今月の特集題  平和に生きる喜び



主にある平安
一柳 茂樹
 おふくろが交通事故で亡くなってから2年半。平成19年8月、越谷警察署の死体安置所で対面。その際の衝撃、体中にアザをつけた物言わぬ死体。その顔が私の目に焼きついてしまい、今でも何の脈絡もなく、その顔がグワッと大画面で私の脳みそを叩くことがあります。そのたびに「カアチャン、何の孝行も出来ずごめん」と謝るしかありません。
 古今東西、世間は不条理な死があふれています。天変地異はいうに及ばず、戦争や事故、病気、さらに何ら落ち度がないにもかかわらず召される無辜の民など数えあげたらきりがありません。第一コリントに「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなことはなかったはずです」とあります。どういうことなんだろう、死をも含めて耐えられないことはない、といっているのか、何かの譬えなのか、視点が違うのか。おふくろのあの出来事も、おふくろ自身からみれば「耐えられる」範囲なのか。
 私は、秋葉原で債務整理の仕事をしています。この仕事を始めてまる3年。世の不景気を全身に背負った老若男女と日々接しています。内容は深刻そのものです。ウツ病の人も来ます。うちの事務所で債務整理を断られたら、秋葉原のホームから飛込む、と訴えられることもあります。あながち誇張とも思えません。ヤクザのヤミ金(とにかくきたない、えげつない)との対応や私をだまして破産を目論む依頼者との駆引き、おふくろを思い出させる多重債務の老女の愚痴などを聞き、対応策を説明するという毎日です。4〜5時間話しっぱなしになることもしばしばです。
 これらの錚々(そうそう)たる面々に呑みこまれないように、一日の嵐が来る前に「エッファタ」と祈ります。マルコ福音書に「人々は耳が聞こえず、舌の回らない人々を連れてきて、その上に手を置いてくださるようにと願った。イエスは天を仰いで深く息をつき、その人に向かってエッファタと言われた。これは開けという意味である。すると、たちまち耳が開け、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とあります。朝、必ずこの箇所を音読します。そして私の大岩、私の砦(詩編)である主・イエスに対して「背中を押してください」と祈ります。
 照る日、曇る日、嵐吹く時、おふくろの顔がいっぱいに広がった時でも主にある平安、平和に生きる喜びを感じられたら。嵐の只中にある八方塞がりの依頼者に、少しでも主にある平安をおすそ分けできたら、と思っています。      
(いちやなぎ しげき)


こころの平和
小菅 昌子
 「生まれ変わるとしたら何になりたい?」昨年末のアトリエルピナスの忘年会で話題になりました。
 私の息子は小さい頃カブトムシが大好きで「カブトムシになりたい」とまで言うので、「そしたら暁史みたいな子に捕まえられちゃうね」と言ったら、しばらく考えて「めだたない小さな虫になりたい」と言ったという話からはじまりました。
 皆、笑って冗談も交えながら話していたら、一人のスタッフが「私はまた人間に生まれたい。また今みたいな生活をしたい」と、はっきり言いました。
 彼女の両親は病気がちで、彼女自身は20歳を過ぎた頃精神の病を発病し20年近く通院しています。「そう、今、幸せなんだ」と聞き返すと、顔をほわっとさせながら「ハイ」と。
 私は内心驚いていました。ここのアトリエは職場なので、生活のケアまで手がまわりません。今後彼女がどう生計を立ててゆくのか心配し、不安な気持ちでいるのではないかとばかり思っていました。
 貧しき人は幸いなり…小さなことに喜びを感じ、幸福だと思う人。
 今、平和な国に住み、生活が保障された境遇にあっても不満が多く、自分を幸せだと思っていない人が多くいます。
 「平和」は全ての人々にとって「幸福」であることとは一致しないようです。「平和」と「幸福」がひとつになるためには、一人一人の心の在り方が問われています。
 全ての人々の平和と幸いを一つのこととして、命がけで祈った人は、十字架に死にました。
 私には、とうていそのような祈りはできませんが、こうして生かされていること、ささやかな日常に幸いを感じることがイエスの祈りに応えることだと思います。
 私に与えられた賜物を活かし、地の塩となることができますように。
 最後に、アトリエで生まれたパステル画の学びを通して知り合った、なかちかこさんの詩を紹介します。自作のパステル画のクリスマスカードに添えられていました。

ものみなすべて てんからの
ひとみなすべて てんからの
めぐみをうけて いまここに
(こすげ まさこ)

越谷教会月報みつばさ2010年2月号特集「平和に生きる喜び」より


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