今月の特集題  主の命に与かる喜び



折を得なくても
舟橋 葉子
 受洗の前には、礼拝の中で最も満たされる思いがしたのは祝祷でした。ここで赦され祝していただき、一週間分の力を与えていただく喜びを感じました。洗礼を受けてからは、そこに聖餐に与る喜びが加わりました。
 説教を聞いて御言葉から力をいただくことは、どちらかといえばアタマの分野であるのに対して、聖餐を通していただく力はココロの分野であるように思えました。
 聖餐に与る喜びは、教会において神様の家族として招かれている喜びです。教会での「兄弟・姉妹」という呼び方は、いまだに慣れていなくてちょっと照れくさい感じがするのですが、聖餐に与ると兄弟、姉妹、家族に囲まれて私も赦されてこの場にいる、という実感がわいてきます。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133編1節)
 私が越谷教会に招かれた年の伝道主題がそのまま実感として胸に迫ってきました。 
 いただく葡萄酒やパンはキリストの血であり肉であるのですから私たちのかわりに十字架につけられた主イエスの受難を深く思うべきなのでしょう。でも聖餐式のさなかには、まだその心境になることは難しくただ喜びのうちにあるのが実情です。越谷教会の聖餐式も喜びですし、たまに経験する地区・教区の礼拝での聖餐式では、さらに連帯の充足感を感じます。
 昨今の聖餐に関する論争については、神学的な問題でしたら、御心がどこにあるのかをどこまでも追求し議論して欲しい。私はその議論に参加はできないけれども越谷教会を導く牧師を信じています。しかしその論争が教団の分裂に向かうことにはどうしても納得がいきません。冷静に愛を持って主が解決に導いて下さいますように。
 聖餐式の式文で心に突き刺さる言葉があります。「折を得ても得なくても」という言葉です。テモテへの手紙二 4章2節、新共同訳聖書ではこうなっています。
 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」
 私が一番苦手とする部分を指摘されているようです。自分と相手と両方に「折が良い」と思ってもなお躊躇してしまう場合さえあります。しかし、宣べ伝えるという意味は単に言葉で「教会に、礼拝においで下さい」と言うのではないことが、最近になってわかってきました。私自身がさまざまに葛藤しながらここにいる、そのことが、他の人が教会に繋がるきっかけになるという不思議なこともありました。思い悩まなくても、神様はよい所に導いて下さいます。
 最後に、今でも最高にかっこいいと思っている文語訳で同じ御言葉を。
 なんぢ御言を宣傳(のべつた)へよ、機(をり)を得るも機(をり)を得ざるも常に勵(はげ)め
(ふなはし ようこ)


聖餐 〜十字架と復活の命に与る〜
棚橋千恵美
 今日、すべての教会で行われている聖餐は、新約聖書において「主の晩餐」また、「パンを裂くこと」と記されている。使徒言行録2章は、聖霊降臨の後ペトロを通して語られた福音の説教を受け入れた人々が洗礼を受け、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと祈ることに熱心であったことを伝えており、「パン裂き」を中心とする共同体が始めから存在したことが示されている。
 人々がパンを裂きながら、何よりそこで思い起こしたのは、イエス・キリストの最後の晩餐であったに違いない。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリントの信徒への手紙一 11章23〜26節)。
 このパウロの言葉に、最も明確に聖餐とは何かが示されている。洗礼を受けて、主の体を形成する者となった者たちが、聖餐の恵みから恵みへと共に歩み続けるのであり、そこにおいて絶えず御言葉を聴き続けるのである。
 主の晩餐の制定の言葉の前に「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」(11章21節)とあり、食事を共にする交わりがあったことが示されている。すなわち愛餐である。
 わたしたちの教会でも愛餐会を持つ。しかし、愛餐会は、どれほど積み重ねても十字架と復活の命に与ることは出来ない。愛餐会と主の晩餐が最初の教会の食事の交わりとしてあったが、主の晩餐に与ることが出来たのは、洗礼を受けた者だけであった。
 この愛餐と聖餐が分けられて行く過程が、主の晩餐の制定する言葉の中によく示されている。主の晩餐の時、食事(愛餐の後)に、新しい契約が示されるのである。パン裂き、杯を飲むことによって神との交わり、キリストなる神と一体となるのである。したがって、洗礼を受けずに聖餐に与るということはあり得ない。それは、愛餐であって聖餐ではない。
 洗礼はキリストの罪の赦し、救いの恵みに対する真実な告白を意味するものであり、聖餐は主イエスの十字架の贖罪における福音を示すものである。教会は、聖霊により頭なるキリスト自らが働かれる場所である。私たちは、聖霊により信仰をもって聖餐に与る時、今生きておられる主、復活の主イエス・キリストと出会うのである。 
(たなはし ちえみ)

越谷教会月報みつばさ2010年10月号特集「主の命に与かる喜び」より


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