今月の特集題  私に何が出来ますか



主にあって喜ぶ
山中 律子
 「私に何が出来ますか」と問われて頭を抱えてしまう自分がいます。結構うぬぼれが強く、自己中心的である私はつい最近も夫と私を較べて「そうね、四分六かな」と娘に言いました。勿論心の中では私が六で夫が四、私のサポートが勝っていると決めつけているのですが、「まあ、お父さんが六で私が四てとこかな」とニヤッと笑って言いましたが即座に「甘い甘いそれじゃお父さんが可哀想。七・三でお母さんはおんぶにだっこの三でしょう」と切り返されてしまいました。「そんなわけないでしょう」と反論空しく……。娘はシビアに見ていますね。というわけで教会生活もかなり自由気ままでごめんなさい。
 主にとらえられ、夫と一緒に歩んだのでなければ今の私は無いのかなと思わされます。罪の中に死んでいた者を神はキリストと共に復活の命にあずからせ生かして下さり、そして絶えず聖霊のうめきのとりなしの中に(この聖霊がうめかざるを得ない者をうめきをもって、というところに私はいつもありがとうと涙をもって感謝しています)歩みを進める事が出来ている幸を心から感謝しています。
 木曜日の祈祷会で聖書を学び、祈りを合わせる事、沢山の人の祈りを聞き、くり返しくり返し生けるみことばを説き明かされて、朝に晩に感謝と願いをささげる恵みの歩みをなす事が出来ました。
 礼拝には第一礼拝へ朝早く起きて、いそいそと出掛けます。午後には教会学校へ来た孫と教会のホールでよく卓球をして遊びます。沢山いる孫ですので家で遊ぶとうるさくてうるさくて、そこで広い教会のホールをお借りして遊んでいます。種々御迷惑な事も多いと思いますが、私もよく教会学校で遊んでもらったものですから、孫達も大きくなって又教会へ帰って来てくれる様にと願いを込めて遊びます。日曜日は夕拝をささげて一日が終わります。
 月曜日、この日は腹話術の奉仕が入る事があります。この業は神様からいただいた私の楽しいタラントです。春風イチロー師匠に教えていただき、シロー先生(石橋牧師)に訓練していただいた業です。観ていただいた人達に喜んで笑ってもらえたら最高でが、まず自分がわくわくします。
 そして毎朝孫の登校を待って、讃美歌を指笛を吹きながら散歩する事、そうすると心の中に讃美の歌が駆け巡り本当に色々な事が吹き飛んで楽しい元気な一日が始まるんです。
 夫が天に召され一人暮らしですが私がここで元気に生活する事が私に出来る事、そして夫が最後まで礼拝に聖餐に心を傾けていた様に私も、礼拝に祈りに心を傾けていけたらいいなと思っています。
(やまなか りつこ)


クリスチャンとして出来ること
豊川 昭夫
 “恐い”みつばさ委員から原稿依頼を受けた時(先月号のみつばさの蔭をお読み下されば恐い意味が解ります)、すぐに「東日本大震災」の事が頭に過ぎった。次の日、偶然にもNHKテレビで震災3か月「私に何ができるのか」と特集とほぼ全く同じタイトルの番組が流れた。
 番組では、自宅前に工夫を凝らした掲示板を設置して救援物資の募集を始めた方や、現地へボランティアに行った方、また地域ぐるみで空き家を無償で提供すること等が紹介された。しかし、同時に幾つもの問題点が起こり、なかなか事が上手く運ばない現実があった。その中、ある小学校の校長の言葉に注目させられた。「心のどこかで、被災者のためにやってあげているという思い上がりがあったと、反省している」。経済行為ではないボランティアには金銭の見返りが一切ないが故の純粋さが、逆に心の中での危険な落とし穴となっているように思う。これこそ“恐い”です。
 3月11日、朝食を取っている時に、義父の危篤を知らせる電話が鳴った。すぐに妻は東京の病院へ駆けつけた。私も午後から行く予定だったが、出かける寸前、得意先から納品を頼まれ川口へ出かけ、ここで地震が発生した。もし、得意先からの連絡がなければ、私は高速道路の上だった(これも恐い)。妻へも我家へも一切携帯電話は繋がらず、急いで家に戻った。程なくして全ての鉄道はストップし、道路は大渋滞を起こしていた。地震発生の二時間後に義父は天に召された。結局、私は病院へ行くことも、連絡することさえ出来なかった。何も出来なかった。ただ一つだけ出来たことがある。それは“祈る”ことだった。
 NHKの番組でもそうだったが、人間の行為には限界がある。では、神との関係の中で、クリスチャンとして出来ることを考えてみた。まず、どの様な状況の中でも神に祈ることが出来る。次に神を信頼し、神に希望を置くことが出来る。そして、神を賛美し、礼拝することが出来る。震災直後、石橋牧師と神学生が被災地へ行った時、ある神学生の友人の母親が行方不明になり「神のなさることだったら受け入れる」と語ったと石橋牧師が礼拝の中で話された。諦めではなくて、神を信頼している言葉だと感じた。
 行方不明を含め二万人以上の方が亡くなったこの戦後最大の日本の危機の中にあって、最後にもう一度クリスチャンとして出来ることを考えてみた。それは毎週私達が礼拝の中で唱和している信仰告白の言葉、「永遠の命を信ず」です。この言葉の重みを今一度しっかりと受け止めてみたい。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)
(とよかわ あきお)

越谷教会月報みつばさ2011年7月号特集「私に何が出来ますか」より


特 集