今月の特集題 私に何が出来ますか
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山中 律子 |
![]() 主にとらえられ、夫と一緒に歩んだのでなければ今の私は無いのかなと思わされます。罪の中に死んでいた者を神はキリストと共に復活の命にあずからせ生かして下さり、そして絶えず聖霊のうめきのとりなしの中に(この聖霊がうめかざるを得ない者をうめきをもって、というところに私はいつもありがとうと涙をもって感謝しています)歩みを進める事が出来ている幸を心から感謝しています。 木曜日の祈祷会で聖書を学び、祈りを合わせる事、沢山の人の祈りを聞き、くり返しくり返し生けるみことばを説き明かされて、朝に晩に感謝と願いをささげる恵みの歩みをなす事が出来ました。 ![]() 月曜日、この日は腹話術の奉仕が入る事があります。この業は神様からいただいた私の楽しいタラントです。春風イチロー師匠に教えていただき、シロー先生(石橋牧師)に訓練していただいた業です。観ていただいた人達に喜んで笑ってもらえたら最高でが、まず自分がわくわくします。 そして毎朝孫の登校を待って、讃美歌を指笛を吹きながら散歩する事、そうすると心の中に讃美の歌が駆け巡り本当に色々な事が吹き飛んで楽しい元気な一日が始まるんです。 夫が天に召され一人暮らしですが私がここで元気に生活する事が私に出来る事、そして夫が最後まで礼拝に聖餐に心を傾けていた様に私も、礼拝に祈りに心を傾けていけたらいいなと思っています。 |
(やまなか りつこ) |
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豊川 昭夫 |
![]() 番組では、自宅前に工夫を凝らした掲示板を設置して救援物資の募集を始めた方や、現地へボランティアに行った方、また地域ぐるみで空き家を無償で提供すること等が紹介された。しかし、同時に幾つもの問題点が起こり、なかなか事が上手く運ばない現実があった。その中、ある小学校の校長の言葉に注目させられた。「心のどこかで、被災者のためにやってあげているという思い上がりがあったと、反省している」。経済行為ではないボランティアには金銭の見返りが一切ないが故の純粋さが、逆に心の中での危険な落とし穴となっているように思う。これこそ“恐い”です。 3月11日、朝食を取っている時に、義父の危篤を知らせる電話が鳴った。すぐに妻は東京の病院へ駆けつけた。私も午後から行く予定だったが、出かける寸前、得意先から納品を頼まれ川口へ出かけ、ここで地震が発生した。もし、得意先からの連絡がなければ、私は高速道路の上だった(これも恐い)。妻へも我家へも一切携帯電話は繋がらず、急いで家に戻った。程なくして全ての鉄道はストップし、道路は大渋滞を起こしていた。地震発生の二時間後に義父は天に召された。結局、私は病院へ行くことも、連絡することさえ出来なかった。何も出来なかった。ただ一つだけ出来たことがある。それは“祈る”ことだった。 NHKの番組でもそうだったが、人間の行為には限界がある。では、神との関係の中で、クリスチャンとして出来ることを考えてみた。まず、どの様な状況の中でも神に祈ることが出来る。次に神を信頼し、神に希望を置くことが出来る。そして、神を賛美し、礼拝することが出来る。震災直後、石橋牧師と神学生が被災地へ行った時、ある神学生の友人の母親が行方不明になり「神のなさることだったら受け入れる」と語ったと石橋牧師が礼拝の中で話された。諦めではなくて、神を信頼している言葉だと感じた。 ![]() 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節) |
(とよかわ あきお) |
越谷教会月報みつばさ2011年7月号特集「私に何が出来ますか」より |
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