今月の特集題  弱さのただ中に



真の幸とは
森谷 愛
 四季に例えられる人生だが、例え冬になぞられる老いの時、又、嵐の渦にいても、最大の幸福は、主の日の礼拝の恵み、讃美に依って会衆共に霊の交わりに与かる事ではないだろうか。思い起こせば、経済成長期に、商社の歯車のように深夜まで働き、時間の流れなど全く意識できない日々の中で、毎週、礼拝にかならず招かれ、役員迄務めさせて頂いた。奇跡としか言えない年月、この礼拝は、言うまでもなく私の時を刻んでいた。人生の節を刻んでいた。惨めだった幼年期には、此の幸いに出合うとは思える筈もなかった。第二次大戦中の恐怖と飢え、A新聞社勤務の父は帰宅せず、母との長い争いの末離婚、直ぐに義母が来たが、私は疎まれて針の筵の日々であった。救われたのは、野球選手として、のめり込んだ高校生になってからであった。真の幸せは、絵に描いたようなクリスチャン・ホームに育った、妻との出会いと結婚であった。義父母は、私を実の息子のように愛した。しかし、この家こそ、この世の悲惨を纏めて背負っていた。義母は、病で寝たきりであった。妻も、幼児期に同じ病の為、妻の妹は里子に出された。義父は、手厚い看護によって二人を全快させた。舅の破産による莫大な負債をも背負っていた。戦中は、特高警察に尾行されていることで有名人であったという。当局の目は節穴ではない。義父は、命を賭けて反戦した。突き抜けるような明るさと、あふれ出す讃美で乗り切ったに違いない。皮肉なことに、かって国賊呼ばわりした国は、晩年、義父に紫授褒章を授与した。
 私は、この世の不幸、荒波に、翻弄されるしかない弱い人間に働かれる神の力に、渦巻かれるように引き込まれ、結婚後すぐに越谷教会に招かれた。時は確実に流れ、人生の冬の季節を迎えるに当って、体調を崩し、一昨年、役員を辞任する迷惑を掛けてしまった。療養中にも拘らず、最近、隠れ脳梗塞を起こし、医師から、厳重警告を受けている。しかし、義父の家と同じく、家に鍵を掛けて、主の日の礼拝に一家で出掛ける幸いは、何ものにも代え難い。孫は、4歳だが、教会学校小学科が気にいってしまい、祖母からのプレゼントのこども聖書、讃美歌を大切にカバンにいれて毎週通う。この子と、中高青年科教師38年の妻を毎週教会へ送るのが楽しみである。孫を、生まれた時から育てるという幸も経験した。出産により体調を崩した娘に代わっての子育て、これも幸であった。今では、外で私を見つけると「ジ・ヤー」と叫び、就寝前は、合気道の稽古台にされ、ドタン・バタンの大立回りの末、思うように動かない私に業を煮やしと泣きだし、そして、寝かされる。ママに必ず本を読んでもらい、抱き合って祈る姿に、子育ては母から母へと同じ事が繰り返されていくものだとつくづく思う。こういうのもおかしいが、深い信仰の妻に、時々冷たいが静かな愛で支えられ、家族に気遣われている、幸の時がある。しかし、真の幸は、人生の節目を創って頂ける霊の交わりを、会衆と共に預かる讃美・主日礼拝にある。これは、天の礼拝に授かる事であることを信じる故に、弱き者であっても幸である。
(もりや めぐむ)


めんこちゃん
鈴木 美紀
 洗礼を受けて間もなく、神様を見いだせず祈れない時がありました。それは、ある先生の死がきっかけでした。
 先生と出会ったのはカソリックの中学校の寄宿舎に入っている時でした。当時、私は自分の存在価値のなさに絶望し、人を求めながらも人を恐れ寄宿舎で不登校をしていました。両親に愛され、シスター達に守られ、こんなに恵まれていたのになんて我儘だったのだろうとつくづく思います。そんな私をシスター・Sは、カソリック系の病院にいらっしゃったN先生の所に連れて行ってくれました。シスター・Sのおかげで私は、公立校に移った後も度々、一緒にN先生の診察室に遊びに行きました。
 先生お二人の雑談をそばで聞き、帰る時N先生に「めんこちゃん」(北海道弁で「かわいこちゃん」の意味)と言って頭をなぜてもらうのが楽しみでした。私は相変らず自分の存在に価値を見いだせずにいました。でもN先生とシスター・Sの存在が、希望を持たせてくれました。
 今4歳の息子が6カ月の時、シスター・Sのいらっしゃるマリア院から電話でN先生とお話ししました。先生は、私をいたわりながら言いました。「手紙は必ず読む。だけど、とても忙しいから返事は書けない」。
 2年後、受洗を決めた時、先生に葉書でお伝えしました。石橋先生と似ていたので、「先生に似た牧師さんから受洗します」と書きました。祝いの言葉と元気にご活躍している内容のお葉書が先生から届きました。その3週間後、先生は亡くなられました。
 私は悲しみのあまり、先生との出会いを恨み、出会わせて下さった神様を恨み、祈れなくなりました。
 そんなある日、教文館でN先生の本を見つけました。弱い立場にいる方達との交わりを尊敬と驚きを持って語り、人には信仰が必要だと説く先生の本をその場で読みました。神様がなさることは完全で、悲しみで終わらせず必ず救って下さる事を一瞬にして悟りました。この時の為に神様は、先生との出会いを与えて下さったのです。
 今も、自分の価値のなさに悶々とする時があります。そんな私に主人は「説教を聴いてないでしょう。神様を賛美する事が全てじゃないか」と言います。
 思えば中学生の時自分の諸々の弱さに気づいたのは、大きな恵みでした。弱さのただ中でN先生とシスター・Sに出会い、お二人の中にいらっしゃるイエス様と出会ったのですから。なにもできない私ですが、礼拝を守れる。主を賛美できる。なんて素晴らしいことなのでしょう。
(すずき みき)

越谷教会月報みつばさ2010年12月号特集「弱さのただ中で」より


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