今月の特集題  内なる人が強められる



目指すとろこへ
竹原 京子
 『心を高く上げよう』 魅力的な言葉であり憧れであり私の希望でもあります。けれど私はこの言葉を勘違いしていた事があります。赤面しますが自分の志を高くかと、このように自分を主体として考える癖が附いていたように思います。 
 すると自分が正しいと思い込んでいた事がもしかすると違っていたかも知れないそういう事はいくらでもあったと思います。
 イエス様は「わたしは柔和で謙遜な者であるから私の軛を負い、わたしに学びなさい・・・わたしの軛は負いやすく私の荷は軽いからである。」と、仰っておいでです。
 私は謙(へりくだ)るという事を忘れている事があるようです。毎度ですと言われそうですが・・・それは一言もありませんが。
 もう一度引用に戻りますがパウロのエフェソへの手紙3章16〜17節「どうか、御父が、その霊により、力をもってあなたの内なる人を強め・・・あなた方の心の内にキリストを住まわせ・・・」このパウロの汗の滴るような祈りに答えられるか、しかし弱々しくても答える努力しなければと思います道は遠くても・・・。
 誰にでも冬の時代というものがあります。けれどこの冬の時代、忍耐の時を乗り越えさせて頂いた時、次の恵みを真に感謝して心を高く上げ、イエス様を見上げる事が出来るのではないかと考えます。神の平和が与えられるのです。
 聖書を通して聞こえてくる声「わたしははあなたたちの遠くにいた事はない」と言うみ言葉に励まされます。
 ある日わたしは考えあぐねている自分の内面の問題を抱えて礼拝の中に居ました。そして苦しまぎれに後奏の黙想の中で祈りました。「どうぞ御声をお示しください」と、すると確かに御声が静かな優しい声として聞こえてきました。「思い煩うな」・・・ああそうだった人間の思いで思い煩っても仕方がないのだった。“主にお委ねすれば”良いのだと、ふっと心が軽くなりました。
 その軽くなった思いを頂いて礼拝堂を後にしました。
 コロサイ書に御子はその体である教会の頭です。とあります。わたしは三人の人がが寄ればそこにイエス様がおいでになっているという事を忘れがちです。礼拝の中に確かにお立ちになっていられるイエス様を思ってこれから心して礼拝を捧げたいと思います。神の平和を実感して。
 私事ですが、教会に向かう時ほんの少しの距離なのですがタクシーに乗ることがあります。ところが讃美歌を歌いお説教を聴いた後の帰途は体と心がほぐれるのでしょうか、歩いて行ける気持ちになるようです。
 友人たちにその体で良く保(も)っているわねと言われます。時が来るまで支えられています。
(たけはら きょうこ)


外なる人はおおらかに
   内なる人は信仰によって
中村壽美子
 のっけから私事で恐縮ですが、もうすぐ90歳になる実家の母の世話をする為、月一回のペースで関西へ通っています。母は老いの現実を良くも悪くもまざまざと見せつけてくれます。仮に30年後もし私が生きていたら、きっと同じ姿を呈していることでしょう。今は親が身をもって示し教えてくれていると思って、しっかり受け止めたいと思っています。肉の身体なる「外なる人」が衰えてゆくのは加齢現象ですから抗っても仕方ありません。「お若くみえますね」と言われると人は皆一様に嬉しそうな顔をしますし、アンチエイジングなる言葉が世にかまびすしい昨今ですが、「若さ」だけがすべてに勝って称賛に値するとは思えません。「若さ」は「未熟さ」をも伴います。加齢は「白髪(しらが)は輝く冠」(箴言16章31節)、とおおらかに受け止めてゆきたいと思っています。          
 振り返って、かつて私が若かりし日に目にした大人達(40、50、60代の)はものすごくしっかりした頼もしいおとなに見えていました。それ故に、いずれ自分がその年齢に達したら同じ様になれると漠然と思っていたのです。ところがです、いざその年齢になってみると、エーッ?ウソー?こんな私がもう○○歳?いいのかなあ?とがっかりするやら情けないやら。「外なる人」は歳相応なのに中身が伴っていないことへの失望感は年々増すばかりです。
 人生の折り返し点を過ぎてから信仰を与えられた私、所謂「この世的な生き方」の時代が長かった分その経験や記憶も鮮明にあり、「信仰に立った生き方」と事有るごとに比較して、その違いを新鮮な思いで実感するという大きな恵みを頂いています。この恵みを年齢相応の成熟へとなんとかつなげていきたいと思うのです。
 ここに教会があり、招かれて礼拝をまもれること、力強いみことばを聴けること、祈りあえる大勢の同信の友の存在、これらを土台にした伝道の力が与えられること、教会生活が長くなるとあたりまえのことのようですが、これってすごいことだとおもいます。この信仰に生きる限り、信じるものはただひとつ、主イエスさまの愛。十字架にかかって数え切れない私の罪を贖ってくださり、復活され、今も生きて働かれるイエスさまによって、新しく生まれ変わらせて頂いた自己を、感謝と喜びをもって心の鍛錬に努め、成熟のあゆみを進めてゆけたらと、願っています。
 私の次の年齢の節目は9年後です。其の時私は、自分の「内なる人」の成熟度に少しは納得することが出来るでしょうか?
(なかむら すみこ)

越谷教会月報みつばさ2010年6月号特集「内なる人が強められる」より


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