東京蹴球団の歴史

第一章 創団事情 

  第一節 創団の背景

東蹴はどのような経緯で生まれたか、そのいきさつを述べる前に当時のサッカー界の事情にふれて
おきたい。1917年(大正6年)は極東選手権大会が東京芝浦を会場として行われた年であった。スポ
ーツでも後進国であった日本は、このときはじめてサッカーにも参加したが、結果は中国とヒリッピン
にそれぞれ0-5、2-15の大差で敗北した。なお、この大会は1913年(大正2)にはじまり、この年サッ
カーは中国とヒリッピン(以下比、又は比島と書く)のみ参加、1位,、比島、ゲームは比2-1中国、次は
1915年(大正4)参加は、中、比のみ、1位 中国1-0比島3回目が1917年の日本参加である。この時
日本代表となったのは東高師チームで、このメンバーのなかに現日本女子体育大学体育学部長元東
蹴団員、佐々等氏(本職は陸上中距離)がおられた。東蹴創団の年のことである。

 この大敗は、海外事情のほとんど判らなかった当時の在京蹴球人にとっては大きなショッ
クであったことは疑いなく、このままではダメ、何とかしなければならないという気持ちに
かきたてられたことは当然であった。当時、東京周辺のチームといえば、東京フットボール
クラブ(英大使館チーム)中華青年クラブ、朝鮮青年クラブ、東高師、青山、豊島両師範な
どが平均レベルのものであるにすぎず、その数も 々たるものであった。

  第二節 創団事情

創団に関しては口碑は別として、文献としては故原島好文氏が1954年(昭和29)に書かれ
た次の文章が残っているだけ公式記録としてはこれ以外には無いようである。

 創団のころ  原島好文氏遺稿

在学中喧嘩腰で試合した顔馴染の猛者が(注1)大正6年の六週間現役(注2)に引っ張り出
されて脂を搾られている頃、三師範の卒業生でクラブを作り、自分でも蹴球を楽しみ、後輩
を指導し、そして、大いに蹴球を広めようではないかとの話があると聞いてみんな喜び且つ
張り切った。この主唱者は内野台嶺先(注3)で、三師範とは東京高師および青山、豊島の
両師範である。当時は、この三師範だけが正式に部を持っていたし、力も伯仲していて、東
都の最強を争っていた。夏休みが終わった頃、内野先生の音頭で、大塚茗渓会館で初顔合せ
をしたが(注4)何のことはない「どっかと試合をしよう」という話がさきで、がやがやと
そのポジションまで決めてしまい、クラブの名前を何としょうかと話が進み、内野先生が
「東京をぜひ冠したいですね」の意向に応じて、栗山長次郎(注5)が「東京蹴球団にしよ
う」というに答えて「それでいよ」で決まった。これで我が国最初のクラブティームが出来
た。

第一代の団長には、東高師体育科主任教授、永井道明先生(注6)をお願いすることとし一
切の主宰は内野先生がなさり、試合の通信連絡は原島好文がやることに決まった。秋から冬
にかけて、青師、豊師、東高師、英国大使館、埼玉師などと試合をしが、一つの黒星もなか
った。なにしろピチピチしているのは11人かっきりだったので一人都合が悪くても困る。そ
の時は、内野、吉川、北川、渡辺、大滝などの元老連中を、引っ張り出した。とにかく7人
以上集まれば開始したが、それでも勝てた。試合がすむと集まって内野先生を中心に、試合
に出ない先輩を交えて蹴球を語った。

(注1)東京高等師範学校(後、東京教育大学、筑波大学創立後廃校)旧制の四年制専門学
校で、旧制中等学校の教育養成機関、わが国サッカーの草分け、ここから全国にサッカーが
普及されて行ったとも言える。
ただし当時の対校マッチの相手校は青山、豊島の両師範で、対等に戦えるものとしてはこの
くらいのいものであった。

(注2)六週間現役制度、明治政府のとった教員優遇制度、師範学校(高師をふくむ)卒業
生で教員となった者に、国民の三文義務の一つであった兵役を免除するというもの。富国強
兵を国是とした明治の天皇制政府がかかる教育者優遇制をとったことは驚くに足りることと
云える。師範学校卒業者は卒業の年の夏、六週間を限って兵役に服させ、その後は国民兵役
に編入された。なお云うなら当時男子は、いわゆる国民皆兵制で20才から三年間は現役兵と
して強制徴兵され除隊後は予備兵役(常備兵役)から、後備兵役40才までの兵役義務があ
り、その後、国民兵役(終生)に編入ということになっていた。戦争があれば後備兵役まで
は、いわゆる赤紙の召集令状で戦場に立った、壱銭五厘(当時のハガキ代)の命などという
陰口もあった。師範学校卒業者の最大の特典と云われたもの。国民兵役者が召集されるとい
うことは例がなかった。六週間現役は、その後一年現役から短期現役兵(服役5カ月)と制
度が変った。

(注3)内野台嶺先生(従三位勲四等漢学者)明治十七年(1884年)四月二十九日神奈
川県橘樹郡大網村に生る。幼名城田作三、明治三十一年同村大乗寺の養子となり内野大嶺と
改名(十五才)東高師卒の明治四十二年より四年まで豊島師範学校教諭、昭和二十八年十二
月十四日、肝硬変で逝去 七十才。別記「忘れ得ぬ人々」参照。

(注4)創団の話し合いが行われた月日、これが何月何日であったのか今のところ明らかに
することができないので更に考証を重ねたい。

(注5)栗山長次郎氏、大正6青山卒、GK。後ハーバード大学に学んで帰朝後、大正十三年
五月、毎日新聞社入社。工務局長など歴任、昭和二十年四月退社後、多摩地区から衆議院議
員として活躍。四十六年七月八日没。西多摩郡出身、大正十五年四月には、青山師範で英語
の講師をされたこともあった。

(注6)永井道明先生 大正の初期にデンマークに留学、我が国にいわゆるデンマーク体操
を導入された。
肋木(ろくぼく)など体育器具は永井先生の土産といわれる。大正十二年四月一日、学校法
人本郷学園に招され、本郷中学校に就任(学園理事長兼本郷中学校長は、旧高松藩主松平頼
寿伯爵)昭和二十五年十二月十三日逝去(自然死)

 松平頼明氏(現本郷高校校長)のお話

七年間ほど同じ屋根の下で永井先生と起居を共にした。一口に云って永井先生のお人柄は剛
直と申し上げてよいと思う。その一面、非常に暖かいところのある方で、本郷学園の実質上
の校長であられた。

  第三節 文献にあらわれた東京蹴球団の創立

大正六年(1917年)五月に東京芝浦で第三回極東選手県大会がっひらかれ、蹴球は九日中
華民国と対戦して0-5、翌十日フィリッピンと対戦して0-12で完敗した(注1)が、国際試
合に参加することによって技術的に得るところが多かった。極東大会が契機となり師範卒業
生を中心として東京蹴球団が結成され、大正七年一月には大阪毎日新聞社主催でフットボー
ル大会が、二月には朝日新聞社が主催して(注2)関東中等学校蹴球大会が開催されるよう
になった。

 日本体育学会編 日本スポーツ百年の歩み(1967.9.20 ベースボールマガジンん社発
行)216頁(注)
この記述には二つの誤りがある。即ち(注1)日比戦のスコアは2-15、(注2)朝日新聞社
が主催しては「東京蹴球団主催、東京朝日新聞社が後援して」とするのが正しい。

1917年(大正六年)第三回極東選手権大会が芝浦で開かれた。このとき蹴球競技が行わ
れ、東京高師が参加した。これが日本サッカー界最初の公式国際試合参加であった。しかし
成績は支那に5-0、フィリッピンに15-2で惨敗した。そこでこれを反省し、東京高師、青山
師範、豊島師範の卒業生たちが東京蹴球団というクラブをくつって大会を開き、ひろく愛好
者を集め技術の向上を図ろうと計画をすすめた。そして朝日新聞社の後援を得、1918年
(大正七年)二月九、十、十一の三日間東京高師校庭で関東蹴球大会を行った。

 日本体育協会監修、現代スポーツ百科事典(サブタイトル、「エンサイクロベディアオブ
スポーツ」)大修館書店発行、1970.10.10初版、245ページ)

(注)この記述はすべて正しいが、東蹴をつくろうという呼びかけが誰によってなされたか
について明記されていないのが物足りない。主唱者は内野台嶺氏(別頁、本文3頁、原島好
文氏遺稿)であった。このことは、日本蹴球協会編「日本サッカーの歩み」に内野台嶺氏の
生前に書かれた文章からの転記として 芝浦の大会が行われ、中華民国とフィリッピンに大
敗することになったので、高等師範、青山、豊島両師範の卒業生で、もと選手をしていた人
達を集めて東京蹴球団をつくった。(同誌45ページ)とあるのを見ても明らかである。ま
た同誌は、東京蹴球団として独立の一頁を設け、日本で学校というわくを外したクラブがで
きた最初のものである (〃45ページ)と説明している。これは新田純興氏(本文12頁参
照)の手になったものと思われるが正しい表現である。

 第二章 初期の東蹴

本文に進む前に東蹴の六十年を次の区分に従って記述することを明らかにしておく。

一、初期 創団から関東中等学校蹴球大会閉幕まで(1917年から第二次世界大戦までおよそ
  三十年間)
一、中期 第二次世界大戦終了後の再建から1758年まで(終戦後の再建から山田第三代団長
  卒去までの十三年間)
一、現在 1958年以降現在まで

 第一節 第一回全日本選手権大会に優勝

第一回全日本選手権大会の行われたのは1921年(大正十)のことであった。大日本蹴球協
会(現、財団法人日本サッカー協会)が設立された年である。ここで蹴球協会がどういう経
緯で設立されたかを詳述する必要はないが、この設立についても団は深くかかわっているの
で、その部分だけは明らかにしておきたいと思う。