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■はじめに | |
忘れもしない。あれは、1992年11月のある日。僕は、大学院の1年生だった。
サークル(慶應キッカーズ)の練習を終えた後のこと。着替えながら休んでい
ると、ふと、頭によぎったのだ。”アルゼンチンへ行こう ...”と。”行きた
い”ではなく、”行こう”だった。早速、その事をまわりにいた後輩に伝える
と、誰もが不思議そうな顔をしていた。自分でも、ことの重大さに気づく余地
はなかった。 なぜ、アルゼンチンなのか? マラドーナの故郷だから。僕が本格的にサッ カーを始めたきっかけは、1982年ワールドカップ・スペイン大会での対ブラジ ル戦の彼のプレーだった。僕をサッカーに引きつけたのは、彼が同じ左ききと いうこともあるが、その試合の彼のプレーではなく、ブラジルの選手に対する 報復行為の前蹴りであった。もちろん、彼はその行為で即退場。そんなプレー に感銘を受けてしまったのである。 そんなわけで、1993年3月、彼の故郷アルゼンチンでサッカーをしたくなり、 約1ヶ月間、留学することになった。以下に、当時の日記をそのまま掲載する。 その前に .... |
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■Argentinaとは | |
アルゼンチン(Argentina)という国名は、ラテン語のアルヘントゥム(銀)に
由来します。16世紀、新大陸の探検時代に到来したスペイン人が、当地に住む
原住民の 銀の装身具を見て、この土地に大量の銀があると考え、国土の中央
部を流れる大河をラ・プラタ(スペイン語で銀の意味)と命名し、同川流域一帯
をラ・プラタ地方と呼ぶようになり ました。スペインからの独立後、この名
前を嫌い、ラテン名をつけたものです。 南アメリカ大陸の南東部を占め、国境は東・北側がラ・プラタ川およびその 支流によって、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイ、ボリビアと、西南側はア ンデス山脈によりチリと接し、東南側は大西洋と南極の海に臨んでいます。南 緯22°から55°にわたり、熱帯から寒帯におよぶ国土面積でブラジルについで、 南アメリカ弟2位の広大な国です。日本から見てちょうど地球の反対側にあり ます。アンデス山脈が国土の西部を北端から南端まで貫いて、主要部は4,000m から 5,000mの山稜をなしています。アンデス東麓から大西洋岸まで、広大な パンパスの平原やパタゴニアの大地が広がっています。 |
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■Argentina留学日記予備知識 | |
▼留学環境
留学中は、日系人で元読売クラブの和後(わご)さ
ん(右下写真、左から3人目)のお宅にお世話になった。和後さん宅は、
ラプラタ市外にあった(正確な住所は忘れた)。のどかな田舎町で、近くに大
きな日本人学校や牧場(馬がいた)があり、サッカーに集中できる環境だった。
和後家の家族構成は、和後さん、奥さんの直子さん、一人息子の小学生の
翼君(FABIと呼んでいた、左下写真)、そし
てやさしいおばあさん(右下写真、左から3人目)の4人。
普段は、3食、グランドまでの送迎つきの贅沢な生活だった。自分の他に、
中学生のよしかず君、高校を中退してしまっ
たために、当時の読売クラブも辞めさせられてしまった(当時は、そのような
厳しい規則があったそうだ)若野君、千葉県
市川の高校を卒業してこっちでプロを目指していた武
田君(右下写真、左)と当初はいっしょに生活していた。途中から日
体大卒で教師になる南君、山梨出身の杉田君(右下写真、右)が留学してきた。
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和後さん宅以外にも、あの国見高校卒で選手権も出場した 矢野君、 鹿実出身で、今は亡き横浜フリューゲルスの前身、全日空に所属してした 前園君、 社会人2年の経験を経て岡山から来た亘(わたり)君 がいた。 当時、アルゼンチンは、ブラジルほど日本人のサッカー留学が盛んではなかっ たので、現在のように日本人だけ集められたクラブチームではなく、ちゃんと したクラブチームに籍を置くことができた。 |
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▼生活パターン
僕が所属した4軍(20,21歳までのチーム)の練習は、だいたい月〜金までの
午前9時から11時までの約2時間のみであった。和後さん宅からグランドまで、
車で約45分。毎日、車で送り迎えをしてもらった。もちろん、アルゼンチン人
には、そんな裕福な人間はいない。
朝は、起きた人から台所にあるものを食べていた(だいたいパンとバナナ)。
昼は、練習から帰ってきて、Tボーンのステーキだとか、肉類が中心だった
(肉を食わないと耐えられない)。
午後は基本的にフリーで、各自好きなことをやっていた。好きなことといっ
ても、たいていは近くの日本人学校の芝のグランドでボールを蹴っていた。そ
ういえば、日が暮れるのが遅かった(夜の8時くらいだったかなぁ)。そのせ
いか、夕食は9時くらいから。だから、昼にしっかり食べないとお腹がすく
(しっかり食べてもお腹がすく)。
外出は、練習の休みになった時に2回ほど首都のブエノスアイレスへ買い物
へ行ったくらいで、毎日、サッカー漬けの日々を送った。
言語は、スペイン語で、英語はほとんど通じなかった。たまに通じても、”
スパングリッシュ”気味で、良くわからなかった。
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▼所属クラブチーム
名前は、"Estudiantes(エストゥディアンテス) de la plata".ラプラタ市 のチームである。エストゥディアンテスは、スペイン語で学生を意味する。本 当は、マラドーナの所属していたボカ・ジュニオルスへ所属する予定だったが、 留学直前に変更となり、エストゥディアンテスへ所属することになった。ちな みに、よしかず君、若野君、南君、杉田君は、同じチーム、矢野君はウラカン、 前園君はヒムナシアに、亘君はボカ・ジュニオルスに各々所属していた。 |
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エストゥディアンテスは、昔、強かったらしい。まだトヨタカップが行われ
ていない頃のインターコンチネンタル・カップにおいて、3度もクラブチーム
世界一になっている。ワールド・カップメキシコ大会優勝とイタリア大会準優
勝を導いた監督カルロス・ビラルドは、エストゥディアンテスの選手だったそ
うだ。 エストゥディアンテスは、各2,3年の年齢でチームが区切られていて、8軍く らいまであった。もちろん、能力がある者は上のチームにあがれる。しかし、 21歳になるまでにプロ契約を結ばない限り、それ以上の年齢でエストゥディア ンテスに残ることはできない。これは、エストゥディアンテスに限らず、他の クラブチームでも同様である。まったく厳しい世界である。ちなみに、プロ契 約できるのは、20人いて、1人か、2人くらいの確率である。当時、エストゥディ アンテスには、現在、イタリアのパルマに所属するベロンがいたが、まったく 気づかなかった。クラブの施設は、決して良いとは言えない。歴史があるとい うか、単にボロいというか。しかし、それはそれで風情があった。カンチャ (スタジアム)も1万人入るかどうかで、席は木造で揺れて怖かった。 クラブの同僚は、いろいろな人間がいたが、裕福な人間はいない様子だった。 それは、練習着やアップシューズ、スパイクを見れば、一目瞭然だった。着て いるシャツはほころんでいたり、伸びきっていた。履いているシューズは、穴 があくほどに擦り切れていた。そんな彼らは、僕ら留学生が来ると、しきりに こう言っていた。"Cambio?" そう、交換しろという意味。これは、ことある ごとに最後まで言われ続けた。でも、最後には仲の良かった連中に、ちゃんと プレゼントしてしまった。そんなシャツやシューズを管理してくれた初老の男、 ラモン。もの静かで、愛想はないが、憎めない男。7‐3分けが良く似合ってい た。 |
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