今月の特集題  上なるものに心を留めよ



上なるものに心を留めよ
− コロサイの信徒への手紙3章1〜4節を与えられて −
貴田 陽一
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
               (コロサイの信徒への手紙3章1〜4節)


 「かんべんして下さい」。わたしまだこの心境になれないのです。
 むしろパウロの「ああわれ悩める人なるかな」に強烈な魅力を感じているのです。
 この書簡はパウロが西暦60年頃、ローマの獄中で書いたといわれています。
 まさにパウロの晩年の手紙でしょう。
 エパフラスが命を賭けて伝道した、コロサイの教会に、異なる教えが入り込んで来た、それを知ったパウロが獄中から送った手紙とされています。
 だからパウロの研ぎすまされた、復活の主への思いを体を賭けて書いたものでしょう。
 4章18節、パウロ自身が手ずからこのあいさつを書く、と言っています。
 この重くのしかかるパウロの言葉に、わたしは「かんべんして」と叫ぶ以外にないのです。
 この箇所を、せつせつと説いてくれたのは故山内国男牧師でした。
 「地上の教会は、天にある教会を目指し、あこがれる事である」。「そこには、ア・クライストの群れが、共に天上の教会を地上にもたらすために、祈り求めていくことである」と。
 青年時代たった数年の牧会の中で、まさに命の言葉として残していって下さった。
 そして、わたしの生涯のテーマ、「いつも塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。」(4章6節)
 この言葉にわたしは、今でも打ちのめされています。
 毎日切った張ったの商売をしているわたしです。天上のことに心を留めていない自分を常に見ています。
 だから「かんべん」なのです。
 きっとこれからも「かんべん、かんべん」と言って与えられた余生を送っていくのでしょう。
 だけど、だけど生ける主は、そんなわたしをも愛して下さっているのです。それが実に60年を過ぎました。
 その確信だけは、誰が何と言おうと失わない。わたしは、晩年を迎えて、人生の魅力を感じ出している。
 主は教会にわたしをつなぎ留め、主のみ言葉を聞かせつづけて下さっている。
 多くの友が教会を去り、多くの友がイエスとかかわりのない人生を送っているのに、このわたしは、馬鹿みたいにここに留まっている。そして友人たちが味わうことのできない、すばらしく魅力ある人生を今も生かされているのです。
(きだ よういち)


癒しと温もりの贈りもの
出戸美久子
 うちのチーちゃんとの、ささやかな暮らしを、ご紹介します。
 7年前に、動物病院の院長先生から、お電話があって、「まだ生まれて、一週間位の仔猫なんだけど、育ててもらえないかなー」とのことでした。
 その病院の待合室には、犬や猫の写真が何枚も貼ってあって、『飼主募集』の文字もあるのになぜ?と、その時はよく分からないままに、とにかく仕事をすませて、哺乳ビンと粉ミルクを買いに走りました。
 まだ、目も開いていない、小さな仔猫を暖めながら、片手の平に包んでよく見てみると、ひ弱にふるえる手足と切れている上に骨も曲がっている尻尾が、カラスにやられたことを物語っていました。
 「どうか、生き延びられますように」と、祈りつつ、一所懸命に介抱しつづけました。
 あまりにも小さかったので、チーちゃんと名付けました。
 それが今では、朝、目覚ましが鳴る数秒前に、きちんと私の枕元に正座して、起こしてくれるようになりました。
 はじめのうちは、餌がほしくてかなと思っていたのですが、そうではないと思ったのは、寒いのにトイレまでついてきて待っているのに、戻ってみると、餌は食べてなかったからなんです。
 午後など、仰向けに寝て目をつむっていると、顔の横まで来て、心配そうにおののく手をのばして、目・鼻・口・耳と穴のあいている所へ、手を(足かな?)かざしてみているのです。 “生存確認”をしてくれているのですよ。驚いてしまいます。
 顔を洗ってほしくて、水道の傍らを離れず何時間でも待っている、その忍耐強さにも驚かされます。顔や首を洗ってやると、目を細めて気持ち良さそうに満足げです。冗談に、首に手をやって「三味線屋に売り渡されるゾー」と言っても、信頼の眼差しは、全く変わらないのです。
 猫は水が嫌いなはず、なのに水道をひねる音で跳んで来て、私の手の平から飲みたがるのは、哺乳瓶の感触に似ているからなのでしょうか。安心し切って飲んでます。
 どうしてこんなに馴れてくれたのかと、いつの間にか不思議な気持ちになってきて、この信頼は、有難いことではないかと思わされていくうちに、“このことを教えて下さろうと、この仔が生後一週間の間に、預けられたのだ”と、やっと気付かされたのです。
 日常の生活の慌ただしさの中に埋もれたこの弱きものが、上にあるものに心を向けさせられた一瞬の出来事に感謝でした。
(でと みくこ)

越谷教会月報みつばさ2011年1月号特集「上なるものに心を留めよ」より


特 集