traditional line in her book, Stages of History—Shakespeare's English Chronicles (1990):



Richard's deposition was interpreted in terms of first causes as a transgression against God for which the entire country would have to suffer until the crime was finally expiated in blood and the land redeemed by Henry Tudor. (17)



However, Shakespeare wrote English history non-chronologically, that is, he produced the stories of Henry VI first and after them those of Henry IV and Henry V. His way of writing his history plays conveys the impression to an audience that God forgives the sin and gives Henry a complete victory at the battle in Agincourt. We also hear in the Epilogue of Henry V that the reason why a civil war breaks out and England loses territories of France after Henry's death is not divine punishment but the rule of an infant king, Henry VI. These facts lead us to think that God's anger about Henry IV's sin of usurpation is quelled at the time when Henry V seriously prays to God before the battle at Agincourt. And now he can approach God more easily than before and he no longer needs to rely heavily on an arbitrary interpretation of the law. The seriousness and passion of Henry's prayer have the power to force us to admit that he can obtain God's forgiveness of his father's sin before the battle at Agincourt:



            Not to-day, O Lord,
    O, not to-day, think not upon the fault
    My father made in compassing the crown!
    I Richard’s body have interred new,
    And on it have bestowed more contrite tears,
    Than from it issued forced drops of blood. (IV.i.292—7)



  Although the scene of Henry's prayer to God is cut in Laurence Olivier’s 1944 movie of Henry V, it is indispensable if we take the point of view of the second tetralogy into consideration. It is easy to see why Laurence Olivier omits this important scene: he wants to portray such a valiant and noble king as Henry V to encourage the English the aerial bombing of the Nazi's tormented during the World War II. Henry’s prayer to God just before the battle scene conflicts with this idea of the king. Laurence Olivier also depicts Canterbury’s speech on the Salic law ludicrously in his movie but as many editors of Henry V point out, (18) it should not be treated comically, for Canterbury’s speech on the Salic law is the basis on which Henry can invade France. (19) It should be repeated here that the fact that Canterbury, a representative of the religious world in England, interprets the Salic law manifestly shows that religion and law are combined into one in Henry V, this combination helping Henry to rule over England effectively.
  We have now two important points to be considered in this paper. One question is why Shakespeare omits the episode of Oldcastle in his play. Another is why he suppresses the true cause of the three nobles’rebellion: its cause must be deeper than that related in the play. In spite of the fact that Holinshed gives a full account of the Oldcastle episode and that Shakespeare mostly follows Holinshed’s Chronicles closely, he ignores it almost completely. As in The Famous Victories of Henry the Fifth, Shakespeare does not touch on the matter at all. However, if he goes too far into the episode, perhaps the nature of his work would have been transformed and we would now have a very different version of Henry V. Moreover, Oldcastle dies a martyr and, if Henry had ordered his officers to execute him on the stage as in history, an audience would have regarded Henry as siding with the Pope. It is known that a relentless antagonism between the Pope and England had continued after the reign of Henry VIII. The audience would not have tolerated seeing their hero king killing a virtuous martyr on the stage in the closing years of the reign of Elizabeth I. And we can add one more reason why Shakespeare omits the episode that Holinshed minutely expounds. He does not want to spoil the unity of his work: a kind of eulogy to a noble and active king who can unite the concepts of law and religion to govern his country with great efficacy. But it should be remembered that Shakespeare gives Henry various facets of character, and we should not regard him simply as a hero there to save his country as in Laurence Olivier’s movie.
  Now we turn our attention to the discussion of why Shakespeare omits the dynastic motive of the Cambridge plot. At the end of the scene, Cambridge mutters to himself that he has another motive for the treason besides the French bribe but it is next to impossible for an audience to recognize his true meaning. Two sources for Henry V, Holinshed’s Chronicles and Edmund Hall, describe it in full and make us understand that even during the reign of Henry V the problem of domestic implications remained. His father’s usurpation still affects his system of rule. Therefore, if Shakespeare had given a meticulous account of the dynastic problem in his play, an audience’s attention would have been diverted from the main action. He persistently wants to focus on an idea of Henry V, intermittently agonized by his father’s usurpation, who conquers France under adverse conditions and brings great honour to his country. A playwright cannot include every episode in a play but has to decide how to select material for the world he creates. Shakespeare omits two episodes from his sources and concentrates on Henry V’s troublesome campaign in France.
  We cannot decide whether Henry is a devoted believer in Christianity or not. It is an undeniable fact that he prays to God in earnest just before the battle at Agincourt, and Peter Saccio describes Henry V in real life:



Throughout his reign he maintained an active piety, visiting shrines, founding new houses of religion, insisting on proper conduct in already established ones, personally attempting to convert heretics, and consistently attributing his military victories to God rather than his own prowess. (20)



  It is a fact, however, that we sometimes see him manipulating religion to fulfill his purposes in the play. The reason why he asks Canterbury to interpret the Salic law seems to be that he wants to use the background of religion: its treasure and lots of believers. We might say that he is a prototype for Henry VIII who manifestly make use of religion for his rule of England. Canterbury’s explanation of the Salic law makes the play's image of Henry V ambiguous: he appears both as a manipulator of religion and as a devoted Christian. It seems reasonable to conclude that Shakespeare wants to leave this issue unresolved even as we leave the theater.



(NOTES)

This paper is a completely revised edition of a paper read at the annual convention of the Shakespeare Society of Japan, which was held at Iwate University in October 1999. I wish to record here my gratitude for my colleague at Kyushu University, Dr. Peter Rawlings, who kindly checked my English in this paper and always encouraged me while I was writing this paper.

1.Quotations from this play are taken from Peter Corbin and Douglas Sedge eds., The Oldcastle controversy—Sir John Oldcastle, Part I and The Famous Victories of Henry V (Manchester University Press, 1991).

2.Quotations from Holinshed’s Chronicles are taken from Holinshed's Chronicles of England, Scotland, and Ireland (AMS Press, Inc., 1965).

3.Quotations from Shakespeare are taken from G. Blakemore Evans ed., The Riverside Shakespeare, second edition (Houghton Mifflin Company, 1997).

4.Andrew Gurr ed., King Henry V (Cambridge University Press, 1992), p.20.

5.Karen Newman, Fashioning Femininity and English Renaissance Drama (Chicago University Press, 1991), p.104.

6.Peter Holland, “Shakespeare Performances in England, 1993—1994,” Shakespeare Survey 48 (1995), p.210.

7.Jean E. Howard and Phyllis Rackin, Engendering a Nation—a feminist of shakespeare’s english histories (Routledge, 1997), p.207.

8.Katherine Eggert, “Nostalgia and the not yet late Queen: Refusing Female Rule in Henry V,” Elizabethan Literary History 61 (1994), p.528.

9. Katherine Eggert, op. cit., p.545.

10. Herschel Baker, “Henry IV, Parts 1 and 2,” in G. Blakemore Evans ed., The Riverside Shakespeare, second edition (Houghton Mifflin Company, 1997), p.887.

11. Gary Taylor ed., Henry V (Oxford University Press, 1982), p.34.

12. See Andrew Gurr, op. cit., p.20.

13. Joel B. Altman, “’Vile Participation’: The Amplification of Violence in the Theater of Henry V,” Shakespeare Quarterly 42 (1991), p.21.

14. See Geoffrey Bullough ed., Narrative and Dramatic Sources of Shakespeare, Vol. 4 (Routledge and Kegan Paul 1962), p.352.

15. Andrew Gurr, op. cit., p.13.

16. Annabel Patterson, Reading Holinshed's Chronicles (The University of Chicago Press, 1994), p.131.

17. Phyllis Rackin, Stages of History—Shakespeare's English Chronicles (Routledge, 1990), p.118.

18. See Andrew Gurr, pp.19—20, Gary Taylor, pp.36—7, Geoffrey Bullough, p.356, and T. W. Craik ed., King Henry V (Routledge, 1995), p.42.

19. For information on the two movies of Henry V by Laurence Olivier and Kenneth Branagh see Peter S. Donaldson, “Taking on Shakespeare: Kenneth Branagh's Henry V,” Shakespeare Quarterly 42 (1991), pp.60—71.

20. Peter Saccio, Shakespeare's English Kings: History, Chronicles, and Drama (Oxford University Press, 1977), p.67.