飛鳥寺および飛鳥大仏に関する一考察
1 飛鳥寺について
(1) 飛鳥寺とは
飛鳥寺は、日本で最初に建立された寺院である。しかし、周知のように、現存して
いる日本最古の木造建築は法隆寺である。ここに矛盾を感じるかもしれない。また、
今も飛鳥寺があるじゃないか、という指摘があるだろう。しかし、現在我々が「飛鳥
寺」と呼ぶ建物は、「安居院(あんごいん)」という近世に立てられた寺院なのであっ
て、蘇我馬子が発願したあの飛鳥寺ではないのである。
そのような、中学・高校の歴史の教科書には全く触れられていない飛鳥寺の実情に
ついて、概観してみたい。
(2) 造営の時期
まず、造営の時期から見ていくことにしよう。
日本書紀の崇峻3年冬10月の項に、「山に入りて寺の材を取る」という記事がある。
その記事から、造営開始は早くともそれ以後であると考えられる。ただ、蘇我馬子が
飛鳥寺を発願したのは崇峻元年であるから、その間の2年ほどは、整地作業など基礎
工事をしており、それがほぼ完了したため、実際の建設作業に入ったものであろう。
また、崇峻5年冬10月に「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」という記事があ
るが、木材の乾燥・加工や組み立てなどに要する期間から考えて、仏堂とその周囲の
回廊が完成したというのは考えにくい。これは、塔の竣工を意味するのであったと思
われる。なぜなら、推古元年に刹柱(心柱)を立てる儀式が行われ、推古4(594)年11
月に竣工した(日本書紀では「造り竟りぬ」と表記)とあるが、露盤銘の塔完成の記事を
伽藍全体の完成と日本書紀の編者が誤解したための錯誤であると考えられるためであ
る。
問題は、伽藍全体が完成した年代がはっきりしないことであるが、推古14年に鞍作
鳥が
(3) 完成後の経過
天武称制9(680)年に、官寺の制限が行われる
→飛鳥寺は古くから大寺としての伝統を有するため、例外的に大寺と同様に重視
された
平城京への遷都に伴い、元興寺として平城京外京へ移転
→古京に残された寺は本元興寺と呼ばれることになった
本尊は金剛丈六釈迦であった
建久7(1196)年に雷火によって塔および金堂が焼失
→舎利の再埋納(但し、正確な奉安状態は不明)
この時点で飛鳥大仏が大きく損傷
(4) 発掘調査時に判明した飛鳥寺の伽藍配置
a 発掘前の各学者の想定
藤沢一夫・喜田貞吉説 → 四天王寺式
福山敏男説 → 法起寺式
石田茂作説 → 法隆寺式
b 発掘によって判明した伽藍配置
西回廊の想定位置から西金堂跡を発見
その後の第2次調査から、塔を3つの金堂が囲む一塔三金堂式であることを確認
この配置は、高句麗・平壌の清岩里廃寺・上五里廃寺・定陵寺の配置と同じであり、
朝鮮半島では一つの建築様式として普及していた
→以上のa、bから、大陸の技術を結集して建てられた寺であることが分かる。
2 飛鳥大仏について
石田茂作による飛鳥大仏の調査が、昭和13(1938)年に行なわれた。
石田氏による観察結果の分類
@ 銅製・磨きのかかっている部分 ― 顔面、左耳、右手の中指・薬指・人差し指
A 銅製・鋳放しの部分 ― 背全部、左腕、胸辺
B 銅の上に粘土で皺をつくり墨を塗った部分 ― 膝
C 木製さし込みの上に墨を塗った部分 ― 左手
@が製作当初の部分(鍍金が残っているため)で、A〜Cは後に補った部分である。また、修復の状況から、A、B、Cの順に新しくなっている。
久野健氏の見解
左手の掌の一部、右膝上にはめこまれている左足の裏と足指の一部などは、表面が焼
け肌であることから当初のものではないかと推定
田辺三郎助氏の見解
胸前の裳の結び目や襟元の内衣の合せ目などの特徴から、記憶が薄れないうちに元の
形を想起しつつ補修されたものであると指摘
飛鳥大仏についての結論
頭部の形状、杏仁形の両眼、眉弓につらなる大きめの鼻梁などから、法隆寺釈迦三尊
像に共通する鞍作鳥の様式の特徴を認め、これを推古17年の鞍作鳥の制作と見る説が
有力である。
【参考文献】
大脇潔『日本の古寺美術M飛鳥の寺』保育社、1989年
福山敏男「飛鳥寺の創立に関する研究」『史学雑誌』45−10、1934年
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』第4巻、岩波文庫、1995年