今月の特集題 神の右の座を見つめる
薩摩 雅宏 |
今年度の伝道主題の一部である「神の右の座を見つめる」という内容で書いてほしいと頼まれましたが、あまりにも抽象的で書きにくいテーマです。だからこのテーマにとらわれず書いていこうと思います。 礼拝に来たとき、私はだいたい同じ場所に座ります。司会や受付・聖餐当番以外のときは、前から四番目に座ります。この位置は、一番説教を良く聞くことが出来る席というわけではありません。 以前のエアコンのとき、夏一番涼しい席がこの前から四番目でした。ほぼ礼拝堂の中央になります。 私の教師の経験から、授業のときにどこを見て話すか?それは、中央から後方を中心に目線を動かしています。ですからこの席も良い席なのかもしれません。 皆さんもだいたい座る席を決められているようです。たまに自分が座る座席に他の方が座っていると、内心(あぁ)と思いませんか。 私はいつもこの席から天を見ているのだという気持ちがあります。座る場所が違うと何かが微妙に違うのです。神の右の座が見えないなんては思っていないのですが・・・。 しかし、司会や聖餐当番の時に何時もと違う席につくと、少し落ち着かないのです。特に聖餐当番の時に一番前に座るのは少し・・・と思っています。その昔・・・。 高校三年生の時でした。当時の小海牧師は、「若い時は一番前で説教を聞きなさい」という事で、何時も一番前に座っていました(座らされてかな)。丁度、今の教会を建築している時でした。 夏は良かったのですが、問題は冬でした。私たちの席の前にはストーブが置いてありました。一応受験生として、深夜ラジオを聞きながら夜遅くまで勉強していた私にとって、眠るのに絶好の環境だったのです。睡魔と戦う事なく、あっけなく毎回白旗を出していました。それでも礼拝には休まず出席していました。なぜか不思議です。 今の教会学校の中高生は、定期試験でも礼拝を休みます。まぁ、学業が学生の本分ですから、仕方がないのかもしれませんが。 高校三年の時があるから、今も高きを見ていられるのかもしれません。それも、ある一言でした。いつものように足りない睡眠を補って家に帰ろうとしたときに、石垣武治牧師がこうおっしゃったのです。 「受験で大変だろうけど、礼拝ぐらい来ても大丈夫だよね」。 笑顔で話されました。礼拝ぐらい大丈夫を聞いた時、何とお応えしたか忘れましたが、石垣先生を通して神様が私に声をかけてくれた感じがした事を覚えています。だから今も、高きを見る場所にいるのです。 |
(さつま まさひろ) |
加藤 圭子 |
二年前の春、こだわりの強いタフな息子の育児法と同時に、私自身の成育歴 ― 歯科医師である兄に対する母の偏向的な愛 ― に悩んでおりました。 園長先生の子どもを愛し尽くすというメッセージは私の胸に強く響きました。つたえ先生が分かち合いましょう、と辛抱強く向き合って下さり、先生方の愛の力で息子は見違えるほど落ち着き成長しました。 困った時には、不思議なほど必ず板倉先生が現れて助けて頂きました。 棚橋先生から聖書を学ぶ事で、先生方がどんなお心で子ども達と向き合って下さっているか理解出来、当時私は感動して、いつも泣きっぱなしでした。 年少のページェントでは聖霊を見、子ども達は神様に愛されていることを体感していると確信。年中のページェントでは神様、先生方、子ども達が一体となって胸に迫り、讃美歌が歌えなくなるほど感動致しました。 自宅で息子の演出、指揮のもと親子で本気のページェントをしていると、キラキラと神様が喜んでくださっていることを感じます。息子と讃美歌を歌い祈り、分かち合える時幸せを感じます。 幸子先生をはじめ、先生方のおかげで、本物の体験に心通わせ、信頼関係を学び、愛と祈りの中で育てられています。このご縁に夫婦で本当に感謝しております。 現実は、次から次へと片付かない問題がブルドーザーのようにやってきます。 希望を捨てずに現実を見直す。相手を愛することが出来れば問題はなくなる。相手、敵の問題を放置して良い訳がない。ということを人権問題を実践なさる園長先生、幼稚園の母親に寄り添って下さる由美子先生のお心遣い、お働きを通じて強く感じております。 未熟な自分を開き直らず、何事も愛に気付き実践できれば、問題が無くなることを痛感しております。 ホールの素晴らしい十字架にさらにイエス様の愛を感じて感謝です。 |
(かとう けいこ) |
越谷教会月報みつばさ2011年2月号特集「神の右の座を見つめる」より |